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石原謙著作集第10巻 [書籍紹介・リスト]

石原謙著作集第十巻「日本キリスト教史」、岩波書店、1979年。石原謙、『石原謙著作集 第十巻 日本キリスト教史』、岩波書店、1979年、6+475頁。

編集:山谷省吾、小嶋潤、松村克己、山本和、中川秀恭。
本巻担当:松村克己、出村彰。

内容は、『日本キリスト教史論』(新教出版社、1967年)と、関連の6論文。

石原謙(いしはら・けん)は、1882.8.1~1976.7.4。


目次は以下の通り。

-----ここから-----

日本キリスト教史論
  序言
  序説 東洋におけるプロテスタント・キリスト教
 第一部 前史
  Ⅰ 中国プロテスタント宣教史概観
  Ⅱ 中国伝道の開拓者
  Ⅲ ハドソン・テイラーと中国内地伝道会
    一 中国伝道者としてのハドソン・テイラー
    二 内地伝道会の幻
    三 内地伝道会の新しい事業
 第二部 日本のキリスト教史から
  Ⅰ 明治初期のキリスト教
  Ⅱ 公会主義とその姿勢
  Ⅲ 植村正久の生涯と路線
  Ⅳ キリスト者の自我追求――高倉徳太郎の場合
  Ⅴ 日本神学の課題
 第三部 日本基督教団
  Ⅰ 日本基督教団の成立とその進展
    一 序説――日本のキリスト教
    二 日本キリスト教の特殊性
    三 日本における教会合同の諸段階
    四 教団再編成の障害
    五 教団の機構改革
    六 信仰告白の制定と教憲改正
    七 宣教
    結語
  Ⅱ 会派問題――日本の教会の教会性について
  Ⅲ 戦後二十年のキリスト教――日本のキリスト教における教派制教会の意義についての一考察

諸論文
 日本キリスト教の歴史的意義と展望
 明治・大正期におけるキリスト教学の歴史について
 思想史上の植村先生――先生の著作に基いて
 教会史と柏井園先生
 志の宗教
 東洋の伝道と日本開教――史的回顧

解説(松村克己)

-----ここまで-----

「日本キリスト教史論」は、戦後20年間に書かれた十数編の論文をまとめたもの。中国伝道史、東洋伝道史から考察することで、17世紀以来のキリスト教史のひとつの到達点として日本の宣教を理解することと、合同と分立の絡み合う日本のプロテスタント教会史の中心的、代表的なものとして日本基督教団の成立と進展を捉えることが主眼とされている。

このうち、「植村正久の生涯と路線」は、『植村正久著作集』第一巻(新教出版社、1966年)の解説として書かれたもの。

「キリスト者の自我追求――高倉徳太郎の場合」は、『福音と世界』(1964.3)を経て、『現代日本思想大系 第6巻キリスト教』(筑摩書房、1964年)に収録されたもの。国立国会図書館などのOPACでは「石黒謙」になっている


諸論文の中で、

「明治・大正期におけるキリスト教学の歴史について」は『日本の神学』16号、1977年6月。

「思想史上の植村先生」は、『神学と教会』第2巻第1号(1935)

「志の宗教」は、『植村正久全集』の完成の際の講演を記者が記したもののようで、『福音新報』第1894号、昭和7年1月14日に収録。『明治文學全集46 新島襄 植村正久 清澤滿之 綱島梁川 集』(筑摩書房、1977年)の巻末にも収録。



船本弘毅編『希望のみなもと』 [書籍紹介・リスト]

希望のみなもと船本弘毅編、『希望のみなもと――わたしを支えた聖書のことば』、燦葉出版社、2012年、399頁、1800円+税。



東日本大震災で人々の想像を絶する悲しみと苦しみが生み出された日本の現実において、しかし、被災された方々に向けて何かを語るのではなく、それぞれがさまざまな経験の中で聖書のことばによって支えられてきた人生を語ることで、愛と希望のメッセージを送る。一つひとつがほんの数ページで短くて読みやすい、キリスト者87人の証言集。教職者も信徒も、カトリックから無教会まで、ただ、やはり日本基督教団関係が多い。

執筆者は、渡辺和子、平山正実、大村栄、渡辺総一、内坂晃、西原由記子、川田殖、荒井仁、齋藤正彦、春名純人、原田博充、北村宗次、佐竹順子、村岡恵理などなど。

なんとなく、阿佐ヶ谷関係者や鎌倉横須賀方面の方々が多いような・・・。


晴山陽一『すごい言葉』2 [読書メモ]

