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佐藤優『神学の履歴書』 [読書メモ]

佐藤優『神学の履歴書』佐藤優、『神学の履歴書――初学者のための神学書ガイド』、新教出版社、2014年、265頁、1900円+税。

「神学書ガイド」という言葉につられて読んでみたけど、神学の入門書ではなく、佐藤優の思考形成に影響を与えた神学書の紹介。

 いや、本の紹介というより、著者が影響を受けた点や、影響を受けて主張したいことを述べている。さらに言えば、その本からの影響を受けたと言うよりも、フロマートカの『なぜ私は生きているか』などに見出すことが出来る、その書籍の内容を乗り越えるような神学や思想を紹介している。

 全体的な意図は、現下の日本の政治エリートたちが失っている存在論的な思考を学び取って21世紀に生かすことができる20世紀プロテスタント神学を紹介する、ということのようだ。

 ただし、紹介されている本は、マクグラス『キリスト教神学入門』を除きすべて新教出版社からのもの。まあ、もともと新教出版社の『福音と世界』の連載記事だから仕方がないか。


全21章。


紹介されている神学書は、
バルト『教会教義学 創造論Ⅳ/1、Ⅳ/4』
ロマドカ『無神論者のための福音』
フロマートカ『なぜ私は生きているか』
トレルチ『アウグスティヌス――キリスト教的古代と中世』
ツァールント『20世紀のプロテスタント神学(上)』
コックス『神の革命と人間の責任』
ゴンザレス『キリスト教史(下)』
ボルンカム『新約聖書』
ゴーガルテン『我は三一の神を信ず――信仰と歴史に関する一つの研究』
ニーゼル『神の栄光の神学』
マクグラス『キリスト教神学入門』
ブッシュ『バルト神学入門』
ユンゲル『死――その謎と秘義』

注1:ロマドカとフロマートカは同じ。
注2:トレルチ『アウグスティヌス』の紹介は、佐藤優自身がトレルチから影響を受けたと言うよりも、ハイデルベルク時代にトレルチに大きく魅了されたがしかし後にトレルチの限界を指摘しその先へ進もうとしたフロマートカの神学に感化されたという感じ。コックスとかも同様。


●現代社会の中でのキリスト者としての生き方について

一人ひとりの人間が孤立し、個体間の競争と均衡で世界が成り立っているというアトム的世界観が支配する近代には、神は存在せず、新自由主義的な市場原理主義が社会全体を蔽っている。現在の日本に出現しつつある殺伐とした市場万能社会は、そのような近代が完成した状況の一類型であり、キリスト教の信者の減少や礼拝出席者の減少も、アトム的世界観によって個体の自立性が重視される発想が蔓延して、同胞意識を失い、神がいなくては生きていけないという感覚を失っていることによる。
(p.13~14より)

人間の現実の行動は、時間、場所ともに限定されている中で行われている。人間の倫理はこのような制約の中において、はじめて問われる。したがって、具体的な人間の救済という視座から考えるキリスト教倫理は、いかなる時代、いかなる場所においても通用するような倫理ではない。(p.25より)

神はその独り子であるイエス・キリストを、人間の側からの見返りは何も求めずに贈ってくださった。その現実の類比(アナロジー)で、我々キリスト教とは行動する。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)という姿勢で、社会主義国家にもその中の無神論者にも接する。他者に「与える」ことは追従とは異なる。(p.57より)

教会は困難な時代状況から逃避する場所ではない。「キリスト教徒は、旧新約聖書の使信を携えて社会の中央に進んで行かなくてはらならない。」(p.91~92)


●バルトに関して

「筆者が、バルトよりもフロマートカに依拠するのは、フロマートカの方が、「コルプス・クリスチアヌム」が崩壊した後のキリスト教会の可能性についてより真摯に思索し、行動したからである。」
(p.16)

「神あるいはキリスト教について語る有識者がバルトの『教会教義学』を通読していないことは、怠慢以外の何者でもないと思う。」(p.22)

「主著『教会教義学』を通読せずにバルトについて云々する人を、筆者は知的に不誠実であると考える。」(p.213)

「ドイツ語圏の神学は、19世紀のドイツ観念論の遺産を踏まえた上で書かれている。・・・またバルトは、20世紀初頭にドイツで流行した表現主義の影響を強く受けて『ローマ書講解』を書いた。・・・この表現方式は、『教会教義学』にも引き継がれていると筆者は考える。」(p.214~216)


●チェコのプロテスタンティズムについて

チェコにおいてプロテスタンティズムはドイツ文化と結びついていたが、フロマートカたちは、16世紀の宗教改革より100年前のフス派の運動を自らの信仰の出発点とすることで、信仰の土着化の問題を解決した。(p.61より)

チェコ(ボヘミアとモラビア)は、イングランドとスコットランドのキリスト教と歴史的に深い関係がある。14世紀のウィクリフの宗教改革が15世紀のフスの宗教改革運動に強い影響を与えた。また、フロマートカが生まれたモラビア北部から、ヘルンフート兄弟団との関係が深いモラビア兄弟団(長老派)を生み出している。(p.83より)

「カトリックは、チェコのプロテスタントにとって抑圧者であったため、共産主義政府がすべての教会を平等に位置づけたことは、チェコ人プロテスタントには解放の意味あいを持っていた。・・・そこでフロマートカたちは、信仰を放棄することなしに、マルクス主義政権に積極的に対応したのであった。・・・〔しかし〕キリスト教徒はマルクス主義の無神論に惑わされるべきではない・・・。マルクス主義は、人間によって創作された神を否定しているにすぎない・・・。真の神はそうしたものとは違い、マルクス主義の主張する空虚な無神論などとうてい及ぶことのできない唯一の神である。」(p.112~113のフスト・ゴンザレス『キリスト教史(下)』からの引用より)


●歴史について

「歴史には始まりと終わりがある。この限界の中で歴史は営まれている。・・・この制約を知らずに歴史に埋没すると、われわれは歴史の力に飲み込まれてしまう。」・・・イエス・キリストによって与えられた終末における救済の希望によって、我々は歴史の限界と制約を超えて、自由を得ている。(p.139~140あたりより)


●資本主義について

「マモン(富・財産)に固執することも悪の起源の一つである。資本主義社会は、商品経済が社会全体をおおう社会だ。従って、貨幣で商品を購入して生活するというスタイルからわれわれは離れることができない。・・・われわれは、信仰の問題として貨幣の誘惑を斥けなくてはならない。・・・経済システムは、性悪説にもとづいて組み立てる必要がある。現時点においては、国家の介入によって富者から貧窮者に対して再分配を行う以外に、資本主義が生み出す絶対的貧困を緩和する方策はない。・・・カルバンは、資本主義に対してはきわめて批判的なのだ。」(p.181~185)


●その他

p.116~118に、著者が2009年に紀伊國屋書店新宿本店で行った「佐藤優が選んだ神学書100点」のリストがある。ただし、これは新教出版社から刊行されたものに限定されている。


過去の関連記事: 佐藤優『神学部とは何か』の読書メモ


タグ:佐藤優

つまらない説教を耐え抜くために [読書メモ]

「現代におけるプロテスタンティズムの危機も、もはや家庭において聖書が日々読まれることがなく、朝晩の祈りと食卓での祈りが行われなくなってしまったことと関連している。 ・・・ 家族関係の中で神への奉仕の生活を守ることによって、直ちに信仰に絶望せずに、ひどい説教にも耐え抜く力が与えられる。」

W.パネンベルク(佐々木勝彦、濱崎雅孝訳)、『なぜ人間に倫理が必要か――倫理学の根拠をめぐる哲学的・神学的考察』、教文館、2003年、p.196。

家庭において御言葉と祈りを継続していることが、子どもに対して、礼拝での退屈な説教にも耐え抜く力を養うのだ。


パネンベルクに関するこれまでの記事:
パネンベルクと「歴史の神学」 (2014.9.26)
寛容と独自性 (2010.5.25)

信仰の継承に関するこれまでの記事:
信仰の継承と家族伝道のために、親子礼拝・家族礼拝を。 (次世代のために その3) (2010.7.26)
地域の子供たちに礼拝を (次世代のために その2) (2010.7.25)
若者たち・子どもたちに、教会を。(次世代のために その1) (2010.7.22)


賛美歌関連の定期刊行物 [音楽]

主要な賛美歌関連の定期刊行物(雑誌、論文誌)の刊行状況のまとめ。

◆『礼拝と音楽』、日本基督教団出版局

1955年4月創刊。1973年11月号(第19巻10号)まで月刊。1967年10月号と11月号は合併号らしい。

1974年春から季刊(2月:冬号、5月:春号、8月:夏号、11月:秋号)。ナンバーは1号から開始。

途中、臨時増刊があり、「臨時増刊 みんなでつくる私たちの礼拝 17の礼拝例とアイディア」(通巻111号、2001年9月)、「特別増刊 新発見 再発見『讃美歌21』保存版」(通巻136号、2007年9月)がある。

臨時増刊も通巻でナンバリングされているため、季刊の号数と通巻の号数は異なる。たとえば、2011年夏号はNo.150と大きく記されているが通巻では152号。120号からの目次(2014.10末現在)が教団出版局のサイトの中のバックナンバー一覧の中で見ることが出来る。


◆『日本賛美歌学会 紀要』、日本賛美歌学会

2004年から隔年発行。2012年の第5号まで順調に発行。2014年に第6号が出るはずだが?

[追記]2014年9月に第6号が出ているようだ(日本賛美歌学会のサイトの12月6日付のニュース「出版物情報」による)。

日本賛美歌学会の「出版物」のメニューの中から、各号の目次を見ることが出来る。

ちなみに、日本賛美歌学会の「賛」はごんべんのないほう。かつて、1960年に発足した「日本讃美歌学会」があったが、主宰者の竹内信の死去(1974年)後に自然消滅していた。(『日本キリスト教歴史大事典』教文館1988年の「日本讃美歌学会」の項、原恵執筆。)


◆『礼拝音楽研究』、キリスト教礼拝音楽学会

2001年創刊。年1回発行。2012年に第12号が出た後は?

[追記]2013年に第13号が出ているようだ。

キリスト教礼拝音楽学会「学会誌内容のご紹介」のページに目次一覧あり。

なお、2011年10月に、No.10の別冊として、手代木俊一『日本讃美歌・聖歌研究書誌2010』が出た。これは、明治初期より2010年12 月までに刊行された日本の讃美歌・聖歌、及び、関連する論文等約2400件のデータをまとめたもののよう。


◆『改革教会と音楽』、エルピス

1999年10月創刊。年2回発行。第7号(2002年10月)は「特別号」として誌名も『改革教会の礼拝と音楽』。8・9号合併号が2003年10月に出て、その後は?

