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イーライ・パリサー『フィルターバブル』まとめ [ソーシャルメディア論]


イーライ・パリサー『閉じこもるインターネット』.jpg

イーライ・パリサー(井口耕二訳)、『閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義』、早川書房、2012年2月。

原著はEli Pariser, "The Filter Bubble: What the Internet Is Hiding from You," 2011。

イーライ・パリサー『フィルターバブル』9784150504595.jpg

邦訳は後に改題して文庫化。『フィルターバブル――インターネットが隠していること』(ハヤカワ文庫NF459)、2016年3月。

自分のためのまとめ。内容的に重複もあるが、各章ごとに何が語られているか分かるように記した。

(ページは2012年発行の単行本のページ。「文庫解説」とある部分は、文庫版の佐々木俊尚による解説のページ。)

1.フィルターバブルの基本事項

(主に、「はじめに」と第1章)

  • 我々は圧倒的な量の情報の奔流に直面している。流れてくる情報のすべてにきちんと注意を払うことが難しい「注意力の崩壊」という事態が発生している(「はじめに」p.21)。そこで、一人ひとりの興味や希望、必要性に沿ったコンテンツの提供が求められ、パーソナライゼーションに強い魅力が持たれている。(p.37)
  • ここでのパーソナライゼーションとは、検索履歴、クリック履歴、購入履歴、移動履歴などによって、検索結果や公告、ニュースフィード、お勧めする情報などをアルゴリズムが自動的に一人ひとりに合わせて提示してくれること。
  • パーソナライゼーションの時代は、グーグルがユーザーごとに検索結果のカスタマイズを開始した2009年12月4日に幕を開けた。(p.10-12)
  • 我々に届く情報は一人ひとりに合わせてパーソナライズされている。それぞれの嗜好や興味関心との関連性の強さによって情報をふるい分けるフィルターを通過できた情報だけが我々に届く。このことを、一人ひとりがフィルターに包まれて泡のように浮かんでいるイメージから「フィルターバブル」と呼ぶ。(「訳者あとがき」p.298参照)
  • ユーザーの興味関心を正確に把握できれば、それに合わせた広告が提示できる。ユーザーのためにパーソナライズしているのではなく、広告の効率向上のために個人の様々な履歴を集め、フィルターを改良し続けている(「訳者あとがき」p.299参照)。グーグルもフェイスブックも無償で使えるが、その裏で、個人情報という対価を払っている。我々は、パーソナライゼーションのサービスを受けるかわりに、自分自身に関する膨大なデータを大企業に渡している。(p.27)グーグルもフェイスブックもターゲティング広告を収益源とし(p.55)、他にも、表に出ない個人情報収集会社がさまざまな個人情報を集めて企業に売っている。一人ひとりの行動が商品になっているのである。(p.58-62)
  • どのようにフィルタリングされているのかがユーザーから見えず、自分に届く情報がどれほど偏向しているのか分からないことは大きな問題である。(「訳者あとがき」)

2.フィルターバブルの問題

  • ①どのようにパーソナライズされているのかが見えず、自分の言動に沿った情報ばかりに包まれて、気づかぬうちにフィルターバブルが強化され、物事の認知が歪められる。(p.19-20)
  • ②世界や社会の認識が偏り、自分の位置も見失う。(2章、3章)
  • 未知のものとの出会いがなくなり、学ぶ意欲や好奇心が刺激されず、創造性が損なわれ、成長や革新のチャンスが失われる。(第3章、「訳者あとがき」p.299)
  • ④職業や生き方の情報が限られた選択肢からしか選べなくなり、我々のアイデンティティが左右される。(第4章)
  • ⑤フィルタリングを操作することでユーザーの購買行動を変えることができると、利益のためにそれが悪用されうる。さらに、それは世論操作にまで及ぶ恐れがある。(「訳者あとがき」p.299-300)
  • ⑥社会的に重要な問題が視野に入らず(p.29)、自分と異なる考え方に触れる機会が減り、情報の共有や熟議がなされず、民主主義が機能しなくなる。(第5章)

本書の目的:フィルターバブルによって、何が重要なのか、何が真実なのか、何が現実なのかという認知がゆがめられてしまう。それゆえ、「何としてもフィルターバブルの姿を白日の下にさらす必要がある。これが本書の目的である。」(p.32)

3.パーソナライズされたニュースの問題

(第2章)

  • ニュースは、何が重要なのか、直面する問題の大きさや特徴など、我々の世界に対する認識を形づくる。しかし、フィルターバブルが我々の世界認識をゆがめている。(p.67)(この問題は第5章へ)
  • ジャーナリズムには倫理と公的責任が伴う(リップマン)。ジャーナリストはゲートキーパーの役割を果たすが、ジャーナリストに仲介されていないインターネットのニュースには、倫理や公的責任が伴っていない。(p.76)(この問題は第6章へ)
  • ネットニュースでは人気のあるニュースのみが注目され、クリックされないニュースはたとえ重要であってもふるい落とされる。しかし、「皆の生活に間接的な影響を与える重要事項だが、自己の利益という身近な領域の外に存在するものこそが民主主義の基盤」(p.95)である。フィルターバブルによって民主主義の基盤が成り立たなくなっている。(この問題は第5章へ)

4.確証バイアスの増強と創造性の阻害

(第3章)

(1)確証バイアスの増強

  • フィルターバブルは、我々の世界に対する認識をゆがめてしまう。拡大鏡のように狭い領域の知識を拡大してくれる側面もあるが、我々が接する範囲を制限し、我々の考え方や学び方に影響を与える面もある(p.103)。
  • 「フィルターバブルに包まれると、既に知っていることを正しいとするコンテンツの割合が大幅に高くなる」(p.110)。「フィルターバブルは確証バイアス(見たいと思うことを見るようになること。p.107)を劇的に強めてしまう。」(p.109)ので、既に持っている枠組みへの自信が過剰になる(p.105)。
  • フィルターバブルの中では、自分の位置を見失い、変化に富む世界を矮小化してみてしまう。(p.131)
  • パーソナライゼーションが突き詰められると、自分が好む人、物、アイデアだけに囲まれた世界が生まれる(p.22-23)。居心地はいいだろうが、我々は自らの考えで自分を洗脳し、なじみのあるものばかりを欲しがるようになり、未知の領域があることを忘れてしまう(「はじめに」p.26)。

(2)学ぶ意欲や好奇心への弊害

  • フィルターバブル内では、新たな洞察や学びに遭遇するチャンスが少ない。異なる分野や文化の発想がぶつかることから新しいものが生まれるというのに。」(「はじめに」p.26)
  • フィルターバブルによって既知のアイデアに囲まれると、学びたいと思うきっかけになる情報が環境から取り除かれてしまう(p.105)。すると、好奇心が刺激されず、知らないことを知りたいという強い気持ちが生まれない。(p.112)
  • 「パーソナライゼーションとは、既存の知識に近い未知だけで環境を構築すること」であって、予想外の出来事やつながりという驚きがなく、学びが触発されにくくなる。(p.112-113)

(3)創造性の妨げ

  • パーソナライゼーションは創造性やイノベーションを妨げる(p.115-116)。
    • ①我々が解法を探す範囲がフィルターバブルによって人工的に狭められる。
    • ②フィルターバブル内は創造性を刺激しない環境になっている。
    • ③情報収集が受動的になるため、発見に至るような探索につながらない。
  • 創造性には、無作為で多様性のある情報環境や、偶然に発見するセレンディピティが必要である(p.118)。また、柔軟な考え方のためには、自分と異なる人やアイデアに触れるのが一番である(p.123)。しかし、フィルターバブルは、これらに適したつくりになっていない(p.124)。
  • 最大の問題は、そもそも発見モードで過ごす時間が減ってしまうこと。(p.124)

5.自分ループとアイデンティティの問題

(第4章)

  • パーソナライズドフィルターは、人のアイデンティティを把握し、その人に合わせたコンテンツやサービスを提供する。つまり、自分のアイデンティティが自分を取り巻くメディアを形成するが、それと同時に、自分の興味のある情報にばかり接するようになり(「自分ループ」(p.153))、自分を取り巻くメディアが自分のアイデンティティを形づくるようになる。(p.137-138)パーソナライゼーションにより、過去のクリックが今後目にするものを決める決定論のような状況に陥る(「はじめに」p.27-28)。
  • フィルターバブルによって、閲覧履歴や公開情報をもとにアイデンティティが一つにまとめられてしまうが、週末は仕事から解放されたいなど我々の社会的なアイデンティティは一つではない。(p.139-146)
  • フィルターバブルは、自分のアイデンティティの反映であるばかりか、職業や生き方も一部しか見せず、残りはブロックして、限られた選択肢の中からしか選べられなくし、我々のアイデンティティを左右する(p.137-138)。

6.民主主義が機能しなくなる

(第5章)

  • インターネットは、地域や国境を越えて対話できると期待されたが、パーソナライゼーションによって人々は個々に狭いフィルターバブルの中に置かれ、ネットは対話よりも敵対する場となってしまった。(p.199-200)
  • ターゲティング広告の手法が選挙に応用されると、個人をターゲットとしたメッセージが増え、公開の論争が減り、事実関係のチェックが困難になる。(p.185-190)
  • 民主主義が機能するためには異なる意見との対話が可能なことが必要だが、フィルターバブルの中では自分とは異なる暮らし、ニーズ、希望などに触れる機会がなくなり、他者の視点から物事を見ることができず、民主主義が機能しなくなる。(p.198-199)
  • また、事実が共有されなければ民主主義は成立しないのに、一人ひとりがフィルターバブルに包まれて、社会的に重要な問題が視界に入ってこなくなる。(p.182、p.14)
  • SNSで同じような志向の人たちばかりと繋がると、異論を目にする機会が少なくなり、世論の形成が難しくなる。(文庫解説p.336-338)

7.エンジニアや起業家の資質や倫理について

(第6章)

  • サイバースペースの設計に携わっているプログラマーやエンジニアは、人が十分な情報をもって活動できるように、また、インターネットの市民空間がよりよくなるように倫理的でなければならない。
  • 「果敢な積極性や若干の尊大さ、帝国建設に対する興味」などは「一流のスタートアップに必要な資質」だが、その資質は「世界を統治するようになると問題となる場合がある。」「世界的なスターダムへ一気に駆け上がったポップスターが、必ずしもそれに伴う大きな責任を負う準備ができているとも限らないし、その意志があるともかぎらないように。」(p.222)

8.環境のパーソナライゼーション

(第7章)

  • 拡張現実(AR)の技術によれば、好みの商品の広告が近くのビルの壁に投影されるなど、現実世界における空間がパーソナライズされる。(p.235-237,254-258)
  • 人のすべての行動を監視可能な顔認証の技術(p.240-242)だけでなく、物も追跡しやすくなる(p.242)。(自動車部品の一つ一つにチップを取り付ければ、該当モデルの全車をリコールする必要はなくなる。P.243-244)
  • パーソナライゼーションは、「利便性と引き換えにプライバシーと自律性の一部をマシンに渡すことになる」取引である。個人のデータ収集は、我々のためが第一なのではなく、大企業がより効率的に利益を上げるためである。(p.262-264)

9.我々ができる対策、企業・政府がなすべき対策

(第8章)

パーソナライゼーションは、基本的にユーザーから見えないところで行われており、どのようにパーソナライズされているのか分からず、我々がコントロールできないことが大きな問題である。(p.267)それに対して、

(1)まず我々が行動を変える。

  • ①「いつもと違う道を通ると新しい発見があるように、オンラインでも歩く道を変えてみると新しいアイデアや人と出会うチャンスが大きくなる。」(p.273)
  • 新しい方面に興味関心を示せば、パーソナライズの範囲も広がる。(p.274)
  • クッキーを定期的に削除する(p.274)。
  • ツイッターとフェイスブックとでは、ユーザーからのコントロールが分かりやすいツイッターを使う。(p.275-278)

(2)企業が社会的責任を認識して、

  • ①フィルタリングの仕組みを透明にする。
  • ②興味関心があまり持たれないが重要なニュースが届くように、編集者がリードする旧来の方式とパーソナライゼーションとを組み合わせる。(p.286)
  • ③パーソナライゼーションに不規則性を組み込む。(p.287)

(3)政府

政府は、利潤追求を目的とする企業にすべてを任せず、我々が確実に自分の個人情報をコントロールできるように対応する(p.289)。


「SNSと伝道」参考文献に挙げなかった文献 [書籍紹介・リスト]


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日本基督教団宣教研究所委員会編『宣教の未来 五つの視点から』(日本キリスト教団出版局、2021年12月)に収録されている「SNSと伝道――教会もSNSをすべき理由」で、

参考文献に挙げなかった、挙げられなかった文献

を紹介します。読書・研究の参考にどうぞ。

(コメントは個人の感想です。)

教団出版局目 次参考文献リンク集索 引

あ行

  • 東浩紀、『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』(東浩紀アーカイブス2)(河出文庫)、河出書房新社、2011年。サイバースペースという呼び方に含まれている空間の隠喩について、マクルーハン、ウィリアム・ギブスンとフィリップ・K・ディック、フロイト、ジジェクとタークル、ラカンとソブチャック、デリダ、ボードリヤール、ベンヤミンなど、ポストモダンの現代思想を縦横に参照しながら検討する論考で難解。
  • 池田純一、『ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力』(講談社現代新書2093)、講談社、2011年。Apple、Google、Facebookなどの創業者のビジョンやエンタープライズの背後にある理念を比較し、様々な哲学者や思想を引き合いにしながらアメリカの精神史の中に位置づける。そして、ウェブ企業論を語りつつ、Whole Earth(全球)という視点に次の時代の新たなビジョンの可能性を見出す。ウェブ企業論や次代のビジョンについては、より新しい『〈未来〉のつくり方――シリコンバレーの航海する精神』(講談社現代新書2315、2015年5月)がある。
  • 池田純一、『ウェブ文明論』(新潮選書)、新潮社、2013年。インターネットによる社会の変化を論じるいわゆるウェブ社会論やウェブ文化論的な内容ではなく、現代アメリカの社会・経済・産業(特にIT業界)・政治(特に大統領選)などの動向を、インターネットの影響に関心を寄せながら記した紀行文的エッセイ集。内容が時事的だし、アメリカを素描することが中心なので、ソーシャルメディア論やネット社会のコミュニケーション論といった観点からは読む必要は全くない。
  • 石井研士、『テレビと宗教――オウム以後を問い直す』(中公新書ラクレ293)、中央公論新社、2008年。出版年的にSNSに関連する記述はないが、「終章 情報化社会と宗教のゆくえ」で、日本における1980年代後半からの宗教団体のコンピュータネットワークや、90年代半ばからのホームページの開設状況が紹介されている。
  • 石田英敬、『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書1167)、筑摩書房、2016年。情報記号論からメディアというものを論じるので、今回の関心には合わなかった。
  • 糸井重里、『インターネット的』(PHP文庫)、2014年。2001年のPHP新書に増補、文庫化したもの。本條晴一郎、遊橋裕泰、『災害に強い情報社会――東日本大震災とモバイル・コミュニケーション』(NTT出版、2013年)の中で、通信インフラが損壊した災害時において、人から人への「インターネット的」なコミュニケーションが重要であることが論じられていた。
  • 伊藤昌亮、『デモのメディア論――社会運動社会のゆくえ』(筑摩選書0057)、筑摩書房、2012年。脱稿してから読んだ。3.11後の反原発デモにおけるSNSの役割や意義について詳しく論じている、言及すべきだった文献。Amazonにカスタマーレビューを書いた。
  • 印刷博物館編、『日本印刷文化史』、講談社、2020年。「キリシタン版」の話は囲み記事のコラム4頁のみであり、内容的にもたいしたことなかった。
  • 梅田望夫、『ウェブ進化論――本当の大変化はこれから始まる』(ちくま新書582)、筑摩書房、2006年。一時期注目されたが、今やもういいかな。「書けばきっと誰かに届くはず」という意識(第4章)は重要。有名になった羽生善治の高速道路の話は第6章の冒頭。
  • 遠藤薫編著、『大震災後の社会学』(講談社現代新書2136)、講談社、2011年。東日本大震災で露わになったメディアの問題を整理し、第7章「震災とメディア」で災害時におけるソーシャルメディアの可能性を検討している。拙稿の「大規模災害時の情報発信」のところで参照すべきだった文献。その他、災害ボランティアの専門化の出現と迷惑論との関係なども考察、安全か危険かを強調するだけではない災害時のジャーナリズムが果たすべき役割についても議論している。
  • 遠藤薫、『メディアは大震災・原発事故をどう語ったか――報道・ネット・ドキュメンタリーを検証する』東京電機大学出版局、2012年。新聞・テレビの報道やデータを、後の研究のために詳細な時系列にまとめ、あるいは具体的な内容を記録し、様相を整理して提示したもの。深い考察までは記されていない。ネットメディアとマスメディアとの連携が随所で意識されており、著者はこれを「間メディア性」と言って、他の著書でもその重要性を指摘している。特に第2章で、ソーシャルメディアとマスメディアが連携した実例として、NHKテレビの災害報道がUstreamに転載されたことをNHK広報部のツイッター担当者が独断でリツイートした経緯や、GoogleのPerson Finder、各種動画サイトにおける省庁の記者会見の生放送の記録などを記している。今回の拙論には特に有用な記述はなかった。
  • 大黒岳彦、『情報社会の<哲学>――グーグル・ビッグデータ・人工知能』、勁草書房、2016年。言葉遣いが極めて衒学的なのでこの人の著作は読まない。
  • 小川克彦、『つながり進化論――ネット世代はなぜリア充を求めるのか』(中公新書2100)、中央公論新社、2011年。いかにも新書的なサブタイトルが付けられているが、人とのつながりを求めつつも相手に反応を強要しないように気に掛けるという、ネット世代の心情を明らかにしている。当時の大学生の様子やmixiの例など古さを感じるが、SNSコミュニケーションでのつながりに関する意識を考える上では、現在でも有用かも(特に4~6章)。
  • 小此木啓吾、『「ケータイ・ネット人間」の精神分析――少年も大人も引きこもりの時代』、飛鳥新社、2000年12月。後に朝日文庫(2005年)。ネットの影響だけでなく現代の人々の傾向を「引きこもり」として様々な精神医学的事例や事件を元に精神科医が語る。

か行

  • 木下晃伸、『デジタルネイティブの時代』、東洋経済新報社、2009年。近隣の図書館になかったし、ビジネス寄りの話題を取り上げている感じに思えて読んでいない。
  • 木村忠正、『ハイブリッド・エスノグラフィー――NC(ネットワークコミュニケーション)研究の質的方法と実践』、新曜社、2018年。同じ著者の『デジタルネイティブの時代――なぜメールせずに「つぶやく」のか』(平凡社新書、2012年)が、いかにも新書っぽいサブタイトルとは裏腹に、学問的な手続きにかなりのページを割いている研究書で、得るところが多かったので、こちらも読んでみた。『デジタルネイティブの時代』で紹介した方法論を詳述し、そこでの議論を日米比較などを通してさらに深化させた学術書。
  • 草野真一、『SNSって面白いの?――何が便利で、何が怖いのか』(ブルーバックスB-1926)、講談社、2015年。当時の中高生向けで、文献表に挙げるほどではなかった。
  • 小泉宣夫、圓岡偉男、『情報メディア論――テクノロジー・サービス・社会』、講談社サイエンティフィク、2016年。タイトルに「情報メディア論」とあるが、大学1~2年次の一般教養の教科書。

さ行

  • セブ山、『インターネット文化人類学』、太田出版、2017年。学問的な文化人類学ではなく、サブカルチャー的なネタのインタビューや実験・検証記事をまとめたもの。匿名アカウントの内容から個人を特定できてしまった話は衝撃的。
  • 清水幾太郎、『流言蜚語』(ちくま学芸文庫シ26-1)、筑摩書房、2011年。流言飛語の具体例を挙げて分析するのではなく、流言蜚語という社会的現象を人々に影響を与える報道の一種(もちろんアブノーマルな報道だが)と捉えて考察する。戦前の1937年初版なのでネット時代の流言飛語には当てはまらない面もあるが、報道や輿論の機能や性質について深く考察している。流言蜚語は、報道の空白や通信の杜絶、過度な検閲などによって生じる情報に対する「飢え」を地盤として、その空隙を埋めようとして発生する(「情報」という言葉は使われていないが)。流言蜚語は「無根拠なうわさ」と言われるが、全く無根拠ではなく、不十分な事実があってこそ成立する。人々が報道と流言蜚語とを区別するのはそれぞれの内容によってではなく、署名があるか、文字として客観化されているかなどの形式によってである。つまり、報道と流言蜚語とを区別するのは知識ではなく、こういった形式への信頼であり、こういった形式が信頼に足るとするのは一種の「信仰」であるとする。

た行

  • 高野明彦、吉見俊哉、三浦伸也、『311情報学――メディアは何をどう伝えたか』(叢書 社会と震災)、岩波書店、2012年。デジタルアーカイブの話。特に重要な点はなし。
  • 立入勝義、『ソーシャルメディア革命――「ソーシャル」の波が「マス」を呑み込む日』(ディスカヴァー携書)、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2011年。2010年当時の北米でのソーシャルメディアの最新事情、特にソーシャルメディアを用いたマーケティングの状況や、日本での可能性、ソーシャルメディアの未来図など。今となっては読まなくてよい。
  • 立入勝義、『検証 東日本大震災――そのときソーシャルメディアは何を伝えたか?』(ディスカヴァー携書)、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2011年。大震災後かなり早い時期に出版されたが、そのせいか内容的には他書を読めば十分。
  • 田中幹人、標葉隆馬、丸山紀一朗、『災害弱者と情報弱者――3・11後、何が見過ごされたのか』(筑摩選書47)、 筑摩書房、2012年。脱稿後に読んだ。東日本大震災の被害データの分析から災害弱者は情報弱者であることを論証し、それのみならず、ソーシャルメディアやウェブメディアでの情報の偏りの問題を指摘して、社会に対する視点の多様性を確保するために、情報を編集して提示するジャーナリズム的な営為が我々すべてに求められることを論じている。書名からはそこまで見えないのが残念である。
  • タプスコット,ドン(栗原潔訳)、『デジタルネイティブが世界を変える』、翔泳社、2009年。近隣の図書館になかったので読んでません。海外と日本とで世代の特徴は異なると思われるので、関心は後回しのまま。
  • 津田大介、『ゴミ情報の海から宝石を見つけ出す――これからのソーシャルメディア航海術』(PHPビジネス新書308)、PHP研究所、2014年。著者の『情報の呼吸法』(朝日出版社、2012年)と合わせてツイッター術の教科書になるが、全6章のうち、情報の受け方と発し方を示す第2章と第3章だけ読めばよい。
  • 徳田雄洋、『デジタル社会はなぜ生きにくいか』(岩波新書 新赤1185)岩波書店、2009年。同じ著者の『震災と情報――あのとき何が伝わったか』(岩波新書 新赤1343、2011年)を読んだので、こちらも読んでみたが、面白くなかった。
  • 土橋臣吾、南田勝也、辻泉 編著、『デジタルメディアの社会学――問題を発見し、可能性を探る』改訂版、北樹出版、2013年。初版は2011年で、第3版が2017年に出ているが、目次は全然変わっていない。デジタルメディアを当然の環境のように受け入れているデジタルネイティブ世代向けに、デジタルメディアの問題を発見し可能性を探るための教科書(大学初年度向け)。内容的にもう古い。

