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カント「永遠平和のために」(5) [読書メモ]

3.気になる言葉のメモ (3)付録より

 その国の公法に不正が含まれるとしても、完全な成熟にいたるまで、あるいは平和的な手段でこれを実現できるようになるまでは、そのままの状態を保つことが許容される・・・。時期尚早な変革を遂行した場合には、法的な体制が全く存在しない無政府状態に陥る運命にあるからである。(付録一より、中山訳、p.221)

 人間のうちの道徳的な原理は決して消滅することがないのであり、この原理にしたがって着実に法の理念を実現しようとする理性は、進歩を続ける文化をつうじて常に成長していく。(付録一より、中山訳、p.238)

 政治は道徳の前に屈しなければならない。しかしそのことによってこそ、政治が輝きつづけることができる状態にまで、たとえゆっくりとではあっても、進歩することを希望することができる。(付録一より、中山訳、p.239)

 国際法がそもそも可能であるためには、まず法的な状態が存在していなければならない。この法的な状態がない自然状態では、どのような法を考えても、それは私法にすぎない。(付録二より、中山訳、p.249)

 法に対する尊敬という法論の意味での道徳の前には、政治は膝を屈しなければならない。(付録二より、中山訳、p.251)

 公法の状態を実現することは義務であり、同時に根拠のある希望でもある。これが実現されるのが、たとえ無限に遠い将来のことであり、その実現に向けてたえず進んでいくだけだとしてもである。だから永遠平和は、・・・単なる空虚な理念でもなく、実現すべき課題である。(付録二より、中山訳、p.253)

カント「永遠平和のために」(4) [読書メモ]

3.気になる言葉のメモ (2)「追加条項」より

人類が永遠平和に向かうことを保証するのは、摂理あるいは「自然」である。:
 永遠平和を保証するのは、「偉大な芸術家である自然」である。この自然は、運命と呼ぶこともできれば、摂理と呼ぶこともできよう。しかし、人間があたかも摂理を認識できるかのごとくに振る舞って摂理という語を使うよりも、自然と言った方が、人間の理性の限界を考えると適切であり、謙虚でもあろう。(第一追加条項より)

 言語と宗教の違いは、諸民族のうちにほかの民族を憎む傾向を育み、戦争の口実を設けさせるものではあるが、一方では文化を向上させ、人々が原理において一致して、平和な状態でたがいに理解を深めあうようにする力を発揮する。・・・(このように)自然は賢明にも、(一方で)諸民族を分離させて(おり)、他方では、・・・たがいの利己心を通じて、諸民族を結合させているのであり、これなしで世界市民法の概念だけでは、民族の間の暴力と戦争を防止することはできなかっただろう。・・・自然はこのような方法で人間にそなわる自然な傾向を利用しながら、永遠平和を保証しているのである。もちろんこの保証は、永遠平和の将来を理論的に予言することのできるほどに十分なものではないが、実践的な観点からは十分なものであり、・・・。この目的に向かって努力することが、われわれの義務となっているのである。(第一追加条項より、中山訳、p.208-210)

国家は哲学者の言葉に耳を傾けよ。(第二追加条項より)

カント「永遠平和のために」(3) [読書メモ]

3.気になる言葉のメモ (1)「予備条項」、「確定条項」より

平和とは、すべての敵意をなくすこと。(中山訳、p.149)
平和とは一切の敵意が終わること。(宇都宮訳、p.13)
平和というのは、すべての敵意が終わった状態をさしている。(池内訳、p.54)

常備軍が存在すると、どの国も自国の軍備を増強し、他国よりも優位に立とうとするために、限りのない競争がうまれる。(中山訳、p.152)

戦争とは、・・・暴力によって自分の権利を主張しようとするもの。(中山訳、p.156-7)

敵対行為が発生しているというわけではないとしても、敵対行為の脅威が常に存在する状態のほうが「自然状態」であるので、平和は新たに創出すべきものである。(第2章の確定条項の冒頭部分)

