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よく知られている讃美歌 [音楽]

『讃美歌21』の中にある曲に限定して、

讃美歌であると認識されているかどうかは別にして、

教会に来たことのない人にも割と知られている(と思う)讃美歌10曲。

この曲は讃美歌になっているんです、とか、讃美歌なんですよ、というアプローチのために。


● 120 主はわが飼い主 The Lord's my shepherd
戦メリ

● 211 あさかぜ静かに吹きて Still, still with Thee
メンデルスゾーンの無言歌第2巻op.30の第3曲Consolation。

● 261 もろびとこぞりて Hark the glad sound! The Savior comes
クリスマス。ヘンデル。

● 264 きよしこの夜 Stille Nacht, heilige Nacht!
英語ではSilent night, holy night。クリスマス。最もおなじみ。

● 434 主よ、みもとに Nearer, my God, to Thee
タイタニック

● 451 くすしきみ恵み Amazing grace
『讃美歌第2編』167では「我をも救いし」、『聖歌』では「おどろくばかりの」なのでややこしい。本田美奈子.

● 471 勝利を望み We shall overcome
ニグロ・スピリチュアル、プロテストソング。

● 493 いつくしみ深き What a friend we have in Jesus
『讃美歌21』では「いつくしみ深い」。葬儀でも結婚式でも歌われる。
文部省唱歌「星の界」(ほしのよ)(杉谷代水作詞)、「星の世界」(川路柳虹作詞)。

● 504 主よ、御手もて Thy way, not mine, O Lord
ウェーバー、魔弾の射手

● 532 安かれ、わがこころよ Stille, mein Wille
英語ではBe still my soul。シベリウスのフィンランディア。


これらの中でもベスト3を選ぶとしたら、
  264 きよしこの夜
  451 くすしきみ恵み
  493 いつくしみ深き
だろう。




J-popのハレルヤ [音楽]

教会に来たことがない若い人たちに、

Jポップによく出てくる「ハレルヤ」ってどういう意味か知ってる?

・・・という展開に使うために、

タイトルに「ハレルヤ」が入っている最近のJ-Pop、10曲。
(主にYouTubeで「ハレルヤ」で検索)

『ごちそうさん』で毎日聞いてた年配の人もいる、ゆずの歌だけでいいのだが、せっかくなので調べてみた。

より以前の名曲には、黛ジュンの「恋のハレルヤ」(1967年、後に荻野目ちゃんがカバー、ちなみに荻野目洋子は柏市出身)とか泉谷しげる(1989年)とかある。



ゆず「雨のち晴レルヤ」 (NHK連続テレビ小説『ごちそうさん』(2013年度下半期)の主題歌)

AAA (トリプル・エー)「ハレルヤ」 (エイベックスのダンス・ポップ、2006年)

GReeeeN「ハレルヤ!!!!」 (2009年のアルバム『塩、コショウ』に収録)

セカイイチとFoZZtone「ハレルヤ」 (『バンドマンは愛を叫ぶ』2014年に収録)

moumoon(ムームーン)「ハレルヤ」 (2011年のアルバムに収録)

普天間かおり「ハレルヤ」 (Leonard Cohenの'Hallelujah'を日本語でカバー!)

Bitter & Sweet「ハレルヤ」 (アイドルっぽい女性2人ユニット。2015/12/23発売のミニアルバム収録)

la la larks「ハレルヤ」  (2015年)

JOYSTICKK「ハレルヤ」 (ヒップホップ)

RAG FAIR「ハレルヤ」 (アカペラ男性グループ、2005年)

Mr.Children「Hallelujah」 (2000年のアルバム『Q』に収録)


ミスチルまで入れたら11曲になった。




タグ:青年伝道

山内進編『正しい戦争という思想』 [読書メモ]

山内進編、『「正しい戦争」という思想』、勁草書房、2006年、14+270+32頁。

一橋大学21世紀COE「ヨーロッパの革新的研究拠点――衝突と和解」の研究成果。

これまで日本になかった、「正しい戦争」あるいは「正戦」に関する基本書としての位置づけで発行された。

第1部は歴史的視点から、ヨーロッパの内と外での正戦論を考察。
第2部は宗教的視点から、キリスト教とイスラム教の正しい戦争論を考察。
第3部は現代思想的論点から、ヨーロッパ(特にドイツ)とアメリカの知識人の議論と国際法理論とを検討。