な行

  • 中橋雄、『メディア・リテラシー論――ソーシャルメディア時代のメディア教育』、北樹出版、2014。2021年に改訂版が出ている。メディアに関する研究を専攻する大学生やメディア教育に携わる教師を主な読者層として想定して書かれた教科書。読者がメディアリテラシーを身に付けるための本ではなく、メディアリテラシー教育を行う側にとっての入門書。小学校などでのメディアリテラシー教育の実例を随所で挙げる。一般の人がメディアリテラシーについて知るには改訂版(2021年)の1~5章までを読めばいい。
  • 西垣通、『続 基礎情報学――「生命的組織」のために』、NTT出版、2008年。難しいので今はやめておく。同じ著者の『ネットとリアルのあいだ――生きるための情報学』(ちくまプリマー新書、筑摩書房、2009年)が読みやすく、著者の「基礎情報学」の平易な紹介になっていると思う。

は行

  • 橋元良明+電通総研 奥律哉、長尾嘉英、庄野徹、『ネオ・デジタルネイティブの誕生――日本独自の進化を遂げるネット世代』、ダイヤモンド社、2010年。メディア環境の変化と行動様式などの定量調査・定性調査から、76(ナナロク)世代と86(ハチロク)世代で行動と意識が大きく異なることを示すとともに、さらに異なる価値観を持った96世代以降を中心とするネオ・デジタルネイティブの出現を示す。丁寧に読めば若い世代の価値観や意識、行動を知る上で現在でも有益な指摘があるだろうが、しかし、今や「Z世代」だし、ビジネス書に近い筆致なのが残念。
  • 濱野智史、『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』(ちくま文庫)、筑摩書房、2015年。単行本(NTT出版、2008年)の文庫化。「文庫版あとがき」を追加。佐々木俊尚の「解説」はたいして役に立たない。2ちゃんねる、ミクシィ、ニコニコ動画、ツイッターなどを挙げているので、アーキテクチャの重要性について知るのにレッシグ『CODE』(後に『CODE VERSION2.0』)より親しみやすい。ちなみに著者は本書刊行後、『前田敦子はキリストを超えた――〈宗教〉としてのAKB48』(ちくま新書、2012年)を著している。Amazonにカスタマーレビューを書いた。
  • 藤原智美、『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』、文藝春秋、2014年。書き言葉による自己との対話や思考は、ネットではなく本でなければできず、そこに「つながらない」価値があるという、作家によるエッセイ。

ま行

  • マクルーハン, マーシャル(栗原裕、河本仲聖訳)、『メディア論――人間の拡張の諸相』、みすず書房、1987年。これと『グーテンベルクの銀河系――活字人間の形成』(みすず書房、1986年)も読み直した(ページをざっとめくってみただけ)が、引用には至らず。『メディアはマッサージである』(河出書房新社、1995年、新装版2010年、2015年に新訳文庫化)の方が内容的に関連するかも。なお、マクルーハンは26歳でカトリックに「改宗」したということで、「プロテスタント的な活字文化への反発」(佐藤卓己『現代メディア史 新版』2018年、p.230)があったことはよく知られているらしい。
  • 松下慶太、『デジタル・ネイティブとソーシャルメディア――若者が生み出す新たなコミュニケーション』、教育評論社、2012年。大学での講義をまとめたものでさすがにもう古い。大人の世代である「デジタル・イミグランツ」は、どんなにデジタルメディアを使いこなしても、デジタル・ネイティブになれない(第1章)。第2章で、ソーシャル・キャピタル、6次の隔たり(スモールワールド)、マタイ効果、パレートの法則、ロングテールなどを一通り紹介しているので、知らない人にはこの章だけ有用かも。
  • 松田美佐、土橋臣吾、辻泉編、『ケータイの2000年代――成熟するモバイル社会』、東京大学出版会、2014年。いわゆるケータイが人間関係や社会にどのような影響を与えたのか、ケータイが日常的に利用される社会とはどのような社会なのかを、2001年と2011年の学術的な調査結果を基に実証的に明らかにする。調査データの表やその分析に多くの紙面を割いており、また、2011年はスマートフォンの所有者数やSNS利用度が高まる過渡期であったため、今となってはほぼ読む必要はない。ただ、ソーシャルメディアの利用による「自己の多元化」を明らかにしようとする第4章や、人々が流動化・個人化したままにネットワークを形成するような新しい社会性・公共性の可能性を提示しようとする終章は、リースマン、バウマン、ギデンズなどの基礎的な文献を知る上で有用であった。Amazonにカスタマーレビューを書いた。
  • 三村忠史、倉又俊夫、NHK「デジタルネイティブ」取材班、『デジタルネイティブ――次代を変える若者たちの肖像』(NHK出版 生活人新書278)、日本放送出版協会、2009年。デジタルネイティブの世代的な傾向や特徴ではなく、その世代の中で、新しいビジネス興した若者や今で言うインフルエンサー的な突出した若者を取材した、NHKスペシャル(2008年11月10日放送)の記録。テレビ番組は大きな反響を呼んだが、今となってはあえて読む必要はない。

や行

  • 柳田邦男、『壊れる日本人――ケータイ・ネット依存症への告別』、新潮社、2005年。後に文庫化。作家によるエッセイ。

(2022.9.15加筆、修正)


タグ:SNSと伝道

「SNSと伝道」索引(キリスト教関連と聖句) [書籍紹介・リスト]


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日本基督教団宣教研究所委員会編『宣教の未来 五つの視点から』(日本キリスト教団出版局、2021年12月)に収録されている「SNSと伝道――教会もSNSをすべき理由」のキリスト教関連・その他の団体・新聞雑誌・個人名索引と聖句索引。

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キリスト教関連その他の団体・新聞雑誌・個人名索引

  • 朝日新聞 181,182,183,185,190,199,213
  • イエズス会 159
  • 海老沢有道 159
  • 大嶋重徳 218
  • 奥田知志 197
  • 柏教会 194(197)
  • 上馬キリスト教会 213
  • 川島堅二 160
  • 木村花 181
  • キリスト新聞 213
  • 久米淳嗣 192
  • ゲーテ 170
  • 近藤勝彦 226
  • システィーナ礼拝堂 223
  • SEALDs 188
  • 信徒の友 210
  • スターバックス 169
  • 谷本仰 213
  • 東京新聞 186
  • トランプ,ドナルド 191(204)
  • 中島みゆき 223
  • 中山信児 195
  • 日本基督教団 160,218,228
  • 日本基督教団福音主義教会連合 218
  • 日本経済新聞 183,221
  • 芳賀力 199
  • 張田眞 218
  • 毎日新聞 162
  • 平野克己 224,227
  • 蛭沼寿雄 159
  • フランシスコ教皇 185,191,202,207
  • フロイド,ジョージ 189
  • ミケランジェロ 223
  • ミニストリー 192,224
  • 森本あんり 171
  • 米津玄師 223
  • 礼拝と音楽 195

聖句索引

  • 詩編46:11  199
  • 箴言4:23  210
  • 箴言4:24  203
  • 箴言29:11  181
  • コヘレト7:21  174
  • マタイ13:12  196
  • マルコ16:15  202
  • ルカ15:6,9  202
  • 使徒1:8  202
  • 使徒20:35  202
  • ローマ12:2  195
  • 1コリント9:23  202
  • ガラテヤ5:22-23  228
  • 1テモテ4:7  192


タグ:SNSと伝道

「SNSと伝道」で引用・紹介しているサイト [書籍紹介・リスト]


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日本基督教団宣教研究所委員会編『宣教の未来 五つの視点から』(日本キリスト教団出版局、2021年12月)に収録されている「SNSと伝道――教会もSNSをすべき理由」の中で引用・紹介しているサイトやpdfへのリンクの一覧です。

なるべく本になっているものを注に記したので、URLの参照は少なめです。

教団出版局目 次参考文献|リンク集|索 引参考文献に挙げなかった文献

p.159,160

石井研士、『高度情報化社会と宗教に関する基礎的研究』(平成11年度~14年度科学研究費補助金 基盤研究(B)(2)研究成果報告書)、2003年。(pdf)

この中に、石井研士「ラジオと宗教」、川島堅二「日本基督教団所属教会のインターネット利用調査」などあり。

p.167

Appliv、「『Twitter』の利用実態をアンケート調査! 10代のアカウント所有率は8割超に」(2019年6月24日)

10代から60代の42%は複数のツイッターアカウントを利用している。

p.185

フランシスコ教皇の2020年の灰の水曜日の一般謁見(2020年2月26日)

バチカン・ニュース(日本語)。「・・・四旬節はテレビや携帯電話を消して、聖書を開き、福音に親しむように・・・」

p.189

『MITテクノロジーレビュー』、イーサン・ザッカーマン、「『国民総カメラマン』時代に警察の暴行を止められない理由」(2020年6月11日)

映像には「人々に衝撃を与え、憤慨させ、制度的な変更を要求する人々を動員する力」がある。

p.194

ツイッター・ジャパン、「災害に備えるためのTwitter活用法」(2019年8月5日)

災害時のライフラインとしてのツイッター利用について。

p.202,207

カトリック中央協議会、第48回『世界広報の日』教皇メッセージ「真正な『出会いの文化』に資するコミュニケーション」(2014年5月25日)

「大胆に、デジタル世界の市民になりましょう。」「自分と異なる人々を理解しようとするなら、忍耐もまた必要です。」

「世界広報の日メッセージ」で重要なのは他に、

第36回(2002年1月24日、ヨハネ・パウロ二世「インターネット 福音宣教の新たな場・フォーラム」)

第52回(2018年5月6日、フランシスコ「フェイクニュースと平和的ジャーナリズム」)

第53回(2019年5月26日、フランシスコ「ソーシャル・ネットワーク・コミュニティから人間共同体へ」)

など。

p.209

Eytan Bakshy et al., ‘Role of Social Networks in Information Diffusion,’ “WWW '12: Proceedings of the 21st international conference on World Wide Web,” April 2012, pp.519-528。(pdf)

フェイスブックは閉じた仲間内で情報を共有し合っていて情報が拡散しにくいとの批判に対して、日常的にやり取りのない人から受ける情報の方が多いという調査結果の報告。


タグ:SNSと伝道

「SNSと伝道」参考文献(増補・五十音順) [書籍紹介・リスト]


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日本基督教団宣教研究所委員会編『宣教の未来 五つの視点から』(日本キリスト教団出版局)が、2021年12月1日付で発行され、この中に、拙文「SNSと伝道――教会もSNSをすべき理由」が収録されました。

参考文献は、便宜がよいと思って

  • 1.ネットやSNSの教会での利用について
  • 2.インターネットやSNSに関する文献
  • 3.震災時におけるSNS、流言・デマについて
  • 4.メディア論の観点から記された文献で参考にしたもの
  • 5.現代社会を読み解く上で参考にした文献
  • 6.その他(統計資料、新聞記事、Webサイトは除く)

と分類して記しましたが、五十音順もあったほうがよいと思うので、以下には五十音順で記します。

なお、参考文献に記したのは、論文誌などは避け、翻訳も最小限にとどめ、読みやすい新書などを中心に取り上げました。

(※)印は、掲載しなかった統計資料や掲載し忘れたもの。

教団出版局目 次|参考文献|リンク集索 引参考文献に挙げなかった文献

参考文献(五十音順)

あ行

  • アイゼンステイン,E.L.(別宮貞徳訳)、『印刷革命』、みすず書房、1987年。拙論p.159の注1で言及。最初の印刷聖書は「42行聖書」であり贖宥状も印刷されたなど、活版印刷技術はプロテスタントのみならずカトリックにも大きな影響を与えた。
  • 朝生鴨、『中の人などいない――@NHK広報のツイートはなぜユルい?』(新潮文庫 あ-82-1)、新潮社、2015年。2012年単行本に「文庫版あとがき」を加えて文庫化。拙論p.211で、SNSはパソコンでやった方が冷静に発言できるという指摘で参照した。この書には、東日本大震災の時にNHKテレビの地震関連の放送が無断でネットに転載されたことに対し、極めて緊急時ということでNHK広報部のツイッター担当者(この書の著者)が個人的判断でそれを認めた顛末が記されている。これを機に、各テレビ局は公式にインターネットでの放送に乗り出すことになった(徳田雄洋、『震災と情報――あのとき何が伝わったか』(岩波新書)、岩波書店、2011年、p.25)。
  • 東浩紀、『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社文庫)、講談社、2015年。2011年単行本(講談社)に宇野重規との対談とあとがきを加えて文庫化。ルソーを読み解きながら、熟議の成り立たない時代にネットの中に一般意志を見出すことで熟議によらない民主主義の可能性を論じる。拙論p.171で文庫版p.144を参照した。ネットは人々の忘れたことも記憶しているが、それは、単にネットのどこかに情報が残り続けるというだけでなく、ネットが人のコントロールを超えたところで人間の「無意識」を可視化するという特徴をもっていることによる。
  • 天野彬、『SNS変遷史――「いいね!」でつながる社会のゆくえ』(イースト新書118)、イースト・プレス、2019年。拙論注15、24、39、136、148で参照・引用。
  • 生駒孝彰、『ブラウン管の神々』、ヨルダン社、1987年。拙論p.160注6で石井研士「情報化と宗教」と共に紹介。1970年代以降のアメリカで、テレビが新しい伝道手段として注目される中に登場したテレビ伝道師と呼ばれる人たちを紹介し、その興隆の背景を論じている。
  • 生駒孝彰、『インターネットの中の神々――21世紀の宗教空間』(平凡社新書19)、平凡社、1999年。第1章で、アメリカにおける1921年のラジオ伝道の始まりから、1950年代から始まり80年代のいくつかのスキャンダルで衰退していくテレビ伝道の時代、そしてインターネット時代への流れを概説している。第2章以降は、さまざまな教派やキリスト教系新宗教の状況やホームページの紹介。この頃は、検索したらこんなページがありましたという程度の内容でも本になっていた。
  • 石井研士「情報化と宗教」、『アメリカの宗教――多民族社会の世界観』(井門富二夫編)、弘文堂、1992年、pp.242~265。拙論p.160注6で紹介。テレビ伝道師(テレヴァンジェリスト)について、彼らが影響力をもったのは、放送を通して視聴者に直接訴えかけることができただけでなく、視聴者からの大量な電話や手紙に適切に対応するコンピューターシステムがあったからと分析する。彼らには放送局から番組枠を購入するための多額の資金が必要であり、勢い献金の呼びかけが重要になる。すると、彼らを支援したいと視聴者に感じさせる演出とメッセージへと傾き、“テレヴァンジェリストに経済的援助を行えばあなたは神から数倍の祝福を受ける”という神学に至る。
  • 石井研士「ラジオと宗教」、石井研士他、『高度情報化社会と宗教に関する基礎的研究』(平成11年度~14年度科学研究費補助金 基盤研究(B)(2)研究成果報告書)、2003年。ネットにpdfあり。この中に、川島堅二「日本基督教団所属教会のインターネット利用調査」もあり。拙論p.159注5で参照。
  • インターネット白書編集委員会編、『インターネット白書2019――デジタルファースト社会への大転換』、インプレスR&D、2019年。(※)拙論p.191注98で参照。
  • インターネット白書編集委員会編、『インターネット白書2020――5Gの先にある世界』、インプレスR&D、2020年。(※)拙論p.163注16、p.205注132で参照。
  • 宇野常寛、『遅いインターネット』、幻冬舎、2020年。拙論p.208注136で引用・参照。
  • 江田智昭、『お寺の掲示板』、新潮社、2019年。拙論p.227注164で紹介。寺院の山門掲示板に書かれた巧みな警句や奇想天外な名言を集め、解説。「輝け! お寺の掲示板大賞2018」から生まれた本。第2弾も2021年に出ている。キリスト教会もSNSや道行く人にちょっとでも目に留めてもらえるような説教題をつけたらどうか。
  • 海老沢有道「キリシタン版」、『日本キリスト教歴史大事典』、教文館、1988年。この大事典のp.416-417の見開きで、現存しているすべてのキリシタン版について、書名、刊行地、刊行年、言語、所在などを一覧表にしている。
  • 大澤真幸、『電子メディア論――身体のメディア的変容』、新曜社、1995年。拙論p.205注131で紹介。ネットを介してのコミュニケーションは身体性が薄れるが、一人ひとりの興味関心に応じて届けられる情報は個人の内面に直接入っていくことができる。
  • 大澤真幸、吉見俊哉、鷲田清一編、『現代社会学事典』、弘文堂、2012年。(※)拙論p.196注108で参照。社会学における「マタイ効果」の項を調べた。ネット利用に関しては「マタイの法則」という言い方がよく用いられている。この語を紹介していたのは、橋元良明『メディアと日本人』(岩波新書、2011年)の他、松下慶太『デジタル・ネイティブとソーシャルメディア――若者が生み出す新たなコミュニケーション』(教育評論社、2012年)。
  • 大嶋重徳、『若者と生きる教会――伝道・教会教育・信仰継承』、教文館、2015年。拙論p.218注153で参照。SNS利用は若者に委ねることができる重要な奉仕である。はらはらすることもあるが、牧師や年長者は若者の多少の行き過ぎにはじっと我慢することが、これからの教会につながる。
  • 荻上チキ、『ウェブ炎上――ネット群集の暴走と可能性』(ちくま新書683)、筑摩書房、2007年。拙論p.183注72で参照。「炎上」についての基本文献の一つ。
  • 荻上チキ、『検証 東日本大震災の流言・デマ』(光文社新書518)、光文社、2011年。拙論p.186注83、p.188注85、p.193注102で参照。東日本大震災が起きた際に発生した様々な流言・デマを収集し解説している本で、SNS利用の際にも、具体的な事例を多く知っておくことが流言・デマを見分けてその発信者や拡散者にならないために有益。
  • 荻上チキ「炎上の構造」、川上量生監修『ネットが生んだ文化』、角川学芸出版、2014年。拙論p.183注72で、炎上に関する有用な文献として紹介。
  • 小木曽健、『ネットで勝つ情報リテラシー――あの人はなぜ騙されないのか』(ちくま新書1437)、筑摩書房、2019年。拙論注48,59,92,147で参照。「ネットで勝つ」とか「なぜ~なのか」とか新書っぽいウケを狙ったタイトルだが、内容は、ネット情報には発信者の動機や目的による思い込みや偏りがあることや、理不尽な批判に対する「スルースキル」や発信する側として「玄関ドアに貼れるか」という視点の大切さなど、初心者向けのネット情報リテラシーの入門書で読みやすくおすすめ。
  • 奥田知志、『もう、一人にさせない――わが父の家にはすみか多し』、いのちのことば社、2011年。拙論p.197で引用(注110)。社会的弱者に対するネット上での匿名の差別的な発言の例として、この本で紹介されている、ホームレス支援団体のネット掲示板に書き込まれた文章を紹介した。
  • 尾崎太一(綿村英一郎監修)、「SNSとうまくつきあうための心理学」、『Newton』第40巻12号(2020年10月号)、ニュートンプレス、pp.102~109。拙論p.179注55で参照。SNSで「いいね」をもらうと、アルコールやたばこを摂取したときと同様に、脳の報酬系と呼ばれる快感をもたらす神経回路が働くという。

か行

  • 片柳弘史、「SNSと文書伝道」、『キリスト教書総目録2020』(No.31)、キリスト教書総目録刊行会、2019年、p.vi~viii。拙論中での参照はないが、教皇ベネディクト16世と教皇フランシスコが「世界広報の日メッセージ」で語ったインターネットに関する言葉を紹介していること、良い文章、良い写真が相手の共感を呼ぶこと、あっという間に流れ去っていく情報の中で時間を越えて有益な情報を集めて本にすることで、SNSが文章伝道につながっていることを語っている。
  • 金子郁容、『ボランティア――もうひとつの情報社会』(岩波新書235)、岩波書店、1992年。
  • 香山リカ、『ソーシャルメディアの何が気持ち悪いのか』(朝日新書464)、朝日新聞出版、2014年。
  • 川島堅二「インターネットの宗教的活用の現状と可能性について――アメリカのキリスト教会の調査から」、『恵泉女学園大学人文学部紀要』第9号、pp.53~74、1997年1月。アメリカのキリスト教会(ルター派、長老派、聖公会)がインターネットをどのように利用しているかの調査結果とこれからの可能性について。調査の時期が記されていないが、1996年頃だろう。キリスト教会のインターネット利用に関する、日本における史上最初(?)の論文。ネットにpdfあり。
  • 川島堅二「日本基督教団所属教会のインターネット利用調査」、『高度情報化社会と宗教に関する基礎的研究』(平成11年度~14年度科学研究費補助金 基盤研究(B)(2)研究成果報告書)、2003年。ネットにpdfあり。この中に、石井研士「ラジオと宗教」もあり。拙論p.160注8で参照。
  • 木村忠正、『デジタルネイティブの時代――なぜメールせずに「つぶやく」のか』(平凡社新書660)、平凡社、2012年。
  • 久米淳嗣「判断を保留することができる教会を」、『ミニストリー』vol.24(2015年冬号)、キリスト新聞社、pp.12~13。
  • 小原克博、野本真也、『よくわかるキリスト教@インターネット』、教文館、2003年。
  • 近藤勝彦「インターネット時代における説教者の姿勢」、『東京神学大学学報』No.270(2012年7月)、p.6。