サイトはこちら。 バックナンバーの項目のところに目次あり。エルピス社の紹介ページにも目次一覧あり。



藤掛明『一六時四〇分』 [読書メモ]

藤掛明『一六時四〇分――がんになった臨床心理士のこころの記録』藤掛明、『一六時四〇分――がんになった臨床心理士のこころの記録』、キリスト新聞社、2012年、174頁、1600円+税。



◆深刻な病にかかったとき、公表するかどうか

わたしは牧師として、教会員は深刻な病も公表したほうがよいと思っていた。それは、教会員が互いに祈り合うためである。

しかし、「みんなが祈ってくれますよ」などと安易に公表するよう求めてはいけないことをこの本から学んだ。

例えば、がんと言っても様々な種類があり悪性度や進行度も多様であるのに、知識のない我々は勝手な先入観で過剰に反応して、自然な関わりができなくなる。病気の受け止め方も人それぞれなのに、表面的な励ましをしてしまったり、病気に触れるのを無理に避けたりして、コミュニケーションがとれなくなる。

病気を公表するかどうか、牧師は本人の意志に従いつつ、事実を知らされた特別な職務にある者として、誠実に祈りに覚えなければならない。


◆ある牧師が自戒されていたこと

「霊的に不調なときほど、霊的に鋭く大胆なことを言ってしまう。」
(p.169)

イェリネック『人権宣言論』 [書籍紹介・リスト]

ゲオルク・イェリネック、Georg Jellinek, 1851.7.16-1911.1.12。

◆『人権宣言論』の原著
1895年初版。
1904年第2版。ブトミーの批判に対して修正・追加を施し、特に新しく第8章が付加された。
1911年1月12日死去。
1919年第3版。イェリネック自身が残した増補を、子ヴァルター・イェリネックが刊行。
1927年第4版。ヴァルターによる新たな序文があるが、その他は第3版と全く同じ。


◆初版の邦訳
美濃部達吉による邦訳がいくつかある。詳しくは、初宿正典編訳『イェリネック対ブトミー 人権宣言論争』、みすず書房、1995年、p.5の訳者注。

美濃部達吉訳『人権宣言論』1946年。最終的には、ゲオルグ・イェリネック(美濃部達吉訳)、『人権宣言論 外三篇』(法學叢書16)、日本評論社、1946年。

次の4編が収録されている。「人権宣言論」以外は抄訳や紹介など。

人権宣言論(1895初版)
少数者の権利を論ず(1891)(大意の抄訳)
歴史上に於ける国家の種々相(『一般国家學』1900の中の一章から大意を抄訳したもの)
憲法の改正と憲法の変遷(1906)(訳者が学会で行った大意の紹介)



◆その後の邦訳

ゲオルグ・イエリネック(渡辺信英、青山武憲訳)、『人権宣言論――W.イエリネック改訂による』、南窓社、1978年、173+7頁。

 原著第4版からの翻訳。国立国会図書館にはないようだ(2014.10.15検索)。


◆初宿正典訳

訳者の読みは、しやけ・まさのり。

初宿訳は、最初は、
初宿正典編訳、『人権宣言論争』、みすず書房、1981年。

原著第4版からの翻訳。各版の違い・発展が分かるように注が付けられている。
エミール・ブトミーによる反論「人権宣言とイェリネック氏」
及び、それに対するイェリネックの回答「人権宣言論再論――ブトミー氏への回答」
さらに訳者による付録あり。


初宿正典編訳『人権宣言論争』みすず書房、1995年。これに、エルンスト・カッシーラー「共和主義憲法の理念――1928年8月11日の憲法記念日の講演」を加えた新版が、

イェリネック、ブトミー(初宿正典編訳)、『イェリネック対ブトミー 人権宣言論争』、みすず書房、1995年、8+288+6頁。


たぶん2010年からオンデマンド。



◆1995年新版の目次

I 人権宣言論   ゲオルク・イェリネック(ヴァルタ-・イェリネック補訂)

 訳者まえがき
 第1版への序文(ゲオルク・イェリネック)
 第2版への序文(ゲオルク・イェリネック)
 第3版への序文(ヴァルタ-・イェリネック)
 第4版への序文(ヴァルタ-・イェリネック)
 第1章 1789年8月26日のフランスの《権利宣言》とその意義
 第2章 ルソーの『社会契約論』はこの《宣言》の淵源ではないということ
 第3章 《宣言》の模範は北アメリカ諸州の《権利章典》にあるということ
 第4章 ヴァージニアおよびその他の北アメリカ諸州の《宣言》
 第5章 フランスの《宣言》とアメリカの《宣言》との比較
 第6章 アメリカの《権利宣言》とイギリスの《権利宣言》の対照性
 第7章 普遍的な人権を法律によって確定せんとする観念の淵源はアメリカのイギリス人植民地における信教の自由であるということ
 第8章 自然法論だけでは人および市民の権利の体系は産み出されなかったということ
 第9章 人および市民の権利の体系はアメリカ革命中につくり出されたのだということ
 第10章 人権とゲルマン的法観念

II 人権宣言とイェリネック氏  エミール・ブトミー

III 人権宣言論再論――ブトミー氏への回答  ゲオルク・イェリネック

付録として
初宿正典「わが国におけるイェリネック=ブトミー論争の紹介」
初宿正典「マルティン・クリーレの人権宣言史論――イェリネック=ブトミー論争を手掛りとして」

さらに補論として
エルンスト・カッシーラー「共和主義憲法の理念――1928年8月11日の憲法記念日の講演」

あとがき
人名索引


◆まとめ

フランスの人権宣言の主たる淵源は、ルソーにあるというよりも、アメリカ諸州の権利章典にある。また、自然法論だけからは人権宣言は産み出されず、「信教の自由」を獲得する歩みの中に人権獲得への展開も見られる。


◆文献

初宿正典(しやけ・まさのり)、「近代ドイツとデモクラシー――G・イェリネックを中心として」、『聖学院大学総合研究所紀要』、No.6、1995年3月、pp.84-115。
http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/detail.php?item_id=3383

この中に、イェリネックの生涯と思想の紹介あり。

マックス・ヴェーバーとの関わりも具体的に記されている。

「マックス・ヴェーバーは、終始一貫して非常にイェリネックと親しく、また政治的にも近しい立場にあった。・・・イェリネックが倒れたとき、家族以外で、彼の許に真っ先に駆けつけたのも、ウェーバーであったと言われている・・・。」(p.102-103)


◆おまけ

初宿正典には、次の訳書もある。

ザビーネ・ライプホルツ=ボンヘッファー、ゲルハルト・ライプホルツ(初宿正典訳)、『ボンヘッファー家の運命――その苦難・抵抗・勝利』、新教出版社、1985年。

これは、ボンヘッファーの双子の妹ザビーネによる回想と、ザビーネの夫ゲルハルトによるボンヘッファー論。



キング牧師の重要な演説と手紙 [書籍紹介・リスト]

「これ〔"I have a dream" speech〕はおそらくアメリカ史上最高の名演説として残るだろう。私はこのスピーチと、前に述べた『バーミングハム獄中からの手紙』の二つは、もし機会があったら、ぜひ原文で味わっていただきたいと思う。」

猿谷要『キング牧師とその時代』p.114。

というわけで、"I have a dream" speechと「バーミングハム獄中からの手紙」の公式の原文と信頼できる翻訳について。

なお、キング牧師の伝記について最近書いた記事あり。


■ "I have a dream" speech

1963.8.28 ワシントン大行進の中、リンカーン記念堂前でなされた。

原文と音声
スタンフォード大のKing Papers Projectの中のページ(pdfファイルによる全文と、各国語訳あり。音声も聞ける)

邦 訳
翻訳はたくさんあるが、信頼できるものは、

梶原寿訳がクレイボーン・カーソン編『マーティン・ルーサー・キング自伝』(日本基督教団出版局、2001)に所収。

宮川雄法訳がクレイボーン・カーソン、クリス・シェパード編『私には夢がある――M・L・キング説教・講演集』(新教出版社、2003)に所収。

●さらに、平野克己訳が『ミニストリー』vol.19(2013年秋号)に、「説教鑑賞」18としてスピーチの聞きどころ(読みどころ)の解説付きで、収録されている。



■ "Letter from Birmingham Jail"

1963.4.16付「バーミングハム獄中からの手紙」

原 文
スタンフォード大のKing Papers Projectの中のページに全文あり。

あるいはpdfファイルで。


邦 訳
中島和子・古川博巳訳が『黒人はなぜ待てないか』(みすず書房)に所収。

梶原寿訳がクレイボーン・カーソン編『マーティン・ルーサー・キング自伝』(日本基督教団出版局、2001)に所収。




ドチ・キリ天草版のカラー原寸影印 [書籍紹介・リスト]

なんと、東洋文庫所蔵の1592年天草:天草学院刊のローマ字本の、フルカラー原寸影印が出た。

公益財団法人東洋文庫監修、『重要文化財 ドチリーナ・キリシタン 天草版』(東洋文庫善本叢書2)、勉誠出版、2014年、160頁、14,000円+税。

解説は豊島正之。
ISBN:978-4-585-28202-0
限定300部とのこと。

勉誠出版の紹介ページ


平和の政治思想史 [書籍紹介・リスト]

千葉眞編『平和の政治思想史』千葉眞編、『平和の政治思想史』(おうふう政治ライブラリー)、おうふう、2009年、379頁、3800円+税。


第1章 中世ヨーロッパにおける戦争と平和――ジョン・ウィクリフの正戦論を中心として(将棋面貴巳)
第2章 啓蒙の利害アプローチとヨーロッパの平和建設――サン・ピエールの『永久平和論』(押村高)
第3章 カントの永遠平和論とコスモポリタニズム(千葉眞)
第4章 近代日本における西洋平和思想の受容――カントとトスルトイを中心に(出原政雄)
第5章 内村鑑三の非戦論をめぐる一考察――精神史の視点から(村松晋)
第6章 矢内原忠雄の植民政策論と絶対平和論(眞壁仁)
第7章 ガンディの非暴力思想(田中収)
第8章 権力政治と平和主義――ジョン・デューイとアメリカ合衆国の知識人たち(井上弘貴)
第9章 平和主義とキリスト教現実主義――ラインホルド・ニーバー(植木献)
第10章 マーティン・ルーサー・キング牧師の平和思想(高橋康浩)
第11章 思想としての平和構築(片野淳彦)
第12章 現代政治理論における戦争と平和(萩原能久)
第13章 現代の平和主義(佐々木寛)

事項索引、人名索引あり。


政治思想史や政治理論の分野において、戦争と平和の問題はいつの時代にも喫緊の課題であるにもかかわらず、少数の例外を除いてこれまで十分に掘り下げられてこなかったことから、中世末期から現代に至るまでの平和の政治思想史の展開を辿りつつ、現代の平和について政治理論的に考察する。

全体に統一性をもたせるために、次の三点を念頭に執筆された。
(1)対象の思想家ないし事象において、平和と戦争について定義ないし必須の前提のようなものがあるとしたならば、それらを説明すること。
(2)対象の思想家ないし事象のなかに、現代の世界、東アジア、日本との接点、意義、有意性などがあるとしたらならば、それらを探求し、また明確化すること。
(3)結論部において章全体のメッセージを簡潔に記し、また自分なりの立場や姿勢を明確に浮き彫りにすること。
(千葉眞「序にかえて」、p.11-12、「あとがき」、p.367)