目 次

はしがき――「正しい戦争」という思想 山内進

序論 聖戦・正戦・合法戦争――「正しい戦争」とは何か 山内進

第1部 ヨーロッパの内外から見た「正しい戦争」

第1章 異教徒に権利はあるか――中世ヨーロッパの正戦論 山内進

第2章 ≪征服はなかった≫――インカ帝国征服戦争――正戦論に対する敗者の異議申し立て 染田秀藤

第2部 キリスト教とイスラームの「正しい戦争」

第3章 キリスト教の正戦論――アウグスティヌスの聖書解釈と自然法 荻野弘之

第4章 イスラームにおける正しい戦い――テロリズムはジハードか 奥田敦

第3部 現代の「正しい戦争」論――ヨーロッパとアメリカ

第5章 20世紀における正戦論の展開を考える――カール・シュミットからハーバーマスまで 権左武志

第6章 最近のアメリカが考える「正しい戦争」――保守とリベラル 阪口正二郎

第7章 国際法から見た「正しい戦争」とは何か――戦争規制の効力と限界 佐藤哲夫

結びにかえて――「正しい戦争」の道徳性 森村進


巻末に文献表(本文の章ごとには分けられていない)と事項索引、人名索引。



以下、「はしがき」と「序論」を読んでのメモ(p.41まで)。


はしがき

・ 戦争が良いか悪いかという判断とは別に、正しいか正しくないかという判断基準がありうる。

「正戦」(justum bellum, just war)は西洋精神史の中で培われてきた神学的・法学的概念である。これに対して、「正しい戦争」(justifiable warとかrighteous warとかgood war)はより一般的に、思想として戦争の是非を論じたり、他文明圏を含めて議論する場合の表現である。

・ 西洋は古代ギリシア・ローマ時代から正戦論を発達させてきたので、現代においても欧米的発想では正しい戦争と正戦が一体的に論じられることが多いが、これらは区別すべきである。正しい戦争がありうるとしても、それは西洋的正戦と同一のものとは限らない。



序論 聖戦・正戦・合法戦争――「正しい戦争」とは何か

正しい戦争は、①神との関係で正当化される聖戦、②ヨーロッパ的観念である正戦、③国際法的な意味で合法とされる戦争に分けられる。

1.正しい戦争
・ 戦争に対する態度は、大きく①肯定派、②否定派、③条件派に分けられる。

・ 肯定派は戦争を賛美する立場、否定派はいかなる戦いも認めない立場である。「正しい戦争」論は、戦争は本来行うべきでないし、避けなければならないが、決して戦わないという選択は非現実的であるとして、条件付きで戦争を認める立場に含められる。

・ 「正しい戦争」の論点は、戦争を行うか行わないかではなく、それが正しい武力行使か否かである。そこでは、事情によっては許される戦争があるというという考えを前提としている。

・ 「正しい戦争」論は、自衛戦争すら認めないというわけではないが、すべての戦争を認めるのでもない。武力行使の必要な事態があることを認め、しかし、その原因と方法に「正しさ」という条件を付すものである。この点で、「正しい戦争」論は、時として「緩やかな平和主義」と重なり合う。


2.聖戦
・ James T. Johnson (1997) による分類:
①神の命令のもとに戦われる戦争――古代イスラエルやイスラームのジハード。これはまず武器への特殊な呼び掛けではなく、信仰への熱意に対する命令である。
②正しく権威づけられた神の代理人により、神のために戦われる戦争――十字軍、スンニ派の指導者の呼びかけによるものなど。
③神自身によって戦われる戦争――旧約聖書。
④内外の敵から宗教を守るための戦争――古代ユダヤ、ジハード。
⑤正しい宗教を宣伝するか神の権威と一致する社会秩序を打ち立てるために行われる戦争。
⑥宗教的一体性を強調し、かつ(あるいは)逸脱者を処罰するために行われる戦争――異端に対する戦い。ドナティウス派に対して、アルビ派・カタリ派への十字軍など。
⑦参加者自身が儀式的にかつ(あるいは)道徳的に「聖」的になる戦争。

