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礼拝全体の流れに気を配る [礼拝]

1.礼拝の中心は、説教と聖礼典、とりわけ時を定めて繰り返される聖餐である。しかし、礼拝全体も大切である。礼拝全体が主の現臨される場である。それゆえ牧師・伝道師は、主が現臨される場としてどうしたらよりふさわしい礼拝となるか、常に礼拝全体に気を配り、心を砕いていなければならない。
 日曜日の夜は感謝しつつその日の礼拝を振り返り、翌月曜日は主に期待して次の礼拝に向けての対策を練る。

2.もちろん、礼拝の中心は説教と聖餐である。それならば、説教に向かう礼拝の流れや聖餐の流れ、そして、祝福と派遣への流れが大切である。
 この流れとは、讃美歌が歌われて次に祈りがなされてというような「礼拝式順」とか「礼拝順序」のことではない。会衆が御言葉に向けて心を一つに合わせていく流れであり、主からの祝福の受領に向けて主に結び付けられた群れとされていく流れである。礼拝には、「順序」があるのではなく、「流れ」がある。

3.そこで、牧師・伝道師は、礼拝全体の流れに気を配り、心を砕く。
会衆がもっと心を主に向けるためにどうしたらいいか。
会衆が一人ひとりばらばらに心を主に向けるのではなく、心を合わせ思いを一つにするにはどうすればいいか。
心を一つにして賛美できるように、奏楽のテンポ、弾き方などを綿密に打ち合わせているか。
御言葉を味わい、主との交わりを見出すためにどうしたらいいか。
主の民として主にある交わりを喜び合うには、どうすればいいか。

 主に従った弟子たちが心を合わせているところに聖霊が降り(使徒1:14「心を合わせて」、2:1「一同が一つになって」)、思いを一つにしているところに神礼拝がある(フィリピ2:1~11。特に2節「心を合わせ、思いを一つにして」)。
 牧師・伝道師は、説教の準備に追われるばかりであってはならず、会衆がまことの礼拝をささげられるように礼拝を整えることを疎かにしてしまってはならない。

4.礼拝は、教会がなすべき務めである。それゆえ、礼拝全体の流れを整えることは、役員会の大切な任務の一つであろう。礼拝のことは牧師にすべてお任せということになってしまってはいないだろうか。
 しかし、役員会の意思決定とそれを教会員に周知徹底させることでもって礼拝が整えられるのではなく、牧師の心配りとアイディアで礼拝がまことの礼拝となるのでもない。
 主は、ただ聖霊によって現臨される。礼拝は、よかれと思ってなされる人間の企てがすべて打ち砕かれたところで、ただ聖霊によってまことの礼拝となる。それゆえ、礼拝のためにわたしたちのなすべきことは、結局のところ、ただひたすらに聖霊なる神の助けを祈り求めることに終始する。

無力な神 [信仰]

1.神は、絶大な力を持って大津波を押しとどめるお方ではない。神は、吸い取るように放射性物質を取り除き、奇跡の手を延ばされて原子力発電所を冷温停止させるお方ではない。神は、世にあって無力な神である。

2.わたしたちが思い描くような神は、世にいない。困窮の時に都合よく助けてくれる神は、「機械仕掛けの神」である。その意味で、わたしたちは「神なし」で生きることを余儀なくされている。

3.ボンヘッファーの言葉:
「神はこの世においては無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、彼はわれわれのもとにおり、またわれわれを助ける。」

「聖書は、人間を神の無力と苦難に向かわせる。苦しむ神だけが助けを与えることができる。」
E.ベートゲ編(村上伸訳)『ボンヘッファー獄中書簡集 「抵抗と信従」増補新版』、新教出版社、1988年、pp.417-418。

4.神は、この世と力で対峙するのではない。まったく世に対して無力になられ、苦しまれ、死なれた。そのようにして、わたしたちと全く同じ人となってくださった。このようにして、神は我々と共にいてくださる。世にあってまったく無力で死なれた神こそ、「インマヌエル」の神である。

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