国家の形式を区別するには二つの方法がある。
 A 国家の最高権力を握っている人格の数の違いで区別する:「支配の形式」:支配する権力を握るのがただ一人か、数人か、市民社会を構成するすべての人であるかの三つの可能性があり、それぞれ、君主制、貴族制、民衆制と呼ばれる。
 B 元首の数を問わず、元首が民をどのような統治方法で支配するか、憲法に基づいて国家がその権力を行使する方法によって区別する:「統治の形式」:これによる区別には、共和的であるか、専制的であるかの二種類だけがある。共和政体とは行政権(統治権)が立法権と分離されている国家原理であり、専制政体とは、国家が自ら定めた法律を独断で執行する国家原理である。(第一確定条項より)

 「代議的でないすべての統治方式は、ほんらいまともでない形式である。というのは、立法者が同じ人格において、同時にその意志の執行者となりうるからである。・・・法の概念に適った統治形式は、代議制だけである。共和的な統治形式が機能するのは、代議制においてだけであり、代議制なしではその国家体制がどのようなものでも、専制的で暴力的なものとなる。」(第一確定条項より、中山訳、p.171、173)

 平和状態は、諸国家間の条約によらなければ、成立させることも保証することもできない。だから、「平和連合」(foedus pacificum)(中山訳は「平和連盟」)とでも呼べるような特別な連合がなければならない。これは「平和条約」(pactum pacis)(中山訳は「和平条約」)とは異なる。平和条約は一つの戦争を終結させようとするだけだが、平和連合はあらゆる戦争を永遠に終わらせることを目指している。(第二確定条項より)

カント「永遠平和のために」(2) [書籍紹介・リスト]

2.主な邦訳は次の3つ。

(1)宇都宮芳明訳『永遠平和のために』(岩波文庫青625-9)、岩波書店、1985年、138頁、525円。
 副題は「一哲学的考察」と訳されている。訳注は80箇所。訳者による解説は14頁。全体でも138頁の薄い本。さすがに他の訳に比べて訳文は硬く、活字も小さい。

(2)中山元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』(光文社古典新訳文庫)、光文社、2006年、387頁、680円。
「啓蒙とは何か――「啓蒙とは何か」という問いに答える」、「世界市民という視点から見た普遍史の理念」、「人類の歴史の憶測的な起源」、「万物の終焉」、「永遠平和のために――哲学的な草案」の5編を収録。訳者による小見出しが適宜付されていて、読みやすい。「永遠平和のために」にはpp.147-273で、50箇所に訳注が付けられている。巻末には、6頁の「カント年譜」と、pp.280-384の100頁を超える訳者による「解説――カントの思考のアクチュアリティ」。
 カントが「共和制」や「民主制」をどのような意味で用いているかについては、中山元による解説を読む。

(3)池内紀(おさむ)訳『永遠平和のために』、綜合社(発売:集英社)、2007年、114頁、1365円。
 是非とも若い人に読んでもらうべく企画され、前半50頁は『永遠平和のために』の中からのアンソロジーとカラー写真、pp.53-90が本文で、200年以上も前の文体は捨て、学問的措辞や用語にこだわらず、検閲官用の構文は無視し、なるたけ簡明な日本語で訳された(訳者による「解説」p.113)。注は付けず、原注も省略、宇都宮訳や中山訳と比較すると「超訳」とも言えるような訳文。二つの補説は抄訳、二つの付録は、アフォリズム風に抜き書き。全体で114頁、ハードカバー。

 というわけで、まず池内訳で入門したのち中山訳でじっくり読むか、中山訳で読んだ後に池内訳でポイントを確認するか。

カント「永遠平和のために」(1) [読書メモ]


1.インマヌエル・カント「永遠平和のために」(Immanuel Kant, ”Zum ewigen Frieden,” 1795.)は、すでに三批判書(『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』)を出した後の1795年に上梓され、翌1796年に第二の「追加条項」を加えた増補版が出版された(岩波文庫版の解説)。当時の条約の形式になぞらえて、最初に留保条項を書き、続けて「予備条項」と「確定条項」を記す。条約になぞらえた書き方がされていることや第二追加条項などを読むと、ユーモア(あるいは辛辣な揶揄)を感じさせられる。

 第1章では「予備条項」として「将来の戦争の原因となりうる要因が少しでも残っている条約は平和条約とはみなさないこと」、「国家の継承、交換、買収、贈与の禁止」、「常備軍を持たないこと」、「軍事国債の禁止」、「暴力による内政干渉の禁止」、「暗殺者の利用や降伏条約の破棄などの卑劣な戦略の禁止」の6つの禁止条項をあげる。