・ 十字軍は正当な神の使い、代理人によって訴えられて遂行された聖戦(praelia sancta)である。宗教性を絶対的要因とする聖戦は、正戦そのものではない。

・ 20世紀後半から21世紀にかけて、再び十字軍的とも思える正戦論や聖戦的ジハードが語られることが多くなり始めたが、まず聖戦と正戦を論理的に区別しなければならない。


3.正戦――古代・中世
・ 正戦はあくまでヨーロッパ的な概念であり、聖戦が宗教的であることを決定的要素とするのに対し、正戦は、祖国の防衛など正当な理由を根拠とする戦争である。(ただし、正戦が根拠とする理由は多岐にわたり、そのなかに宗教的理由を含む場合もある。この場合は、聖戦は正戦の一部と言うことになる。)

・ ヨーロッパ中世においては、宗教的社会であるゆえに正戦と聖戦はしばしば重なり合っていた。しかし、近世初頭のヨーロッパの国際法学者たちによって、聖戦と正戦は切り分けられた。

・ アウグスティヌスは、「神の意思」「神の命令」を重視し、その意味で聖戦論を語ったが、言葉は正戦を用いた。ここから、ヨーロッパキリスト教世界に正戦という言葉が流布し、キリスト教といえども場合によっては武器をもって戦うことが許されるという思想が根付いた。

・ トマス・アクィナスの正戦論は、『神学大全』2.2.40「戦争について」に示されている。正戦であるには、①正当な権威、②正当な原因、③正当な意図の三つがすべて必要である。このいずれも、神の意思と関係づけられるわけではない。この点で、アクィナスの正当戦争論は後世に多大な影響を与えた。


※p.19「キケローの正戦論は世俗的なもので、キリスト教の教義とは何の関係もなかった」って、あったりまえじゃん。キケロは紀元前の人間だよ。


4.正戦――近世・近代
・ トマス・アクィナスは聖戦的要素を正戦論の基本的要素から排除し、異教徒との共存の可能性を認めていた。これは中世から近世に到る一つの重要な思想的系譜である。

・ グロティウス(「国際法の父」と呼ばれる)は、スペインの近世スコラ学者たちと同様に、宗教の違いを理由とした攻撃を認めず、自然法を論拠として、徹底して世俗的な正戦論を展開した。

・ ヨーロッパの拡大と理性的普遍主義の中で、人肉嗜食などの人道に反する行為に対して戦争を行使することは合法とされるという主張が出て来た。これは、自然法に基づく普遍的規範を根拠にした刑罰戦争であり、普遍的正義・権利のための正戦であった。

・ ヨーロッパが洗練された文明的存在として意識されるようになると、ヨーロッパは一個の共同体であって、諸国家はその一員と考えられるようになった。その中での主権国家間の争いは、バランス・オブ・パワーの回復の争いに過ぎず、相手もまた主権国家であると尊重されるとされた。

・ エメリッヒ・ヴァッテル(1714-67)は、主権国家は平等であるゆえ、一方が正しく他方が不正であると決めることはできないとした。したがってもはや正戦論ではない。すべての戦争は、主権国家がその最高の意思に基づいて推進するものであるから、主権国家が戦争をすると決断すれば、それを止めるものは何もない。しかし、ヨーロッパは諸国家間の諸関係と種々の利益とによって連結されている集団を形成しているので、主権国家は、相手の殲滅や吸収、奴隷化、植民地化を目指してはならないという一定のルールのもとに戦わなければならない。

・ 戦争は、単に紛争に決着を付ける最終手段に過ぎないものとなった。殲滅と支配ではなく、賠償と条約によって戦争は終結する。戦争の正しさとは、フェアプレーを行うこととなった。そのルールを定める規則が戦時国際法である。


5.合法戦争
・ 二つのハーグ平和会議(1899、1907)で、戦時の国際法が成文化された。それは、文明国間の条約で定められたものだった。また、それは戦争の防止を図るものでも、戦争の正・不正を図るものでもなく、交戦方法や手段の規制、中立制度の確定を目指すものだった。

・ ヴォレンホーヴェンは、ヴァッテル以後の、主権国家による独断的な戦争の自由を批判して、そのような侵略行為は諸国家の連合軍で撃破すべきだとし、国際的な協力のもとで平和を構築することを主張した。これによって、「違法な戦争」という概念が国際法思想の中に取り入れられた。こうして、グロティウスの刑罰戦争論が再び浮上し、正戦論が復活した。