キング牧師の伝記 [書籍紹介・リスト]

『マーティン・ルーサー・キング』(「ひかりをかかげて」シリーズ)梶原壽、『マーティン・ルーサー・キング――共生社会を求めた牧師』(ひかりをかかげて)、日本基督教団出版局、2012、122頁、1260円。

ローティーン向けの伝記シリーズ「ひかりをかかげて」の一つで、写真やイラストも多いが、わずか100頁ほどで簡潔に記されていて、おとなにも良い。

9.11と3.11の経験後から、キング牧師は「この地球という一つの惑星に住むわたしたちが、「人間というひとつの家族として共に生きていくことがはたしてできるのだろうか」という課題」に取り組んだとして意義づける(「読者のみなさんへ」、p.6-8)。


目次

読者のみなさんへ
第1章 平和な明日を求める九・一一犠牲者家族の会
第2章 アフリカ系アメリカ人の先祖たち
第3章 夢見る人・キング牧師の生い立ち
第4章 学生時代に受けた思想的影響
第5章 モンゴメリー・バス・ボイコット運動
第6章 正義の闘いとコーヒーカップの上の祈り
第7章 アメリカのキリスト者へのパウロの手紙
第8章 バーミングハムの獄中からの手紙
第9章 わたしには夢がある
第10章 もう一つのアメリカ
第11章 あなたの敵をも愛しなさい
終わりに ある白人女子高校生からの見舞い状

最後に簡単な年譜付き。


梶原壽は2014.5.6死去。


■読みやすい伝記

キング牧師の読みやすい伝記として、その他のおすすめは、

猿谷要『キング牧師とその時代』.jpg●猿谷要、『キング牧師とその時代』(NHKブックス699)、日本放送出版協会、1994年、237頁。

薄い本だが、うまくまとめてある。巻末に年表と有用な文献表あり。日本語版のある文献を、英語の著者・タイトル・出版社と共に示しているのがよい。


『キング牧師』(岩波ジュニア新書).jpg●辻内鏡人、中條献、『キング牧師――人種の平等と人間愛を求めて』(岩波ジュニア新書221)、1993、213頁。
ジュニア向けだが、読みやすい手頃な伝記。



■より本格的な伝記

マーティン・ルーサー・キング自伝.JPGクレイボーン・カーソン編(梶原寿訳)、『マーティン・ルーサー・キング自伝』、日本基督教団出版局、2001年、486頁、5500円+税。
様々な著作、資料を元にしてキング牧師の「自伝」を構成したもの。分量、値段からして本格派向け。



■その他

R.バロウ(山下慶親訳)、『はじめてのキング牧師』(イラストでよむ神学入門シリーズ)、教文館、2011、250頁、1995円。
見ていないので不明。

リチャード・リシャー(梶原壽訳)、『説教者キング――アメリカを動かした言葉』、日本基督教団出版局、2012、554頁、8400円。
生い立ちから説教や演説の技法、神学を研究した本格的な書。



パネンベルクと「歴史の神学」 [書籍紹介・リスト]

パネンベルクが9月5日に死去した。ちなみに、モルトマンはパネンベルクより2歳ほど年上であるがまだ存命中。


Wolfhart Pannenberg, 1928.10.2-2014.9.5


■歴史の神学

「歴史の神学」はパネンベルクによって代表される神学的立場。パネンベルクのほかに、U.ウィルケンス、R.レントルフ、T.レントルフなど。

パネンベルクは、論文「救済の出来事と歴史」(1959)で広く注目されるようになり、ハイデルベルクの同僚たち(ハイデルベルク・グループと呼ばれる)による共同研究の成果としての論文集『歴史としての啓示』(1961)でその神学主張が明確にされた。


パネンベルク『組織神学の根本問題』「救済史の出来事と歴史」は、近藤勝彦、芳賀力訳、『組織神学の根本問題』、日本基督教団出版局、1984年に収録されている。


『歴史としての啓示』は、大木英夫他訳で、聖学院大学出版会、1994年。


■「救済の出来事と歴史」の冒頭

論文「救済の出来事と歴史」の冒頭部分は、パネンベルクの出発点として有名な個所である。

以下、わたしなりの要約。

キリスト教神学は歴史を前提としている。その歴史とは「神が人類とともに、また人類を通して自らの被造物全体と共有している歴史」であり、「イエス・キリストにおいてすでに啓示されている将来へと向かっている歴史」である。

この立場は、歴史を実存の歴史性へと解消するブルトマンやゴーガルテンの実存の神学とも、本来の信仰内容は超歴史的であるというホフマンやマルティン・ケーラー以来の救済史的神学(「原歴史」を考えるバルトもここに含まれる)とも異なる。両者の立場とも、救済の出来事に場所を与えない歴史的・批評的研究の高潮から避難するあまり、救済の出来事が生起する本来の歴史を無価値にしてしまっている。

「パネンベルクは、・・・客観的な歴史的事実によって構成される歴史的世界の中にこそ救済の出来事は位置づけられるべきものとする。」(佐藤敏夫)

「パネンベルクの言う「歴史」とは「普遍史」であり、この「普遍史」と、すべてを規定する力である「神」とが、彼の組織神学の根本問題とされている・・・。」(近藤勝彦)


■「歴史の神学」の射程の広がりとその後

パネンベルクの神学は、「バルト、ブルトマン以降の第三の神学」、「理性の神学」、「復活の神学」、「下からのキリスト論」など様々な言い方がされている。

たとえば、パネンベルクは歴史の神学の考え方から、人間イエスについての歴史的認識から出発して、イエスの神性の認識へと至るキリスト論(「下からのキリスト論」)を展開した。その鍵は、歴史的事実としての復活こそイエスの神性を基礎づけるものとするところにある。同時に、復活は終末の先取り(prolepsis)として重要な転回点となっているとする(「復活の神学」)。

「「神と普遍史」を根本問題とする神学は、人間と世界の現実全体にかかわる学として普遍的な学となる。」

以上は、『組織神学の根本問題』の巻末の近藤勝彦による「解説」、p.333~334。及び、『キリスト教組織神学事典』増補版(教文館、1983)「歴史の神学」、「パネンベルク」の項。


パネンベルク『組織神学入門』しかしキリスト論について後には、組織神学の三位一体論的な枠組みの中で、イエスが受肉した神の子であることをキリスト論の課題とし、それを父なる神との特別な関わりに求め、さらに御子の受肉を、神の像にしたがって造られた人間の創造の完成と見なしたが、この考え方について、「もはやわたしがずっと以前に「下からのキリスト論」と呼んだものではない。」と語っている。(佐々木勝彦訳『組織神学入門』、p.94)




濱崎雅孝「パネンベルクとポスト基礎づけ主義」(『キリスト教と近代化の諸相』京都大学現代キリスト教思想研究会、2008.3)によると、パネンベルクの『組織神学』以降の特徴からPostfoundationalist(ポスト基礎づけ主義者)と言われるらしい。

「パネンベルク神学の鍵概念を「理性」と考える研究者は、『科学理論と神学』(1973)に依拠しており、「歴史」と考える研究者は、『歴史としての啓示』(1961)に依拠しており、「先取り」と考える研究者は、『キリスト論要綱』(1964)に依拠している。いずれも『組織神学』(1988~1993)よりかなり前に書かれたものである。」
(p.81の注2)


■パネンベルクやその初期の神学を簡潔に紹介している文献

●『キリスト教組織神学事典』増補版(教文館、1983)の佐藤敏夫「歴史の神学」の項、近藤勝彦「パネンベルク」の項。

パネンベルク『現代キリスト教の霊性』●パネンベルク(西谷幸介訳)『現代キリスト教の霊性』(教文館、1987)の巻末にある訳者付論「パネンベルク歴史神学の要点」。


●A.E.マクグラス編『現代キリスト教神学思想事典』(新教出版社、2001)のマクグラス「パネンベルク」の項。



タグ:神学者

石原謙著作集第10巻 [書籍紹介・リスト]

石原謙著作集第十巻「日本キリスト教史」、岩波書店、1979年。石原謙、『石原謙著作集 第十巻 日本キリスト教史』、岩波書店、1979年、6+475頁。

編集:山谷省吾、小嶋潤、松村克己、山本和、中川秀恭。
本巻担当:松村克己、出村彰。

内容は、『日本キリスト教史論』(新教出版社、1967年)と、関連の6論文。

石原謙(いしはら・けん)は、1882.8.1~1976.7.4。


目次は以下の通り。

-----ここから-----

日本キリスト教史論
  序言
  序説 東洋におけるプロテスタント・キリスト教
 第一部 前史
  Ⅰ 中国プロテスタント宣教史概観
  Ⅱ 中国伝道の開拓者
  Ⅲ ハドソン・テイラーと中国内地伝道会
    一 中国伝道者としてのハドソン・テイラー
    二 内地伝道会の幻
    三 内地伝道会の新しい事業
 第二部 日本のキリスト教史から
  Ⅰ 明治初期のキリスト教
  Ⅱ 公会主義とその姿勢
  Ⅲ 植村正久の生涯と路線
  Ⅳ キリスト者の自我追求――高倉徳太郎の場合
  Ⅴ 日本神学の課題
 第三部 日本基督教団
  Ⅰ 日本基督教団の成立とその進展
    一 序説――日本のキリスト教
    二 日本キリスト教の特殊性
    三 日本における教会合同の諸段階
    四 教団再編成の障害
    五 教団の機構改革
    六 信仰告白の制定と教憲改正
    七 宣教
    結語
  Ⅱ 会派問題――日本の教会の教会性について
  Ⅲ 戦後二十年のキリスト教――日本のキリスト教における教派制教会の意義についての一考察

諸論文
 日本キリスト教の歴史的意義と展望
 明治・大正期におけるキリスト教学の歴史について
 思想史上の植村先生――先生の著作に基いて
 教会史と柏井園先生
 志の宗教
 東洋の伝道と日本開教――史的回顧

解説(松村克己)

-----ここまで-----

「日本キリスト教史論」は、戦後20年間に書かれた十数編の論文をまとめたもの。中国伝道史、東洋伝道史から考察することで、17世紀以来のキリスト教史のひとつの到達点として日本の宣教を理解することと、合同と分立の絡み合う日本のプロテスタント教会史の中心的、代表的なものとして日本基督教団の成立と進展を捉えることが主眼とされている。

このうち、「植村正久の生涯と路線」は、『植村正久著作集』第一巻(新教出版社、1966年)の解説として書かれたもの。

「キリスト者の自我追求――高倉徳太郎の場合」は、『福音と世界』(1964.3)を経て、『現代日本思想大系 第6巻キリスト教』(筑摩書房、1964年)に収録されたもの。国立国会図書館などのOPACでは「石黒謙」になっている


諸論文の中で、

「明治・大正期におけるキリスト教学の歴史について」は『日本の神学』16号、1977年6月。

「思想史上の植村先生」は、『神学と教会』第2巻第1号(1935)

「志の宗教」は、『植村正久全集』の完成の際の講演を記者が記したもののようで、『福音新報』第1894号、昭和7年1月14日に収録。『明治文學全集46 新島襄 植村正久 清澤滿之 綱島梁川 集』(筑摩書房、1977年)の巻末にも収録。