さ行

  • 佐々木裕一、『ソーシャルメディア四半世紀――情報資本主義に飲み込まれる時間とコンテンツ』、日本経済新聞出版、2018年。拙論注22、40、114、123、124、125、134、136で参照・引用。ソーシャルメディアに限らず、不特定多数との情報共有が可能な電子掲示板や商品レビューサイト、Q&Aサイト、ブログなども含めた、利用者が誰でも簡単に投稿できるウェブサイトを「ユーザーサイト」と呼び、テクノロジーのみならず、制度、サービスや利用者による受容実態などから、ユーザーサイトの歴史をたどる。特に、収益モデルの変遷に関心を置いている。投稿と参加型メディアの源流として初期の『ロッキング・オン』までさかのぼっている。
  • 佐藤卓己、『メディア社会――現代を読み解く視点』(岩波新書新赤版1022)、岩波書店、2006年。2004年末~2005年の時事ニュースをメディア論から読み解いた、地方新聞連載記事を元にした50編。著者が『現代メディア史』(岩波テキストブックス)で述べている視点が具体的な時事問題に即して語られている。一つ一つの記事が短くて読みやすいが、時事ニュースから語っているので今やout-of-date感が強い。拙論では注44で、ピューリタンたちが生涯に3000回の説教を聞いたのに対し、現代の平均的なアメリカ人は生涯に700万回以上の情報を浴びている話を参照、引用。
  • 佐藤卓己編、『岩波講座 現代9 デジタル情報社会の未来』、岩波書店、2016年。この中の、佐藤俊樹「制度と技術と民主主義――インターネット民主主義原論」、荻野チキ「『ネット社会の闇』とは何だったのか――ウェブ流言とその対処」、和田伸一郎「『新デジタル時代』と新しい資本主義」。
  • 佐藤卓己、『現代メディア史 新版』(岩波テキストブックス)、岩波書店、2018年。
  • 佐藤卓己、『流言のメディア史』(岩波新書新赤版1764)、岩波書店、2019年。
  • 師岡康子、『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書1460)、岩波書店、2013年。
  • 『信徒の友』2019年9月号、日本キリスト教団出版局。特集「SNSと伝道 福音つぶやいてますか」
  • 春原禎光「教会とIT」、『季刊 教会』No.98、2015年春号、pp.56~57。
  • 総務省編、『情報通信白書』平成29年版~令和2年版。(※)

た行

  • 武田隆、『ソーシャルメディア進化論』、ダイヤモンド社、2011年。拙論p.190注95で参照(注を付けるほどではなかったかも)。この文献は、ソーシャルメディアを、関係構築か情報交換かの軸と、拠って立つところが価値観か実名性の高い現実生活かの軸で、4象限に分けて考察している。後半(第4章以降)は企業と消費者を結ぶ企業コミュニティ構築の話なので読む必要はない。
  • 橘木俊詔、『日本の経済格差――所得と資産から考える』(岩波新書590)、岩波書店、1998年。
  • 橘木俊詔、『格差社会――何が問題なのか』(岩波新書1033)、岩波書店、2006年。
  • 田中辰雄、山口真一、『ネット炎上の研究――誰があおり、どう対処するのか』、勁草書房、2016年。拙論注72、73、75で参照・引用。5年以上経った現在では状況や見方が変化している面も多いが、ネット炎上について論じる際にまず参照すべき基本かつ重要文献。特に、炎上に荷担しているのはごく一部の特殊なユーザーであり、直接攻撃してくるのは通常の議論が困難なかなり特異な人であることを定量的な実証分析によって明らかにしている。
  • 千葉雅也、『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』、河出書房新社、2013年。後に文庫化されている(河出文庫、2017年)。拙論ではp.199注116で「過剰な接続を切断する」ことの必要性を指摘しているものとして紹介した。とは言え、難解なので「序――切断論」しか読んでません。接続過剰(つながりすぎ)は、すべての要素を互いに接続したいという「妄想」の中に私たちを閉じ込める。(p.18,50あたり)
  • 津田大介、『Twitter社会論――新たなリアルタイム・ウェブの潮流 』(新書y 227)、洋泉社、2009年。拙論p.166注24、p.172注41で参照。ツイッターの特徴を説明する第1章は現在でも有用。第2章以降は、著者のツイッター活用術(第2章)、ジャーナリズム、政治、ビジネスでのツイッターのインパクト(第3章)、最後は勝間和代との対談で、今や読まなくてよい。
  • 津田大介、『情報の呼吸法』(Idea Ink01)、朝日出版社、2012年。
  • 津田大介、『動員の革命――ソーシャルメディアは何を変えたのか』(中公新書ラクレ415)、中央公論新社、2012年。
  • 津田大介、『情報戦争を生き抜く――武器としてのメディアリテラシー』(朝日新書696)、朝日新聞出版、2018年。
  • デジタルコンテンツ協会企画編集(経済産業省商務情報政策局監修)、『デジタルコンテンツ白書2020』、デジタルコンテンツ協会、2020年。(※)
  • 伝道アイデアパンフレット編集の会編、『伝道アイデアパンフレット』、日本基督教団伝道委員会、2012年。(※)ぜひ、数年ごとに改訂を繰り返してほしい。
  • トキオ・ナレッジ、『スルーする技術』(宝島社新書)、宝島社、2013年。拙論p.174注48で、「スルーする」ことの重要さを指摘している文献として、小木曽健『ネットで勝つ情報リテラシー』(筑摩新書、2019年)と共に紹介。通俗的な筆致で読みやすく、おすすめ。面白おかしく書いているので、自分の役に立ちそうな所だけ受け取って、後は話半分でスルーすること。第1章が「ネットのスルー力を高める」で重要。残りの章は仕事や人間関係などリアルの社会でのスルー力やアンガーマネジメント。「トキオ・ナレッジ」は80-90年代のホイチョイ・プロダクションみたいなノリ(?)の知識集団っぽいが、『赤毛のアン』に出てくる「神は天にいまし。世はすべて事もなし」を引用する(p.162)など、教養もある。Amazonにカスタマーレビューを書いた。
  • 徳田雄洋、『震災と情報――あのとき何が伝わったか』(岩波新書 新赤1343)、岩波書店、2011年。拙著p.193注101で、災害時の状況把握に関して、マスメディアよりもSNSによる草の根的な情報発信が大きな役割を果たしたことを強調して述べている文献として参照。この書では、マスメディアではローカルな情報が取り上げられないだけでなく、当時のマスメディアが政府や東電の公式発表を繰り返すばかりで、本当に必要な情報や知識が得られず、ウェブやSNSが様々な見解を知るのに役立ったことが述べられている。

な行

  • 中澤佑一、『インターネットにおける誹謗中傷 法的対策マニュアル(第3版)』、中央経済社、2019年。(※ お名前が「祐」ではなく「佑」でした。すいません。)初版2013年、第2版2016年。タイトルの通り、ネットで誹謗中傷を受けた際の法的な対応の仕方のマニュアル。
  • 中山信児「感染症禍における礼拝と教会の営み」、『礼拝と音楽』No.186(2020年8月)、日本キリスト教団出版局、p.44~48。

は行

  • 芳賀力、「承認を求める人間――信仰義認論の現代的意義」、『神学』78号、東京神学大学神学会、2016年、pp.5~23。
  • 橋元良明、『メディアと日本人――変わりゆく日常』(岩波新書新赤版1298)、岩波書店、2011年。
  • バートレット,ジェイミー(秋山勝訳)、『操られる民主主義――デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか』、草思社、2018年。(※)山口二郎『民主主義は終わるのか』(岩波新書、2019年)の中で言及されているとして紹介。
  • 帚木蓬生、『ネガティブ・ケイパビリティ――答えの出ない事態に耐える力』(朝日選書958)、朝日新聞出版、2017年。
  • パリサー,イーライ(井口耕二訳)、『閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義』、早川書房、2012年。(※ 本では2021年となっているが2012年の間違い。すいません。)後に『フィルターバブル――インターネットが隠していること』と改題されて文庫化(ハヤカワ文庫NF459、2016年)。拙論p.190注94で紹介。「フィルターバブル」という概念を提起し、その危険性を指摘している本として重要。ネット利用におけるパーソナライゼーションは、物事の認知を歪め、世界や社会の認識を偏らせ、創造性を損ない、一人ひとりのアイデンティティを左右し、世論を操作し、民主主義を機能不全にする。
  • 張田眞「超高齢社会、教会員の高齢化の時代です」、『福音主義教会連合』2019年2、3、4、6月。拙論p.218注155で、主として教会員向けにSNSを利用した取り組みの例として紹介。
  • 平野克己「編集後記」、『ミニストリー』Vol.19(2013年秋号)、キリスト新聞社。拙論p.224注160で引用して紹介。日曜日以外に牧師の安息日を設けるべきなのは、本人の健康のためではなく、共に生きる者たちが休むためである。
  • 平野克己、『説教を知るキーワード』、日本キリスト教団出版局、2018年。拙論p.227で引用。「説教題は教会の前を通る人々への招きの言葉、福音の告知の機能を担っている。」
  • 蛭沼寿雄、『新約本文学史』、山本書店、1987年。この書のp.11に「42行聖書」が最初の印刷聖書として挙げられている。また、「序」の中での「印刷本を作成するということに当面して始めて、真の意味における本文研究が開始された」という指摘は重要。キリスト教が技術やメディアを利用するだけでなく、技術やメディアによってキリスト教が深められていく。
  • 藤代裕之、『ソーシャルメディア論――つながりを再設計する』、青弓社、2015年。2019年に改訂版が出ている。大学の社会科学系の「情報メディア論」などの教科書で、ソーシャルメディア論の基本的な論点の全容を知るためにおすすめ。全15章で、章ごとの注や文献ガイドが親切。拙論p.171注39、p.203注124で引用・参照。
  • 部落解放・人権研究所編(谷口真由美、荻上チキ、津田大介、川口泰司著)、『ネットと差別扇動――フェイク/ヘイト/部落差別』、解放出版社、2019年。
  • ベンヤミン,ヴァルター(浅井健二郎編訳、久保哲司訳)、『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1995年。この中の「複製技術時代における芸術作品」。
  • 本條晴一郞・遊橋裕泰、『災害に強い情報社会――東日本大震災とモバイル・コミュニケーション』、NTT出版、2013年。拙論p.219注156で参照。p.193の「大規模災害時の情報発信」でも紹介すればよかった。災害時の不安定な状況での情報発信について、自分が社会に対してどのような便益を提供できるかを考えておき、人間のポジティブな能動性に期待して「好意の回路を形成していくこと」の重要さを主張している点が重要。通信設備の損壊や停電時におけるツイッターのシンプルな機能の有効性も指摘している。その他、被災地でどこに行けば携帯電話の電波がつながるかが人から人へと伝えられた事例を「インターネット的」(糸井重里)なリンクとシェアによるフラットな情報伝達だとして焦点を当てて議論を展開しているのが特徴的。

ま行

  • 毎日新聞取材班、『SNS暴力――なぜ人は匿名の刃をふるうのか』、毎日新聞出版、2020年。拙論p.183注72で、炎上に関する文献の一つとして紹介。木村花さんの事件をきっかけに連載された新聞記事を元に、大幅に取材を加えてまとめられたもの。
  • 『毎日新聞用語集2020年版』、毎日新聞。(※)『毎日ことば』、「「SNS」――「説明は必要」とする人が多数派だが…」(2020年5月1日)で紹介されていることに言及。
  • 松岡正剛、『フラジャイル 弱さからの出発』、筑摩書房、1995年。
  • 松岡正剛、『知の編集工学』、朝日新聞社、1996年。
  • 松田美佐、『うわさとは何か――ネットで変容する「最も古いメディア」』(中公新書2263)、中央公論新社、2014年。
  • 森本あんり、『異端の時代――正統のかたちを求めて』(岩波新書新赤1732)、岩波書店、2018年。

や行

  • 八木谷涼子、『もっと教会を行きやすくする本――「新来者」から日本のキリスト教界へ』、キリスト新聞社、2013年。
  • 安田浩一、『ヘイトスピーチ――「愛国者」たちの憎悪と暴力』(文春新書1027)、文藝春秋、2015年。
  • 山口二郎、『民主主義は終わるのか――瀬戸際に立つ日本』(岩波新書新赤1800)、岩波書店、2019年。
  • 山田健太、『3・11とメディア――徹底検証 新聞・テレビ・WEBは何をどう伝えたか』、トランスビュー、2013年。拙論p.193注102で参照。主に新聞・テレビでの震災関連報道における問題を分析しているが、その中の第3章「新興メディアは何を担ったか」で、ソーシャルメディアが果たした役割を新聞・テレビなど伝統メディアとの関わりの面から検証する。索引と参考文献一覧は省略され、「山田健太研究室ウエブサイト」を見るようにと書かれているが、今やもう残骸のみで該当するページは見当たらない。
  • 山竹伸二、『「認められたい」の正体――承認不安の時代』(講談社現代新書2094)、講談社、2011年。拙論p.198注115で参照、紹介。近代以前の西欧社会ではキリスト教の価値観が社会共通にあってその中で自己の存在価値も見出されていたが、近代以降、多様な価値観と出会うようになって普遍的な価値基準がなくなり、自己の存在価値を確認できず承認不安に陥っている。なお、後によりとっつきやすく(?)書かれたものに、『ひとはなぜ「認められたい」のか ――承認不安を生きる知恵』(ちくま新書、2021年)がある。
  • 吉見俊哉、『メディア文化論――メディアを学ぶ人のための15話』改訂版、有斐閣、2012年。2004年初版の改訂版。拙論p.159注4、p.171注39、p.188注86、p.205注131で参照。メディアの文化との関わりの面での基礎的な論点を通覧した、大学3年次向けくらい(有斐閣アルマSpecialized)の教科書で、ソーシャルメディアを考える上でも重要。各章ごとの文献案内も有用。

ら行

  • ラケット,オリバー、ケーシー,マイケル(森内薫訳)、『ソーシャルメディアの生態系』、東洋経済新報社、2019年。拙論注58、125、129で参照。
  • レッシグ,ローレンス(山形浩生、柏木亮二訳)、『CODE――インターネットの合法・違法・プライバシー』、翔泳社、2001年。及び、改訂版(山形浩生訳)、『CODE VERSION 2.0』、翔泳社、2007年。拙論p.203注125で参照。

(こまめに加筆中、the last update:2022.2.10)


タグ:SNSと伝道

「SNSと伝道」目次 [書籍紹介・リスト]


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日本基督教団宣教研究所委員会編『宣教の未来 五つの視点から』(日本キリスト教団出版局)が、2021年12月1日付で発行されました。

この中に、拙文「SNSと伝道――教会もSNSをすべき理由」が収録されました。以下に、その目次を記します。

教団出版局|目 次|参考文献リンク集索 引参考文献に挙げなかった文献

はじめに

新しいメディアと教会/本稿の内容/詳しくない人のために

Ⅰ SNSと現代社会

1.SNSの概要

  • (1)SNSとは
  • (2)主なSNS
  • (3)SNSの特徴
  • (4)新しいメディアとして

2.ネットの情報空間の特徴

  • (1)情報過多
  • (2)信頼性のない情報
  • (3)無法地帯
  • (4)複製の容易さ

3.ネットでのコミュニケーションにおける危険性

  • (1)不特定多数との交流
  • (2)匿名性
  • (3)発言の過激化
  • (4)誹謗中傷とヘイトスピーチ
  • (5)行き過ぎた悪ふざけと炎上
  • (6)ネット依存・ネット中毒
  • (7)個人情報の流出、個人の特定
  • (8)流言・デマ

4.現代社会とSNS

  • (1)SNSで波及した不正の告発と反政府運動
  • (2)分極化するネット空間
  • (3)フェイクニュースとポスト真実
  • (4)大規模災害時の情報発信
  • (5)ネットの中の人々と現代社会
  • (6)現代に生きる人々に福音を伝える教会

Ⅱ 教会の情報発信

1.教会もSNSで情報発信すべき理由

  • (1)SNSも人々がいる社会であるから
  • (2)アカウントがなければ存在しないのと同じ
  • (3)生きて活動していることを知らせる
  • (4)どこかの誰かのために
  • (5)SNSでの伝道――なぜSNSか

2.特徴を生かした情報発信を

  • (1)一人ひとりの興味・関心の中へ
  • (2)伝道しなきゃと力まずに
  • (3)「どうぞお近くの教会へ」
  • (4)情報をつなぎ合わせる

Ⅲ 教会の具体的なSNS利用

1.SNSの選び方

  • (1)多くの人が利用しているSNSを
  • (2)どれか一つを選ぶとしたら
  • (3)複数のSNSを使う?
  • (4)パソコンでやるかスマホでやるか

2.SNSでの情報発信

  • (1)ホームページとの使い分けを
  • (2)Twitterに投稿する内容――何をつぶやく?
  • (3)Twitterでのコミュニケーション術――無理せず、楽しく、コツコツと

3.教会でのSNS運用のポイント

  • (1)誰が担当するか
  • (2)教会の活動として位置づける
  • (3)投稿の頻度について
  • (4)教会員への配慮
  • (5)失敗を恐れず、現実に囚われず

Ⅳ キリスト者のSNS、牧師とSNS

1.キリスト者もSNSを

  • (1)キリスト者としてSNSをする意義
  • (2)SNSは簡単に始められる
  • (3)自分から情報発信する楽しさ

2.牧師とSNS

  • (1)SNSのある牧師の日常生活
  • (2)牧師の情報発信
  • (3)牧師は実名・顔出しすべきか
  • (4)説教のネットへの掲載について
  • (5)説教題について
  • (6)SNSで牧会相談できるか

最後に

工夫やアイディアの共有を/可能性にチャレンジ/まことの礼拝へ

謝辞

文献

  • 1.ネットやSNSの教会での利用について
  • 2.インターネットやSNSに関する文献
  • 3.震災時におけるSNS、流言・デマについて
  • 4.メディア論の観点から記された文献で参考にしたもの
  • 5.現代社会を読み解く上で参考にした文献
  • 6.その他(統計資料、新聞記事、Webサイトは除く)(注での言及順)


タグ:SNSと伝道

田中小実昌『アメン父』 [読書メモ]


田中小実昌、『アメン父』、河出書房新社、1989年。

  • 後に、講談社文芸文庫、2001年。
  • 長編小説と紹介文に書かれていることがあるが、190ページほどなので全然長くない。
  • 河出書房新社のページによると日本図書館協会選定図書だそう。
  • 田中小実昌の父とは、田中遵聖(本名:種助)牧師(1885.11.7-1958.3.18)。アサ会(アメン教団)創立者。説教集『主は偕にあり 田中遵聖説教集』(新教出版社、2019年、3000円+税)が出ている。
  • 田中小実昌(1925.4.29-2000.2.27)は1979年に直木賞受賞。父をテーマとした作品には他に「ぽろぽろ」(1979年谷崎潤一郎賞)など。『日本キリスト教歴史人名事典』(教文館、2020年)の「田中小実昌」の項には、直木賞受賞はあるが谷崎潤一郎賞受賞は記されていない。
  • 2020年は没後20年だった。『朝日新聞』2020.11.2「文化の扉」欄に特集記事あり。「その作品には哲学者のカントやスピノザ、ライプニッツ、ベルクソンが出てくる。プロテスタント神学者カール・バルトも熟読していた。」
  • 伊藤義清『教界人物地図』(教友社、2004年)は、田中小実昌から書き始めている。

像があると拝みやすく、親しみやすい。用心しないと何でもすぐ偶像になる。十字架も、立派な会堂も。清らかさ、神々しさ、俗世間にはない聖なるものなど、宗教的なものは偶像になりやすい。

(p.30-31)

心境や宗教心、宗教的感情は,宗教とは関係ない。宗教はココロの問題ではない。

(p.33-35)

「十字架を信じるって、こちらが信じるという観念的なことよりも、十字架のほうでぶちあたってくるほうが、事実なのではないか。」

(p.46)

「父には宗教経験なんてことも,関係のないことだった。どんな経験でも経験はたくわえもつものだ。アーメンはもたない。たださずかり、受ける。もたないで、刻々にアーメン・・・。」

(p.98)

「光が満ちあふれていても、自分のからだが光でいっぱい、光で充実しているのではない。あるのは、ただ光だけで。・・・光にあたって、くらさと罪が身にしみる。・・・充実した人生をおくってると言うような人は、光もくらさもなにも知らない人だろう。」

(p.104)

「サウロ(パウロ)がイエスにぶちあたられたのは、神秘的体験でもないしそんな宗教経験でもない。体験も経験も自分でもつもの、自分の財産(ないし負債)だが、これ〔イエスにぶちあたられたこと〕は自分でもつものではない。」

(p.181)

十字架の意味や意義ではない。「ただ十字架が、わたしどもにせまってくること」だ。

(1コリント2:2からの田中遵聖の説教より)(p.186)

「アメンが父をさしつらぬいている」

(あとがき、p.193)


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どの詩編を学ぶか [聖書と釈義]


教会の祈祷会や○○会で詩編を学ぼうというとき、

詩編の150編全部を学ぶのは大変。

では、厳選する場合、どれを取り上げたらいいのか。

左近淑『詩篇研究』


新教出版社、1971年。後に、新教セミナーブック9。

「賛美のうた」「哀歌」「典礼歌」の三つに大きく分けた文学類型にしたがって、主要な詩編を取り上げる。

取り上げられているものを目次から拾って番号順に挙げると、

2、6、8、15、20、21、24、29、32、38、42-43、46、50、51、60、65、90、114、132。



B.W.アンダーソン『深き淵より――現代に語りかける詩篇』


中村健三訳、新教出版社、1989年。

この付録Aに、「様式による詩篇の区分」があり、特に読むべき詩編に☆印が付されている。
☆印が付けられたものを番号順にすると、

1、2、3、4、6、8、12、13、18、19、22、23、27、31、32、33、34、37、38、39、42~43、44、46、47、49、51、57、69、71、73、77、78、80、81、84、85、88、89、90、91、92、94、95、96、98、99、100、102、103、104、105、107、110、114、116、118、121、122、124、130、132、136、138、139、143、145、146、147、148。