 第2章では永遠平和の実現に向かう具体的な「確定条項」として、国内法、国際法、世界市民法の三つの法的体制の整備が必要として、国内法としては共和的な市民体制、国際法としては諸国家の自由な連合に基づいた国際体制、世界市民法としては他国訪問権が保証されることの三つを挙げる。

 追加の「条項」として、「永遠平和の保証について」と「永遠平和のための秘密条項」の二つの補説、さらに付録として「永遠平和という観点からみた道徳と政治の不一致について」と「公法を成立させる条件という概念に基づいた道徳と政治の一致について」の二つ。

 それにしても「永遠平和」という日本語としてしっくりしない邦題は、誰が最初に考えたのだろうか。「恒久の和平」とでもした方が内容に即していると思うのだが。

金素雲、澤正彦、沢知恵(3) [書籍紹介・リスト]

 朝日新聞で2010年8月18日~20日に「百年の明日 日本とコリア 家族・第四部」として、金素雲と沢正彦と沢知恵のことが記事になっていたので、それにちなんだまとめ。

3.沢知恵(さわ・ともえ)(1971.2.14- )
 金素雲の孫。澤正彦と金纓の子。シンガーソングライターというか、歌手というか、ピアノ弾き語り。
 カーステレオで気軽に聞くと言うよりも、家でじっくり聞くのが似合うタイプのうた歌い。しかも、聞き惚れるというよりも、沢知恵の世界に引きずり込まれるという感じかな。

(1)入門的なお薦めは、次の二つ。
・『シンガー』、CMCA 2021、2008年。
 カバーベスト15曲。松田聖子の「スイートメモリーズ」、シンディー・ローパーの「タイム・アフター・タイム」、荒井由美「ひこうき雲」、さだまさし「風に立つライオン」、尾崎豊「卒業」など。
 アマゾンで全曲試聴可。

・『ソングライター』、CMCA2022、2008年。
 1991年のデビューから2008年までのオリジナル15曲のベスト盤。もちろん、夏川りみ、クミコ、アン・サリー、持田香織らにカバーされている代表作「こころ」も収録。
 アマゾンで全曲試聴可。

(2)最新作は、『ライブ・アット・ラカーニャ』の春、夏、秋、冬の四部作。すでに春、夏、秋と発売されていて、冬が10月20日発売予定。
沢知恵オフィシャルサイト
タグ:朝日新聞

東神大図書館OPAC、公開開始 [その他]

ついにというか、ようやくというか、いよいよというか、
東神大図書館OPACが2010年9月23日から公開されています。
蔵書検索への直リンク
楽しくなってきたぞ。

金素雲、澤正彦、沢知恵(2) [書籍紹介・リスト]

 朝日新聞で2010年8月18日~20日に「百年の明日 日本とコリア 家族・第四部」として、金素雲と沢正彦と沢知恵のことが記事になっていたので、それにちなんだまとめ。

2.澤正彦(さわ・まさひこ)(1939.4.20 - 1989.3.27)
金素雲の娘、金纓(Kim Young)の夫。新聞記事では「沢」となっていたが、著書は見る限りみな「澤」と表記さえていたので、ここでも「澤」とする。

(1)澤正彦の著作は次の六つ。
・『南北朝鮮キリスト教史論』、日本基督教団出版局、1982年。論文集。
・『ソウルからの手紙――韓国教会のなかで』、草風館、1984年。
・金纓と共著、『弱き時にこそ――癌を告知された夫婦の日記』、日本基督教団出版局、1989年。
・『未完 朝鮮キリスト教史』、日本基督教団出版局、1991年。遺稿を整理して編まれたもの。
・『韓国と日本の間で――贖罪的求道者の史観から』、新教出版社、1993年。さまざまな論文・エッセイ集だが、澤正彦を一番手っ取り早く知ることの出来る本だと思う。「植村正久の朝鮮観」や、「韓国と私」「韓国教会の説教」などの「現代韓国論」、「中国キリスト教史研究」も含まれている。「日曜日訴訟」は礼拝が公的であることや安息日・主日の意味、信教の自由との関わり、明治初めの改暦の経緯を知る点でも興味深い。
・金纓訳、『日本キリスト教史――韓国神学大学講義ノート』、草風館、2004年。韓国の読者を対象に、日本のキリスト教史を日本の文化、思想、政治との関連から綴ったもの。あとがきによると、原著(韓国語)の改訂版で、著者が漢字で記した日本の人名・地名のハングル表記が「見事なほどに、ほとんど間違ってい」いるので、著者の名誉のためにもこの本を出版したとのこと。