船本弘毅編『希望のみなもと』 [書籍紹介・リスト]

希望のみなもと船本弘毅編、『希望のみなもと――わたしを支えた聖書のことば』、燦葉出版社、2012年、399頁、1800円+税。



東日本大震災で人々の想像を絶する悲しみと苦しみが生み出された日本の現実において、しかし、被災された方々に向けて何かを語るのではなく、それぞれがさまざまな経験の中で聖書のことばによって支えられてきた人生を語ることで、愛と希望のメッセージを送る。一つひとつがほんの数ページで短くて読みやすい、キリスト者87人の証言集。教職者も信徒も、カトリックから無教会まで、ただ、やはり日本基督教団関係が多い。

執筆者は、渡辺和子、平山正実、大村栄、渡辺総一、内坂晃、西原由記子、川田殖、荒井仁、齋藤正彦、春名純人、原田博充、北村宗次、佐竹順子、村岡恵理などなど。

なんとなく、阿佐ヶ谷関係者や鎌倉横須賀方面の方々が多いような・・・。


晴山陽一『すごい言葉』2 [読書メモ]

晴山陽一、『すごい言葉――実践的名句323選』(文春文庫408)、文藝春秋、2004年。

323の「名句」を数行の解説付きで紹介。英文も併記されている。人名索引もあるのがよい。

晴山が出会った言葉の他、英語圏のさまざまな引用句事典から多く引かれているようだ。


前回の記事の続き)


p.152
「オフィスに置いてある植物が枯れているような医者の所には行くな。」
アメリカのコラムニスト、アーマ・ボンベックという人の言葉。"The Macmillan Dictionary of Contemporary Quotations," 3rd ed., 1996より。
教会も、玄関脇の花壇をいつもきれいにしておかなければならないなあ。水やりを怠って、すぐ枯らしてしまうのだが。



p.179
「神は汝の敵を愛せとは言ったが、好きになれとは言わなかった。」
なんと、ラインホールド・ニーバーの言葉とのこと。フォックスによる伝記、Richard Wightman Fox, "Reinhold Niebuhr: A Biography," 1985にあるとのこと。


p.225
「君のオフィスではどれくらいの人が働いているんだい?」
「半分くらいかな」

2011年4月7日の読売新聞「編集手帳」で紹介され、2014年6月6日の朝日新聞「天声人語」でも紹介された。
これをもじって:

「君の教会ではどれくらいの人が礼拝しているんだい?」
「半分くらいかな」

「君の教団ではどれくらいの人が伝道牧会しているんだい?」
「半分くらいかな」

「君の神学校ではどれくらいの人が勉強しているんだい?」
「半分くらいかな」


p.229
「他の人の葬式に出ておいてやらないと、彼らも君の葬式に来てくれんぞ!」
この本の最後を飾るジョーク。
 教会員の葬儀には極力出席しましょう。



晴山陽一『すごい言葉』1 [読書メモ]

晴山陽一、『すごい言葉――実践的名句323選』(文春文庫408)、文藝春秋、2004年。

323の「名句」を数行の解説付きで紹介。英文も併記されている。人名索引もあるのがよい。

晴山が出会った言葉の他、英語圏のさまざまな引用句事典から多く引かれているようだ。



p.33
「人間は、メッセージを忘れたメッセンジャーである。」
(アブラハム・ジョシュア・ヘシェル『人間とは誰か』(1965)より)

ヘシェルの表記は一般には「ヘッシェル」。また、「アブラハム・ジョシュア」は英語だか何だか分からないよう。。。

ヘッシェルはポーランドのワルシャワで生まれ、ベルリン大学に提出したドイツ語の学位論文を、後にアメリカで英訳・改訂して出版した。その邦訳が『イスラエル預言者』(上下2巻、並木浩一監修、森泉弘次訳、教文館、上下とも1992年)で、その邦訳書での表記は英語読みで「エイブラハム・ジョシュア・ヘッシェル」。

人間が伝えるべきメッセージは何であるか。ヘッシェルがユダヤ教の神学者であることからすれば、それは主なる神からのメッセージであろう。



p.43
「生きていくためには、記憶力よりも、その対極にある“忘れる力”のほうが不可欠である。」
(ショーレム・アッシュ『ナザレ人』(1939)より)

アッシュはポーランドの作家。ユダヤ人である彼が「ナザレ人」という小説を書いているのは興味深い。アッシュの作品の邦訳って、戦前を別にすれば、ぜんぜんないようだ。


p.105
「知識の島が大きくなるほど、不可思議の海岸線が長くなる。」
(ラルフ・W.ソックマン)
ソックマンは、米国のメソジスト教会の牧師(1889-1970)とのこと。典拠は、Laurence J. Peter Compiled "Quotations For Our Time," 1977より。おお、あの「ピーターの法則」のローレンス・ピーターが集めた引用句集だ!

ローレンス・J.ピーター、レイモンド・ハル(田中融二訳)、『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』、ダイヤモンド社、1970年。
最近は新訳があるようだ。 渡辺伸也訳、2003年。



p.106
「持論を持てば持つほど、ものが見えなくなる。」
ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースの言葉とのこと。
自分もそうだが、自分の考え方に固執してしまうと、他者に耳を傾けることができなくなる。逆に、他人が己の考えに固執していてこちらの意見に耳を傾けてくれず、いらだったり失望したりすることもある。日本の総理大臣に対しても。


p.112
「教育は、学んだことがすべて忘れられた後に残る“何か”である。」
心理学者B.F.スキナーの言葉。これも、ローレンス・ピーターの引用句集より。
信仰も、三位一体とか贖罪とか終末論とか、理屈をすべて忘れたときに、いかに主なる神への信頼に生きているかということかもしれない。


(続く)


タグ:一般の新書

どちりいな・きりしたん関連記事まとめ [書籍紹介・リスト]

どちり(い)な きりしたん [書籍紹介・リスト]

「どちり(い)な きりしたん」のまとめ

「どちりな きりしたん」あるいは「どちりいな きりしたん」は、4種類現存している。

参考文献
・海老沢有道『長崎版 どちりな きりしたん』岩波文庫(1950年)の解題
・海老澤有道『日本の聖書 聖書和訳の歴史』講談社学術文庫(1989年)のp.57
・門脇清、大柴恒、『門脇文庫 日本語聖書翻訳史』新教出版社(1983年)、pp.27-31
・『日本キリスト教歴史大事典』(教文館、1988年)の海老沢有道「『ドチリナ・キリシタン』」の項、海老沢有道「キリシタン版」の項、H.チースリク「天草コレジヨ」の項など。
その他

これらを総合すると、次のようになる。


1.1591年?国字本『どちりいなきりしたん』
刊行年・刊行地未詳(1591?加津佐?)の国字本、ヴァティカン図書館Barberini文庫所蔵

■刊行地、刊行者、刊行年について
当初は1592年、天草と推定されていた(岩波文庫の解題など)が、後に、1591年(天正19)加津佐と推定されるようになった。

刊行は、イエズス会のコレジヨによると推定される。(コレジヨは各地を転々としたが、1590年8月から91年5月まで加津佐にあった。)

Barberiniは、『日本キリスト教歴史大事典』では「バルベリーニ」と伸ばした表記。他は皆「バルベリニ」。

■影 印
小島幸枝、亀井孝解説『どちりいなきりしたん(バチカン本)』(勉誠社文庫55)、勉誠社、1979年。(ただし解説は『どちりなきりしたん(カサナテンセ本)』勉誠社文庫56の方に一括付載。
にある。
ほかに、
海老澤有道編『南欧所在吉利支丹版集録』、雄松堂書店、1978年。
にもあるようだ。

■翻 字
H.チースリク、土井忠生、大塚光信校注で、『日本思想体系25 キリシタン書・排耶書』(岩波書店、1970年)。
および
龜井孝、H.チースリク、小島幸枝『日本イエズス会版キリシタン要理――その翻案および翻訳の実態』 (岩波書店、1983年)
がある。


2.1592年ローマ字本
1592年天草:天草学院刊のローマ字本、東洋文庫所蔵

ヴァティカン図書館Barberini文庫所蔵の国字本(1591年?)とだいたい同一。

■刊行地、刊行者、刊行年について
刊行はイエズス会のコレジヨによる。(コレジヨは各地を転々としたが、1591年5月から97年秋まで天草河内裏にあった。)なお『日本の聖書』では「天草学林」と記されている。

■影 印
影印と翻字が、橋本進吉『文禄元年天草版吉利支丹教義の研究』(東洋文庫論叢、第九)、1928年にあるらしい。この本は、語学の立場から1592年ローマ字本を分析した「劃期の著述」(亀井他『日本イエズス会版キリシタン要理』岩波書店、1983年、p.179)とのこと。

<2014.10.8追記>
なんと、フルカラー原寸影印が出た。
公益財団法人東洋文庫監修、『重要文化財 ドチリーナ・キリシタン 天草版』(東洋文庫善本叢書2)、勉誠出版、2014年、160頁、14,000円+税。
解説は豊島正之。
<以上 追記>

■翻 字
海老澤有道編著『キリシタン教理書』(キリシタン文学双書、キリシタン研究第30輯)、教文館、1993年。


3.1600年ローマ字本
刊行地未詳(長崎?)、1600年刊行のローマ字本、水府明徳会所蔵

1591~92年の版(前期版)の改訂増補版。

章の番号の付け方が、前期版では第八を欠いているのに対し、後期1600年版では第十一が欠けている。そのため、章は第十二まであるが、両者とも実際は11章からなる。前期版で第八を欠く理由についての解明は、亀井孝、H.チースリク、小島幸枝、『日本イエズス会版キリシタン要理』(岩波書店、1983年)、p.42。

■刊行地、刊行者、刊行年について
刊行地は推定で長崎。『日本キリスト教歴史大事典』の「キリシタン版」の項(海老沢有道)によると、「印刷所の移転年度に重なったものなどは刊行地名が掲げられておらず、明確でないものもある」(p.415)。
イエズス会の印刷所は1598年から長崎コレジヨに移転しており、1600年から後藤宗印(霊名が登明(とめ))に印刷が委託された。
したがって刊行者は、長崎コレジヨか後藤宗印か。いずれにしてもイエズス会による。

■所 在
所在は、岩波文庫では徳川圀順氏と記されている。『日本の聖書』では水府明徳会。『歴史大事典』では水府明徳会とアポストリカ文庫(ヴァティカン)が記されている(p.417)。『日本イエズス会版 キリシタン要理』(岩波書店、1983、p.209)では「水戸彰考館」と記されている。上智大学ラウレスキリシタン文庫データベースでは「水府明徳会 彰考館・徳川美術館」と記されている。

■影 印
大阪毎日新聞社編『珍書大観 吉利支丹叢書』毎日新聞社、1928年。この中に『聖教要理』 というタイトルで収録されているらしい。
小島幸枝『どちりなきりしたん総索引』(風間書房、1971)もあるらしい。