C.ヴェスターマン『詩編選釈』


大串肇訳、教文館、2006年。

11の類型にそって代表的な詩編を選んで、私訳、本文について、構成、釈義。「詩編選釈」でありながら、哀歌5章も入っている。結びとして「詩編とイエス・キリスト」。

取り上げられているものを目次から拾って番号順に挙げると、

1、4、6、8、13、19、22、23、24、27前半、29、30、31(部分)、33、40前半、46、51、62、66(前半と後半別々に)、72、73、77、80、90、102、103、104、113、116、118、119、121、122、123、124、126、130、138、139、145、148。



J.F.D.クリーチ『詩編』


飯謙訳、現代聖書注解スタディ版、日本基督教団出版局、2011年。

イントロダクションで詩編という名称、祈りの言葉としての特徴、表題があることや5区分、主こそ王というテーマについて簡単に説明。第1章で、第3編を例にして構造や技法、文体などの基礎を知り、第2章で文学類型をざっと解説。その後8編を取り上げる:

1、8、22、23、51、99、121、137。



R.ヘステネス『グループで聖書を学ぶABC』


朴憲郁・上田好春訳、日本基督教団出版局、2014年。

このp.85で挙げられている、小グループで聖書研究を行うために適しているとして例示されている詩編の箇所は、

1、8、19、23、25、32、34、37、42、51、62、73、107、121。


また、p.154では、聖書を学ぶグループの参加者が体験し、感じることができそうな「感情豊かな詩編」として次の箇所が例として挙げられている。

32、38、51、55、56、71、73、77、139、143、147。



広田叔弘『詩編を読もう』


(上、下)、日本基督教団出版局、2019年。

上巻:
1、2、6、8、14、19、22、23、30、37、42・43、44、45、51、69。

下巻:
70、72、80、86、87、88、90、95、96、100、115、118、119:1-8、121、127、130、133、137、143、150。


14、30、45、70、86、87、115編などを挙げているのが特徴的。



『讃美歌 第一編』交読文


ところどころ省略があるが。

1、2、8、16、19、23、24、27、29、32、40、42、46、50、51、57、65、67、84、90、91、95、96、100、103、104、118、119(抜粋)、121、127-128、130、139、146。



『こどもさんびか改訂版』交読詩編


巻末の交読詩編は、全体的によく知られている部分だけの抜粋になっている。

1、8、19、23、24、27、42、46、51、72、85、95、96、100、121、130、133、136、139、150。



まとめ:厳選10箇所


以上を参考に、

  • 類型論の解説では類型として代表的な作品が選ばれているので、学びの箇所としては必ずしもふさわしいわけではない。
  • よく知られている箇所を取り上げたい。

といった観点から、10箇所に厳選すると:

1、8、19、23、46、51、100、121、130、139。


もう少し増やすとすると、『讃美歌 第一編』の交読文と『こどもさんびか改訂版』に載っている交読詩編で、共通するもの15箇所:

1、8、19、23、24、27、42、46、51、95、96、100、121、130、139。



(2017.11.19 ヘステネスのp.154の紹介を追加)
(2018.1.12 左近淑『詩篇研究』を追加)
(2021.4.7 広田叔弘『詩編を読もう』を追加)


エレミアスのイエスの譬話 [書籍紹介・リスト]


ヨアヒム・エレミアスの『イエスの譬話』の各版についての整理。

「C.H.ドッドと共に、イエスのたとえの終末論的な性格を強調したが、イエスにおいては実現した終末論ではなくて、むしろ「実現しつつある終末論」が問題になっていることを明らかにした。」

今井誠二「エレミアス、ヨアヒム」の項、『聖書学用語辞典』日本基督教団出版局、2008年。

Joachim Jeremias, 1900.9.20-1979.9.6。

(2019年は没後40年。2020年は生誕120年。)

なお、『聖書学用語辞典』(日本基督教団出版局、2008年初版)の「エレミアス、ヨアヒム」の項(今井誠二)では、綴りがJoahimになっている。

1.学術版

ドイツ語で、"Die Gleichnisse Jesu," 1947初版、1965第7版。

1947年初版は118頁。1952年第2版は174頁と大きく改訂された。1954年第3版は僅かな修正のみ。1956年第4版はさらに「頁ごとに手が加えられ、特に釈義的注の拡大に重点がおかれて」(善野碩之助訳『イエスの譬え』、「あとがき」p.263)、208頁。その後さらに、増補改訂された1962年第6版は242頁。1965年第7版は第6版を校訂したもの。

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この英訳は、ドイツ語1954年第3版からS.H. Hooke訳で、"The Parables of Jesus," 1954初版, 1972第2版。

2.ドイツ語普及版

ドイツ語学術版第7版から「純粋に専門的な言語資料に関する注や引用文献などの脚注を短縮または省略した」(善野碩之助訳『イエスの譬え』の「あとがき」p.263)普及版が、学術版と同タイトル(というところがややこしい)で、"Die Gleichnisse Jesu," 1965.

1972年に改定版が出ている。誤植の訂正と、「十人の処女の譬え」の解釈についてだけ、若干の変更を加えたとのこと。

3.英語普及版

S.H. Hooke訳、"Rediscovering the Parables," 1966.

普及版の英訳は、原著のドイツ語普及版と異なり、学術版とは別のタイトルである。

この英語普及版(1966年)では、ドイツ語普及版の方では1972年の版になって改訂される内容がすでに反映されているとのこと。

4.普及版の邦訳

邦訳は普及版のみで、学術版の邦訳はないが、「本文には全く変わりがない」(善野碩之助訳『イエスの譬え』、「あとがき」p.263)とのこと。

エレミアス(善野碩之助訳)『イエスの譬え』.JPG

善野碩之助訳、『イエスの譬え』(現代神学叢書41)、新教出版社、1969。

6+272+14頁、2005年からオンデマンドで3000円+税。

ドイツ語普及版の1966年第2版からの邦訳。ただし、ところどころ学術版から注を補足したとのこと。というわけで、注が全く付けられていないわけではない。

南條俊二訳、『イエスのたとえ話の再発見』、新教出版社、2018。

298頁、3000円+税。

英語普及版の第5刷1993年を底本とした翻訳。

役者はカトリック信徒。

この南條訳は孫訳であるものの、善野訳以降の改訂が反映されるらしいし、善野訳が難解なドイツ語からの難解な邦訳であったので英訳を元により分かりやすく訳したようだが、善野訳はそれほど難解な日本語ではない(どちらかというとある程度専門的な知識は必要)ので、善野訳を持っていれば、わざわざ買う必要はなさそう。


ジュピターと賛美歌 [音楽]


jupiter

ジュピターと言えばすっかり平原綾香になってしまっているが、賛美歌としてのジュピターについて。また、ホルスト作曲の賛美歌など。

1.ホルスト『惑星』

グスターヴ・ホルスト(Gustav Theodore von Holst, 1874.9.21-1934.5.25)は、イギリスの作曲家。

組曲『惑星』(The Planets)(作品32)(1914-1916)の第4曲「木星――快楽をもたらす者」(Jupiter, the Bringer of Jollity)の中間部の旋律は、様々な歌詞が付けられて歌われていることで有名。

ホルスト『惑星』はもともと、占星術から着想を得て作られた。

2.「祖国よ、我は汝に誓う」

Cecil Spring-Riceによる"I Vow to Thee, My Country"(祖国よ、我は汝に誓う)(1918年)が歌詞として付けられ、ホルスト自身によって歌詞に合うように編曲された(1921年)。これがイギリスの愛国歌の一つとしてよく歌われるようになった。

この歌が讃美歌集"Songs of Praise"(1925年)に収録されて以来、この旋律には"Thaxted"という tune name が付けられている。これは、ホルストが暮らしたことのある町の名前にちなんでいる。

この讃美歌は、チャールズとダイアナの結婚式(1981年)やダイアナの葬儀(1997年)、マーガレット・サッチャーの葬儀(2013年)でも歌われた。

3.讃美歌として

イギリスでは"I Vow to Thee, My Country"の歌詞でも讃美歌集に収録されているようだが、より讃美歌らしい(?)歌詞が様々に作られている。

その中でも、Michael A. Perryによる"O God beyond all praising"(1982年)がよく好まれている。この讃美歌は、イギリス国教会の中のどちらかというとローチャーチの傾向にあるジュビラーテ・グループJubilate Groupと呼ばれる人たちによるジュビラーテ・ヒムズJubilate Hymnsから刊行された讃美歌集"Hymns for Today’s Church" (1982年)に収録されて広まった。

日本語は、『教会福音讃美歌』(2013年)の245番「御名をほめたたえる歌声より」(訳は中山信児)。

4.有名な作品

5.ホルスト作曲の賛美歌

ホルストの作曲で讃美歌になっているものとして、クリスマスの讃美歌である「木枯らしの風」がある。

Tune nameはCRANHAM、歌詞はChristina Georgina Rossetti, "In the bleak midwinter"。

日本語では、

  • 『讃美歌』(1954年版)468「こがらしのかぜ」
  • 『新生讃美歌』(2003年)181「凍てつく風の真冬の日」。
  • 『日本聖公会聖歌集』(2006年)100「こがらしさむく」。
  • 小坂忠のアルバム「クリスマスキャロル」の12曲目「木枯らしの風」は、こうえいかによる訳詞。

日本ではあまり歌われない感じだが、良い曲だ。


聖書の植物事典・図鑑 [書籍紹介・リスト]


聖書に出て来る植物の事典や図鑑の紹介。

1.何よりも

廣部千恵子『新聖書植物図鑑』.JPG

廣部千恵子(横山匡:写真)、『新聖書植物図鑑』、教文館、1999年、166頁、B5判、上製、4500円+税。

  • 写真はすべてカラー。
  • 聖書に出て来る植物を網羅。
  • 新共同訳聖書での訳語で見出し。
  • 和名、学名、ヘブライ語やギリシア語表記も明記。必要に応じて英語名も。
  • 20回に渡る現地調査をもとに解説。
  • 野の花、茨とあざみ、樹木、水辺の植物、畑の産物、香料と野草、砂漠の植物の7つに分類して配列。
  • それゆえ「事典」ではなく「図鑑」だが、日本語索引、外国語索引、聖句索引と、索引も充実。
  • 最低限、これだけでも、教会の図書室に入れておく。

※以前、清泉女子大学のサイト内に廣部千恵子のホームページがあって、聖書の植物その他の情報が豊富にあったのだが、大学を退官されたため、なくなってしまったのは残念。

2.副文献として

モルデンケ『聖書の植物事典』.JPG

H.&A.モルデンケ(奥本裕昭編訳)、『聖書の植物事典』、八坂書房、2014年、260頁、A5判、上製、2800円+税。

  • 原著は、Harold N. Moldenke & Alma L. Moldenke, "Plants of the Bible," 1952.
  • 原著が取り上げている230種の内、同定が確実なものなどを採用した全81項目だが、一つの項目の中で関連する植物も扱っている。
  • 各項目の説明文で、原著では研究者によって異なる見解も紹介されていたりするらしいが、翻訳では省略。
  • 巻頭に、編訳者による「聖書植物の研究」として、聖書の成り立ち、聖地の概要、聖書植物研究小史が置かれている(pp.25-36)。
  • 引用聖句は新改訳。
  • 索引は和名索引のみ。
  • 最初は、『聖書の植物』として植物と文化双書の一つとして1981年に出された(1991年に新装版)。今回、巻頭にカラー口絵(pp.9-24)を付し、項目に挙げている81種の写真を掲載、本文中の図版なども新しくされた。植物の科名も新分類体系に従って変更された。

3.読み物的なもの

中島路可『聖書の植物物語』.JPG

中島路可、『聖書の植物物語』、ミルトス、2000年、253頁、B6判、1600円+税。

  • 著者(なかしま・るか)は、天然物有機化学を専門とする理学博士。聖書に登場する植物を五十音順で紹介。「アーモンド」から始まる全54項目には「クリスマス・ツリー」、「ナルドの香油」「没薬」も含む。植物索引、聖書索引あり。

 

伊藤宏一『聖書の植物散歩』

伊藤宏一、『聖書の植物散歩』、キリスト新聞社、2017年、4+211頁、A5判、1200円+税。

  • いとう・ひろし。日本国内で探して自分で撮影したカラー写真がほぼすべてに添えられている(「ナルド」だけはイラスト)。それゆえ、プロの写真ではないが、どこの植物園で撮影したか文章中に記されている。
  • 言及される聖書箇所を丹念に挙げ、ギリシア神話や江戸時代の『本草綱目啓蒙』などでの記述を紹介している。
  • 47項目。

 

堀内昭、『聖書の植物よもやま話』、教文館、2019年、A5判、268+口絵6頁、1800円+税。

  • 聖書に出てくる 45種類の植物を、化学の視点から紹介(著者は化学を専門とする学者)。
  • 『聖書のかがく散歩』(聖公会出版、2012年)の中で取り上げた植物16種に、23種を追加。これらを「実と花の木の話」、「生活に欠かせない植物の話」、「スパイスとハーブ、香料の話」の3つに分けて、様々な話題と共に紹介。

4.西南学院大学

西南学院大学聖書植物園書籍・出版委員会編、『聖書植物園図鑑――聖書で出会った植物たちと、出会う。』、丸善プラネット、2017、14+119頁、1200円+税。

  • 西南学院大学に「聖書植物園」がある。これは、1999年11月に開学50周年記念事業として、9種類の植物で開園された。
  • この本は、西南学院大学聖書植物園に植えられている(キャンパス内のあちこちに植えられているらしい)100種の聖書関連の植物を、1ページに一つずつフルカラーで紹介している。写真もパレスチナの地でのものではなく、大学キャンパス内で撮られたもの。口語訳と新共同訳での訳語や同定の違いが考慮され、その植物が登場する聖句とその「聖句解説」がついているのがすばらしい。「入手と栽培方法」もある。
  • ここに挙げた本の中で最もハンディなサイズ(四六変型、ほぼB6判)。それは、この図鑑を携行してキャンパスを巡ってもらうため。
  • →出版社のページ
「我々が、梅の花に菅原道真を、桜に西行の姿を重ね合わせるように、彼の地の人々は、春先に花を咲かせるアーモンドから預言者エレミヤの人生に思いを馳せることでしょう。」

p.iii。

5.一昔前の文献

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● 大槻虎男(善養寺康之、大槻虎男:写真)『聖書植物図鑑 カラー版』、教文館、1992年、26×22cm、126頁。

  • 以前、教文館から出ていたものだが、上の廣部千恵子のものに取って代わった。
  • 大槻虎男『聖書の植物』(教文館、1974年)の大幅な増補改訂版。カラー化と、ゾハリー『聖書の植物』(1982年)によって新たな知見が加わったことなどによる。
  • 第1篇は総説で、聖書植物研究の歴史やパレスチナの気候・土地・植生の状況など。第2篇で個々の植物。「もっともはっきりしている11種の植物」、「ユリとバラ」、「イバラ」と続く。
  • 巻末に、日本語索引、外国語索引、人名索引、聖句索引あり。

 

● ウイリアム・スミス編(藤本時男編訳)、『聖書植物大事典』、国書刊行会、2006年、526頁、A5判、9000円+税。

これは、1863年にイギリスで刊行されたSmith's Bible Dictionaryとして知られる"A Dictionary of the Bible"(3巻本、後に4巻本)から植物に関する項目を抜き出して翻訳したもの。原著は既にパブリックドメインになっている

(2017.5.31初投稿)

(2017.11.5改訂)

(2019.9.4, 14改訂)


並木浩一『「ヨブ記」論集成』 [書籍紹介・リスト]


並木浩一、『「ヨブ記」論集成』、教文館、2003年、373頁、3000円+税。

これに収録されている七つの論文・講演録についてのメモ。

「岩波訳」で「ヨブ記」を担当した並木浩一がその準備作業として発表した一連の論文をまとめた『「ヨブ記」論集成』は、現代の「ヨブ記」研究の最前線を示している。

山我哲雄「旧約聖書研究史・文献紹介」、『旧約聖書を学ぶ人のために』世界思想社、2012年、p.333。

序――ヨブ記の射程はわれわれに及ぶ

「ヨブ記は独立したイデーたちがぶつかり合い、対話し、対立し、葛藤の中に置かれ、影響を与え合う「多声的」世界として構築されている。」

p.13

19:26新共同訳「身をもって」(口語訳「肉を離れて」)は、応報思想に立つ友人たちへの批判として直前に語った22節口語訳「肉をもって」の相互テクストとして見るならば、「ヨブはここでは敢えて「肉」へのこだわりを破棄」して、「肉を離れて神を見るであろう」と言い切っているのである。(p.14)

1.ヨブ記における否定

原形は日本聖書学研究所編『聖書における否定の問題』(聖書学論集4)(山本書店、1967年)所収。加筆訂正して、並木浩一『古代イスラエルとその周辺』(新地書房、1979年)所収。これをさらに全面的に改稿したもの。

そういった経緯が「追記」として記されている。

題名を付け替えるとすれば、「ヨブ記における二つの思考軸」がよいかと思うとのこと(p.57)。

「本論文の着眼点の一つは、ヨブ記における救済史の重視である」(p.59)。

2.文学としてのヨブ記

並木浩一『旧約聖書における文化と人間』(聖書の研究シリーズ55)(教文館、1999年)所収。

<付論>として「24章―28章の読み方」。

『「ヨブ記」論集成』に収録に当たっての「追記」あり。

ヨブと登場人物(神を含む)との対話は、終始かみ合わない。ヨブ記はドラマではない。むしろ、異なる思想を対位法的に展開する思想劇である(p.66)。

ヨブ記のメタファーとメトニミーについて。

「ヨブの言葉は一つ一つが思想行為であり、彼の決意表明であった。」

p.92

「人は物語なしでは生きられない。」

p.95

「ヨブ記は人間の自由のための書物である。」

p.96

28章について、

「学説史的には、私見はこの章(29節を除く)〔春原注:これは28節の間違いだろう〕に友人批判の機能を認めるヴェスターマンの考え方の変形である。わたしは相互テクスト的にこの章が自己批判の役割をも持つと考える。」

p.110

3.神義論とヨブ記

関根清三、鈴木佳秀、並木浩一、『旧約聖書と現代』(教文館、2000年)所収。

神義論とは何か(ライプニッツ、カント、古代オリエント、ギリシア世界、古代教会、宗教改革者、バルト)、関根正雄の神義論、神義論としてのヨブ記。

『「ヨブ記」論集成』に収録に当たっての「追記」あり。

4.ヨブ記における相互テクスト性――二章4節および四二章6節の理解を目指して

大野惠正、大島力、大住雄一、小友聡編、『果てしなき探求 旧約聖書の深みへ 左近淑記念論文集』(教文館、2002年)所収。

枠物語と詩文部分の関係、ジュリア・クリステヴァの相互テクスト性、2:4前半のサタンの「皮には皮を」、42:6の訳し方。

「追記」はない。

5.神から叱責されて賞賛されたヨブの正しさについて

小友聡他編、『テレビンの木陰で 旧約聖書の研究と実践 大串元亮教授記念献呈論文集』(教文館、2002年)所収。

ヨブは正しく語ったのか、新共同訳「正しく」の原文「ネコーナー」について、38:2「経綸」(エーツァー)と40:8「わが権利」(ミシュパーティー)、神のミシュパートと人のミシュパート。

「追記」はない。

「第五論文では、神は人間の生活空間には属していない異次元の世界に生きる野生動物の自由を語ることで、人間の解放についての使信を送っているとの理解がなされている。ヨブ記におけるユーモアの働きが重視されなければならない。ユーモアは異質な次元の事柄を包摂し、それぞれを生かす自由な空間を提供する高度な精神の働きである。ヨブ記にはこの精神が全面的に浸透している。」

p.59

6.ヨブ記とユダヤ民族の精神

日本聖書学研究所編『聖書学論集』35、2003年所収を大幅に改訂増補。

20世紀におけるユダヤ民族の象徴としてのヨブ、『ヨブの遺訓』でのヨブ記、ラビ伝承、サラディアのヨブ論、マイモニデスのヨブ論、トマス・アクィナスのヨブ論、盛期中世のヨブ論の特色として、摂理への注目、ヨブの異邦人性の消滅、エリフの価値の上昇の三つを指摘。

「追記」はない。

「今日のヨブ記理解に意味を持つ神学的姿勢は二つの聖書〔旧約と新約〕の内容的な直結を排して、ヨブ記特有の神理解を尊重し、その上で神に差し向かう人間の姿勢において新約聖書的な神理解のあり方を準備するものを見出すような間接的な結び付け方である。・・・カール・バルトが『教会教義学』の「和解論」第三部において展開したヨブ論は、神の自由なる恵みと行動に対する「真の証人」としての側面からヨブの苦悩・発言・神への信頼を見直したものであり、貴重な神学的貢献である。

p.240-241

7.マルガレーテ・ズースマンとヨブ記

書き下ろし。

ドイツのユダヤ人女性思想家・批評家・詩人、マルガレーテ・ズースマンの紹介とヨブ記論。

ヨブ記に関する他の記事:


並木浩一著作集のヨブ記論2 [読書メモ]


前回、『並木浩一著作集1』の中のヨブ記論を取り上げたので、今回は、並木浩一、『並木浩一著作集2 批評としての旧約学』(日本基督教団出版局、2013年)の中の「ヨブ記」論。

目次全体は日本基督教団出版局の紹介ページで。

この中のヨブ記論は2つ。

「ヨブ記からの問いかけ」

  • pp.168-176。
  • 初出は『福音と世界』2011年8月号(特集「ヨブ記と神議論」)。
  • 『アエラ』2011.4.11号で、東日本大震災の惨状の写真とそれに付された文章が神の虚妄性を訴えるものであったことに対して、神が幻想に過ぎないのなら、幻想に過ぎない神が人を殺すのは論理矛盾ではないかと厳しく批判することから、震災後の状況の中でヨブ記に耳を傾ける。

「ヨブ詩人の後継者、マルガレーテ・ズースマン」

  • pp.177-182。
  • 初出は内村鑑三研究所『所報』第17号、2012年。

並木浩一『並木浩一著作集3 旧約聖書の水脈』(日本基督教団出版局、2014年)には、特別にヨブ記をテーマにした論文はない。目次全体は日本基督教団出版局の紹介ページで。


