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天使について [信仰]

 聖書には、創世記から黙示録まで「天使」や「御使い」がしばしば登場する。特に、クリスマスの時期に読まれる箇所には天使がよく出てくる。しかし、聖書辞典には、現代のわたしたちが天使をどう考えればよいかまでは、述べられていない。現代のわたしたちは、天使をどう考えたらよいのだろうか。

1.「天使」あるいは「御使い」は、聖書の中で、古代の神話的な表現と見なすに留まらない極めて重要な役割を果たしている。また、特に終末における光景の中で登場する。マタイ13:36~43、49~50、16:27(マルコ8:38、ルカ9:26)、24:31(マルコ13:27)、25:31、1テサ4:16~17、2テサ1:7、黙示録にたくさん。それゆえに、天使の存在を否定してはならない。

2.もちろん、天使は神ではないから、天使を礼拝してはならない。コロサイ2:18、黙示録19:10、22:8~9。

3.天使が神と人間との間に立つ存在である点では、わたしたちは復活の主イエス・キリストに直接結び付けられており、また、聖霊なる神がわたしたちのうちに宿ってくださっているのだから、取り立てて、天使の働きを求める必要はない。また、天使が神の使いとして神の言葉を人に伝える役割を果たす点では、わたしたちにとっては説教と聖礼典(とりわけ聖餐)が神の言葉を直接伝えるのであるから、この点でも、天使の役割を特に期待する必要はない。

4.天使も被造物として、神の言葉を告げ知らせ、神を誉め讃えるのであるから、天使のことを考えると、自ずとわたしたちも、御言葉を人々に告げ知らせることと、神を礼拝することに心を向ける。つまり、天使が主に仕えるように、わたしたちも天使と共に主なる神に仕える。

5.わたしたちは、もし天使が遣わされてくるようなことがあった時には、特に終末において、その告げるところに耳を傾ける。そのためにも、いつも神の言葉が伝えられる説教と聖餐の恵みにあずかり、神の御前にへりくだって、目を覚ましていなければならない。

水谷智洋編『羅和辞典』研究社 [書籍紹介・リスト]

水谷智洋『羅和辞典』研究社水谷智洋編『羅和辞典 改訂版』、研究社、2009年、22+889頁、6300円。

 一応、田中秀央編の羅和辞典(1952初版、1966増訂新版)の改訂版であるが、その歴史と基本思想を受け継ぎつつも、全く新しい辞書という感じである。



1.内容

辞典本文はpp.1-732。

付録として、ローマの暦、通貨、人の名前、主要な略語、そして変化・活用表。

さらに、pp.781-883に、Cassellのラテン語辞書が羅英と英羅の二本立てであることにならって作成された「和羅語彙集」(野津寛による)がある。


2.収録語彙

見出し語4万5千とのこと。

収録語彙は、紀元前200年頃からの古ラテン語、紀元前1世紀頃から紀元後200年頃の古典ラテン語を中心とし、紀元3世紀以降の教父の語彙や中世・近代ラテン語の学術用語も「視野に収めている」。

特に、起源200年頃以降の語彙、あるいは語義、用例には上付◇記号が付けられている。これは、「Oxford Latin Dictionaryがその収録する語彙の下限を2世紀末に置いていることにならおうとする試み」とのこと。

用例として用いられている著作家・作品の中には、アウグスティヌス、カッシアヌス、キプリアヌス、ヒエロニムス、ラクタンティウス、偽キュプリアヌス、テルトゥリアヌス、そして、ウルガタ聖書が見られる。


3.これまでの版とのつながり

田中秀央編の内表紙にあった"Festina lente!"はなくなったが、文章中にこの言葉が出てくる初版の「まへがき」が、「本辞典の足跡を示すために」掲載されている。


4.評価

数万円もする辞書を買うほどラテン語を勉強するわけではないし、かといって古ラテン語や古典ラテン語限定という感じの辞書では教父の著作でちょっと調べるのに使えるのかどうか不安だし、というわけで、もしかしたら羅英辞典で何かいいのがあるかもしれないが、さしあたり手元に置いておく入手容易なラテン語辞典としてはこの『羅和辞典 改訂版』しかない。




幼子イエスを東方から拝みに来た者たちは何者か(2) [聖書と釈義]

1.しかし、重要なことは、占星術師か占星術家か占星術者かということよりも、神が異邦人の、しかも神との関係に反する(王下23:5、イザヤ47:13-14、アモス5:26、ゼファニヤ1:5)星占いや星辰礼拝に通じるmagoiを用いて幼子を礼拝させた(マタイ2:11)ことである。

