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剣を取る者は、剣で滅びる。 [聖書と釈義]

 この言葉は、他の福音書にはなく、マタイによる福音書26:52のみにある。

1.旧約の言葉の実現ということが焦点

(1)マタイによる福音書は、旧約の言葉がイエス・キリストにおいて現実となったことを繰り返し記している(1:22、2:15、17、23、4:14、8:17、12:17、13:14、35、21:4)。イエス・キリストにおける旧約の預言の成就は、マタイによる福音書の全体から特徴的に語られていることのひとつである。

(2)「剣を取る者は皆、剣で滅びる」との言葉は、特にそれが強調されている段落の中にある。52節「しかしそれでは・・・聖書の言葉がどうして実現されよう」、56節「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」

(3)50節「しようとしていることをするがよい」というイエスのユダに対する言葉は、何か大きな省略があるような原文のため、解釈が困難な箇所とされている(crux interpretum. たとえば、ルツ、EKKⅠ/4、p.207)。
 「あなたはそのためにここに?」といったような疑問文に翻訳されることもあれば(口語訳はこちら)、「あなたがここに来た目的のことを〔せよ〕」と命令文のように訳されることもある(新共同訳はこちら)。
 今ちょうど手元にあるRSVは、本文は"why are you here?"としつつ、脚注に"do that for which you have come."と記している。(こういう箇所には、こういう注は必要だろう。ちなみに私が持っているNRSVは、本文を"do what you are here to do.と、RSVの脚注と入れ替えるものの、脚注はなくなっている。)

 いずれにしても、イエスは、ユダが何のためにやってきたか知っており、その上に、ユダがしようとしていることは聖書の言葉の実現につながることを知っている。それゆえ、イエスのユダに対するこの言葉も、イエス自身の歩みによって聖書の預言が成就するための言葉である。

2.「剣を取る者は皆、剣で滅びる」の意味
 それゆえ、イエスと一緒にいた者の一人がイエスを捕らえに来た者たちに対して剣を抜いて打ちかかったこと(51節)は、聖書の言葉の実現を妨げる行動であった。

 つまり、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」というイエスの言葉の中の「剣」とは、聖書の言葉の実現に逆らってしまう人間の思いを象徴している。
 「剣」とは、神の計画に反して自分が良かれと思うことをしてしまう人間の愚かさであり、これが正しいと思い込んで、正義感や義侠心を貫こうとする態度のことである。
 自分の思いを貫くことに固執する者は、それが神の計画に反するゆえに滅びに至る。これが、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」の意味である。

3.結 論
 というわけで、聖書の言葉は、特定の部分だけ抜き出して都合良く用いるのではなく、文脈をよく見てその意味を考えましょう。

新教セミナーブックのボンヘッファー [書籍紹介・リスト]

 現在「新教セミナーブック」のシリーズに入っているボンヘッファーの著作は次の5冊。

新教セミナーブック31
『キリストに従う』(森平太訳): 『ボンヘッファー選集 第3巻 キリストに従う』(1966年第1版、1972年第2版)が2003年に新教セミナーブックになった。

新教セミナーブック32
『現代キリスト教倫理 増補改訂版』(森野善右衛門訳)2003年。: 『ボンヘッファー選集 第4巻 現代キリスト教倫理』(1962年)が、1978年に原著の付録の部分も収録して増補改訂版となり、2003年に新教セミナーブック32として新装版。訳者によると、1992年の原著新版に沿った新訳の準備を進めているとのこと。

新教セミナーブック33
『説教と牧会』(森野善右衛門訳)。最初は1975年に「教会と宣教双書1」。2004年に新教セミナーブック。

新教セミナーブック34
『教会の本質』(森野善右衛門訳)。最初は1976年に「教会と宣教双書6」。2004年に新教セミナーブック。

新教セミナーブック38
『告白教会と世界教会』(森野善右衛門訳)2011年。『ボンヘッファー選集 第6巻 告白教会と世界教会』(1968年)から、単行本となった『共に生きる生活』を除き、新たに「アメリカ日記」を追加。その他、訳文を見直し、訳者による付論を追加。