■翻 字
海老澤有道編著『キリシタン教理書』(キリシタン文学双書、キリシタン研究第30輯)教文館、1993年。
ほかに、
小島幸枝『どちりなきりしたん総索引』(風間書房、1971)
にもあるらしい。


4.1600年国字本『どちりなきりしたん』
1600年長崎、後藤登明宗印による国字本、ローマのCasanatense文庫所蔵

前期版の改訂増補版で、水府明徳会所蔵の1600年ローマ字本とほぼ同一。

1600年ローマ字本が最後の11章となるはずのところを「第十二」としていたのを、この国字本では「第十一」と訂正し、ようやく章の番号付けが整った。

■刊行地、刊行者、刊行年について
イエズス会から委託された長崎の後藤登明宗印による印刷・刊行。

Casanatenseは、岩波文庫は「カサナテ」、『日本イエズス会版キリシタン要理』(岩波書店、1983年)も「カサナテ」、『日本語聖書翻訳史』が「カサナンゼ」、『日本の聖書』が「カサナテンゼ」、『日本キリスト教歴史大事典』が「カサナテンセ」。

■影 印
小島幸枝、亀井孝解説『どちりなきりしたん(カサナテンセ本)』(勉誠社文庫56)、勉誠社、1979年。
ほかに、
小島幸枝『どちりなきりしたん総索引』(風間書房、1971)
海老澤有道『南欧所在吉利支丹版集録』(雄松堂書店、1978)
などがあるらしい。

■翻 字
海老沢有道校注、1950年岩波文庫。
新村出、柊源一校註、『吉利支丹文学集2』(東洋文庫570)、平凡社、1993年。
(元は、『吉利支丹文学集 下』(日本古典全書)、朝日新聞社、1960年。)にもある。
他に、
小島幸枝『どちりなきりしたん総索引』、風間書房、1971年。
があるらしい。


◆ ◆ ◆


というわけで、

影印については、勉誠社文庫に二つの国字本の影印があるほか、海老澤有道『南欧所在吉利支丹版集録』(雄松堂書店、1978)にも、二つの国字本の影印が収録されているようだし、小島幸枝『どちりなきりしたん総索引』(風間書房、1971)には、1600年のローマ字本3と国字本4の両方の影印と校訂が収録されているようだが、どちらも近くの図書館にはないし、入手も困難そう。


影印を調べるほどではなく、翻字版でよいとして、入手や図書館閲覧がより容易なものとしては、

ローマ字本は、

海老澤有道編著『キリシタン教理書』(キリシタン文学双書、キリシタン研究第30輯)、教文館、1993年。
これに、1592年と1600年の両方のローマ字本が、国字本を参考にかな漢字交じりに校訂して収録されている。

国字本は、

『日本思想体系25 キリシタン書・排耶書』(岩波書店、1970年)に、1591年国字本がある。
1600年国字本は何と言っても海老沢有道校注の岩波文庫で。



平凡社、吉利支丹文学集(東洋文庫) [書籍紹介・リスト]

新村出、柊源一校注、『吉利支丹文学集1』(東洋文庫567)、平凡社、1993年、389頁。
元は、『吉利支丹文学集 上』(日本古典全書)、朝日新聞社、1957年。柊源一が訂正を加えたものが柊の遺族から提供され、これをもとに若干の補訂がなされたとのこと。


新村出、柊源一校注、『吉利支丹文学集2』(東洋文庫570)、平凡社、1993年、373頁。
元は、『吉利支丹文学集 下』(日本古典全書)、朝日新聞社、1960年。



■『吉利支丹文学集1』の内容
柊源一によるキリシタン文学全般にわたっての系統的な「解説」(pp.15-172)

「こんてむつすむん地」(天理図書館蔵、1610年、国字本)(いわゆるイミタチオ・クリスティ)の翻字、頭注付き(pp.173-384)。

「ぢ」だけ漢字で「地」とされていることについて、「ムンヂが『世の」といふ義なので、音と意味との通ずる『地』といふ字を当てたのであらうか」と推測されている。(p.161)



■『吉利支丹文学集2』の内容
柊源一による「どちりなきりしたん」の解説(pp.15-45)

「どちりなきりしたん」(ヴァチカンのBibliotheca Casanatense蔵、1600年国字本)の翻字、頭注付き(pp.47-187)。1600年ローマ字本を参考にして、句読点を付け、漢字や仮名の読み方を註に示している。

「イソポのハブラス」(大英博物館蔵、1593年ローマ字本)(いわゆるイソップ寓話集)の解説と国字への翻字(pp.189-343)。

平凡社からの復刻に当たって記された、米井力也による「解説」(pp.344-361)。

付録として、「どちりなきりしたん」の中でラテン語、ポルトガル語をそのまま仮名書きされている「本語」をローマ字本での表記と現代語訳と対照させた「本語対照表」と、ローマ字と仮名の対応を一覧にした「吉利支丹版ローマ字仮名対照表」がある(pp.362-373)。



新村出(しんむら・いずる)(1876.10.4-1967.8.17)は『広辞苑』の編纂で有名。名前の読みは「しんむら」であるが、『広辞苑』を引くことを「にいむらをひく」みたいに言われている。


柊源一(ひらぎ・げんいち)(「ひいらぎ」ではない)(1909.2.18-1981.9.30)カトリック信者。略歴と著作目録は、土田将雄「柊源一教授をしのんで」、『上智大学国文学論集』16、1983年1月、pp.1-4
他に、柊源一、『吉利支丹文学論集』、教文館、2009年、212頁。
がある。


平凡社の「東洋文庫」のシリーズは、アジア諸地域の代表的な古典、知られざる名作、貴重な日記・紀行文など、これまでに850点余りを刊行し、2013年に創刊50周年を迎えた。http://www.heibonsha.co.jp/series/toyo.html
『吉利支丹文学集』1、2は、2008年にワイド版も出た。

朝日新聞社の「日本古典全書」は、国立国会図書館をはじめ「日本古典全集」とデータ入力されていることがあるが、「日本古典全書」が正解。



イースターカードはいつ送るか [教会年間行事]

イースターカードを送るのは、イースターが終わってからでしょって話。

教会出入りの本屋さんからイースター用のポストカードを買ったら、けげんな顔された。「いまからイースターカードですか?」って。



何となく、12月25日になるまでにクリスマスカードを送り合っている。クリスマスが終わるとすぐに新年だからか。

しかし、イエスさまが生まれてから、お誕生をお祝いすべきではないか。

だって、友人に赤ちゃんがもうすぐ生まれるって聞いたとき、生まれる前には「おめでとう」って絶対言わないでしょ。

だから、クリスマスカードは、クリスマスを迎えてから送り合った方が良いのではないか。



イースターなら、なおさらではないか。

イースター前は、主イエスの十字架への歩みをたどり、自らの罪を悔い改め、華美な飲食を慎み、嗜好品を遠ざけ、無駄遣いをやめて、節制する時である。

主の御受難を覚える期間に、「イースターおめでとう」なんてカードをやりとりしてはいられない。

四旬節(伝統的にこう言う。通称的には受難節)の意義が廃れているために、イースター前にイースターカードをやりとりするのではないだろうか。



というわけで、

1.イースターカードは、イースターを迎えてから送り合いましょう。

2.イースター前にカードを送ってくださった方々、こんなこと言ってごめんなさい。カードを送っていただいたこと、感謝しています。


タグ:教会暦

日本イエズス会版 キリシタン要理 [書籍紹介・リスト]

亀井孝、H.チースリク、小島幸枝、『日本イエズス会版 キリシタン要理――その翻案および翻訳の実態』、岩波書店、1983年、11+300+127頁。

亀井孝の亀の字はシフトJIS:EA9D、Unicode:U+9F9Cの「龜」。

ローマのCasanatense文庫にある1600年国字本に対するこの本での表記は「カサナテ本」。


第一部 研究篇

第一章は、「カテキスモ」の意味や要理書の発展について。宗教改革に対するカトリックでの教理書の歴史など。

第二章は、日本におけるドチリナの最初としてフランシスコ・ザビエルが作った29箇条の小ドチリナの話(現存しない)、ジョルジェが公教要理を作った経緯、1566年版のジョルジェのもの(ポルトガル語)を基礎に日本語に訳され、日本での印刷・出版についてなど。

ポルトガル語の原書が児童を対象としていたのに対し、日本語訳では成人を対象として翻訳された。
また、原書では、幼児洗礼を受けた子供たちがテキストを暗唱していることを前提にして教師の質問に答える形式であったものを、日本語訳では逆に生徒が質問し教師が答える形式に変更された。
その他、日本人向けに省略したり説明を付加したりした部分がある。
「ケレド」(使徒信経)の説明の部分では、ポルトガル語原書では教皇を頭とする教会の教えとして説明されているところを、日本への布教の観点から、使徒の教えとして扱われている。その章立ての違いなど。

第三章は、日本語のドチリナとポルトガル語本(ジョルジェのドチリナ、1602年)を比較し、翻訳できない用語をラテン語の読みで記したところがあるとか、その際に複数形の語尾はどうしたかとか(たとえば「さからめんと」が「さからめんとす」となっている箇所があるとか)。

第四章は「翻訳の文体」として疑問詞の訳し方などの詳細な分析。

第五章では、前期版(1591年ヴァチカン本)と後期版(1600年カサナテ本)の表記を比較して、仮名遣いのちがい、モノグラム(「でうす」とか「きりしと」を記号で書く)の使用の違い、単語の言い換え、語順の変更、てにをはの変更などなどを「翻訳の成長」と題して細かく分析している。


第二部 資料篇

資料篇には、
ヴァチカン図書館蔵の1591年の「どちりいなきりしたん」、すなわち国字本のものの翻刻(p.207-300)

および

M.ジョルジェ(Jorge)のポルトガル語の「ドチリナ・キリシタン」(1602年大英図書館蔵)の影印と翻訳(後ろからp.1-127)

が収められている。


1591年「どちりいなきりしたん」国字本の翻刻には、カサナテ本(1600年の国字本)との相違、東洋文庫蔵本(1592年ローマ字本)、水戸彰考館蔵本(1600年ローマ字本)との相違が注で示されているが、短い語句の相違はその文言が記されているものの、大きな変更については「増補あり」とか「追加説明あり」とか「ほぼ全面かき改め」などと記されている。

また、これら二つの版の対応箇所が分かるように、それぞれの部分ごとに記号が付されている。



BHK、BHS、BHQ [書籍紹介・リスト]

BHK(読み方はべーハーカー)はKittelの"Biblia Hebraica"のことなので、単にBHとも。キッテルの第何版という言い方もある。

Rudolf Kittel、BHK、第1版1906年。
キッテルは、新約におけるネストレのような批評的本文を作ることは意図せず、ヤコブ・べン・ハイームの『第二ラビ聖書』を本文とし、脚注に重要な異読や本文批評家による読み替えの提案などを記した。

Rudolf Kittel、BHK、第2版1913年。
若干の修正がなされた。(ただし、『旧約聖書の本文研究』p.72には「第二版は1909年」とある)

