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佐藤優『神学部とは何か』 [書籍紹介・リスト]

佐藤優、『神学部とは何か――非キリスト教徒にとっての神学入門』(シリーズ神学の船出00)、新教出版社、2009年、187頁、1785円。

「神学入門」とあるが、神学という学問の初心者向けの概論ではなく、「神学部とは何か」と言っても、神学部の授業内容だとか雰囲気だとかの紹介が中心でもなく(そういったことも書かれているが)、一般の人に神学という学びが誰にとっても「役に立つ」ことを少しでも知ってもらおうという一つの試み。
著者の特異な経験が随所に記されていて、とても読みやすい。「1.神学とは何か」、「2.私の神学生時代」、「3.神学部とは何か」の三部構成。
 専門用語や人名などについて各頁下段に脚注がある。コラムとして五つの日本の神学部(同志社、東神大、関西学院、西南学院、上智、立教)が、それぞれ見開き2頁で紹介されている。

 「1.神学とは何か」では、神学は「見えない事柄を対象とする知的営為」であるゆえに、見える事柄を対象とする現実的な営みの限界、すなわち、人間の限界、社会の限界、制度の限界を知ることができるとする。そして、そのような神学の性質として、「論理的整合性の低い側が勝利する」と「神学論争は積み重ねられない」という2点を指摘する独特の視点は、面白い。

 「2.私の神学生時代」は、入学式での学生運動家たちの乱入のエピソードから、バルト、ボンヘッファー、フロマートカの神学との出会い、そして、外務省入省の経緯とモスクワ留学までの話。

 「3.神学部とは何か」は、ヨーロッパ、アメリカ、日本の神学部事情と提言で、ドイツの牧師は高給取りの官僚のような身分だから学校秀才が多いとか、バルトやフロマートカは学校秀才ではなかったが神学的天才であったとか、教会に行っても「救われた」と実感できなくなってしまっているキリスト教徒が増えているとか、キリスト教徒自身が教会を私的領域としてしまっていて人間関係を煩わしくしているなどの指摘がされている。また、1920~40年代半ばまでの神学をしっかり勉強しろと言い、日野眞澄、有賀鐵太郎、魚木忠一、熊野義孝、滝沢克己を挙げている。特に魚木忠一『日本基督教の精神的伝統』(1940年)を評価している。

以下、特に目が留まったところ:
「神学は自らの教派的出自に捕らわれるものなのだ。そういう考え方に踏みとどまる人たちがまっとうな神学者なのである。・・・だから、現に在る教派の伝統から離れて、抽象的な価値中立的な形でのエキュメニズムの神学が成立するという考え方は完全に誤っている。」(pp.44-45)
「バルトには学生時代からずっと違和感があったし、今もある。特に、「神学とは最も美しい学問だ」というバルトの言葉に落とし穴があると感じる。私は神学が美しい学問であると思わない。その美しさにとらわれてしまったことが、バルトの限界だったように思う。」(p.108)
「日本の神学の質は、1930年代から1940年代初頭のものが一番高い。というのは、この時代の日本の神学者は、「常に死を意識していた」からである。・・・神学は元来こういった極限状況において力を発揮する営みである。そういった意味で、この時期の神学者は本物の神学者である。・・・かといって、戦争などの極限状況を現に体験した神学者だけが信憑性の高い神学を構築できるということを意味するわけではない。神学はその特性上、過去の出来事を追体験することができる。・・・神学のポイントというのは、人間の限界を知ることである。・・・神学によって限界状況を追体験する神学者もいれば、自分自身がその限界状況におかれる神学者もいる。しかしこの両者に本質的な違いはないと私は考えている。・・・神学において個人的体験を誇大化することは、ありがちなことであるが、あまりよくない。(pp.162-164)

「主の祈り」のカードを作る (2)「主の祈り」の表記 [礼拝]

前の記事「「主の祈り」のカードを作る(1)」へ

 「主の祈り」のカードを作るにあたって、その表記が問題となる。声に出せば同じだが、どこを漢字にするかなど、本によってまちまちである。例えば、『讃美歌』1954年版の564番は、「試み」、「赦す」、「力」などが仮名書きになっているが、これはおそらく、振り仮名の付かない小さな字の読みやすさとか判別のしやすさなどを考慮してそうしたのであろう。『讃美歌21』の93-5Aは、これをそのまま採用し、句読点と改行を加えた礼拝文となっているが、安易すぎる。これを「主の祈り」の表記の参考にすべきではない。