並木浩一著作集のヨブ記論 [読書メモ]


並木浩一、『並木浩一著作集1 ヨブ記の全体像』(日本基督教団出版局、2013年)の中の「ヨブ記」論。

『並木浩一著作集1 ヨブ記の全体像』の目次

  • まえがき
  • 第一部 ヨブ記の全体像を求めて
  • 1 ヨブ記 緒論
  • 2 神の弁論は何を意味するか
  • 3 対話のドラマトゥルギー ヨブと神
  • 第二部 ヨブ記の主張と表現の特色
  • 1 ヨブ記のレトリック
  • 2 ヨブ記とヤハウィスト
  • 3 神との闘争と和解の賜物としてのヨブの霊性
  • 第三部 ヨブ記と取り組んだ人々
  • 1 ヨブ記と内村鑑三
  • 付論 ヨブ記における契約──創造と契約
  • 2 ヨブ記と賀川豊彦

メ モ

ざっと目を通しただけだけど。

「まえがき」

「ヨブはなぜ、これほどまでに友人たちが説く従順の勧めを拒み続け、神に対する執拗な抗議を続けたのであろうか。それは神に対する信頼を失わなかったからではなかろうか。神への深い信頼なしに神の厳しい叱責を心からの感謝をもって聞くことができたであろうか。・・・神はヨブが「確かなこと」を語ったことを宣言した。それはヨブが神への信頼に基づいて、神の正義を問い続けたからにほかならない・・・。」

(p.9-10)

「「終曲」をヨブ記にとっては余計なものだと見なす判断は、今日なお根強いものがある。一般に納得されるようなかたちでこの問題に解答することはできないだろう。「終曲」をヨブ記に不可欠だと見なす根拠は、神学的な感覚に基づく判断である。それは残念ながら万人に共有されることはない。」

(p.11)

1.ヨブ記 緒論

  • 『旧約聖書ⅩⅡ ヨブ記 箴言』、岩波書店、2004年の巻末の「解説」。
  • 参考文献(日本における近年の文献からの抜粋)には、2011年のフランシスコ会訳聖書や佐々木勝彦『理由もなく ヨブ記を問う』(教文館)まで記されている。

2.神の弁論は何を意味するか

  • 日本旧約学会『旧約学研究』No.1(2004年)所収の「神の弁論(ヨブ記38-41章)は何を意味するか」に、導入部分を加筆して収録(p.326の「初出一覧」では『旧約学論集』になっちゃってる)。
  • 「読みの多様性を紹介するものであり、「概説」(本書の第一論文「ヨブ記 緒論」のこと)を補完する意味を持つ」とのこと。(p.14)
  • C.G.ユング『ヨブへの答え』について、佐々木勝彦『理由もなく ヨブ記を問う』(教文館、2011)の中で適切な紹介と批判がなされているとのこと。(p.86)
「ヨブ記は「応報思想」を批判したが、「応報原理」は正義の基本であるゆえに、これを否定してはいない。ただ、人は個人的、社会的な視野を越えて、創造世界における秩序と世界の隅々にまで行き届く神の配慮を視野に収める必要がある。個人的、共同体的な正義だけが正しさのすべてではない。ヨブ記は読者に、この世界における共同体的な正義の特殊な意味づけを知るようにと訴えている。
 創造世界はさまざまな悪を含みつつ生の秩序を維持する。・・・人間も神の保護なしには生を維持できないが、・・・最初の夫婦がエデンの園を出て以来、人類は自己の生を配慮しなければならないという運命を背負った。人は・・・社会を形成し、自律的に秩序を形成しなければ生存できない。・・・モラルは社会生活を維持するための人間の条件であり、・・・社会生活の悲惨と不正義を防ぐのは人間の責任である。この責任を担って生きることが神と人間との関わりの基盤である。」

(p.85-86)

3.対話のドラマトゥルギー ヨブと神

  • 旧約聖書翻訳委員会編、『聖書を読む 旧約篇』、岩波書店、2005年に所収。
  • 「付記」あり。「ヨブ記」を理解する基礎としての「相互テクスト性」については『「ヨブ記」論集成』の中の「ヨブ記における相互テクスト性・・・」と「神義論とヨブ記」を参照せよとのこと。
  • 42:2の動詞を子音字本文に従って「あなたは知っている」と訳す試みは、ジャンセン(飯謙訳)『現代聖書注解 ヨブ記』(日本基督教団出版局、1989)(原著1985年)によってすでになされていたことを記している。

4.ヨブ記のレトリック

  • 書き下ろし
  • 「付記」あり。アンティフラシスについての部分は、『旧約学研究』No.9(2012年)、『旧約聖書と説教』(日本基督教団出版局、2013年)収録のものから専門的な叙述を省き、説明文には細かく手を入れたとのこと。

5.ヨブ記とヤハウィスト

  • 『国際基督教大学学報Ⅳ-B 人文科学研究 キリスト教と文化』No.42、2011年に所収。
  • 山我哲雄『海の奇蹟 モーセ五書論集』(聖公会出版、2012年)について、第1章「モーセ五書の成立」は「従来の資料説を要領よく紹介し、第11章でモーセ五書の最終形態を論じている。・・・五書に関心を持つ者には必読の書である。」(p.205)。
「ヤハウィストは・・・人類全体を視野に入れて、人類と民族を導く神の恵みを叙述した。」一方、ヨブ記は「一人の例外的に正しい人間に下る未曾有の苦難を取り上げ・・・、神の正義と被造世界の統治の問題を論ずる。両者はその視角と内容においてまったく違う。それにもかかわらず、・・・両者における思考方法と人間らしい生の条件の設定には、著しい構造的な類似性が認められる。」

(P.203)

6.神との闘争と和解の賜物としてのヨブの霊性

  • 『回顧即感謝 清水護先生百歳記念論文集』、2008年に所収。
  • 「付記」あり。清水護の簡単な紹介。

7.ヨブ記と内村鑑三

  • 内村鑑三研究所『所報』No.17、2012年に所収。

付論 ヨブ記における契約――創造と救済

  • 書き下ろし
  • 「付記」あり。

8.ヨブ記と賀川豊彦


左近淑『詩編を読む』 [読書メモ]


左近淑『詩編を読む』(旧約聖書3)(筑摩書房、1990年)の紹介とメモ。

詩編の類型について知る入門としてとてもよい。もっとはやくこれを読んでいればよかった。

目 次

※まえがきもあとがきもない。

  • 序 説 詩編をどう読み解くか
  • 第一章 嘆きの詩編
  • 第二章 感謝 報告的ほめ歌
  • 第三章 賛美 描写的ほめ歌
  • 第四章 典礼歌 王の歌とシオンの歌
  • 第五章 知恵の詩編とトーラー詩編

「序説」

「序説 詩編をどう読み解くか」は、マソラと七十人訳の番号の異同、五巻の分類、表題、小歌集の存在と編集、詩的技巧などを取り上げた、詩編全体についての概説。

詩編の分類について

  • 「深い淵の底」という極と主なる神というもう一方の極との間に置かれて、そこから生まれる祈りを綴ったのが詩編だ。
  • 人間の宗教的生の基本的な在り方に即応して、「懇願」から「ほめたたえ」への動的な動きがある。
  • 人間の懇願に発する詩は「嘆きの歌」と呼ばれ、その懇願が聞き届けられたなら、「ほめたたえ」という宗教的生の基本的な在り方の他方の極へと移行する。
  • 「ほめたたえ」には、「主は・・・してくださった」という感謝の報告と、「主は・・・(のような)かたである」という賛美を綴った描写とがある。

第1章「嘆きの詩編」

(1)分 類

  • 嘆きの詩編は、個人の嘆きと集団の嘆きとに分けられるが、その区別は明確ではなく、ほとんど多くの場合に相互流動的である。
  • 集団の嘆き 12、(14≒53)、25、44,(52)、58、60,74,79,80,83,85,89,90,94,123,126,129,137。
  • 個人の嘆き 3、4,5,6,7,9-10,(12)、13、(14)、17、22,25,26,27:7-14、28、31,35,36,38,39,41,42-43,51、(52)、(53)、54、55,56,57,59,61,63,64,69,70,71,77,86,88,102,109、120,130,139,140,141,142,143。
  • これらのうち、病の中での嘆き:6、13,28,35,38,39,41,88。(p.55)
  • 伝統的に悔い改めの詩編と言われているもの:6、32、38、51、102、130、143。これらのうち罪と赦しに集中しているのは51と130。(p.55、86)

(2)基本構造

  • 1(イ)神への呼びかけと導入の訴え
  • 1(ロ)過去の救いの御業の回顧
  • 2.嘆き
  • 3.信頼の告白
  • 4.訴え
  • 5.神の同情・行動を促す動機づけ
  • 6.祈りが聞かれたとの確信とほめたたえ(の誓い)

(3)敵を呪う意味

なぜ詩編では、激しい言葉で敵を呪い、自己の潔白を主張するのか。

それは、旧約の人々が、正義が踏みにじられ、正しい者が不利益を被り、社会的弱者が抑圧を受けているといった、現実の世界の矛盾の中に生きているからであり、義が確立されて正しい支配が成り立つことを激しく渇望しているからである。詩編ではしばしば敵への報復が訴えられるが、ヘブライ語の報復とは、崩れているバランスが正されて、正しい統治が回復することである。

(現実の支配者が神の意志に反しているとき、預言者は、この世が真の支配者によって統治されていることを宣言する。)

神は、御自身が義なる方であることを明らかにされる。神によって世に正義が貫徹される。そのためになされた神の御業が、キリストによる人間の救いである。キリストにおいて義が達成されている。

(4)信頼の詩編

  • 信頼の詩編(嘆きに由来する) (4)、11、16,23,27:1-6、62、63,91,121,125,131。
  • 信頼とは、「暗黒の中を行く疫病」や「真昼に襲う病魔」(詩編91:6)の中でも勇敢に堂々となされる生き方。

第2章「感謝 報告的ほめ歌」

(1)分 類

  • 感謝の歌は個人の感謝の歌と集団の感謝の歌に分類される。
  • 個人の感謝の歌 18, (21), 22:22ロ~32, 30, 32, 34, 40:1~12, 66:13~20, 103, 116, 118, 138. (このうち、戦いと勝利:18, 20, 118。病気:30, 116 人生の悩み:34, 40:1~12, 138, 22:22ロ~32, 32 救済史に関わるもの:66:13~20)
  • 集団の感謝の歌 65, 67, 68, 75, 107, 124, 129, 136. (このうち、勝利の歌:68, 124, 129)
  • 個人の感謝の歌も、人々が集まっている礼拝の中などを想定していることが多いので、個人の感謝の歌と集団の感謝の歌とを厳密に分類することは難しい。

(2)特 徴

  • 神がわたし(たち)を救ってくださったという報告的一文が、感謝を込めて告白される。
  • 歎きの歌と構造上、対応・対照関係がある。
  • 神の救いの御業に対して、「ほめたたえの誓い」がなされる。「満願の献げ物を主にささげよう」(詩編116)、「主の御業を語り伝えよう」(詩118)、「とこしえにあなたに感謝をささげます」(30:13)
  • 歎きの歌における現在の苦しみの歎きとそこからの神への救いの訴えと対照的に、感謝の歌においては、過去の苦しみの回顧とそれからの解放の報告がある。
  • 特に個人の感謝の歌の大きな特色として、死の力からの解放を報告する詩編がある。死の支配に対して神が立ち上がり、迫り、屈服させ、撃ち、助け出される。

第3章「賛美 描写的ほめ歌」

(1)特 徴

  • 「ほめたたえ」で始まる。
  • (あなたがたは)~せよ(喜び踊れ、喜びの声を上げよなど)という二人称複数命令形の場合と、「わたしは~します」(感謝をささげます、御名をほめ歌うなど)という一人称単数未完了形の場合(104、146など)とがある。二人称複数命令形の場合が圧倒的に多い。
  • 「ほめたたえ」で始まる導入部の後、賛美の理由を叙述する部分があり、神のほめたたえへの新たな勧めで結ばれる(145編など)。
  • 賛美の理由としては、創造主の御業やその偉大さをたたえるもの(いと高き神をたたえる)と、歴史の主あるいは救済の神のイスラエルに対する慈しみやまことをたたえるもの(低きに降りたもう神をたたえる)とがある。
  • 旧約聖書では、いと高き神が歴史の中に降ってくださったというダイナミックな神の業に対して、民の側もさまざまな楽器を用いたり、踊りや手を打ち鳴らすなどによって集団で喜びを表現して賛美がなされる。

(2)分 類

  • 導入と結びで同じ語句が繰り返されて囲い込み構造になっているもの:8、104、113、135、146~150。
  • 96、98、100などは特別な構造になっている。
  • 祝福や祈願で終わるもの:29、33、(95)、105、(111)、134。

(3)自然と救済の御業をたたえる

  • 「賛歌の究極の主題は、高きにいます偉大な神と、低きにくだる慈しみの神の結合にある。」(p.164)
  • 自然における神の御業をたたえる詩:8、19:2-7、29、104。
  • 自然における創造の御業と歴史における救済の御業を結合した詩:33、66:1-12、89:6-19、95、96、100、135、145、146、147、148など。
  • 歴史における救済の御業をたたえる詩:105、111、114、117、135、149など。114編において、自然は、救いの出来事の前に屈服している。
  • 「歴史の詩編」:78、105、106、114、135、136など。
  • ヤハウェの即位式の詩編(終末論的詩編) 47、93、(95)、96、97、98、99。「主こそ王」「偉大なる主」「王なる主」などの言葉で、世界と諸国民、さらに自然まで含めて、被造世界全体を統治されている王なる主をたたえている。(これらのうち、47、97、99はイスラエルの民と聖なる山シオンの関係に言及している。)

第4章「典礼歌 王の歌とシオンの歌」

  • 典礼歌は、人称の交替や託宣の引用、問答形式などによって、明らかに礼拝における劇的展開や役割の変化が想定できる詩編。
  • 15(聖所入場)、24(聖所入場)、50(契約更新)、78(ダビデ契約)、81(契約更新)、89(ダビデ契約)、132(神の箱搬入を伴う儀礼)。
  • 「王の詩編」:2(王の即位式)、18,20,21,45(王の婚礼),72,101,110(王の即位式),144。
  • 「シオンの歌」: 46、48,76,84,87,122。
  • 「巡礼歌」(「都に上る歌」という表題が付いている):120~134。

第5章「知恵の詩編とトーラー詩編」

  • 知恵の詩編 1、37,49,73,112,127,128,133。 (ただし、本文中で知恵の詩編として例示されているのは、37、39,49,73,127。)
  • トーラー詩編 1、19:8-15,119。

Notes

構造の詳しい解説

  • 23編の構造の解説が、p.96~103にある。
  • 42~43編の構造の解説が、p.116~122にある。
  • 33編の構造の解説が、p.146~148にある。
  • 29編の構造の解説が、p.152~157にある。(29:1-2と96:7-9aの類似と比較、「七つの雷の賛歌」、「洪水」(マッブール)の語は創世6-9章とこの詩のみ。)
  • 100編の構造の解説が、p.158~159にある。
  • 135編の構造の解説が、p.162~163にある。
  • 113編の構造の解説が、p.164~168にある。
  • 96編の構造の解説が、p.170~175にある。(「新しい歌」とは最後の歌であり、人生と歴史の最後に、最も新しい完成があるという希望の歌である。)
  • 24編の構造の解説が、p.179~182にある。
  • 132編の構造の解説が、p.184~188にある。

その他

  • p.86の「詩編五十一は夏目漱石の『こころ』に引用されて有名になりました」とあるのは、『三四郎』の間違い。なお、漱石はこれを聖公会祈祷書から採ったとみられる(『文語訳新約聖書 詩篇付』岩波文庫の鈴木範久による解説。また、鈴木範久『聖書を読んだ30人――夏目漱石から山本五十六まで』日本聖書協会、2017年)。
  • 「裁く」という言葉は「治める」という意味を持ち、主による統治がなされている裁きは、本質的に喜びである(詩編97:8)。(p.174)
「詩篇を愛された先生はいずれ包括的な詩篇注解を書くつもりであられたが、それがかなわなくなった今となってみれば、この小さな書物『詩篇を読む』は掛替えのない宝石となった。」

大野惠正「左近淑先生の生涯と著作」、『本のひろば』第389号、1990年12月、p.1-2。

詩編に関する他の記事:


CGNTV「みことばに聞く」1~28 [説教]



CGNTV「みことばに聞く」千葉に掲載されているミニ説教というかショートメッセージというか。

10分程度。

これまでの全28回分のまとめ。


No.28 2019.9.4 [540]

ヨハネ21:1~14 「復活の主との出会い」



No.27 2019.5.26 [534]

ヨナ書1:13~16 「主に信頼する信仰」



No.26 2019.5.16 [527]

サムエル記上1:1~28 「主のご計画と私たちの人生」



No.25 2018.1.2 [495]

ヨハネの黙示録22:20 「アーメンの意味」



No.24 2017.9.20 [486]

ヨハネの手紙一4:9~10 「神の愛によって生かされている」



No.23 2017.9.8  [478]

ヨハネ20:27~29 「見ないで信じる」

主イエスの復活



No.22 2016.6.2 [402]

ヨハネ20:16~17 「わたしにすがりつくのはよしなさい。」

主イエスの復活



No.21 2016.5.19 [392]

マタイ27:46、マルコ15:34 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったですか」



No.20 2016.5.5 [382]

マタイ6:10a 「御国が来ますように」

神の国、御国、神の御支配



No.19 2015.9.30 [356]

2テモテ1:9前半 「わたしの人生は神の御計画の中に置かれている」



No.18 2015.9.18 [348]

エフェソ1:4 「神の愛」



No.17 2015.5.27 [336]

2テモテ4:18、詩編100:3、1テサ2:12後半、詩編102:19「神を賛美するために造られた」



No.16 2015.5.15 [328]

創世記1:1、ローマ11:36 「神によって造られ、保たれ、神に向かう。」



No.15 2015.1.29 [317]

エフェソ1:3 「祝福に生きる民」



No.14 2015.1.17 [309]

2コリント4:14 「キリスト教は先祖を大切にしない?」



No.13 2015.1.7 [301]

詩編118:22、使徒4:11「隅の親石」っていったい何?



No.12 2014.9.26 [293]

1コリント1:26~30 「ありのままで大合唱」

映画の「アナと雪の女王」では、映画館で主題歌を大合唱するそうですが・・・



No.11 2014.9.13 [284]

使徒9:4~6、9、15、18~20 「パウロの回心と召命」



No.10 2014.9.3 [276]

マルコ10:13~16 「主の憐れみ深さに覆われている」

1歳の赤ちゃんの葬儀を行って。



No.9 2014.5.29 [272]

使徒4:2~3、5:17~18、5:33、7:52、7:57~60、ルカ23:34、46「ステファノの殉教」



No.8 2014.5.17 [264]

ルカによる福音書23:33、39~42「十字架の三人の中央におられる主イエス」

主イエスが他の犯罪人たちと共に、犯罪人たちの真ん中で十字架に架けられた意味は?



No.7 2014.5.9 [258]

イザヤ書2:4、ヨエル書4:10前半「剣を鋤に、槍を鎌に」

でも、ヨエル書はそれをひっくり返して「鋤を剣に、鎌を槍に」と言う。なぜか?