Paul Kahle、BHK、第3版1937年。
キッテルは1929年に死去。その後、Paul Kahle(パウル・カーレ、1875.1.21-1964.9.24。2014年はカーレ死去50年!)が中心的に加わって、本文にレニングラード写本を採用、脚注も著しく増補。

単にBHKと言った場合、この第3版を指す。

『第二ラビ聖書』はベン・アシェル本とベン・ナフタリ本の混合であり、しかも11~14世紀のものであった。これに対して、レニングラード写本は1008年(ないし1009年)のものでマソラ本文全体を含み欠損部分もほとんどなく、質の良い写本である。カーレはこれこそ純粋なベン・アシェル本だと考えて、本文をレニングラード写本に変更した。

(ただし、レニングラード写本もカーレが言うほど純粋なベン・アシェル本ではない。)

※口語訳聖書(旧約は1955年)の底本は、このキッテル第3版。

第3版の後も、若干の訂正と改善が加えられて版が重ねられていった。特に、1951年の版では、Albrecht AltとOtto Eissfeldtによってイザヤ書とハバクク書にクムラン文書の資料を扱う欄が新設された。これはBHKの第7版とされているが、主に異読資料欄を改訂していっただけだから「第7版」は言い過ぎとの批判あり(シェンカー)。


BHS4.JPGKarl Elliger、Wilhelm Rudolph、BHS、1977。
BHS(読み方は「べーハーエス」)は"Biblia Hebraica Stuttgartencia"の略。BHSは、BHK第3版の改訂の意味で第4版という。


BHK第3版では、マソラが無視されていたこと、校訂者の判断で詩型に組まれたところがあった、脚注で古代訳の証拠よりも校訂者の主観的判断の方が優先されていたり、古代訳の評価の不適切さなどがあった。

そこで、BHSでは、本文はメセグなども含めてレニングラード写本を忠実に再現、脚注では古代訳を慎重に評価、小マソラを校訂本の中に印刷、大マソラは別冊で刊行した。

BHSの版は、最初分冊で1967年から出され、1977に合本。その後、1984第2版、1987第3版、1990第4版、1997第5版。(私が持っている第5版ISBN:3-438-05219-9には、この版歴が記されていない。)


※新共同訳聖書(1987年)の底本とされたBHSは、初版あるいは第2版であろう。



BHQ、2004~。
Biblia Hebraica Quinta(ビブリア・ヘブライカ・クインタ)は、Kittel, "Biblia Hebraica, " 1906から数えて第5版(クインタは「第五の」という意味)。2004年から分冊で刊行が開始された。

本文はキッテル第三版以降と同様に、レニングラード写本。

いつこのプロジェクトが完了するかは、「神の導きに委ねられるべきことであり、この幸いなる出来事が近い将来に実現するようにという熱心なとりなしの祈りに託されるべきこと」だ(シェンカー、p.39)


もっとも、この言い方は、ヘブライ大学のHUB(The Hebrew University Bible) のプロジェクト(アレッポ写本を底本にして膨大な本文批評的脚注を伏したもの。1965年~)について、全体がいつ完成するかは「祈るしかない」と記されていることが元になっている。(『旧約新約聖書大事典』教文館の「本文」の項で紹介されている)


参考文献

●エルンスト・ヴュルトヴァイン(鍋谷堯爾、本間敏雄訳)、『旧約聖書の本文研究――『ビブリア・ヘブライカ』入門』、日本基督教団出版局、1997年。

●左近淑、『旧約聖書緒論講義』、教文館、1998年。
(特に112~113ページあたり)

●『国際聖書フォーラム2006講義録』(日本聖書協会、2006)の中のアドリアン・シェンカー、『ビブリア・ヘブライカ・クインタ――ヘブライ語聖書の新しい校訂本の主要な特徴』。
(BHQの簡潔な紹介として有用)

●『旧約新約聖書大事典』(教文館)の「本文」の項(よみがなが「ほんぶん」となっているが、「ほんもん」とすべき)

●BHSのforwordはゆっくり読んでいられない。

●総説旧約聖書の新版は持っていない。

●『旧約聖書を学ぶ人のために』世界思想社、2012年には、こういう話はまったく載っていない。


(2014/04/09加筆)

The New Jerusalem Bibleの選び方 [書籍紹介・リスト]

以前、ある程度学問的な注が付いていて、かつ、なんとか手頃なサイズの聖書としてThe New Oxford Annotated Bibleの選び方を記した。

 →The New Oxford Annotated Bibleの選び方


英語圏でもっとも学問的な注が付いた聖書は、The New Jerusalem Bibleだろう。

これは、フランスで独自に翻訳されたものの英語版。一応原典から訳していることになっているようだが、フランス語の翻訳の姿勢にのっとっている。

最初に出たフランス語版1956年に対する英語版が1966年にNewのつかない"Jerusalem Bible"として出た。

フランス語版は1973年に改訂された。それに伴い英語版も改訂され、1985年に"The New Jerusalem Bible"として出た。

カトリックの学者による翻訳だが、学問的な注が付いているということで、カトリックかプロテスタントかなんてことは関係ない。


しかし、ネットで調べるといろんな種類があってどれを買ったらいいか分からないー。

しかも、日本のアマゾンでは「なか見!検索」で<注付きではないもの>が表示される
アメリカのアマゾンでのこの書のページならLookInside!でちゃんと確認できる)

非常に詳しい注が付いていることが売りなのだが、ほとんど注なしのものもある。田川建三も『書物としての新約聖書』で「英語訳には註をほとんど省略した簡略版も出ているから、気をつけた方がいい。」と言っている(p.535ページ)。

その田川建三は「註など省略せずにのっているのはStandard Editionである」と書いている(同ページ)が、現在Standard Editionと記されているものは、注が省略されたものであるので、ややこしい。


結論としては、ハードカバーのISBN13:978-0-385-14264-9を買う。注付きはこれのみ。

他に、
 Standard Edition(ISBN13:978-0-385-49320-8)や
 そのレザータイプ(ISBN13:978-0-385-49658-2)や
 Reader's Edition, Paperback(ISBN13:978-038524833-4)や
 Pocket Edition(ISBN13:978-0-385-46986-9)や
その他にも新約だけのものやStudy Editionというのもあるようだが、
どれも注は省略されたものである。



Kindle版はいまのところない。


P.S. 日本のアマゾンのカスタマレビューに、ちゃんとISBN13:978-0-385-14264-9を買えと書いている人がいました。amazon.comならLookInsideできることも指摘されています。



タグ:聖書翻訳

勉誠社文庫 どちり(い)なきりしたん [書籍紹介・リスト]

どちりいなきりしたん(バチカン本)小島幸枝、亀井孝解説『どちりいな きりしたん(バチカン本)』(勉誠社文庫55)、勉誠社、1979年、A5判163頁。



どちりなきりしたん(カサナテンセ本)小島幸枝、亀井孝解説『どちりな きりしたん(カサナテンセ本)』(勉誠社文庫56)、勉誠社、1979年、A5判128頁。



勉誠社は現在、勉誠出版。http://bensei.jp/

勉誠社文庫は、伊曽保物語とか徒然草といった日本文学の古い木版本などを写真撮影して複製したもの、すなわち影印のシリーズのようだ。

第一期(1976~1977)20冊、第二期(1977~1978)20冊、そして第三期(1978~)の中で『どちりいなきりしたん(バチカン本)』、『どちりなきりしたん(カサナテンセ本)』が刊行された。


小島幸枝と亀井孝による解説は、勉誠社文庫55の方にはなく、勉誠社文庫56の方に一括して掲載されている。

どちらも、原本の大きさと縮小率が明記されている。

55の方は、バチカン図書館蔵の、1591年と推定されている国字本の影印。原本の天地25.1cm×左右19.2cmを縮小率76%で収めている。

56の方は、ローマのCasanatense文庫所蔵の、1600年の国字本の影印。原本の25.9cm×18.9cmを縮小率73%で収めている。p.113までが影印で、pp.117-128が解説。正誤表あり。



ハンス・ヴァルター・ヴォルフ [書籍紹介・リスト]

Hans Walter Wolff, 1911.12.17-1993.10.22。


■経 歴

ドイツのヴッパータール・バルメン生まれ
ベーテル神学校、ゲッティンゲン大学、ボン大学で学ぶ。
特にフォン・ラートの影響を強く受ける。
1935-45 ラインラントの告白教会で伝道師、牧師
1946-49 ゾーリンゲン・ヴァルトで牧会
1949-59 ヴッパータール神学校の旧約聖書学の講師、教授
1959-67 マインツ大学旧約聖書学教授
1967-78 ハイデルベルク大学旧約聖書学教授

(大串元亮訳『旧約聖書』の訳者あとがきによる)


■邦訳書

●柏井宣夫訳、『終りなき平和――イザヤの「メシア」預言研究』、日本基督教団出版局、1972年、158頁。
 原著:"Frieden ohne Ende, Eine Auslegung von Jes. 7,1-7 und 9,1-6." "Biblische Studien"の35号、1962年。
 イザヤ7:1~17のインマヌエル預言と9:2~7のメシア預言の釈義的研究。

●大串元亮訳、『旧約聖書の人間論』、日本基督教団出版局、1983年、502頁。
 原著:"Anthropologie des Alten Testaments," 1973初版、1977第3版。旧約聖書において、人間は自己自身をどのようにして知るのかが大きなテーマ。

●大串元亮訳、『旧約聖書』(現代神学の焦点12)、新教出版社、1991年、267+11頁。
 原著:"Bibel. Das Alte Testament, Eine Einführung in seine Schriften und in die Methoden ihrer Erforschung," 1970初版、1975第2版、1980年にボルンカム『新約聖書概説』と合本でペーパーバック版。
 第一部「歴史――歴史としての旧約聖書」、第二部「将来――預言」、第三部「現在――教訓書」、最後に結びとして「神学・教会・社会と旧約聖書」。随所に旧約学の方法論に関する入門的な付論が全部で12置かれている。

他に、
●C. ヴェスターマン編(時田光彦訳)、『旧約聖書解釈学の諸問題――旧約聖書理解のための論文集』、日本基督教団出版局、1975(1960)、300頁。
 この中に「旧約聖書の解釈学について」あり。


■その他の情報

Hermeneiaのシリーズのホセア、ヨエル・アモスがBKのシリーズの英訳のようだ。

ハイデルベルクの大学教会で、「炎の説教者」と呼ばれたらしい。



タグ:神学者

フォン・ゾーデン逝去100年 [その他]

Hermann Freiherr von Soden
ヘルマン・フライヘル・フォン・ゾーデン
1852.8.16-1914.1.15

今年は、フォン・ゾーデン逝去100年だ!

ちなみに、フォン・ゾーデンが死んだ年に蛭沼寿雄が生まれている。

ということは、今年は、蛭沼寿雄生誕100年でもある!