ボンヘッファー『共に生きる生活』 [書籍紹介・リスト]

ドイツ語原著

(1) 最初は、Theologische Existenz Heuteという双書のHeft 61として1939年に出版された。
(2) 次に、単行本で、Dietrich Bonhoeffer, "Gemeinsames Leben, Chr. Kaiser Verlag: München, 1939.
(3) 後に、『ボンヘッファー全集』(Diertich Bonhoeffer Werke)(DBWと略される)に収められた。Herausgegeben von Gerhard Ludwig Müller und Albrecht Schönherr, "Dietrich Bonhoeffer Werke, Fünfter Band," Chr. Kaiser-Verlag: München, 1987.

英訳のタイトルは"Life Together"。

邦 訳

岸千年訳『交わりの生活』(ほぼ新書サイズ170mm×110mm)1.岸千年訳『交わりの生活』(聖文舎、1960年)の聖文舎編集部による「まえがき」によれば、同志社大学神学部の学生の朝比奈敏子が1954年、闘病中に英訳からの重訳で翻訳を完了したものがあるとのこと。

2.しかし、英訳にはかなり省略されている箇所があったので、聖文舎が岸千年にドイツ語原書からの翻訳を依頼して出版されたのが、岸千年訳『交わりの生活』、聖文舎、1960年、新書サイズ、145頁。


森野善右衛門訳『告白教会と世界教会』(四六判)3.森野善右衛門訳、『ボンヘッファー選集Ⅵ 告白教会と世界教会』、新教出版社、1968年。この中のpp.263~383が「共に生きる生活」。上のドイツ語原著(2)の1955年第8版を翻訳の底本とし、英訳を参考にして、原著にはない小見出しが付けられた。


森野善右衛門訳『共に生きる生活』(教会と宣教双書2)(四六判)4.森野善右衛門訳、『共に生きる生活』(教会と宣教双書2)、新教出版社、1975年。奥付には改訂新版と記されている。『告白教会と世界教会』に収められたものに必要最小限の訳文の訂正を加えて単行本化。「解説――あとがきに代えて」は新たに執筆された。聖句索引あり。138+索引2頁。


森野善右衛門訳『共に生きる生活』改訳新版(四六判)5.森野善右衛門訳、『共に生きる生活』(改訳新版)、新教出版社、2004年。『ボンヘッファー全集』(DBW)の第5巻に収められたものを底本として全面的に新しく訳出された。182頁+人名索引1頁+聖句索引3頁。

森野善右衛門訳『共に生きる生活』改訳新版2011年第6刷2005年の第二刷で、若干の訳文の訂正がなされた旨を記した「第二刷のためのことば」が最後につけ加えられている。
(いつのまにか、ジャケットもつるっとした紙に替わっている。)



銀貨30枚の価値 [聖書と釈義]

 ユダがイエスを祭司長たちと長老たちに売り渡した「銀貨30枚」はどのくらいの価値であったのか。
Judas Returning the Thirty Silver Pieces by Rembrandt
1.聖書箇所
 ユダが銀貨30枚でイエスを売り渡したことは、マタイにのみ出てくる。マタイ26:15、27:3、9

2.諸説
 銀貨30枚がどのくらいの価値であったかについて、諸説ある。
(1)出エジプト記21:32から、奴隷一人分の値段。
(2)デナリオン銀貨一枚が一日分の賃金に相当する(マタイ20:2)ので、銀貨30枚はおよそ一月分の賃金。
(3)ある女性がイエスの頭に注いだ非常に高価な香油が300デナリオン以上であった(マルコ14:5、ヨハネ12:5)ことから、イエス自身はその10分の一で売られた。