 「主の祈り」の表記を検討する際の原文とすることの出来るものは、日本基督教団に属する者としては、『日本基督教団口語式文』に記されているものをなるべく尊重したい。ただし、この本は全体的に日本語がおかしかったり、校正されていないところが多いので鵜呑みにはできない。

1.名称の表記は、現代の送りがなに従って「主の祈」ではなく「主の祈り」とする。「主の祈り」の本文と送りがなの使い方で統一されなくなるかもしれないが、礼拝順序などに記すことを考えて、題は「主の祈り」とする。

2.『信徒必携 新改訂版』p.2に、『日本基督教団口語式文』と全く同一の表記に、現代仮名遣いが添えてある。それに従って現代仮名遣いで表記すると、次のようになる。
「天にまします我らの父よ、願わくはみ名を崇めさせたまえ。み国を来らせたまえ。みこころの天になる如く地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン。」(実際には漢字に振り仮名つき)

3.「如く」と「ごとく」が混在しているので、仮名書きに統一する。
4.「み名」と「み国」は熟語であって一方のみを仮名書きにしては読みにくいので漢字を使い「御名」、「御国」とする。ただし、「みこころ」は「こころ」が仮名書きであり、しかも文頭にあるので、そのままとする。
5.その他の漢字の使用と送りがなは原文のままとする。すなわち、「願わくは」や「赦す」、「試み」などを仮名書きにしている例があるが漢字を使う、「あわせず」は仮名書きのまま。「栄」は「栄え」としない。「汝」も漢字を使い、すべての漢字に振り仮名を付ける。
6.句読点は変えず、そのところで改行する。

以上の手続きを経た「主の祈り」は次のようになる。(ルビはその漢字の後にかっこ書き)
主の祈りカード.jpg
天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ、
願(ねが)わくは御名(みな)を崇(あが)めさせたまえ。
御国(みくに)を来(きた)らせたまえ。
みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ。
我(われ)らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与(あた)えたまえ。
我(われ)らに罪(つみ)を犯(おか)す者(もの)を我(われ)らが赦(ゆる)すごとく、
我(われ)らの罪(つみ)をも赦(ゆる)したまえ。
我(われ)らを試(こころ)みにあわせず、
悪(あく)より救(すく)い出(いだ)したまえ。
国(くに)と力(ちから)と栄(さかえ)とは限(かぎ)りなく汝(なんじ)のものなればなり。
アーメン。

「主の祈り」のカードを作る (1)継続して礼拝出席している未信者のために [礼拝]

 礼拝の中で「主の祈り」を共に唱和するために、新来会者や礼拝に出席し始めて間もない方にどう配慮するか。

 新来会者には「主の祈り」のポストカードを差し上げているが、その後も毎回ポストカードでは費用がかかる(1枚32円~)し、「『讃美歌21』の93の5のAをご覧ください」などと司式者がアナウンスしても、「主の祈り」を覚えていないくらい教会に来始めて日の浅い方は開けない。そこで、
 方法1 週報に「主の祈り」全文を掲載する。
 方法2 会衆席に備え付ける(カードケースに入れたり、『交読詩編』などの表紙裏に貼り付けたり)
 方法3 プロジェクターで投影する。
 方法4 ポストカード大のものを自作して、毎回受付で渡す。

 週報にスペースがなく、会衆席に備え付けるのも雑然としてしまうし、プロジェクターは使っていない場合、方法4で行くことになるだろう。その際、B6とかA5くらいのサイズのプリントを作って、どんどん渡すことになろうが、礼拝後、会衆席に無造作に置き残されていたりする。
 そこで、ハガキ大で紙厚がある程度あるしっかりしていて、印刷もきれいなものを作ったほうが、安易に捨てられることなく、聖書などに挟んでとっておかれやすい。