2.異邦人である彼らが幼子イエスを礼拝したことは、イエス・キリストが異邦人の礼拝すべきお方であることを示している。すなわち、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)ということがユダヤ人のみならず異邦人にも及ぶことを意味している。

3.でもそれだけであれば、彼らは異邦人であるだけでよく、占星術師である必要はない。占星術師である彼らが幼子イエスを礼拝したことに、どのような意味があるのだろうか。
 ルツ(EKK)は、異邦人がイスラエルの王を礼拝したことと、そこにある神の導きとが重要であることを指摘しているが、イエスを礼拝した彼らが占星術師であったことにはあまり着目していない。
 神との関係に反する占星術師である彼らが幼子イエスを礼拝したことは、罪深い者が礼拝へと導かれることを意味している。神を礼拝するにふさわしくない罪深い者が、しかし、礼拝へと導かれるのである。

4.いったいどのようにして、罪深い者が神礼拝へと導かれるのか。それは、この幼子が異邦人をも「自分の民」として「罪から救う」ことによって実現される(1:21)。

5.したがって、占星術師たちが幼子イエスを礼拝したことは、神礼拝が異邦人にも開かれ、神は異邦人とも、共にいてくださるということを意味しているだけでなく、それ以上に、神との関係に反する罪が赦されるということがあるのであり、そのような罪の赦しの救いによって、神の民へと加えられることを意味している。

幼子イエスを東方から拝みに来た者たちは何者か(1) [聖書と釈義]

マタイ2:1~12

1.ギリシア語のmagosは、学者とか博士とか知者とか賢者とか占星術の学者とかいろいろに訳されている。いったいどう訳すのがよいだろうか。

2.彼らは、a)東方の者で、b)星の動きを観察する者(バビロニアを思わせる)であって、c)黄金、乳香、没薬(アラビアを思わせる)を持ってきた(イザヤ60:6、『旧約新約聖書大辞典』の「博士」の項を参照)。これらのことから彼らは異邦人であったことが分かる。

3.彼らは、星の動きを専門的に観察する者であったからこそ、不思議な星を発見し、その星のただならぬ不思議さに気づくことができた。しかも彼らは、その星がユダヤ人の王となる方の誕生を告げていることを知った。ということは、彼らは、ユダヤ人たちの聖書も占星術の参考資料に加えていて、聖書の中の星や天体に関する記述も調べていたのではないか(特にここでは民数記24:17)。さらに、ユダヤ人の王として誕生された方は、ユダヤ人のためのみならず自分たちにも関わるお方であることを、彼らはその星の観察を通して気づかされた。もちろんこれらのことはすべて、神がそのように導かれたと言えるだろう。

4.彼らは、単に学者とか博士であったのではない。学者とか博士では、なんだか、学問のある人たちだったからユダヤ人の王となる方の誕生を知り得たみたいになってしまう。知者とか賢者と言ってはなおさらである。
 ギリシア語のmagosは、もともとペルシアで天文学ないしは占星術に携わっていた人たちの名前であったという(『ギリシア語新約聖書釈義事典Ⅱ』)。その地の宗教の祭司の職務と結びついていたようなので、彼らは社会的に重要な役割を果たす者たちであったといえる。そうであるならば、やはりマタイ2章の彼らも、当時の占星術というある意味で学問的な営みに携わる人たちであったとしてよいだろう。すると、やはり「占星術の学者」とするのがよいか。
 あるいは、もともとギリシア語で一語であるので、そのことを考慮して「占星術師」とするのがよい。「師」とすることで、社会から重んじられた指導的な地位にある者という意味合いを持たせることができる。「占星術家」では特殊技能を持った個人であることが強調された感じだし、「占星術者」では単に占星術をする人という程度で、星のただならぬ不思議さに気づいても行動を起こしそうもない。

5.というわけで、結論: 彼らは異邦人で、「占星術師」であった。

すべての進歩は混乱から生まれる。 [その他]

朝日新聞2010.11.24(水) 「名-姓か、姓-名か、それが問題だ 江利川春雄さん」

 日本人の名前のローマ字表記を姓-名の順にすべきという主張に関し、長く続いた習慣を変えたら混乱するのではとの問いに対して、
「すべての進歩は混乱から生まれます。既存の秩序が続く限り、新しいものは生まれません。むしろ、混乱を通じて、英語圏の人たちにも引っかかりをもってもらい、世界は多様なんだ、自分たちのやり方だけが世界標準ではないと知ってもらうチャンスにしたいですね」

 我々の礼拝の刷新にも通じる言葉であるなあ。

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