No.6 2013.9.6 [213]

マタイによる福音書28:1~8「言葉の力によって走り出せ」

主イエスの復活



No.5 2013.5.25 [204]

マタイによる福音書7:7より「探しなさい。そうすれば見つかる」



No.4 2013.5.17 [198]

創世記26:34~35、27:46~28:4、28:10~19「天と地を結ぶ神の祝福があなたにも」

ヤコブの旅路と夢



No.3 2012.9.27 [167]

1ヨハネ1:3後半から 「三位一体の神との交わり」



No.2 2012.9.18 [160]

1ヨハネ1:9 「生き方がブレてもいい」



No.1 2012.9.7 [153]

マタイ4:1~11 「サタンを退かれた主イエスにつながって」






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積ん読 バックナンバー2 [まとめ]


読んでいるかどうかは別にして、机の上に積まれている本10冊。2016年春~2018秋 (6回分)

→積ん読バックナンバー1(2010年秋~2015秋)(9回分)

2016.4.1

  • ◆リンドバーグ『キリスト教史』(コンパクトながら表面的でない記述)
  • ◆半田元夫、今野國雄『キリスト教史Ⅰ』(山川の世界宗教史叢書も古くなったが良書)
  • ◆山我哲雄『キリスト教入門』(ジュニア新書としては高度かも)
  • ◆久松英二『ギリシア正教 東方の智』(講談社選書メチエ)
  • ◆及川信『オーソドックスとカトリック』(とても読みやすい比較)
  • ◆コーイマン『ルターと聖書』(古い本だ)
  • ◆カウフマン『ルター:異端から改革者へ』(教養人向け。ワイマール版を縦横に引用)
  • ◆ポールソン『はじめてのルター』(イラストははたして日本人にはどうか?)
  • ◆清水書院人と思想『ルター』(ルター評伝の定番)
  • ◆藤本満『聖書信仰』(おもしろかった)

2016.10.3

  • ◆石井錦一『教会生活を始める』(甘えた信仰を見直す)
  • ◆淵田美津雄『真珠湾からゴルゴタへ』(今でも手に入る小冊子)
  • ◆石川明人『キリスト教と戦争』(平和を祈りつつ戦う人間の愚かさ)
  • ◆山内進『「正しい戦争」という思想』(キケロからカール・シュミット、ハーバーマス)
  • ◆エウセビオス『教会史』(講談社学術文庫で上下2巻)
  • ◆近藤勝彦『いま、震災・原発・憲法を考える』(キリスト教信仰が時代の大問題をどう捉えるか)
  • ◆徳善義和『マルチン・ルター 生涯と信仰』(とても読みやすい良質の評伝)
  • ◆大嶋重徳『若者と生きる教会』(「ひさしぶり」ではなく「いつも祈ってるよ」と声かけを)
  • ◆ウェルズ 恵子『魂をゆさぶる歌に出会う』(ムーンウォークやゴスペルのルーツ、岩波ジュニア新書)
  • ◆マイケル・マクローン『聖書の名句』(欽定訳に基づく良く知られた英語表現の紹介)

2017.4.4

  • ◆説教黙想アレテイア特別増刊号『見よ、この方を!』(各4頁ずつの説教黙想は物足りないなあ)
  • ◆竹下節子『ユダ』(各国各時代の伝説や文学、絵画等での多様なユダ像)
  • ◆ウィリモン『十字架上の七つの言葉と出会う』(十字架の七言の説教集) ◆藤掛明『人生の後半戦とメンタルヘルス』(人生の後半戦は「絞り込み深める」)
  • ◆大嶋重徳『自由への指針』(十戒を指針に現代社会を生きる)
  • ◆塩谷達也『ゴスペルのチカラ』(ニグロスピリチュアル、ブラックゴスペルの歴史、人物、代表曲を知る)
  • ◆『聖書人物おもしろ図鑑』(カラーのイラスト。人物だけでなくストーリーも。)
  • ◆『安藤肇牧師牧会文集』(非売品)
  • ◆鈴木崇巨『礼拝の祈り』(著者の礼拝観は合わないが)
  • ◆バルト『祈り』(祈りの視点を味わう祈祷集)

2017.10.2

  • ◆深井智朗訳『宗教改革三大文書』(講談社学術文庫、ルターの原典からの全訳)
  • ◆深井智朗『プロテスタンティズム』(ルターの宗教改革と現代に至る保守主義またリベラリズムとしての)
  • ◆倉松功『宗教改革と現代の信仰』(宗教改革には「宗教」になれなかった傍流・分派があった)
  • ◆大住雄一『聖書――神の言葉をどのように聴くのか』(十戒・律法と「聖書によってのみ」)
  • ◆徳善義和『ルター 生涯と信仰』(岩波新書『ことばに生きた改革者』とともにルターを知る必読書)
  • ◆『新撰讃美歌』(岩波文庫に登場)
  • ◆ルター研究所編『「キリスト者の自由」を読む』(相互排他的な二つの命題を掲げるルターの思考回路への手引き)
  • ◆ルター『エンキリディオン』(ルター研究所による全訳)
  • ◆左近豊『祈り』(手引きを超えた深い文章)
  • ◆ブルッゲマン『詩編を祈る』(順境、逆境、そして新境地に至る詩編の言葉の情熱)

2018.4.4

  • ◆デュマ『三銃士』(岩波文庫、上・下)(17世紀前半のフランスのカトリックとプロテスタント(ユグノー)の確執が背景にある)
  • ◆『日本聖書協会「宗教改革500年記念ウィーク」講演集』(H=M.バルトと江口再起の講演録)
  • ◆『聖書事業懇談会講演録1』(「聖書は定期的に耕されなければならない」石川立)
  • ◆左近淑『詩編を読む』(詩編の類型に従った特徴の実際的な学び)
  • ◆金子晴勇・江口再起編『ルターを学ぶ人のために』(これを読むためにはかなりの程度の知識が必要)
  • ◆久野牧『あなたの怒りは正しいか』(ヨナ書を12回に分けた講解説教)
  • ◆バルト『福音主義神学入門』(神学するとはいかなることか。10数年ぶりに取り出した。)
  • ◆藤本満『歴史 わたしたちは今どこに立つのか』(宗教改革の歴史を知るのにこれが分量的に最適かも)
  • ◆『新・明解カテキズム』(大人も一緒に学べる)
  • ◆渡辺信夫『古代教会の信仰告白』(ローマ信条から使徒信条へ至る経過の学び)

2018.10.1

  • ◆左近豊『エレミヤ書を読もう』(2008年度の信徒の友連載記事が10年を経て蘇る)
  • ◆『聖書 新改訳2017』(引照・注付を参考に購入)
  • ◆嶺重淑『NTJ ルカ福音書1~9:50』(接続助詞「が」を使いすぎ)
  • ◆浅野淳博『NTJ ガラテヤ書簡』(逐語訳と自然訳を並べる他にも自由な文章が特徴的)
  • ◆ドナルド・ガスリ『ガラテヤの信徒への手紙』(ニューセンチュリー聖書注解)
  • ◆宮田光雄『キリスト教と笑い』(岩波新書 赤219)
  • ◆長谷川修一『旧約聖書の謎』(中公新書2261)
  • ◆ジョエット『日々の祈り』(日野原善輔訳、新版。©日野原重明)
  • ◆天利武人『神の哀れみと赦しの中で』(柏市内の日本バプテスト連合第一宣教バプテスト教会牧師の説教集)
  • ◆『柏時代の詩人八木重吉』(「八木重吉の詩を愛好する会」編、代表は天利武人)

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左近淑の詩編研究 [読書メモ]


左近淑『詩篇研究』.JPG

左近淑、『詩篇研究』、新教出版社、1971年。

後に、新教セミナーブック9。

20の詩編を文学形態に分類して取り挙げて、それぞれに、私訳と本文批評、段落構成や詩的技巧・統一性・類型など、注釈、そして、むすび。

雑誌(『福音と世界』)の連載が元になっているので、字数の都合上、比較的短い詩編が取り上げられている。

「はしがき」から

「釈義とは、聖書を説き明かすことにより、心が内に燃えることである。」(小塩力)

(「はしがき」p.2で紹介されている。句点・読点を付加、送り仮名修正。)

「神がわからなくなったら、詩篇を声を上げて繰り返し読め。」

(「はしがき」p.2、句読点とかな表記を修正。)

「本文批評の背後にある基本的な立場とか古代訳の評価の規準などについては、・・・『新聖書大辞典』の中の拙文「聖書の本文(旧約)」、「聖書の古代訳」を参照されたい。」

(「はしがき」p.6)

「序 注解書について」から

「序 注解書について」では、本書で引用される詩篇注解者(書)の、詩篇研究史の中での位置を明確にする。

● 注解書の読み方

「注解書というものはただ手当たり次第に沢山読めばよいのでもなく、またその反対に評判のよいものを一、二冊それが唯一の正しい解釈であるかのように思い込んで読むのも正しくない。注解書は聖書に代わりうるものでなく、われわれが聖書から上なる言葉を聞きとる助けのひとつであり、確かにわれわれの恣意的な読み方を正し、深め、高めてくれるものもあるけれども、それ自体方法論的限界をもち、ひとつの相対的な解釈を示すにすぎないからである。」

(p.17)

● 詩編の研究史

近代旧約学の方法論的展開に即して、やや細かく五期に分類して概観。

第一期 文法的・歴史的方法論(デリッチ、キルパトリック)

第二期 進歩発展論的方法論(ドゥーム、ブリッグス)

第三期 形態史的方法論(グンケルとその流派)

第四期 祭儀史的方法論(モヴィンケルとその流派、A.H.シュミット、B.ワイザー、C.クラウス)

第五期 構造論的方法論(仮称) ヴェスターマン

本編について

「賛美のうた」、「哀歌」、「典礼歌」の三つに分類

  • 「賛美のうた」「賛美」として29、114、8、65。「個人の感謝のうた」として32。
  • 「哀歌」「個人の哀歌」として6、38、42-43、51。「民族の哀歌」として60、90、20、21、46。
  • 「典礼歌」15、24、132、2、50。

取り上げられている詩編(番号順リスト)

2、6、8、15、20、21、24、29、32、38、42-43、46、50、51、60、65、90、114、132。

詩編に関する他の記事:


古屋安雄著作リスト [書籍紹介・リスト]


古屋安雄(1926.9.13-2018.4.16)の著作、訳書、編集・監修書等のリスト。

国立国会図書館検索、倉松功他編『知と信と大学――古屋安雄・古稀記念論文集』(ヨルダン社、1996年)巻末の著作一覧、春原の蔵書などによる独自調査。
古屋安雄『宗教の神学』『日本の神学』.JPG

古屋安雄の主著としては、私は、『宗教の神学』と、大木英夫との共著だが『日本の神学』あたりだと思う。

晩年の一連の日本伝道に関する提言に関する著書は、ほとんどがいろいろなところでの講演録を集めたもので、「20年周期説」はいたるところに出てくる。

著書(共著含む)

  1. 『キリスト教国アメリカ――その現実と問題』、新教出版社、1967。
  2. 『キリスト教の現代的展開 古屋安雄論文集』(今日のキリスト教双書1)、新教出版社、1969。
  3. 『プロテスタント病と現代――混迷からの脱出をめざして』、ヨルダン社、1973。
  4. 森有正、加藤常昭と共著、『現代のアレオパゴス――鼎談 森有正とキリスト教』、日本基督教団出版局、1973。
  5. 『激動するアメリカ社会――リベラルか福音派か』、ヨルダン社、1978。
  6. 『現代キリスト教と将来』、新地書房、1984。
  7. 『宗教の神学――その形成と課題』、ヨルダン社、1985。(1986再版で人名索引が付いた)
  8. 『日本をキリストへ 一千万救霊の必要性と可能性』(伝道新書シリーズ第1篇)、日本キリスト伝道会、1987。(国立国会図書館にも東神大図書館にもない。)
  9. 大木英夫と共著、『日本の神学』、ヨルダン社、1989。
  10. 古屋安雄、土肥昭夫、佐藤敏夫、八木誠一、小田垣雅也、『日本神学史』、ヨルダン社、1992。(ドイツ語版が先に出た後の日本語版)この中の「序論」を執筆。
  11. 『大学の神学――明日の大学をめざして』、ヨルダン社、1993。
  12. 『日本伝道論』、教文館、1995。論文・講演録等11本と説教8本。「日本の教会」は『神学』53号(東京神学大学)に初出。
  13. 藤和明編著、並木浩一、古屋安雄著、『聖書を読むたのしみ』(ICU選書)、光村教育図書、1999。この中の「第2部 新約聖書の根本思想」を執筆。
  14. 『日本の将来とキリスト教』、聖学院大学出版会、2001。
  15. 『日本のキリスト教』、教文館、2003。(2004再版)
  16. 『キリスト教国アメリカ再訪』、新教出版社、2005。
  17. 『キリスト教と日本人――「異質なもの」との出会い』、教文館、2005。
  18. 『神の国とキリスト教』、教文館、2007。
  19. 阿部志郎、雨宮栄一、武田清子、森田進、古屋安雄、加山久夫、『賀川豊彦を知っていますか――人と信仰と思想』、教文館、2009。この中の「伝道者としての賀川豊彦」を執筆。
  20. 『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか――近代日本とキリスト教』、教文館、2009。講演録や論文(書き下ろしもある)など11本。
  21. 『日本のキリスト教は本物か?――日本キリスト教史の諸問題』、教文館、2011。
  22. 『宣教師――招かれざる客か?』、教文館、2011。日本と宣教師の関わり全般に渡る27項目。一つひとつは短い。「これまで書いたものは、みなある雑誌に連載したものであるが、本書に書いたものはみな、「書き下ろし」である。」(あとがき、p.125)。
  23. 『キリスト教新時代へのきざし ――1パーセントの壁を超えて』、オリエンス宗教研究所、2013。
  24. 『私の歩んだキリスト教――一神学者の回想』、キリスト新聞社、2013。

訳書

  1. カール・バルト(ゴッドシー編)、『バルトとの対話』(新教新書115)、新教出版社、1965。
  2. ラインホールド・ニーバー、『教会と社会の間で――牧会ノート』、新教出版社、1971。
  3. J.マッコーリー、『現代倫理の争点――状況倫理を超えて』、ヨルダン社、1973。
  4. ティリッヒ「プロテスタント時代」(抄訳)、『現代キリスト教思想叢書8(ティリッヒ、ニーバー)』、白水社、1974。
  5. ティリッヒ(栗林輝夫と共訳)、『キリスト教と社会主義』(ティリッヒ著作集 第1巻)、白水社、1978。(1999新装復刊)
  6. ティリッヒ、『プロテスタント時代の終焉』(ティリッヒ著作集 第5巻)、白水社、1978。(1999新装復刊)
  7. P.レーマン(船本弘毅と共訳)、『キリスト教信仰と倫理』、ヨルダン社、1992。
  8. ヤン・ミリチ・ロッホマン(小林真知子と共訳)、『講解・使徒信条――キリスト教教理概説』、ヨルダン社、1996。
  9. アリスター・E.マクグラス編(古屋安雄監訳)、『キリスト教神学資料集』(上、下)、キリスト新聞社、2007。

編集、監修

  1. 古屋安雄編、『なぜキリスト教か――中川秀恭先生八十五歳記念論文集』、創文社、1993。 この中の古屋安雄「なぜキリスト教か――弁証と倫理の問い」は、後に『日本の将来とキリスト教』(聖学院大学出版会、2001)に収録。
  2. A.リチャードソン、J.ボウデン編(古屋安雄監修、佐柳文男訳)、『キリスト教神学事典』、教文館、1995。2005年に判型を小さくして新装版。
  3. ドナルド・K.マッキム(高柳俊一、熊澤義宣、古屋安雄監修)(神代真砂実、深井智朗訳)、『キリスト教神学用語辞典』、日本基督教団出版局、2002。
  4. 古屋安雄、倉松功、近藤勝彦、阿久戸光晴編、『歴史と神学――大木英夫教授喜寿記念献呈論文集』(上、下)、聖学院大学出版会、上:2005、下:2006。 この中に、古屋安雄「ラインホールド・ニーバー R.ニーバーとW.ラウシェンブッシュ」あり。

主な論文等収録単行本

  • 山本和編、『生けるキリスト』(今日の宣教叢書5)、創文社、1961。 この中に、古屋安雄「勝利者イエス」あり。
  • 斎藤真、嘉治元郎編、『アメリカ研究入門』、東京大学出版会、1969。この中の「宗教」の項を執筆。これの第2版、本間長世、有賀貞編(1980年)にも収録。なお、五十嵐武士、油井大三郎編の第3版(2003年)の「宗教」の項は森孝一が執筆している。
  • 佐藤敏夫、竹中正夫、佐伯洋一郎編、『講座現代世界と教会 1』、日本基督教団出版局、1970。 この中に、古屋安雄「アメリカにおける世俗化論」あり。
  • 佐藤敏夫、高尾利数編、『教義学講座 2 教義学の諸問題』、日本基督教団出版局、1972。 この中の古屋安雄「キリスト教の絶対性と諸宗教」は、『宗教の神学』の第4章になっている。
  • 中川秀恭編、『森有正記念論文集――経験の水位から』、新地書房、1980。 この中に、古屋安雄「『人間の生涯―アブラハムの信仰』について」あり。
  • 本間長世編、『アメリカ世界Ⅱ』(有斐閣新書 西洋史8)、有斐閣、1980。この中の「アメリカの宗教」の章を執筆。
  • 学校伝道研究会編、『教育の神学』、ヨルダン社、1987。 この中に、古屋安雄「今日のキリスト教学校における伝道の使命」あり。
  • 東京ミッション研究所編、『天皇制の検証――日本宣教における不可避の課題』(東京ミッション研究所選書シリーズ)、新教出版社、1991。この中に、古屋安雄「社会的、政治的な視点から見た天皇制」あり。
  • 日本基督教団出版局編、『アジア・キリスト教の歴史』、日本基督教団出版局、1991。この中の「フィリピン」の章を執筆。
  • 小川晃一、片山厚編、『宗教とアメリカ――アメリカニズムにおける宗教理念』(アメリカ研究札幌クールセミナー第10集)、木鐸社、1992。 この中に、古屋安雄「教会・教派・分派 : アメリカ宗教の三類型」あり。
  • 斎藤真、大西直樹編、『今、アメリカは』、南雲堂、1995。この中に、古屋安雄「アメリカの宗教は、今――ポスト・キリスト教国」あり。
  • 学校伝道研究会編、『キリスト教学校の再建――教育の神学 第二集』、聖学院大学出版会、1997。 この中に、古屋安雄「魅力あるキリスト教授業であるために」あり。
  • 倉松功、近藤勝彦編、『福音の神学と文化の神学――佐藤敏夫先生献呈論文集』、教文館、1997。 この中に、古屋安雄「キリスト教大学の現代世界における意義」あり。
  • 土戸清、近藤勝彦編、『宗教改革とその世界史的影響――倉松功先生献呈論文集』、教文館、1998。 この中に、古屋安雄「宗教改革の意外な影響」あり。
  • 四国学院キリスト教教育研究所編、『大学とキリスト教教育』(四国学院キリスト教研究所叢書)、新教出版社、2005。 この中に、古屋安雄「大学とキリスト教」あり。
  • 白百合女子大学言語・文学研究センター編(井上隆史責任編集)、『宗教と文学――神道・仏教・キリスト教』(アウリオン叢書7)、弘学社、2009。 この中に、古屋安雄「キリスト教と日本文学」あり。
  • 賀川豊彦記念松沢資料館編、『日本キリスト教史における賀川豊彦――その思想と実践』、新教出版社、2011。 この中に、古屋安雄「賀川豊彦の日本伝道論」あり。また、大木英夫との対談「賀川豊彦をめぐって」あり。
  • 上村敏文、笠谷和比古編、『日本の近代化とプロテスタンティズム』、教文館、2013。 この中に、古屋安雄「武士道とプロテスタンティズム」、「日本の近代化とプロテスタンティズム」あり。

記念論文集

  • 倉松功、並木浩一、近藤勝彦編、『知と信と大学――古屋安雄・古稀記念論文集』、ヨルダン社、1996。 古屋安雄著作一覧・年譜あり。

(2019.9.3、著書に『日本をキリストへ 一千万救霊の必要性と可能性』(伝道新書シリーズ第1篇、日本キリスト伝道会、1987)を追加。)


リフォユース賛美リスト [音楽]


リフォユース500

日本基督教団宗教改革500年記念教会青年大会「リフォユース500」ユースカンファレンス(2018年3月21日、青山学院大学ガウチャー記念礼拝堂)での、賛美のセットリスト。

(春原の独自調査)

 

 1.どんな時でも (中山有太/Praise Station)

 2.新しい歌を主に (ミクタムP&W赤77、リビングプレイズ116)

 3.求めて (歌い出し:あなたの声を求めて)(中山有太/Praise Station)

● 関野和寛牧師メッセージ

 4.主の臨在の中で (レインボーミュージックジャパン)

 5.輝く御名 (歌い出し:イエスの御名には勝利がある)(中山有太/Acts 2:44)

 6.イエスは勝利をとられた (ミクタムP&W赤60)

 7.主は栄光 (歌い出し:見えます輝く光に満ちて)(ミクタムP&W赤85、リビングプレイズ251)

● 晴佐久昌英神父メッセージ

 8.主われを愛す (讃美歌461)

 9.心から (歌い出し:口先ではなく心込め歌う)(中山有太/Praise Station)

10.Come on and dance (歌い出し:主よあなたと出会って)(長沢崇史) (今回はサビのcome on and dance dance danceから)

11.主を見上げて (歌い出し:あなたと共に生きる喜び)(中山有太/Praise Station)

12.なんと素晴らしい (ミクタムP&W90)

 (~主を見上げて reprise)

● 休憩、サルーキ=、大嶋重徳牧師メッセージ

13.主の愛注ぐ (歌い出し:ああすばらしい愛)(中林大介/Acts2:44)

14.神の御子にますイエス (聖歌582、新聖歌397)

15.イエスわが王を (歌い出し:栄光の主の御座をもうけたまえ主よ)(リビングプレイズ134)

● 小林克哉牧師メッセージ

● 100人ゴスペルの賛美

16.誰も見たことのない (長沢崇史)

 


平和の挨拶 [礼拝]


礼拝の中の「平和の挨拶」は、どの位置で、どのように行ったらよいか。

1.歴 史

(1)起 源

  1. ①ユダヤ教の「シャローム」の挨拶
  2. ②復活の主イエスによる「あなたがたに平和があるように」 ルカ24:36、ヨハネ20:19
  3. ③初代教会での「平和の接吻」ローマ16:16、1コリント16:20、1テサ5:26、1ペト5:14

(2)その後の経緯

  • 『キリスト教礼拝辞典』(岸本羊一・北村宗次編、日本基督教団出版局、1977年)の「平安の挨拶、平安の接吻」の項:ユスティヌス、ヒッポリュトス、アウグスティヌスなど。
  • 特に、ユスティヌスに見られる聖餐の前に位置づけられた「平和の挨拶」の意味について、越川弘英『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』(キリスト新聞社、2004年)、pp.137-139。
  • 5世紀以降の歴史について、宮越俊光「礼拝とシンボル 第5回 平和のあいさつ、聖書朗読台」、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、pp.58-59。
「1474年の『ローマ・ミサ典礼書』以降は、接吻をもって平和のあいさつを交わす習慣はなくなり、司祭が唱える「主の平和がいつも皆さんとともにありますように」に、会衆が「またあなたの霊とともに」と答えるだけになりました。」

宮越俊光、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、p.59。

2.現代のカトリック

日本のカトリックでの、現代の「平和の挨拶」について。

  • 日本では、手を合わせて「主の平和」と言いながら互いに一礼する方法が一般的
  • パンを裂く直前、「主の祈り」に続く祈りで全世界の平和を願い、教会の平和と一致を願った後、その場に集まった共同体の一員として、平和の挨拶を交わす。
  • ローマ教皇庁から、司祭が祭壇を離れて会衆席に出向いたり信徒が会衆席の中を回ったりして平和のあいさつを交わすことは控えるように指示があった。

以上、宮越俊光、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、p.59。

3.現代のプロテスタント

近年のプロテスタント教会における、「平和の挨拶」の回復について。

「アメリカのプロテスタント教会でも、これが広く実践されるようになってきたのは、今からせいぜい三〇年ほど前からではないかと思います。ですから、ずいぶん長い間、忘れられていた礼拝行為だったことになりますが、今ではプロテスタントもローマ・カトリックも、いろいろな形式でこの挨拶を復活させ、礼拝の中で行われるようになってきました。」

越川弘英『今、礼拝を考える』(キリスト新聞社、2004年)、p.137。

4.礼拝の中での位置

プロテスタント教会における「平和の挨拶」の礼拝の中での位置については、様々な考え方や実践がある。

(1)

「平和の接吻(平安の接吻)は執り成しの祈りの結びにおける愛と一致のしるしであり、その後に奉献が続く。」

ホワイト『キリスト教の礼拝』p.334。

(2)

「多くの場合は聖餐式の中で・・・。・・・礼拝の最初の部分で持たれることにも意味があると思います。」

小栗献、『よくわかるキリスト教の礼拝』(キリスト新聞社、2004年)p.108。

(3)