(2)澤正彦の訳書は、三つ。
・閔庚培、『韓国キリスト教史』、日本基督教団出版局、1974年。
・柳東植(澤正彦、金纓訳)、『韓国キリスト教神学思想史』、教文館、1986年。
・閔庚培(尹宗銀、澤正彦訳)、『神の栄光のみ 殉教者朱基徹牧師伝』すぐ書房、1989年。

(3)澤正彦を知るために、金纓の次の著作も楽しくおもしろい。
・『チマ・チョゴリの日本人』、草風館、1985年。澤正彦との出会い・結婚からその後の生活について、詳しく、おもしろい。新版が1993年に出ている。
・『チマ・チョゴリの日本人、その後』、草風館、1993年。韓国の教会と日本の教会の比較から見た日本の教会の欠点もストレートに語られていて、とても興味深い。
 他に、『チマ・チョゴリのクリスチャン――ひいおばあさんから私まで』(草風館、1987年)は、著者の曾祖母、祖母、母、妹と娘たちの、韓国の歴史、韓国教会の歴史の中での歩み。
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金素雲、澤正彦、沢知恵(1) [書籍紹介・リスト]

 朝日新聞で2010年8月18日~20日に「百年の明日 日本とコリア 家族・第四部」として、金素雲と沢正彦と沢知恵のことが記事になっていたので、それにちなんだまとめ。

1.金素雲(キム・ソウン)(1908.1.5 - 1981.11.2)の主な著訳書

(1)金素雲が翻訳して民話や童謡を日本に紹介したもの
 『朝鮮童謡選』岩波文庫、1933年初版、1972年改版(赤70-1)。
 『朝鮮民謡選』岩波文庫、1993年初版、1972年改版(赤71-1)。
 『朝鮮詩集』岩波文庫、1954年初版、2002年夏の「岩波文庫一括重版」で復刊(赤72-1)。
 他に、子供向けとして、『ネギをうえた人――朝鮮民話選』岩波少年文庫、1953年初版(71)、1987年改版(2025)、2001年新版(089)。これは、33編の民話集。

 『朝鮮詩集』は、最初『乳色の雲:朝鮮詩集』(河出書房、1940年)。その後、興風館、1943年。創元社、1953年。そして、岩波文庫版、1954年。

 なお、『朝鮮詩集』の日本語と原詩との兼ね合いを明かにすべく、収録されている詩の原詩を発掘し、また各詩人たちの略歴を調査して、日本語新訳とハングルの対訳で出版されたものに、金時鐘(キム・シジョン)訳『再訳 朝鮮詩集』(岩波書店、2007年)がある。この本の序文にあたる「『朝鮮詩集』を再訳するにあたって」の中に、次のような言葉がある。
「訳を始めてみて『朝鮮詩集』は、金素雲の訳詞というよりも当時の日本の抒情詩にリズムを合わせた、金素雲自身の、詩の歌であることの確信をもった。」(p.ⅸ)


(2)自叙伝
 上垣外憲一、崔博光訳、『天の涯に生くるとも』(講談社学術文庫903)、1989年。
 初版は新潮社、1983年。日本語で書かれた「狭間に生きる」と韓国語で書かれた「逆旅記」。巻末に金素雲の年譜あり。

(3)エッセイ集のうち、晩年に刊行されたもの
 『近く遥かな国から』、新潮社、1979年。
 『こころの壁――金素雲エッセイ選』、サイマル出版会、1981年。
 『霧が晴れる日――金素雲エッセイ選2』、サイマル出版会、1981年。
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バルト『ローマ書』の序文を読み直す(5) [読書メモ]

(5)ついでに、カール・バルト『ローマ書新解』(川名勇訳、新教出版社、1962)の「序言」から。
あたかも何事も起こらなかったかのように
 「この本の中で、当時〔1940~1941年〕このバーゼルでわれわれも経験した独特の緊迫した状態に気づくことはほとんどないであろう。・・・あの一九三三年のボンにおけるように「あたかも何事も起こらなかったかのように」という決意に、今こそ、はっきりとどまるべきであると固く心を定めていた。」
『ローマ書新解』の「序言」、p.1。