「主の祈りのカードを作る(2)」へ

信仰の継承と家族伝道のために、親子礼拝・家族礼拝を。 (次世代のために その3) [礼拝]

1.
日曜日、親子で教会に来ても、親は大人の礼拝、子どもは子どもの礼拝と、それぞれ別々の礼拝に出席するというケースが多いのではないだろうか。
年に何度か教会学校との合同礼拝と称して行っても、こどもたちは礼拝堂の一か所に固まって座っていて、静かにしているようにと教会学校の先生が目を光らせているというようなことはないだろうか。

 そこで思うのだが、親子が一緒に並んで主日礼拝を守ることはできないだろうか。
家庭での生活を通して親と子それぞれの信仰が養われることも大切だろうが、それ以上に、親子が一緒に並んで主日礼拝を献げてこそ、親の誠実な礼拝の姿勢が子どもに伝わり、あるいは子どもの素直で純粋な礼拝の姿勢が親の信仰を変えることにつながるだろう。
親子が共に主の御前にぬかずいてこそ、その家庭に祝福が注がれるだろう。親と子が共に祈り、共に賛美し、共に御言葉を聞き、共に信仰を告白する機会がなくて、どうして信仰を継承することができるだろうか。

2.
そういうわけで、親と子が一緒に礼拝、あるいは、おじいちゃん、おばあちゃんも一緒に、あるいは、子どもが成人していてもかまわない、孫もひ孫もいっしょでもちろんOK、とにかく家族みんなが一緒に並んで献げる主日礼拝を、信仰の継承と家族伝道のために行いたい。

 自分の親が教会に来るようにと切に祈っている子どもがいる。

 自分の子が礼拝に出席するようにと切に祈っている教会員がいる。

 夫が妻が救われるようにと涙を流して祈っている教会員がいる。

そういう人たちが、少しでも礼拝に誘える機会を作りたい。さりげなく、「こんどは家族礼拝の日だから、一緒に来てね」と言えるように。

 あるいは、教会学校に子どもを送ってくださる家庭もあるが、親は送り迎えだけというケースもよくある。そういう親も誘いたい。

3.
大人と子どもが一緒に礼拝する方法には、大まかに言って、次の3つのパターンがある。

 a) 最初から最後まで一緒

 b) 前半だけ一緒で、後半は子供たちは退出し、別室で分級。

 c) 途中で子供たちが退出するが、礼拝の最後の部分(献金や祝福)で戻ってくる。

 大人と子どもが一緒に礼拝すべきと主張しても実際はb)やc)などの部分的な子どもの参加に留まっていては、不十分どころか、やっぱり一緒に礼拝することはできないと認めてしまっている。そこには、

 子どもと一緒が可能な部分だけ一緒にするという安易さがないだろうか。

 説教などはやはり大人向けがないと困るという思いがないだろうか。

 1時間以上子どもが礼拝に出席することは困難だと思っているのではないだろうか。

 あるいは、子どもが1時間以上参加できないような雰囲気の礼拝になっていてそれを変えられないでいることはないだろうか。

 そして、b)やc)の場合は、子供たちがすぐに退出しやすいように、礼拝堂の中で子どもだけで固まって着席することになりがちであろう。親と子が並んで礼拝するという形にはなりにくい。

4.
本当に大人も子どもも一緒に礼拝するのなら、親と子が並んで、あるいは、子供たちも自由に礼拝堂の中に大人たちに混じって着席するようにしてはどうか。様々な年代の教会員と子供たちが一緒に並んで礼拝するのである。
家族の中で一人で礼拝出席している高齢者が、他の教会員の子どもと並んで礼拝し、子供たちは自分の祖父母よりも高齢の方と並んで礼拝する。子育て奮闘中で疲れ果てている方と、子育てを一段落した方とが一緒に礼拝して、支え合う。高校生・大学生の若者が、普段接することのない高齢者や幼い子どものために聖書や讃美歌を開いてあげる。・・・

 礼拝の最初から最後まであらゆる世代が一緒に礼拝したい。家族全員が、そしてあらゆる世代が、共に祝福を受け、共にキリストの恵みを携えて、世に派遣されていくのである。

(2010年7月26日初稿、2010年8月12日加筆修正)

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