執り成しの祈り―平和の挨拶―聖餐という順序を基本として、
「聖餐が行われる場合は、平和の挨拶は『主の祈り』の後、または陪餐後になされてもよい。」

『日本基督教団式文(試用版)』p.33。

(4)

「サクラメントが執行されない場合は、<罪の告白>の後か、あるいは<告知における神のことば>の礼拝の最後に」

アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、キリスト新聞社、2003年、p.34。

5.挨拶の方法

会衆が互いに挨拶しあう方法にもいろいろある。

「平和(のあいさつ)は、ことば・笑顔・握手・接吻・抱擁、あるいは会衆の社会的状況にふさわしい動作で分かち合われるのがよい。」

『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、p.34。

(1)挨拶の所作

①接吻 ②抱擁 ③握手 ④会釈

(2)挨拶の言葉

「主の平和」、「キリストの平和」、「主の平和がありますように」、「キリストの平和がありますように」

6.「平和の挨拶」の意味

平和の挨拶は、キリストの体に結ばれた者たちの、聖霊による和解と一致(エフェソ4:3、コロサイ3:15)を表す。

「相互の交わりと和解を確認する。」「平和と和解のしるし」

『日本基督教団式文(試用版)』p.33、34。

「相互における和解による一致のしるしとして、会衆は、<平和のあいさつ>を交わす。」

『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、p.32。

「平和のあいさつは希望と喜びに満ちた礼拝的伝統です。・・・キリスト者を人と人との関係に向かわせます。」

小栗献、『よくわかるキリスト教の礼拝』(キリスト新聞社、2004年)p.108。

「平和の挨拶」とは、「平和」でないところにあっても、「平和」を信じて、平和を作り出すために行う行為」

越川弘英『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』、p.142。

立ち上がり、今日共に礼拝する仲間の前に足を運び・・・、手を差し伸べ握手をし、キリストの言葉に倣って挨拶を交わす、というこの所作の中になんと多くの気づきが隠されているでしょうか。」

山本有紀「礼拝の中の身体(からだ)の「居場所」」、『礼拝と音楽』169号(2016年春)p.25。
(強調は春原による)

7.まとめ

平和の挨拶の位置について、聖餐とのつながりを考慮するか、特にそうしないかという大きく二通りの筋道があるが、プロテスタント教会では、毎回の礼拝で聖餐を祝うわけではないので、礼拝の中での位置は柔軟に考えて良い。

聖餐がある場合、プロテスタント教会では聖餐を「御言葉」として理解するので、説教と聖餐はできるだけ近くし、間にあまり多くの要素が入らない方がよい。

(逆に言えば、プロテスタント教会で陪餐前などに平和の挨拶を入れるのは、古代~中世の礼拝への懐古趣味か、カトリックに対する無批判な同化か、聖餐の御言葉性・出来事性の理解の欠如かのいずれかである。

したがって、「平和の挨拶」の礼拝の中での位置は、

  • a)礼拝の前半で、集められた会衆が一致を表すために行うか、
  • b)礼拝の最後の部で献金の前に、
    • 執り成しの祈り
    • 平和の挨拶
    • 献金
    という流れにするか、

どちらかが基本となるだろう。

文献リスト

  • 岸本羊一・北村宗次編、『キリスト教礼拝辞典』、日本基督教団出版局、1977年。「平安の挨拶、平安の接吻」の項。
  • 小栗献、『よくわかるキリスト教の礼拝』、キリスト新聞社、2004年、p.108。
  • 越川弘英、『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』、キリスト新聞社、2004年、pp.134-143。
  • J.F.ホワイト(越川弘英訳)、『キリスト教の礼拝』、日本基督教団出版局、2000年、p.334。
  • アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、キリスト新聞社、2003年、pp.32-34。
  • 日本基督教団信仰職制委員会編、『日本基督教団式文(試用版) 主日礼拝式・結婚式・葬儀諸式』、日本基督教団出版局、2006年、pp.33-34。
  • 宮越俊光「礼拝とシンボル 第5回 平和のあいさつ、聖書朗読台」、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、pp.58-61。
  • 山本有紀「礼拝の中の身体(からだ)の「居場所」」、『礼拝と音楽』169号(2016年春)、pp.22-26。

記述がありそうでなかったもの

  • 『キリスト教礼拝・礼拝学事典』日本基督教団出版局、2006年。
  • 『神の民の礼拝 カンバーランド長老キリスト教会礼拝書』、2007年。


ルターのりんごの木2 [読書メモ]


「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日なおわたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

前回の記事で、この言葉の起源や広がり、作者について調査した、M.シュレーマン(棟居洋訳)『ルターのりんごの木――格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ』(教文館、2015年)を紹介し、読みにくい本であったが、ポイントをまとめた。

さらに、日本での引用に関する、いくつかの点について。

ゲオルギウは?

この言葉の出典に関する日本での話題でよく出てくる、ゲオルギウ(谷長茂訳)『第二のチャンス』、筑摩書房、1953年(原著1952年)は、シュレーマンのこの本の本文中には出てこない。ちょっとがっかり。。。

「訳者あとがき」で、徳善義和先生がこの本の最後の箇所で、ルターの言葉として引用されているのを見たのが最初であったということが触れられている。そこで、ちょっと考えてみた。

ゲオルギウは、ルーマニア生まれだが、フランスに亡命した。この著作はフランス語で書かれた。C. V. Gheorghiu, "La seconde chance", 1952. ゲオルギウは、この本の中で「りんごの木」の言葉をドイツ語で記しているので、ドイツでこの言葉が広く知れ渡り始めた1950年5月以降かあるいはそれ以前に、この言葉を知ったのであろう。

『第二のチャンス』のドイツ語訳が出たのは、邦訳より遅く、1957年(ドイツ語タイトルは "Die zweite Chance")。したがって、ドイツ語訳の出版が遅かったため、ゲオルギウ『第二のチャンス』は、ドイツ語圏では「りんごの木」の言葉の広がりには貢献しなかったということだろう。

最近の引用

(1) 徳善義和

『マルチン・ルター 生涯と信仰』(教文館、2007年)。

「たとい明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える」
世界の終わり、それは神のみ手の中のことだ。この世界の完成としての、世界の終わりが神のみ手から来る。そのことをルターははっきり信じていました。それが神のみ手から来るものであるならば、あれやこれやと私たちが詮索してみたり、考えて悩んでみたりしてもしょうがない。それは神にお任せしよう。そして、私としては今日一日私に託されている仕事を精一杯行っていこうという、そういう気持ちはもうルターの生涯の中に絶えずあったわけで、それに似た言葉をルターはよく言っていますので、たといこの言葉がルターのものでなくても、考え方、信仰的な基本はルターのものだと言っていいと思うわけです。」

p.152-153。

徳善義和は、「滅びる」ではなく「終わりの日」と言っているところがポイント。「終わりの日」は、聖書に基づくキリスト教終末論の用語である(イザヤ2:2、エレミヤ23:20、30:24、48:47、49:39、ヨハネ6:39-54など)。この表現ならば、シュレーマンが指摘しているような世俗的な世界の滅亡のことではなく、キリスト教信仰の終末観に立った表現になっている。

(2) 江口再起

日本聖書協会編『日本聖書協会「宗教改革500年記念ウィーク」講演集』(日本聖書協会、2018年)に収録されている、江口再起「贈与の神学者ルター」の最後で、

ルターが語ったと語り継がれている、あの有名な言葉を引用して私の講演を終わりにしたいと思います。
「たとえ明日世の終わりが来ようとも、それでも今日わたしはリンゴの木を植える。」

p.59-60。

ここでも、「滅びる」ではなく「世の終わり」と言っている点がポイント。世俗的な世界の滅亡のことではなく、キリスト教信仰における終末の表現である。しかし、それならば、徳善義和のように「終わりの日」と言った方がより明確だろう。

ではどうするか?

おそらく、人々の口に上るごとに、少しずつ形成されていった言葉でありつつ、最終形に至ることなく、様々なバージョンが生まれ続けている言葉である。

では、引用する際、どのバージョンがよいだろうか。あるいは、どういう風に言うのがふさわしいだろうか。

  • 「明日」と「今日」の対比は活かしたい。
  • できるだけシンプルに言いたい。
  • 「世界が滅びる」というのは我々の終末観に合わない。むしろ、神の計画が成就し、世界が完成されるというキリスト教的な意味で「終わりの日が来る」あるいは「終末が来る」と言うのがよい。
  • しかし、いつ終末が来るかは、人間にはまったく分からないことである。そういう意味で、明日かもしれないが、その時を人間が前もって知ることは決してない。あらかじめ知ったとしたらという仮定は、まったくナンセンスである。
  • 後半に、「それでも」とか「それでもなお」という言葉が入るのは、明日終末が来ることをあらかじめ知ったとしたらということが前提になるので、これらの言葉を入れるのはおかしい。
  • キリスト教的終末観を表す言葉とするならば、世界の滅びとか人生の終わりに抵抗して希望を抱き続けるという言葉ではなく、いつ到来するか分からないが必ず到来する終末に向けて、たゆまず黙々となすべき務めに励むという意味に解すべきであり、できるだけそのように解せる表現にすべきである。

そうすると、前半は「たとえ明日終末が来ようとも」あるいは「たとえ明日終末が来るとしても」となる。「来るとしても」の方がいいか。

後半は、「わたしは今日りんごの木を植える。」でよいだろう。

そして、重要なことは、「これはルターの言葉であるという説は否定されているが」というような但し書きを必ず付け加えること。

結 論:

これはルターが言ったという説は否定されているが、
「たとえ明日終末が来るとしても、わたしは今日りんごの木を植える。」

柴田昭彦「真実を求めて」

この「りんごの木」の言葉の、日本での様々な引用について詳細に追究した、柴田昭彦のホームページ「真実を求めて」は力作であり、よく知られている。

  • 寺山修司はこの言葉を確信犯的に革命の言葉にしたとか、
  • 石原慎太郎が誰の言葉として紹介しているかの変遷や、
  • 梶山健編著『世界名言大辞典』(明治書院)で版を重ねても誤りが修正されていないどころかかえって改悪になっているとか、
  • 開高健の色紙の文言の異動を整理して、紹介している人が勝手に「リンゴ」を「林檎」としてしまっているなどの問題を指摘、
  • 書籍やテレビドラマなどでの引用を一覧にし、
  • リルケの詩集やトラークル全集を調べ上げてこの言葉がないことを確認、
  • ゲオルギウ『第二のチャンス』のフランス語原著まで入手して調査

しているのにはまったく脱帽する。


ルターのりんごの木 [読書メモ]


シュレーマン『ルターのりんごの木』.JPG

M.シュレーマン(棟居洋訳)、『ルターのりんごの木――格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ』、教文館、2015年(原著1994年)、321+9頁、2700円+税。

「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日なおわたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

この言葉がルターのものであることは否定されるものの、どこに起源があるのかという問題と、この言葉が戦後のドイツでどのように理解されて広まったかを、史料やアンケート調査をもとに丹念にたどった研究結果。

408箇所に付けられた注が、巻末の76頁を占めているが、参照されているのは、ほとんどドイツ語の文献。

文章は読みにくい。「著者の文章には、議論の筋道が錯綜している上、挿入文が多く、省略もかなりあって翻訳にあって苦労も多かった・・・」(「訳者あとがき」p.320)。

おおざっぱなまとめ。

A 言葉の起源と広がり

1.1940年代に出現

最も古い典拠は、領邦教会全国評議員会議長カール・ロッツの1944年10月5日付の内輪の回状(タイプライター打ち)。

「たとえ明日世界が滅びようとも、われわれは今日りんごの苗木を植えようではないか。」

※他との大きな違い:「われわれは」、「~ようではないか」。

この文書が現れる前に、教会の何かのグループの中で少なくとも口伝えで広がったと想定できる。

2.最初の印刷物は1946年

「女子聖書サークル」(MBK)がカール・ハイザー社から発行したカード。

「たとえわたしが明日世界が破滅することを知ったとしても、今日わたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

※他との大きな違い:「滅びる」ではなく「破滅する」。

3.「ひとりの著名な人」の言葉として

レナーテ・(フォン・デア・)ハーゲン、『火の柱』、ギュータースロー社、1947年。

「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、わたしは今日それでもなおわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

※他との大きな違い:「それでもなお」。

4.まったく別の分野で

フリッツ・カスパリ、『実り豊かな庭』、1948年。

この本はガーデニングの本らしい。しかも、この言葉の作者をフリードリヒ・ラウクハルトとしている。

「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、それでもわたしは今日なお木を植えるであろう。」

※他との大きな違い:「りんごの苗木」ではなく「木」。

5.1950年5月のラジオ放送

1950年5月20-21日、ヘルマンスブルクで行われた「ジャーナリスト会議」でニーダーザクセン領邦教会監督ハンス・リリエが語った。この会議の報告が、5月25日の22時~22時10分、北西ドイツ放送のラジオ番組で、ジャーナリストのティロ・コッホによってなされた。

「ある日マルティン・ルターが、もし明日世界が滅びることを確かなこととして知ったとしたら、あなたは何をしますか、と問われた時、わたしはそれでもなおりんごの木を植えるでしょう、と答えました。」

6.1950年5月末

マールブルクにおける少年警備団・福音主義教会(中等教育)生徒聖書研究サークル(BK)の全国会議で、(後の報告書によると、)ハンス・リリエと福音主義教会総会議長のグスタフ・ハイネマンが共にルターの言葉をもって発言の結びとした。

「たとえ明日世界が滅びるとしても、わたしはなお今日わたしのりんごの苗木を植えようと思う。」

二人が全く同じ文言で語ったかは不明。

7.1958年、ブリュッセル万博

「農業」部門のパビリオンの中に設けられたエントランス・ホールに、この言葉が様々な言語で掲げられ、マルティン・ルターの名が添えられた。

「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日わたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」

結 論

この言葉を確認できる最も古い史料の年は、1944年である。

1950年5月のラジオ放送とマールブルクの全国会議を通して、この言葉は、ドイツのプロテスタント及びその他の各方面に知れ渡り、また、一般社会にも広がった。その極めつけが1958年のブリュッセル万博だった。

B 誰の作か?

この言葉がルターのもとでは見つからない、ルターに由来を求めることは無駄であることは、1954年、1959年に確認された。

では、誰の作か?

1.シュヴァーベンの敬虔主義

シュヴァーベンの敬虔主義者が最初に言ったという説があるが、確認できない。

2.キケロ

キケロの「それでも彼は、将来初めて役に立つ木を植える」という言葉が我々が問題としている言葉と結びついていることを裏づけることはできない。

3.ヨハナン・ベン・ザッカイ

紀元一世紀のヨハナンの言葉が20世紀まで伝えられてきたという手がかりはまったくない。

4.フリードリヒ・クリスティアン・ラウクハルト

彼に由来するという説は極めて疑わしい。

ただし、聞き間違いがあった可能性はある。「ルター」と「ラウクハルト」は発音上、まったく違っているとは言えない。

また、フリッツ・カスパリの『実り豊かな庭』(1948年)という、宗教とまったく関係のないガーデニングの本で、ラウクハルトの作として言及されていることは、どう判断すればいいのか。

結 論

誰の作かは分からない。これまで出て来た様々な説は現在のところすべて否定される。

C ルターと関係があるのか?

ルターの詩編46:3の聖書翻訳に「すぐに世界が滅びようとも」とあり、また、「たとえ・・・であっても」という言い回しは、ルターの讃美歌「神はわがやぐら」の第3節に見られる。

しかし、「りんごの苗木」という表現はルターに見当たらず、ルター以外にも見受けられないなじみのない表現であり、決定的に独創性がある。

この言葉は世界の滅亡ということをまったく世俗的に理解しており、ルターの終末論や倫理を表現したものとは言えない。明らかに、20世紀半ば以前の時代の信仰、あるいは人生観の関心事を表現している。

結 論

今後、この言葉を「これはルターが言ったらしい」などと曖昧にすることは、もはや許されない。


十字架刑 [信仰]


主イエスの十字架刑について

1.残酷な十字架刑

ローマ帝国の処刑方法

犯罪人を十字架にはりつけにする処刑方法は古代の諸民族に多く見られるようですが、ローマ帝国は、奴隷などが大きな罪を犯した際に十字架刑を行いました。ローマの市民権を持つ者には十字架刑は用いられなかったほど、厳しい刑罰でした。

はりつけの木の形

はりつけにする木の形にはX型、T型などがありましたが、主イエスが掛けられたのは十字型のものでした。それは、罪状書きが上に掲げられた(マタイ27・37、ルカ23・38、ヨハネ19・19)ことからも分かります。

横木は背負わされて

十字架刑は、犯罪人を付けてから地上に立てる場合と、十字架を立ててからそこに犯罪人を付ける場合とがありました。主イエスの場合は、十字架の横木を背負わされて町の外の刑場まで歩かされ、そこにはすでに十字架の縦木が立てられていました。

釘は掌か手首か

十字架への付け方は、犯罪人の手首に釘を打ち込むか、縄で縛るのが通常だったようです。主イエスの場合はヨハネ20・24~29から、手のひらに釘を打たれたと見なされています。

すぐに絶命したのか

十字架刑に掛けられると、通常1~2日かけて死に至りました。しかし主イエスの場合は、わずか6時間ほどでした(マルコ15・25、34~。44節も参照)。

そのまま晒された死体

十字架刑は、人前で見せしめに行われ、また、すぐに絶命するのではなく時間をかけて死に至らされ、さらに、死後もそのままに晒されて猛禽の餌食とされました(主イエスの場合はアリマタヤのヨセフがその日のうちに遺体を引き取った。マルコ15・42~45ほか)。それゆえ、十字架刑はきわめて屈辱的で残酷な刑罰でした。

2.ローマ帝国による刑罰

ポンテオ・ピラトの判決

主イエスはローマ帝国の裁判によって十字架刑の判決を受けました(ヨハネ19・10)。その判決を下したのが、ローマ帝国から任命されてローマの属州ユダヤの総督になっていたポンテオ・ピラトでした。

世俗の裁判の意味

ユダヤ教の宗教裁判ではなく、世俗の裁判で死刑判決を受けたことが重要です。それは、主イエスの十字架刑による刑死が、世俗の全領域に及ぶことを意味しています。わたしたちの日常生活のすべてのみならず、国家や政治にも、主イエスの十字架の死の支配が及んでいます。

3.神の呪い

「木にかけられ者」の意味

旧約には十字架刑は出て来ませんが、申命記で、木に掛けられた者は神に呪われたものとされています(申命記21・22~23)(なお、この箇所の新共同訳の「木にかけられた死体」という訳は「木にかけられた者」に訂正されています)。おそらく、死体が晒されて猛禽の餌食となったむごたらしさが、神の呪いを受けたと理解されたのでしょう。

この言葉はガラテヤ3・13で、主イエスがわたしたちのために呪いとなってくださって、律法の実行によって義とされようとする呪いから信仰による義へとわたしたちを贖い出してくださったのだと受け止められています。

神への全き従順

主イエスの十字架刑は、「自らその身にわたしたちの罪を担ってくださった」ものであり(一ペトロ2・24)、主イエスがこのような十字架につけられたことは、神への全き従順によるものでした(フィリピ2・8、ヘブライ12・2)。

4.十字架の愚かさと伝道

十字架のつまずき

主イエスが残酷な十字架刑に処せられたことは、一般の人からすればまことに目を覆いたくなる忌まわしいものでしたが、しかしそれがわたしたちのためであったと受け止める者にとっては救いの出来事です。

現代においても、十字架は人々にとってつまずきとなるものですが、信仰者へと召された者にとっては神の力がそこに現されているものです。十字架のキリストは、「召された者には、神の力、神の知恵」(一コリント1・24)です。

十字架を誇りとする

それゆえ、世の人々にとってはまったくつまらぬものに見える十字架を、しかしわたしたちは誇りとします(ガラテヤ6・14)。それは、十字架につけられたキリスト以外は何も知るまいと心に決めるほどです(一コリント2・2)。

神の救いの力

わたしたちは、このようなキリストの十字架を宣べ伝えます。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力」(一コリント1・18)なのです。

(初出:『柏教会月報』、第405号、2017年3月号、p.1。)


ワーシップCD Jworship4 [音楽]


Jworship4_500.JPG

Jworshipのシリーズの第4作、2017年4月4日リリース。

分かる範囲での原曲情報とコメント。

『ジェーワーシップⅣ 日本に与えられた賛美の油注ぎ』、PHWM(Praise Honor Worship Ministry)、2017。

曲目リスト

1.花も
MEBIGの名曲。CD『さんび大爆発10』に収録されている。
YouTubeではNCM2 (New Christian Music Ministry)の演奏がよく再生されているようだ。
2.イエス様ふれてください
大和カルバリーチャペルの副牧師、倉知契の作詞作曲。『ジェーワーシップⅣ 賛美楽譜集』では漢字で「イエス様触れてください」になっている。
3.あなたがすべて
Acts2:44のセカンドアルバム『To the King』(2013年)の4曲目。
4.全地の王イエス
シオン・プレイズの1st『主は私の光』(2013年)の1曲目。
5.命の光
長沢崇史 with Special Bandの『道』(2012年)の1曲目。
2017年8月9~11日の日本基督教団宗教改革500周年記念「リフォユース500教会中高生大会」でも賛美された。
6.カルバリの十字架
中畑友里のアルバム『今は恵みの時』の3曲目。
7.主の愛注ぐ
Acts2:44のセカンドアルバム『To the King』(2013年)の8曲目。
8.山々が生まれる前から
ミクタム『ホーリーパワー』の3曲目。楽譜はPraise&Worship2(青本)-113。
ミクタムのCDの中の、水野弘子の透き通ったボーカルには全くかなわない。ただし、ミクタム『ホーリーパワー』では、全体を通して歌うのは1回だけで物足りなかったのだが、このJworship4では2回繰り返してくれて、さらにしつこくあちこち繰り返してくれているのは、とてもよい。
9.どんな時でも
Praise Station『希望の歌』(2012年)の1曲目。
10.天の御座におられる方に
中山有太 Worship Project『ホザナ』(2015年)の11曲目。
11.イエス様ふれてください Bilingual
日本語と韓国語
12.あなたがすべて Bilingual
日本語と韓国語