3.諸説の評価
 しかし、(1)については、イエスの時代にはこの金額はそのおよそ十分の一の価値しかなかった(E.シュヴァイツァー、NTD)との説もある。(2)ではデナリオン銀貨と明確に語られているが、ユダが売り渡した金額は何の銀貨か記されていない。マタイは、必要なときには明確に価値を記している(10:29、22:19)。(3)については、マタイではきわめて高価な香油の具体的な金額は出てこない(マタイ26:9)ので、それとの対比は意図されていない。

4.銀貨30枚の価値は関心外
 結局、マタイによる福音書は、銀貨30枚がどのくらいの価値であったか、すなわち、ユダはイエスを高額で売り渡したのか、それともごくわずかな金で引き渡したのかについては関心を持っていない。しいて言えば、ある程度まとまった土地を購入できるほどの価値ということになろう(マタイ27:7)。

5.旧約の預言の成就
 銀貨30枚への言及は、ユダの裏切りの企ての記事にあり(26:14~16)、ユダがそれを返そうとした記事にあり(27:3)、そして、これらのことが預言者エレミヤの言葉の実現だとする記述に至る。27:9~10の言葉は直接エレミヤ書に現れる言葉ではなく、ゼカリヤ11:13やエレミヤ18:2~3、19:1、32:7~9など陶器師や畑を買うなどの連想でつなぎ合わせてエレミヤの言葉としたものであり、しかしそのようにされたことを通して、これらのことが旧約の預言の成就であると主張されている。

6.仕掛けられた小道具
 そうすると、銀貨30枚というのは、マタイ26:15の最初から、これらのことが旧約の預言の成就であることを示すために仕掛けられた重要な小道具であったのだ。

 というわけで、注解書の諸説に惑わされず、聖書そのものをよく読みましょう。

『ミニストリー』の八木谷(8) [伝道]

 キリスト新聞社の季刊誌『ミニストリー』に連載されていた、八木谷涼子の「新来者が行く ノンクリスチャン・八木谷涼子の教会ウォッチ」の、わたしの関心からの総まとめ、その8。

 八木谷涼子のサイト「くりホン キリスト教教派の森」の中の「「万年教会新来者」の声」のページも参照。雑誌の記事以上のことが書かれている。

 記事の引用や指摘されている点をわたしなりに言い換えた紹介は「八」、わたしのコメント、補足、お詫びは「私」と記す。

ミニストリーvol.8(2011冬)

「新来者とお葬式」

八: 葬儀には新来者が多く出席する。葬儀における新来者への対応を平時に考えておく。

八: 唱えたり歌ったりする言葉は、すべて式次第にプリントを。ふりがな付きで。

八: 待ち時間に読めるような、簡単なキリスト教案内を式次第に組み込んでおくのもよい。

私: 教会案内や「キリスト教葬儀リーフレット」を式次第と一緒にお渡しする方法がありますね。


 もっと聞きたい、こんなこと

八: キリスト教では死んだらどこへ行くのか。

私: 私は「神の御許(みもと)に行く。」と言うことにしています。「天国」というと、日本人が何となくイメージするのは極楽浄土と変わりなかったりするので。聖書の表現に即した信仰理解としては、「眠りに就いた」ということです。

 眠りに就いているのであれば、やがて目覚める時が来ます。重要なことは、やがて、神さまの御計画によって救いが完成される時が来たら、新しい体と命が与えられて、もはや死も悪も罪もない世界に生きるようにされるということを語ることです。

 いきなり「わたしたちも復活します」とか「わたしたちもよみがえらせていただけるのです」と言うと普段そういう話を聞き慣れていない方は引いてしまうので、丁寧に語ろうと心がけています。


八: 死期の迫った人を教会はどう支えているのか。

私: この点をもっと語ってよいとは刮目でした。ただ、最期の時が来る経過は一人ひとり全く異なります。時間的問題で、病状で、ご家族の状況で、牧師の都合、教会の都合で、訪問できた場合、できなかった場合などいろいろあって、他の人よりも頻繁にケアできる場合とできない場合があって、あまり語れないこともあります。