晴山陽一、『すごい言葉――実践的名句323選』(文春文庫408)、文藝春秋、2004年。

323の「名句」を数行の解説付きで紹介。英文も併記されている。人名索引もあるのがよい。

晴山が出会った言葉の他、英語圏のさまざまな引用句事典から多く引かれているようだ。


前回の記事の続き)


p.152
「オフィスに置いてある植物が枯れているような医者の所には行くな。」
アメリカのコラムニスト、アーマ・ボンベックという人の言葉。"The Macmillan Dictionary of Contemporary Quotations," 3rd ed., 1996より。
教会も、玄関脇の花壇をいつもきれいにしておかなければならないなあ。水やりを怠って、すぐ枯らしてしまうのだが。



p.179
「神は汝の敵を愛せとは言ったが、好きになれとは言わなかった。」
なんと、ラインホールド・ニーバーの言葉とのこと。フォックスによる伝記、Richard Wightman Fox, "Reinhold Niebuhr: A Biography," 1985にあるとのこと。


p.225
「君のオフィスではどれくらいの人が働いているんだい?」
「半分くらいかな」

2011年4月7日の読売新聞「編集手帳」で紹介され、2014年6月6日の朝日新聞「天声人語」でも紹介された。
これをもじって:

「君の教会ではどれくらいの人が礼拝しているんだい?」
「半分くらいかな」

「君の教団ではどれくらいの人が伝道牧会しているんだい?」
「半分くらいかな」

「君の神学校ではどれくらいの人が勉強しているんだい?」
「半分くらいかな」


p.229
「他の人の葬式に出ておいてやらないと、彼らも君の葬式に来てくれんぞ!」
この本の最後を飾るジョーク。
 教会員の葬儀には極力出席しましょう。



晴山陽一『すごい言葉』1 [読書メモ]

晴山陽一、『すごい言葉――実践的名句323選』(文春文庫408)、文藝春秋、2004年。

323の「名句」を数行の解説付きで紹介。英文も併記されている。人名索引もあるのがよい。

晴山が出会った言葉の他、英語圏のさまざまな引用句事典から多く引かれているようだ。



p.33
「人間は、メッセージを忘れたメッセンジャーである。」
(アブラハム・ジョシュア・ヘシェル『人間とは誰か』(1965)より)

ヘシェルの表記は一般には「ヘッシェル」。また、「アブラハム・ジョシュア」は英語だか何だか分からないよう。。。

ヘッシェルはポーランドのワルシャワで生まれ、ベルリン大学に提出したドイツ語の学位論文を、後にアメリカで英訳・改訂して出版した。その邦訳が『イスラエル預言者』(上下2巻、並木浩一監修、森泉弘次訳、教文館、上下とも1992年)で、その邦訳書での表記は英語読みで「エイブラハム・ジョシュア・ヘッシェル」。

人間が伝えるべきメッセージは何であるか。ヘッシェルがユダヤ教の神学者であることからすれば、それは主なる神からのメッセージであろう。



p.43
「生きていくためには、記憶力よりも、その対極にある“忘れる力”のほうが不可欠である。」
(ショーレム・アッシュ『ナザレ人』(1939)より)

アッシュはポーランドの作家。ユダヤ人である彼が「ナザレ人」という小説を書いているのは興味深い。アッシュの作品の邦訳って、戦前を別にすれば、ぜんぜんないようだ。


p.105
「知識の島が大きくなるほど、不可思議の海岸線が長くなる。」
(ラルフ・W.ソックマン)
ソックマンは、米国のメソジスト教会の牧師(1889-1970)とのこと。典拠は、Laurence J. Peter Compiled "Quotations For Our Time," 1977より。おお、あの「ピーターの法則」のローレンス・ピーターが集めた引用句集だ!

ローレンス・J.ピーター、レイモンド・ハル(田中融二訳)、『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』、ダイヤモンド社、1970年。
最近は新訳があるようだ。 渡辺伸也訳、2003年。



p.106
「持論を持てば持つほど、ものが見えなくなる。」
ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースの言葉とのこと。
自分もそうだが、自分の考え方に固執してしまうと、他者に耳を傾けることができなくなる。逆に、他人が己の考えに固執していてこちらの意見に耳を傾けてくれず、いらだったり失望したりすることもある。日本の総理大臣に対しても。


p.112
「教育は、学んだことがすべて忘れられた後に残る“何か”である。」
心理学者B.F.スキナーの言葉。これも、ローレンス・ピーターの引用句集より。
信仰も、三位一体とか贖罪とか終末論とか、理屈をすべて忘れたときに、いかに主なる神への信頼に生きているかということかもしれない。


(続く)


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