フォン・ゾーデンについて紹介した日本語のWebページがほとんどないので、簡単に作ってみた。


■経 歴

ドイツの新約聖書学者、本文(ほんもん)批評家。

アメリカ、オハイオ州シンシナティ生まれのドイツ人。

チュービンゲン大学で学び、
ベルリンのエルサレム教会牧師などを務めた後、
1889年ベルリン大学の新約学私講師(privatdozent)、
1893年ベルリン大学神学員外教授(extraordinary professor of divinity)、
1913年ベルリン大学正教授(ordentlichen Professor)。
ベルリンの地下鉄事故で死去。

息子のハンス・フォン・ゾーデン(Hans von Soden, 1881.11.4-1945.10.2)は教会史家、新約聖書学者。

孫のヴォルフラム・フォン・ゾーデン(Wolfram von Soden, 1908.6.19-1996.10.6)は、古代オリエント学者、アッシリア学者。


■業 績

新約聖書の膨大な数の写本を調査し、ギリシア語の大文字と小文字の写本を区別する新しい表記法を考案した。それは、各写本の年代や内容、形態を表すという画期的なものであったが、あまりにも複雑すぎて、彼の後ほとんど用いられなかった。

福音書の本文の型を、K(コイネー)、H(ヘシキオス)、I(エルサレム)の三つの校訂版に分類した。そして、これら三つの校訂版から、失われた一つの原型にさかのぼれると考え、それをI-H-K(イーハーカー)本文と名付けた。
この考え方は、現在では他の形から派生したとされているコイネー本文型が重視されすぎていたり、全体的に正確性に欠けるなど欠陥が多い。

しかし、彼の業績は広範囲の研究と異常なほどの勤勉によるものであるゆえに「記念されるべき金字塔」であり、「大いなる失敗」とも言われている。


■気になる記事

マタイ18:20の聖句を「あたかも自覚的キリスト者が二~三人集まると、そこにキリストが(あたかも第三の、または第四の兄弟として)来てくださるかのように理解する教会理解が、H・F・フォン・ゾーデンなどによって広められました。」

日本基督教団宣教研究所編、『信仰の手引き――日本基督教団信仰告白・十戒・主の祈りを学ぶ』、日本基督教団出版局、2010年、p.184。

ほんとうか? 少なくともLuzのEKKの当該箇所には言及がないようだ。


■参考文献

B.M.メツガー(橋本滋男訳)、『新約聖書の本文研究』、日本基督教団出版局、1999年、150-153頁。

蛭沼寿雄、『新約本文学史』、山本書店、1987年、190-194頁。

『キリスト教人名辞典』、日本基督教団出版局、1986年、828頁の「ゾーデン,ヘルマン・フォン」などの項。

『キリスト教大事典』(改訂新版)、教文館、1968年、668頁の「ゾーデン」の項。


タグ:神学者

The New Oxford Annotated Bibleの選び方 [書籍紹介・リスト]

ある程度学問的な注が付いていて、かつ、なんとか手頃なサイズの聖書としては、

岩波訳の聖書

がある。

日本聖書協会が「新共同訳」の次の翻訳として進めているものには、どの程度のものであるか分からないが、注が付くようだ。


しかし、現在のところ、フランシスコ会訳と岩波訳の他にまともな注付きの聖書を探すとしたら、英語圏のものとなる。(っていうか、他の言語は読めない。)

そして、英語圏でのそのようなものとしては、Oxford University Pressから出ているOxford Annotated Bibleが、定評あるものの一つだろう。

しかし、ネットで調べるといろんな種類があってどれを買ったらいいか分からないー。

そこで、The New Oxford Annotated Bibleの種類について、Oxford University Pressのサイトやアマゾンのカスタマーレビューなどを参考に、調べてみた。

なお、Amazonはアメリカのサイトを見た方が、Look_Insideできたりして、いろいろ便利。


基本的なところとして、採用している聖書がRSVのものとNRSVのものがある。NRSVに注を付けたものの方が新しい。

現在のところの最新は、"The New Oxford Annotated Bible: New Revised Standard Version," Fully Revised 4th Edition, 2010


種類として大きく分けて、

Apocryphaが付いているものと付いていないもの
革装か、ハードカバーか、ペーパーバックか

他に、college Editionというのがあり、どうやら、コンコルダンスなしのハードカバーのようだ。
(ということは、通常版はとても簡易なものだろうがコンコルダンスが付いている)


Apocrypha 装 丁ISBN-13
なし革装978-0-19-528952-7
なしハードカバー978-0-19-528950-3
なしCollege Edition978-0-19-528954-1
   
あり革装978-0-19-528957-2
ありハードカバー978-0-19-528955-8
ありペーパーバック978-0-19-528960-2
ありCollege Edition978-0-19-528959-6
ありハードカバーインデックス付978-0-19-528956-5


さてどれを選ぶか。

プロテスタントだからApocryphaはいらないやと思っても、Apocrypha付きの方が安かったりする。

革装やインデックス付きは高いし、ペーパーバックはすぐ表紙が折れたりする。

中途半端なコンコルダンスはいらないので、結局College EditionのApocryphaなしが、ハードカバーのようだし、割と安そうなので、これを選ぶとよいだろう。


・・・っと、いろいろ調べたが、やっぱりKindle版が一番安い。



タグ:聖書翻訳

岩波文庫・岩波新書 最近の復刊 [書籍紹介・リスト]

(2013.3~2014.2)

■2014年<春>の岩波文庫リクエスト復刊

『現世の主権について 他2篇』マルティン・ルター(吉村善夫訳)、660円+税
2014年2月19日 復刊(1954年1月25日発行)(前回重版1996年)


■重版再開

『バラバ』ラーゲルクヴィスト(尾崎義訳)、540円+税
2013年11月15日重版再開(1975年12月16日発行)

『基督信徒のなぐさめ』内村鑑三、480円+税
2013年7月17日重版再開(1939年9月15日発行)


岩波文庫2013年夏の一括重版
『新約聖書 使徒のはたらき』塚本虎二訳、600円+税
2013年7月10日重版再開(1977年12月16日発行)


創業百年フェア「読者が選ぶこの1冊」

『クオ・ワディス 全三冊 上』シェンキェーヴィチ(木村彰一訳)、800円+税
2013年5月22日重版再開(1995年3月16日発行)

『後世への最大遺物・デンマルク国の話』内村鑑三、540円+税
2013年5月22日重版再開(2011年9月16日発行)

『代表的日本人』 内村鑑三(鈴木範久訳)、600円+税
2013年5月22日重版再開(1995年7月17日発行)

『武士道』 新渡戸稲造(矢内原忠雄訳)、560円+税
2013年5月22日重版再開(1938年10月15日発行)

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ヴェーバー(大塚久雄訳)、1,000円+税
2013年5月22日重版再開(1989年1月17日発行)


岩波新書アンコール復刊
『モーセ』浅野順一、720円+税(黄32)
2013年9月20日復刊(1977年12月20日発行)


岩波書店創業百年記念復刊「もう一度読みたい岩波新書」
『人間と政治』南原繁、700円+税(青131)
2013年7月12日復刊(1953年5月10日発行)


前回の「岩波文庫最近の復刊」のブログ記事(2013年3月8日)



秋山憲兄『本のはなし』 [書籍紹介・リスト]

秋山憲兄『本のはなし』新教出版社秋山憲兄、『本のはなし――明治期のキリスト教書』、新教出版社、2006年、329頁。

新教出版社の目録によると、2008年に改訂増補版が出ているが、見ていない。

秋山憲兄(あきやま・のりえ)は、1917.2.17-2013.12.25。


■内 容

Ⅰ 序――明治初期のキリスト教出版

明治初期の印刷事情
横浜におけるキリスト教出版
明治期のキリスト教版元

Ⅱ 伝道文書・トラクト
「伝道文書」の「伝」の字は旧字の「傳」。

「伝道トラクトと本屋」の文章の後、私蔵本のJ.D.デビス『眞の道を知るの近路』(1873?)の全文を紹介。
(『植村正久とその時代』第二巻にある全文とはかなり違いがあるとのこと)。

ヘボン『十字架ものがたり』(1874?)の全文を紹介。

『信仰の話』(明治10年以前)の全文を紹介。

など4点紹介。

Ⅲ 本のはなし
「1 トラクト」で99点(排耶書7点を含む)
「2 教書」(これが第Ⅳ部になっている)で61点紹介。

Ⅴ バニヤン『天路歴程』
『天路歴程』の本邦初訳
邦訳の歴史

Ⅵ 和訳聖書の歴史

Ⅶ カール・ギュツラフ略伝と日本語聖書
これは、ギュツラフ訳『約翰福音之伝 約翰上中下書 復刻版』(信教出版社、2000年)の解説(ただしこの復刻版も2009年に増補版が出ている)。


■自分のためのメモ

p.61には、ヘボン・奥野昌綱訳『三要文』(1871/2)の使徒信条と主祷文(主の祈り)の訳文が記されている。p.73にはゴルドン訳(1876)の主祷文が記されている。


ハイデルベルク信仰問答の初訳は、ヘンリー・スタウトの書簡によれば1878年(明治11年)に出版されたというが、『日本キリスト教文献目録』にはない。
『日本キリスト教文献目録』では1880年(明治13年)発行の『基督教海徳山問答』(木曾五郎訳)がもっとも古いとしてあげられ、国会図書館蔵とあるが、著者が調査したら1885年版であった。(p.92)


『聖公会祈祷書』の淵源をたどると、1878年(明治11)頃刊の、C.M. ウィリアムズ編訳『朝晩祷文』に達する。これは、日本の聖公会の祈祷書が英国系と米国系の混乱を防ぐために、ウィリアムズが両国の母教会の祈祷書から編纂・翻訳したもので、朝祷文・晩祷文・リタニーを含んでいる。
 次いで1879年(明治12)の『聖公会祷文』は、・・・朝晩祷文に聖餐式、洗礼式、公会問答、堅信式が加わった。さらに、1883年(明治16)に増補版が刊行され、これが1887年日本聖公会第一回総会で公認された。」(p.211)


人権は「普遍」なのか [読書メモ]

人権は「普遍」なのか(岩波ブックレット).jpg小林善彦、樋口陽一編、『人権は「普遍」なのか――世界人権宣言の50年とこれから』(岩波ブックレットNo.480)、岩波書店、1999年、56頁+世界人権宣言7頁。

1998年12月11~12日のシンポジウムでの、7人の発表の要約。


■内 容
小林善彦、「日本で「人権宣言」が受け入れられるまで」
鵜飼哲、「人権の「境界」について」
増田一夫、「プロセスとしての人権」
坪井善明、「「アジアにおける人権」とはなにか」
ロニー・ブローマン、「人道援助と「悪の凡庸さ」」
辻村みよ子、「「女性の人権」とは何か」
樋口陽一、「人権の普遍性と文化の多元性」


■自分のためのメモ

天賦人権論
1883年(明治16年)に馬場辰猪(ばば・たつい)が『天賦人権論』を書いている。(p.6)

民主主義と人権
民主主義と人権は、どちらかがないときには、どちらも成立しない。(p.8、54)

世界人権宣言の意義
世界人権宣言(1948年)の意義の一つは、国民国家を人権の境界とする考え方に異議を唱える端緒となったことだ。(p.10)