待っている
 「ローマ書の場合、それを学びつくすということはありえない。この意味で(一九一八年の序言でいくぶん偉ぶって表現したように)ローマ書はこれからもなお、「待ち続けている」――そして確かにこのわたしをも「待っている!」」
『ローマ書新解』の「序言」、p.2。

私が理解する限り
 「「私がパウロを理解するかぎり」という制約をつけ加えることをどのような注解者も免れることはできず、私にもできない。私の希望は、昔も今も、パウロが十分力強くあって、いつもなお、またいつも繰り返し、不十分な注解を通してでも、パウロ自身を聞かせるということである。」
『ローマ書新解』の「序言」、p.3。

バルト『ローマ書』の序文を読み直す(4) [読書メモ]

カール・バルト『ローマ書講解』の序文から、気になる言葉のメモ

引用はすべて、小川圭治、岩波哲男訳『ローマ書講解』上(平凡社ライブラリー)、平凡社、2001。

(4)第五版、第六版の序文から
この書物について
 「わたしがこの書物を書いた当時、わたしは流れに逆らって泳ぎ、閉ざされた扉に向かって槌を振り下ろし、だれにも、あるいは少数の人にしか気に入られないことを語ろうとしたのである。」
「第五版への序」、pp.54-55。

第一版の序の末尾について
 「わたしが第一版への序で、本書は<時が来るのを待つことになるかも知れない>と言った時、当時はそれはわたしの高慢だと解釈された。」
「第五版への序」、p.55。

名言?
 「旗をマストに掲げることはたやすいが、立派に下ろすことは難しい。・・・もっと難しいのは、どうしても旗を下ろすことができない場合に、立派にそれを掲げ続けることである。そしてこれがわたしの場合である。」
「第五版への序」、p.57を一部改めた。

この書物について
 「本書は近代プロテスタント主義が陥っている内的、外的の危急の壁を貫く突破口が打ち抜かれたことの徴である。」
「第五版への序」、p.58。

ユーモア?
 「まさに神は用いたもう。そしてこのような主の犬(ドミニ・カニス)〔ドミニコ修道会にかけた言葉〕でありたいと願ったし、またこの修道会にわたしの読者をすべて入会させたい。」
「第五版への序」、p.59。

格言
 「戒められることによって、我々は学ぶ。」(Moniti discamus!)
「第五版への序」、p.60を一部改変。

「本書が書かれてからわたしは七歳年を取り、その間にわれわれのすべてのノートも訂正されているという事実から生じる保留を今日の読者は見失わないでほしい。」
「第六版への序」、p.62。

バルト『ローマ書』の序文を読み直す(3) [読書メモ]

カール・バルト『ローマ書講解』の序文から、気になる言葉のメモ

引用はすべて、小川圭治、岩波哲男訳『ローマ書講解』上(平凡社ライブラリー)、平凡社、2001。

(3)第三版、第四版の序文から
「ローマ書の注解というような、生気に溢れた、責任を伴う仕事が、どうして長く硬直したままでありうるだろうか。」
「第三版への序」、p.41。

ジョーク?
 『ローマ書』初版が出たときに歴史批評学の立場にある神学者たちから厳しい批判を受けたことについて、バルトは「ディオクレティアヌス的迫害」だと言った。
「第三版への序」、p.42。

異なる霊の大合唱の中に「主題の核心」を聞き取る
 「ローマ書において語っているのは、『異なる霊』つまり・・・ユダヤ的、通俗キリスト教的、ヘレニズム的、その他の『霊』だけである・・・。すべては文字(リテラ)であり、『異なる』霊の声であって――そのすべてがまたもしかして『主題の核心』(ザッヘ)との関連において(キリストの)霊(スピリトゥス)の声として理解されるかどうか、またそれがどこまで可能かということ、それが文字(リテラ)の研究に際して問われるべき問題である。」・・・そうであるならば、「その注解者はパウロについての注解を書くのではなく、・・・パウロと共に注解を書くことになるであろう。」
「第三版への序」、pp.43-44。

カトリック神学の側からの本書に対する批評の中で、本書の「主題の核心に即した」(ザッハリッヒ)理解に出会った。
「第四版への序」、p.52。

バルト『ローマ書』の序文を読み直す(2) [読書メモ]