・ 現代における「正しい戦争」とは、個々の国家や集団が自らの判断で正当性を主張する聖戦や正戦ではなく、国際法に照らして正しいとされる戦争のことであり、国際社会が実定国際法または国際機関または国際世論によって合法とみなす戦争のことである。





以前のブログで関連の文献紹介記事:千葉眞編『平和の政治思想史』おうふう、2009年。




タグ:戦争と平和

辻学『偽名書簡の謎を解く』 [読書メモ]

辻学、『偽名書簡の謎を解く――パウロなき後のキリスト教』、新教出版社、2013年、233頁、2200円+税。

読書メモ、その他。

課題について
「第2パウロ書簡は、パウロの書き遺した内容をどう理解し、実践するべきなのかという課題の前に、パウロなき後のキリスト教徒たちが立たされた状況から生まれてきた文書である。・・・そうだとすれば、これは私たち現代のキリスト教徒が抱える課題と同じではないか。」
(pp.6-7)

先行研究について
「〔第2パウロ書簡は〕真正パウロ書簡と比較すると神学思想が希薄だとか、創造性に欠けるとか、パウロ思想をきちんと継承していないといった批判があちらこちらの注解書や神学書には見られる。」
として、土屋博『牧会書簡』(日本キリスト教団出版局、1990年)について、
「土屋(1990)の牧会書簡注解はその典型例である。」とし、具体例を挙げて「著者の主観が十分に反映していると思う」と記している。(pp.7-8)

内 容
第1章
「パウロ学派」なるものは想定できるのか?という問題について。

第2章
他人の名を語って書くことは古代においてもはばかれた。それで、不自然にならないように記述が工夫され、意図的に曖昧な状況設定になっている。このことを各書について示す。

そして、第3章~第6章で、各書ごとに、より詳細に、なぜ偽名だと判断できるのか、真筆らしく装っている工夫点や状況設定、執筆の意図や時期について論じる。

その際、第2パウロ書簡の取り上げる順序は、Ⅱテサ、コロサイ、エフェソ、牧会書簡の順になっている。コロサイを最初とする通例と異なりⅡテサから始めるのは、それが第2パウロ書簡の典型であり、また、もしかしたらⅡテサが第2パウロ書簡の中で最も早く作られた可能性も否定できないからとする。(p.63)

牧会書簡について、なぜ個人宛なのかについては、「もはや新たな教会宛書簡を造り出すには危険が大きすぎるので、個人宛書簡集が見つかったという体裁」がとられたとする。(p.189)

第7章は「まとめ」。
第2パウロ書簡は、パウロ思想の修正であり、しかし、これこそ正しいパウロ理解だと提示しようとしている。

では、新約正典として第2パウロ書簡をどう読むか? 福音書間に矛盾や対立があるのとおなじく、パウロ書簡についても、立体的に多様なパウロ理解を読み取ることができるはず。(p.206あたり)

書 評
・『本のひろば』(キリスト教文書センター、2013.12)に永田竹司による書評(pdf)あり。

・日本基督教学会編『日本の神学』53(2014)に前川裕による書評(pdf)あり。専門的な書評というよりも内容紹介的だが、このぐらいがわたしにはありがたい。

・『新約学研究』(43号、2015)に三浦望による書評あり。 日本新約学会のサイトには、現在第41号(2013年)までしか掲載されていない。



辻学による主な注解書や緒論
(広島大学の辻学研究室のサイトを参考)
1.『新共同訳 新約聖書略解』(日本基督教団出版局、1999年)の、ヤコブ、ⅠⅡペトロ、ユダを執筆している。

2.『ヤコブの手紙』(現代新約注解全書)、新教出版社、2002年。著者研究室のサイトによると、今となっては、修正を加えたい箇所もあるとのこと。

3.緒論的内容は、『新版 総説新約聖書』(日本基督教団出版局、2003年)で、牧会書簡とヤコブを担当している。

4.『福音と世界』2016年3月号から、Ⅰテモテの釈義の連載開始。

5.日本基督教団出版局から刊行予定の『NTJ ─新約聖書注解』のシリーズでは、ⅠⅡペトロとユダを担当。


というわけで、NTJでペトロとユダが出たら、あとは、『福音と世界』の連載がまとめられて牧会書簡の注解が出るのが期待される。


おまけ:辻学のブログあり




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