ハンナ・アレント
ハンナ・アレントは『全体主義の起源』(1951年)の中で、近代の人権概念が国民国家の枠の中で、国民である者に限って人権を保障するという原理に基づいている限り、少数民族、難民、無国籍者は人権の埒外に置かれざるを得ないと批判した。(p.6、17にも)

「護る」ではなく「獲得する」
人権は、完成した形で存在していてそれを「護る」というものではない。むしろ、常に「獲得」すべきものである。(p.16)

ある権利が確保されると、その先にさらに獲得すべき権利が姿を現す。人権はに固定された範囲はない。歴史と共に伸張していく。(p.16、20)

悪の凡庸さ
ハンナ・アレント『イェルサレムのアイヒマン――悪の凡庸さに関する報告』(1963年)で、悪を犯すという意図のもとではなく、極端に自らの責任を限定して、自分が置かれている狭い立場以外の立場からはものが考えられなくなってしまい、思考が欠如した中で悪が犯されることが示された。(p.33-36)
(邦訳は大久保和郎訳、『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』、みすず書房、1969年。)

女性の人権
1789年のフランス人権宣言「人および市民の権利宣言」では、権利の主体はオム(人=男性)とシトワイヤン(市民=男性市民)であった。そこで、1791年、オランプ・ドゥ・グージュは、「女性および女性市民の権利宣言」を発表した。(p.38-39)

個人の尊重と人権
最近では、平等を定めた憲法14条ではなく、個人の尊重という原理を明確にした13条を中心に人権を考える傾向が強くなっている。(p.42)

ジレンマと自己決定権の矛盾
人権問題には常にジレンマがある。中絶の権利の主張は胎児の人権を侵害することになる。売春婦は男性支配の例として批判されるべきか、それとも女性の職業選択の自由や、身体の処分についての自己決定権か。しかし、自己決定権の名で人間の尊厳を捨てることは喜ばしいことではないだろう。自己決定というコンセプトそのものに矛盾が内在している。(p.43-44、50-51)

ユニバーサルな人権
人権の無視・侵害がuniversalにゆきわっている。しかし、人権という理念はuniversalな価値を持つものとしてuniversalに追求されるべきものである。(p.52)


池田守男、サーバント・リーダーシップ入門(2) [読書メモ]

池田守男、金井壽宏、『サーバント・リーダーシップ入門』池田守男、金井壽宏、『サーバント・リーダーシップ入門――引っ張るリーダーから支えるリーダーへ』、かんき出版、2007年、254頁、1575円。

その1の続き。


■自分のためのメモ(その2)

Ⅱ サーバント・リーダーの経営改革

社長として、クリスチャンとして
社長として私にできることは、改革の原動力となる社員たちをサーバントとして支え、ゴールに導いていくことだ。(p.2の「刊行によせて」)

私はクリスチャンとして「奉仕と献身」(サービス・アンド・サクリファイス)を生活信条としてきた。

銀座教会の前で、以前そこで見た新渡戸稲造の書「Be just and fear not」」が脳裏によみがえってきた。

社長就任後の記者会見で、「一粒の麦、地に落ちて死なずば一粒にすぎず、されどその麦、地に落ちて死なば、多くの実を結ぶなり」」(ヨハネ傳12:24)を引用して、自らの覚悟を語った。

内村鑑三の『余は如何にして基督教徒となりし乎』と出会い、また、新渡戸稲造の『武士道』に目を開かれた。

ラインホルド・ニーバーの「変えてはならないものを受け入れる心の冷静さと・・・」も、池田守男の好きな言葉。(p.155)
「ニーバーの祈り」参照)

ヤマト運輸の元会長、小倉昌男もクリスチャンだった。(p.159)

個人の強調の弊害
企業においても地域社会においても、個人の権利や生き方が強調されるあまり、あるいは利益至上主義や市場原理主義が幅を利かせていて、他の人々のことを思いやったり、公の利益を考えたりすることが疎かにされている。

身近な人間関係の基本
サーバントとして人に尽くす、仕えるとは、対等な人間関係ではないように誤解されるが、決しそうではなく、互助・互恵の精神そのものである。

サーバント・リーダーシップはごく身近な人間関係においても基本となる考え方である。

明確なビジョン、ミッションの共有を 
サーバント・リーダーシップは、ただ仕えるのではなく、明確なミッション、ビジョンがあって初めて実践できる。そして、それを組織のメンバーたちに伝える努力が不可欠である。ミッション、ビジョンの共有が、サーバント・リーダーシップの実践の前提である。

理念・信条・方針はトップダウンで伝え、実践においては現場の仕事が円滑に運営されるようにサーバントとして社員を支える。

一度言っただけでは伝わらない。何度も繰り返し信念を語り続けることが大切であり、メッセージを発信し続けることが、想いを人の心に届ける一番の近道である。

使命感
人間が生きていく上で必要なものの一つは使命感である。与えられた使命が自分が考えている使命と異なる場合でも、まずは与えられた使命をやり遂げることに集中する。そこに自分で使命を見出していくことが必要だ。自らの役割や使命を理解し、それを全うする過程で支える・仕えることに徹することができる人が、サーバント・リーダーだ。

ギブ&ギブ
サーバント・リーダーシップの精神は、「与ふるは受くるよりも幸ひなり」(使徒行傳20:35)に凝縮されている。

世の中がギブ&テイクではなくテイク&ギブになっている。いやそれどころかテイク&テイクになっていると日野原重明と話し、「あなたはギブ&ギブに徹しなさい」と言われた。

「各々の賜物をもって、お互いに仕え合う。」これは聖書の言葉だが、人間本来の姿であると思うし、サーバント・リーダーシップの根底にある精神でもある。(p.250「おわりに」)
(聖書箇所は記されていないが、ペトロの手紙一 4:10 「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」)


■紹介されている主な文献

・ケン・ブランチャード他(小林薫訳)、『新・リーダーシップ教本――信頼と真心のマネジメント』生産性出版、2000年、223頁。
池田守男が金井壽宏から勧められた本。牧師と教授、そして事業家の対話によって奉仕型リーダーを解説している。

・ロバート・ケリー(牧野昇訳)、『指導力革命――リーダーシップからフォロワーシップへ』、プレジデント、1993年、267頁。

・ジェームズ・ハンター(石田量訳)、『サーバント・リーダーシップ』、PHP研究所、2004年、238頁。
これ以降のジェームズ・ハンターの訳書に、(高山祥子訳)、『サーバント・リーダー――「権力」ではない。「権威」を求めよ』、海と月社、2012年、212頁がある。

・ジョセフ・ジャウォースキー(金井壽宏監修、野津智子訳)、『シンクロニシティ――未来をつくるリーダーシップ』英治出版、2007年(原著1977年)、336頁。
増補改訂版(392頁)が2013年2月に出た。

・ロバート・K・グリーンリーフ(ラリー・C・スピアーズ編、金井壽宏監修、金井真弓訳)、『サーバントリーダーシップ』、英治出版、2008年、576頁。




池田守男、サーバント・リーダーシップ入門(1) [読書メモ]

池田守男、金井壽宏、『サーバント・リーダーシップ入門』池田守男(1936.12.25-2013.5.20)

著書ですぐに検索されるのは次のもののみ。

池田守男、金井壽宏、『サーバント・リーダーシップ入門――引っ張るリーダーから支えるリーダーへ』、かんき出版、2007年、254頁、1575円。

出版当時、池田守男は資生堂相談役、金井壽宏は神戸大学大学院経営学研究科教授。


■目 次

全4章
Ⅰ サーバント・リーダーシップとは何か(金井壽宏)
Ⅱ サーバント・リーダーの経営改革(池田守男)
Ⅲ サーバント・リーダーシップと使命感(対談)
Ⅳ ミッションで支えて組織と人を動かす(金井壽宏)


■自分のためのメモ(その1)

Ⅰ サーバント・リーダーシップとは何か

リーダーシップ現象
リーダーシップは、静態的な個人特性ではなく、リーダーとフォロワーとの間のやりとりの中から自然発生的に生まれてくるダイナミックでインタラクティブなプロセスだ。フォロワーが喜んでついていくようになったとき、そこに「リーダーシップ現象」が生まれたことになる。

サーバント
サーバント・リーダーは、召使いのように相手の言うことを聞くのではなく、ミッションの名の下にフォロワーに尽くす。上に立つ人こそ、皆に尽くす人でなければならない。

ミッション
相手に奉仕すること、尽くすことを通じて、相手を導いていく。当然、導くからには自分なりの考え、哲学、想い、ミッションがいる。サーバントになるとは、召使いのように振る舞うことではなく、ミッション(使命)の名の下に奉仕者となることである。リーダーが信じているミッションに共感して、その実現のために動き出す人をリーダーが支え、奉仕する。サーバント・リーダーシップは、ミッションなしにはありえない。

ビジョン
リーダーが思い描く世界は現状からかけ離れているため、フォロワーたちにはそれが実現可能には見えない。しかし、大きな使命(ミッション)と大きな絵(ビジョン)をしっかり描いて繰り返し語れば、リーダーにしか見えなかったものがしだいにフォロワーにも見えてくる。

信頼(credibility)
信じてついていっていいと思える人に、フォロワーたちが喜んでついていっている現象がリーダーシップという現象である。だから、リーダーシップの鍵となるのは「信頼」である。

リーダーはフォロワーのために存在する
フォロワーはリーダーを信頼し、彼(彼女)が描く大きな絵(ビジョン)に共鳴してリーダーについていく。そのときフォロワーが目指すものはリーダーのそれと同じ、もしくは近いものであり、一緒になって実現するのもフォロワーだ。リーダーはあくまでもその手伝いをする。リーダーはフォロワーのために存在する。
 サーバント・リーダーは、力ずくではなく、ミッションに向かって自発的に歩み始める人を後押しする。それは使命感に基づいてなされる高貴な行動であり、組織やチームに目標を達成させる大きな力になる。

ロバート・グリーンリーフ
サーバント・リーダーシップという考え方は、元AT&Tのロバート・K.グリーンリーフが1977年に提唱した。
グリーンリーフは、ヘルマン・ヘッセ『東方巡礼』に出てくるサーバント・リーダー、レーオに啓発された。
グリーンリーフはクエーカー。

サーバントとリーダー(奉仕と指導)
サーバントとリーダーという二つの役割は融合しうる。サーバントとしてのリーダーシップは、最初は尽くしたい(奉仕したい)という自然な感情に始まる。その後に、指導したいという思いが自覚的に選択されてゆく。

パーソナル・アセッツ
リーダーシップ現象が発生するおおもとはリーダーの言動や発想であり、その言動や発想はその人の持ち味(パーソナル・アセッツ)に支えられている。パーソナル・アセッツには、リードしたいという意識的なイニシアティブ、ビジョナリーなコンセプトを描く力conceptualization、傾聴・受容・共感、一緒にいると心が落ち着くこと、個々人の成長へのコミットメントなど様々な特徴が挙げられる。

リーダーシップの基本哲学
サーバント・リーダーシップは、リーダーシップの類型の一つではなく、リーダーシップのあり方に関わる基本哲学の一つだ。


(続く)


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