カール・バルト『ローマ書講解』の序文から、気になる言葉のメモ

引用はすべて、小川圭治、岩波哲男訳『ローマ書講解』上(平凡社ライブラリー)、平凡社、2001。

(2)第二版の序文から
第1版について
 「石ころ一つも残っていないほどの新しい改訂版」、「第一版は、今日、その長所と短所と共に、舞台から消え去ることができる。」
「第二版への序」、p.17。

「すべて人間のすることは予備的な仕事でしかない。そして他のすべての仕事にもまして、神学の書物にはこのことが妥当する。」
「第二版への序」、p.17。

「陣地の転換」
「第一版に対する好意的な論評の方が・・・自己批判に役立った。二、三の賛辞を読んでわたしは全く驚き、ただちに主題の核心(ザッヘ)を言い換え、全力をあげて陣地の転換を行わざるをえなかった。」
「第二版への序」、p.19。

易しく分かりやすければいいというものではない
 「われわれ神学者が、ともかくも「信徒」の関心をもっとも強く引きつけるのは、われわれがあまり表立って、意図的にかれらのことを考慮するときではなく、すべての実直な職人がそうであるように、ただ単純にわれわれの問題に取り組んでいるときである。」
「第二版への序」、p.21。

複雑な状況の中で
 「われわれにとってパウロのローマ書も、神学の今日における状況も、今日の世界情勢も、神に対する人間の状況も要するに単純ではない。このような状況の中でその人にとって真理が問題となるならば、その人は勇気を奮い起こして、まずいったんは単純ではありえないという状況に立たねばならない。」
「第二版への序」、p.21。

カルヴァンの注解について
 カルヴァンの注解は、「一世紀と十六世紀との間に立っている壁が透明になるまで、パウロが向こう側で語るのを十六世紀の人間がこちら側で聞くに至るまで、原典と読者との対話が主題の核心(ザッヘ)そのもの(それはあちらとこちらで異なったものではありえない!)に全く集中するに至るまで、その本文との対決の仕事に立ち向か」っている。
「第二版への序」、p.25。

「批判」(クリティーク)とは
 「批判するとは、・・・その文書に含まれているすべての言葉と語句を、・・・その文書が明らかに語っている主題の核心に即して判定すること、・・・ただ一つ語られうる事柄の光の下で解釈することである。」
「第二版への序」、p.27。

注解に取り組むこと
 「わたしが著者でないことをほとんど忘れてしまう地点まで、わたしが著者をよく理解して、かれをわたしの名で語らせ、わたし自身がかれの名で語りうるようになるほどの地点まで、理解しようとする者であるかぎり、わたしは突進しなければならない。」
「第二版への序」、pp.27-28。

聖書の主題
 「時と永遠の『無限の質的差異』・・・『神は天にあり、汝は地上にいる。』この神のこの人間に対する関係、この人間のこの神に対する関係が、わたしにとっては、聖書の主題である・・・。聖書はこの十字路にイエス・キリストを見る。」
「第二版への序」、pp.30。

「神は神であるとの想定以外の想定を立てることができるだろうか。」(吉村訳では「想定」のところは「仮説」)
「第二版への序」、p.31。

「以前と同様その後も、ローマ書の中にはわたしにとっても、説明の困難な箇所がある。」
「第二版への序」、p.33。

熟考せよ
 「わたしの『聖書主義的』方法の定式は、ただ<意識を集中せよ>ということ・・・。」(吉村善夫訳『カールバルト著作集14』p.15では「熟考せよ!」)「もし老子やゲーテを解明することがわたしの職務であるならば、わたしはこの方法を老子やゲーテにも適用するであろう。」
「第二版への序」、p.33。

感動しないで!
 「この本は非常に注意して読んでいただきたい、あまりに早く読まず、わたしのやり方をギリシア語本文や他の注解書と照合してほしい・・・。またどうかできるだけ『感動』したりしないでいただきたい。」
「第二版への序」、p.35。

神の真実
 「ギリシア語のピスティスを『神の真実』と訳したことが重要なことと考えられているが、わたしはどちらにしてもそれほど重要視しなかった。・・・ルドルフ・リーヒテンハンがこの新造語の精神的な生みの親だ」。
「第二版への序」、p.37。

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