コメント

  • 「花も」とか「命の光」という既に定番になっている曲が取り上げられているのもよいが、その中で、新たな(?)発掘として「イエス様触れてください」が取り上げられたのがよい。
  • 全体として、どうしても外国人が歌っている日本語なので、ヘビーローテーションには耐えられない。次回作は、ぜひとも方向転換して、礼拝の中でそのまま再生して賛美できるような作品にしてほしい。
  • アレンジや演奏はよいので、ぜひカラオケ(インストルメンタル)も付けてください。

リンク


新撰讃美歌 [書籍紹介・リスト]


『新撰讃美歌』岩波文庫.JPG

岩波文庫から2017年に『新撰讃美歌』が出たのを機に、『新撰讃美歌』の覆刻、翻刻などの情報のまとめ。

『新撰讃美歌』は

  • 出版年:1890年(明治23年)。
  • 植村正久、奥野昌綱、松山高吉編。
  • 出版社は原本に明記されていないが、ほぼ確実に警醒社と考えられている。
  • 歌詞のみのもの、楽譜付きのもの、ソルファ譜(階名をアルファベットで記すなどによる文字譜)などの種類がある。
  • 全289曲。ただし、264~274は頌栄、275~286は詩編など、287~289は十戒、主の祈り、使徒信経。

1.写 真

国立国会図書館デジタルコレクション『新撰讃美歌』(明治23年12月)で、楽譜付きの原本を見ることが出来る。

2.覆刻・影印

(1)秋山憲兄編『覆刻 明治初期讃美歌 神戸女学院図書館所蔵オルチン文庫版』、新教出版社、1978年。

この中に譜附版が収録されている。解説:齋藤勇、原恵、辻橋三郎、茂洋、高道基。

(2)手代木俊一監修、『明治期 讃美歌・聖歌集成』全42巻、大空社。

  • 第22巻(1996年発行):『新撰讃美歌』明治23年
  • 第23巻(1996年発行):『Shinsen sambika』明治23年
  • 第24巻(1996年発行):『新撰讃美歌』[トニック・ソルファー譜附]明治24年

3.翻 刻

(3)尾崎安編『近代日本キリスト教文学全集15 讃美歌集』、教文館,1982年。

この中のpp.313-422が讃美歌委員編『新撰讃美歌』1890(明治23)年12月。

  • 歌詞のみ。
  • 序、目次および末尾の英文による序、目次、Index of Subject、Index of Tunesなどは省略。

(4)『新体詩 聖書 讃美歌集』(新 日本古典文学大系 明治編12)、岩波書店、2001年。

この中の「讃美歌集」が『新撰讃美歌』(明治23年12月)。

  • 楽譜は19曲のみを抜粋:4、15、21、38、41、60、63、68、74、81、97、132、160、169、172、208、214、219、274。
  • 英語の目次や各種のindexは省略。
  • 下山嬢子校注、解説。
  • p.538-552に補注あり。
  • p.585-598に解説あり。

(5)植村正久、奥野昌綱、松山高吉編、『新撰讃美歌』(岩波文庫青116-2)、岩波書店、2017年、270頁、780円+税。

「新 日本古典文学大系 明治編12」との異同:

  • 英語の目次・各種indexの省略は同じ。
  • 収録されている楽譜は異なる。文庫版に収録されているのは30曲:1、4、7、8、10、12、15、19、21、31、38、41、60、63、68、74、81、97、115、126、132、152、160、163、169、172、177、206、208、243。 (「新 日本古典文学大系 明治編12」に収録されていた19曲のうち、文庫版に収録されていないのは214、219、274の3曲。)
  • 注は全面的に簡略に書き改められて、巻末に置かれている。
  • 解説も新たに記されている。

というわけで、(1)~(4)が図書館でお目にかかるような本であるのに対し、岩波文庫版は、注も解説もしっかりしているし、何と言っても、活字になっているのでちゃんと読めるし、廉価なので、賛美歌集の歴史を学んだり、歌詞の変遷を調べたりするのに、必須アイテムである。

4.その他の情報

(1)『新 日本古典文学大系 明治編12 新体詩 聖書 讃美歌集』(岩波書店、2001年)の中の「聖書」とは

「旧約聖書――詩篇(抄)・雅歌」となっている。これは、山梨英和短期大学図書館山脇文庫所蔵の『舊約全書』(1888年(明治21年)、米国聖書会社)の復刻版『近代邦訳聖書集成7,8』(ゆまに書房、1996年)から、詩篇の抜粋54編と雅歌全文である。

  • 松田伊作校注、解説。
  • 篇・章、節は、『新共同訳聖書』に合わせられている。
  • 適宜区切りや改行を入れ、引用文は括弧で括られている。
  • 雅歌では単元ごとに一行空けられている。
  • p.537-538に補注あり。
  • p.578-584に解説あり。

(2)下山嬢子について

『新 日本古典文学大系 明治編12 新体詩 聖書 讃美歌集』、及び、岩波文庫版の、校注・解説の下山嬢子(しもやま・じょうこ)について。

著書の『島崎藤村――人と文学』(日本の作家100人)(勉誠出版、2004年)の奥付によると、

  • 1948年秋田県生まれ。
  • 東京女子大学文理学部卒、同大学院修士課程修了。
  • 現在、大東文化大学文学部教授。
  • 日本近代文学専攻。
  • 著書:『島崎藤村』、宝文館出版、1997年。
  • 編著:『日本文学研究論文集成30 島崎藤村』、若草書房、1999年。
  • 共著:『文学者の日記4 星野天知』(翻刻・解説)、博文館新社、1999年。

(3)国会図書館所蔵の讃美歌の目録

栁澤健太郎、「国立国会図書館所蔵讃美歌目録(和書編)」、国立国会図書館主題情報部編『参考書誌研究』第71号(2009.11)。(pdf)

  • 五十音順のリスト
  • 上の秋山憲兄編『覆刻 明治初期讃美歌 神戸女学院図書館所蔵オルチン文庫版』(新教出版社、1978年)は281番。収録されている内容も列挙されている。
  • 上の手代木俊一監修『明治期 讃美歌・聖歌集成』全42巻(大空社)は、239~280番。
  • この目録が、復刻版については、活字化した「翻刻」は原則として収録しないという方針のため、尾崎安編『近代日本キリスト教文学全集15 讃美歌集』(教文館)と岩波の『新体詩 聖書 讃美歌集』(新 日本古典文学大系 明治編12)は含まれていないが、尾崎安編『近代日本キリスト教文学全集15 讃美歌集』(教文館,1982年)は、281番のところで触れられている。

詩編のアルファベット歌 [聖書と釈義]


詩編のアルファベット詩とかアルファベット歌と呼ばれる作品の特徴と詩編の中での意味について。

1.旧約聖書のどこにアルファベット歌があるか

詩編9~10、25、34、37、111、112、119、145、
哀歌1、2、3、4、
箴言31:10~31。
  • 詩編9と10は、あわせて一つのアルファベット歌。
  • 新共同訳聖書の古い版では、詩編112のところに(アルファベットによる詩)と入っていないが、後に訂正された。111編と112編はそれぞれがアレフからタウまで揃ったアルファベット詩である。
  • ナホム1章もアルファベット詩っぽいが、ダーレトがないしカフで終わっちゃってる。ナホム、がんばっぺ!
  • ちなみに、哀歌5章は、アルファベット歌になっていないのに、節の数だけ22にあわせている。哀歌、どうしたんだ?

2.アルファベット歌の意義

  • 文字自体が力を持っていると考えられていた。
  • 暗記を助けるため。
  • 思想的な全体性を表現している。

などの諸説がある。

詩編のアルファベット歌の内容から、信仰生活と律法の教育のためと考えられる。

文 献:
太田道子「詩編 序論」、『新共同訳旧約聖書注解Ⅱ』p.91。

3.完全なアルファベット順か?

詩編のアルファベット歌も全部が完全であるわけではなく、途中、抜けがあったり、順番が入れ替わっていたりする。

  • 詩編9~10編:ダーレトがない。メーム、ヌン、サーメクもない。アインとペーが逆。ツァーデーもない。
  • 詩編25編:ベートが節の頭にない。ワウがない。コフもない。
  • 詩編34編:ワウがない。
  • 詩編37編:アインがない。
  • 詩編111編:完璧。
  • 詩編112編:完璧。
  • 詩編119編:完璧。
  • 詩編145編:ヌンがない。

4.詩編の中の特徴

特徴(1)

  • 詩編の中のアルファベット歌は、五部に分けられる詩編の第一部(1~41編)と第五部(107~150編)に出てくる。間の第2~4部にはない。
  • 詩編が5部に分けられるのは、律法(モーセ五書)にちなんでいる。
  • ということは、詩編の最初の部と最後の部にアルファベット歌が出てくるのは、律法や神の御業の完全さを印象づけるためと考えられる。

特徴(2)

  • 詩編第一部に含まれるアルファベット歌はどれも不完全である。
  • それに対し、詩編第五部に含まれるアルファベット歌は、ほぼ完璧である。

5.詩編第五部の中で

  • 111と112のアルファベット歌の後に、113~117編のハレルヤ詩編が続いている。
  • 119編の長大なアルファベット歌の後、120~134編の長い「都に上る歌」で都に上ってゆき、135編のハレルヤ詩編に至る。
  • 145編のアルファベット歌の後に、146~150編のハレルヤ詩編が続いている。

というわけで、アルファベット歌は、律法や神の御業の完全さを印象づけて、ハレルヤという賛美を導いている。

参考文献:
大住雄一「『詩篇研究』への補遺――アルファベットうたをめぐって」、『果てなき探究 旧約聖書の深みへ――左近淑記念論文集』、教文館、2002年、pp.186-206。

佐々木潤 Blessing Life [音楽]


佐々木潤のCDの紹介とデボーション用のCD・音楽について。

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"Blessing Life : Devotion Music vol.1"、RMJ Records、RMJ0008?。

レインボーミュージックジャパンRainbow Music Japanの佐々木潤による、静まって、聖書を読み祈るデボーション・タイムのためのインストロメンタル・ピアノ曲集の第一弾。全7曲。

  1. Prologue 「詩篇62編5、6節」 5:10
  2. はじめに Genesis「創世記」 4:05
  3. ともに Judges「士師記」 5:01
  4. いのり Samuel「サムエル記」 2:55
  5. ことば Micah「ミカ書」 3:35
  6. 約束 Joshua「ヨシュア記」 3:58
  7. Epilogue 3:14

全部で28分ということはジャケットに記されているが、各曲の時間は記されていない。

メロディ・ラインがややはっきりしている面があるが、全体をリピートし続けても十分、聖書や祈りに集中できる。

個人的には、メロディ・ラインをもっと抑制して、連続1時間くらいの黙想・静思の時間に使えるCDがあったらと感じる。

ところで、レインボーミュージックジャパンのCDの品番は、どうもめちゃくちゃ。大丈夫か、RMJ。

既に2009年に発売されたJun Sasaki, "Gentle Breeze: piano instrumental"の品番がRMJ-0008とCDのレーベル面に書いてある。今回の"Blessing Life"は同じ番号になっちゃってる。

さらに、2009年のRainbow Music Japan, "Over the Rainbow"は、CDとケースの背はRMJ0007なのに、ケース裏ジャケットはRMJ-0006になっている。RMJ0006は、SIZUKA, "フォロー・ユー すべてをゆだね"が2006年にRMJ0006で出ているので、"Over the Rainbow"は0007が正解。

ということなので、"Blessing Life"はRMJ-0009になるはず

Rainbow Music Japanのサイト

アルファトラックスの中のプロフィール・ページ

PBA太平洋放送協会のWeb番組What The Pastors!!に、最近、佐々木潤が出演した回:

わたしがRMJのCDを紹介した前回のブログ記事は、「オーバー・ザ・レインボー」(2010年4月2日付)

ワーシップソングのピアノ・インストCDなら、これまでにもいくつかあった。

  • 『ミクタム・インストルメンタル・ワーシップⅡ ピアノプレイズ』(ピアノは柳瀬佐和子)
  • 『ピアノリビングプレイズ1 I Will Praise』(ピアノは澤崎真理)
  • 『リビングプレイズインストゥルメンタルシリーズ 朝ごとに新しく』(ピアノの他にクラリネットやホルン、サックスなどが入る)
  • 『In His Hands: Acoustic Piano for Healing Moments (Piano Living Praise 2)』(ピアノはJeff Nelson)

など。しかし、やはり知っているメロディなので、音楽の方が主になって黙想を導くという感じになってしまう。

デボーション用ピアノインストCDには、次のものがある。

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Jeff Nelson, "Prayer Songs vol.1&2," Wholehearted Worship, 1999.

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"Prayer Songs vol.3&4," 2005.

しかし、メロディラインがはっきりしすぎており、テンポも速め、音数も多く、時々盛り上がりすぎ。

通常の音楽では聞く人をいかに惹きつけかが大切だと思うが、デボーション用の音楽は、人を音楽に向かわせるのではなく、神へと向かわせ、御言葉と祈りに集中させなければならない。じゃまをしてはならないので難しい。

というわけで、レインボーミュージックジャパンの今後に大いに期待する。

なお、YouTubeでsoaking worshipなどのキーワードで検索すると、1時間とか3時間のデボーションミュージックがいろいろ出てくる。

(2017.11.23,29、12.1加筆修正)


『礼拝と音楽』2016・2017 [音楽]


『礼拝と音楽』の2016~2017年に発行されたNo.168~175の8号分から、わたしにとって興味関心のある記事のメモ。

No.168、2016年冬号

(特集・礼拝の中の説教)
  • 「説教塾や神学校で若い人と触れる機会がありますが、最初に「好きな説教者は誰ですか」と訊きます。そうすると、ほとんど挙がらないんです。でも、好きな画家のいない美大生はいないはず。好きな作曲家のいない音大生はいないはず。好きなギタープレイヤーのいないバンドはないはず。」
    平野克己(平野克己と荒瀬牧彦の対談「「説教」か「礼拝」か 説教学と礼拝学の共働をめざして」、p.4)
  • 「説教者と奏楽者――それぞれの立場から礼拝を考える」pp.34-39。特に、この中の末次かおりによる「奏楽者の立場から――理想と現実の狭間で」
  • 宮越俊光「礼拝とシンボル 第7回 オランス・説教壇」、p.54-57。

No.169、2016年春号

(特集・礼拝とからだ)
  • 辻学「聖書の中の身体表現」、pp.4-8。按手と聖霊賦与の正統性に関する部分が興味深い。
  • 山本有紀「礼拝の中の身体の「居場所」」、pp.22-26。平和の挨拶に関する記述あり。
  • 宮越俊光「礼拝とシンボル 第8回 按手・塗油」、p.54-57。
  • 「主に向かって“新しく”うたおう! <3>」"God, Be the Love to Search and Keep Me" (詞・曲:Richard Bruxvoort Colligan) → YouTubeで検索

No.170、2016年夏号

(特集・後期ロマン派のオルガン音楽 19世紀はおもしろい!)
  • 橋本祐樹「現代ドイツ・プロテスタント教会礼拝事情――種々の新しい試みと『プロテスタント礼拝式文』(UEK/VELKD, 1999)に触れて」、pp.44-47。UEKとVELKDの紹介と、"Evangelisches Gottesdienstbuch," UEK/VELKD, 1999の紹介あり。

No.171、2016年秋号

(特集・ライフサイクルにおける祝福)
  • 宮越俊光「子どもの祝福――祝福式に基づく七五三の祝いの可能性」、pp.10-13。p.11に、子どもへの祝福の祈りの例が2つあり。
  • 岩田昌路「祝福を受け継ぎ、祝福を告げる教会」、pp.20-23。高齢教会員の牧会に関する取り組みの紹介。小見出し:狛江教会の創立と特徴、信仰宣言、具体的改革のための心得、三回の主日礼拝、平日の聖餐礼拝、送迎システム、第一礼拝における聖餐執行。
  • 「「堅信礼」をどうとらえるか――カトリック、聖公会、ルター派、改革派、メソジストの例から」、pp.28-37。カトリック:アンドレ・ヴァン・カンペンハウド、聖公会:吉田雅人、ルーテル教会:乾和雄、アメリカ改革派教会:ウェイン・ジャンセン、メソジスト:林牧人。

No.172、2017年冬号

(特集・初期バロックの教会音楽)
  • 特になし。

No.173、2017年春号

(特集・聖歌隊――礼拝のために、礼拝とともに)
  • 山本美紀「「共にうたうこと」から考える「うたの力」――キリスト教のうたう文化としての「賛美」と近代以来の日本の「合唱」」、pp.10ー14。1937年の日中戦争勃発を契機に、国民の不満を解消しつつ体制に組み込んでいくための厚生運動として、合唱運動が国家的規模で拡大した。合唱は職場をまとめ、戦争遂行のための生産力向上を目指すツールであった。 誰もが小学校や中学校で経験した合唱コンクールが発表会ではなくコンクールであるのは、合唱が、戦前から、所属する集団を意識させ、結束を固め、一つの目標に向かって教化し、望む方向に質を高めるものだったからだ。
  • 高橋牧、飯靖子「礼拝の中での聖歌隊の役割と可能性」、pp.28-34。
  • 志村拓生「『讃美歌21』刊行までのあゆみ――日本の賛美歌集編纂の歴史をふりかえる」、pp.46-49。
  • 「ブライアン・レンは、説教に合う賛美歌が既存の賛美歌集に見つからなかったために、よく知られた曲で歌える新しい詞を書いた」。
    p.53。
  • 宮越俊光「礼拝とシンボル 第12回 座る・沈黙」、pp.54-57。

No.174、2017年夏号

(特集・賛美歌とことば)
  • 「賛美歌は専門家によって教会の制度の外からもたらされるものでもない。また個人の敬虔が教会の賛美歌を生み出すのでもない。賛美歌を生み出すのは教会の礼拝の現実であり、神の現臨のリアリティーであり、礼拝共同体の応答ではないのか。」
    深井智朗「1717年から2017年へ――神学と賛美歌について」、p.8。
  • 「主に向かって“新しく”うたおう! <8>」"Love divine, all loves excelling" 詞:Charles Wesley、曲:W.P.Rowlands(tune name:BLAENWERN)詞は「あめなるよろこび」(『讃美歌21』475、476)。日本語の「あめなるよろこび」とBLAENWERNとの組み合わせは『教会福音讃美歌』328にある。ウィリアム王子とキャサリンの結婚式で歌われた讃美歌。→ YouTube

No.175、2017年秋号

(特集・礼拝改革者ルター)
  • 伊藤節彦「ルター周辺の改革者たち――礼拝における影響」この中に、ローマ・カトリック、フォーミュラ・ミサ(1523年)、ミュンツァーのドイツ語ミサ(1523年)、ルターのドイツ語ミサ(1526年)、ブツァー(1539年)、カルヴァン(1545年)の比較一覧表あり(p.18)
  • 井上義「”コンテンポラリー”を識る」連載1(pp.57-54、横書き) ついに『礼拝と音楽』もプレイズ&ワーシップに関心を持ち始めたのか。
  • 「主に向かって“新しく”うたおう! <9>」"O For a Thousand Tongues to Sing" 詞:Charles Wesley、曲:Mark A. Miller 『讃美歌21』4番をコンテンポラリーな8ビートで歌う。→ YouTubeで検索
  • "O God, You Search Me" 詞・曲:Bernadette Farrell 詩編139編をモチーフにした賛美歌。→ YouTubeで検索

ルターの礼拝から学ぶこと [礼拝]


ルターの礼拝の要点

  1. 礼拝は人間の業ではなく神の奉仕であり、神の御業の現れるところであるから、聖書に反する部分を取り除き、神の言葉を強調。(説教の重視、二つに限定されたサクラメント、実体変化や犠牲奉献を取り除き、制定の言葉を重視など)
  2. 全信徒祭司性による会衆の参与。(自国語の使用、二種陪餐、会衆賛美など)

ルターの礼拝改革の進め方

  1. 人々への配慮から、急進的な改革はしない。特に弊害のない事柄は、廃れる時や取り除くにふさわしい時が来るのを待つ。
  2. 一つの形が絶対化されてはならない。どのような礼拝順序を取るかについて自由を尊重する。

ルターの礼拝改革に学ぶこと

  1. 御言葉の強調。神の言葉の説教と、聖餐における制定語の重視。(パンのかたまりを裂く行為などは、「見せ物的ミサ」への逆戻りである。)
  2. 礼拝への信徒の参加や会衆の参加を、様々に工夫する。(読み交わす部分を多くするとか、聖書朗読も教会員が当番で行うなど。賛美の伴奏もオルガンだけで行うのではなく、合奏にしたりコーラス隊を入れたり。)
  3. 自国語で賛美歌を歌う。(キリエ・エレイソンとかグロリア・インエクセウシス・デオとかの伝統的典礼的に定着している言葉は別として、「アラル・アラメ」(21-272)、「サレナム、サレナム」(21-508)、「バーニング・ハート」(21-555)などとは歌わない。そうすると、「ノエル、ノエル」(21-258)も微妙。クリスマスに歌わないわけにはいかないけけど。)(聖歌隊も、気取ってラテン語などで歌うことはしない。)
  4. ふさわしい賛美歌がなければ、作る。(個人で賛美の詞を書いてます、曲を作ってますという人もたくさんいるけど、教会として礼拝のために。教会オリジナルの讃美歌を作っていると聞いたことがあるのは、阿佐ヶ谷教会、西千葉教会(合唱曲?)、鎌倉雪ノ下教会(いまでも?)、行人坂教会などなど。)
  5. よりよく礼拝するために信仰を理解する学びも重要。(三要文(さんようもん)すなわち、十戒、使徒信条、主の祈りの学び。「この三篇には、キリスト者が知る必要のあるほとんど全てが、簡潔に短く示されている。」(ルター「ドイツミサと礼拝の順序」『ルター著作集 第1集第6巻』p.424))(『信仰の手引き――日本基督教団信仰告白・十戒・主の祈りを学ぶ』を用いた学びを教会全体で行うことも、宗教改革500周年の記念として意味がある。)
  6. 従来の礼拝に慣れ親しんだ人たちに配慮し、また、目新しいものにすぐに飛びつく人たちがいることに注意し、急進的な改革はしない。
  7. 礼拝の順序自体が絶対化されてはならない。ただし、ころころ変えるのは混乱するのですべきでなく、一方、弊害があればすぐに変更すべき。

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