私: 本人よりも家族の支えが重要な場合もありますね。

私: それから、「教会が支える」という観点は大切ですね。牧師一人で抱えることになってしまいがちです。教会員が代わる代わる訪問して手厚く配慮していても、牧師に来てくれないとダメみたいな。


八: 天寿を全うしたとは言えないようなケースは、どう理解するのか。

私: 夭折や早世したことに、あるいは事故などで急死したことに、神の御計画だとか、人間には分からない何か深い意味があるなどと、無理に意味を見出すことはできないでしょう。しかし、不慮の出来事で命を落としても、神はその命を、決して滅びるに任せはなさらず、御許に救い上げてくださるお方です。残された者たちがそのような神の恵みを信じ、神に感謝します。まさに葬儀は、そのために神を礼拝する時です。


『ミニストリー』の八木谷(7) [伝道]

 キリスト新聞社の季刊誌『ミニストリー』に連載されていた、八木谷涼子の「新来者が行く ノンクリスチャン・八木谷涼子の教会ウォッチ」の、わたしの関心からの総まとめ、その7。

 八木谷涼子のサイト「くりホン キリスト教教派の森」の中の「「万年教会新来者」の声」のページも参照。雑誌の記事以上のことが書かれている。

ミニストリーvol.7(2010秋)

 今回は、指摘されているポイントのみ。

「ここが困ったウェブサイト part2」

・ホームページとブログを効果的に使い分ける方法もある。

・文字のサイズを固定しない。

・ブログは「概要表示+続きを読む」方式にしない。

・1ページ分の容量を少なくする。特に画像のサイズに注意する。

・点滅、GIFアニメ、マーキー(左右などに流れる文字列)、刻々と更新されるツイッター情報など、何かが動いている効果もじゃま。

・「いきなり讃美歌」(ページを開いたとたんに讃美歌が流れる)は大迷惑。

・広告が出る無料ブログは避ける。

・コメント欄は放置しない。特にスパム広告の書き込み。


カトリック貝塚教会での「事件」 [教会と社会]

 2012年5月27日12時30分頃、川崎臨港警察の捜査員が捜査令状も逮捕状もなしにカトリック貝塚教会の敷地内に入り、非正規滞在の容疑がある者を逮捕した。

イエズス会の社会司牧センター内の「移民デスク」のページにあるカトリック貝塚教会の主任司祭の報告

日刊ベリタに掲載された6月8日の記事中、6月5日付の神奈川県川崎臨港警察署署長宛の「申し入れ書」

(この申し入れに対して、6月12日付で、不適切を認めお詫びする書面が届いたとのこと。)

日本カトリック中央協議会のサイトにある、日本カトリック司教協議会の2012年6月21日付の国家公安委員長および警察庁長官への「要請書」

日本キリスト教協議会(NCC)7月3日付で声明を発表(7月13日にNCCのサイトに掲示された)


法律は専門外だが、問題点は次のような点か。
1.憲法35条「住居の不可侵」に反している。いかなる私有地でも逮捕状なしでは侵入してはいけない。ということでしょう。

2.憲法20条「信教の自由」を侵している。ミサの最中ではなかったようだが、その前後の時間も準備など宗教的目的でその場にいるのであるから、これは宗教活動の妨害である。
 また、そのとき管理者の制止を押し切って境内地に立ち入って職務質問をしたようだが、宗教法人法84条「国及び公共団体の機関は、・・・宗教法人に関して法令の規定による正当の権限に基く調査、検査その他の行為をする場合においては、宗教法人の宗教上の特性及び慣習を尊重し、信教の自由を妨げることがないように特に留意しなければならない。」とある規定にも反している。

3.そして、次のことが重要。教会の司祭や牧師は信徒の信仰指導を行う。それには、知り得た秘密を漏らさないという守秘義務がある。そしてこれもまた宗教活動の重要な一部であり、警察官が「犯人をかばうのか」などという言葉を発するのは、この点でも信教の自由を侵している。

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