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トレルチの「素朴な絶対性」について [宗教の神学]

トレルチ「世界宗教の中でのキリスト教の位置」(1924)を読んで。

宗教はそれぞれの歴史的・地理的・社会的諸条件のもとにおける個性的な形態をとっており、その意味で諸宗教は相対的な現象である。それゆえ、各宗教が素朴に信じている自らの絶対性は、ひとつの本物の絶対性である。したがって、諸宗教の価値を比較することは意味がなく、ある一つの宗教の普遍妥当性や最高妥当性を証明することは不可能である。

キリスト教の絶対性を考えるならば、それは、特定の民族に束縛されない普遍性でもなければ、思考や思想的作業に基づくのでもなく、圧倒的な力を持って我々に臨まれる神の啓示に基づくものである。啓示は、我々にとって拘束力を持ち、我々を救済するものであり、我々にはこれ以外の啓示は与えられておらず、また、この我々に与えられてる啓示において我々は神の言葉を聞くゆえに、我々にとって絶対的なものである。

そして、キリスト教の絶対性や普遍妥当性の認識は、このような啓示を承認する個人的・主体的な確信に基づいている(「素朴な絶対性」、「主観的絶対性」)。個人的とか主観的と言っても、単に幻想や独善的信念ではなく、絶対的なる真理を求めて止まぬ心から生まれ、不断の自己純化と向上努力との中で育まれていく確信である。そうであるならば、我々は、他の諸宗教の普遍妥当性の程度などは気にかける必要なく、あるいは、宗教というものがより進んだ高い段階へと進化論的に発展するというような問題も、放っておいて差し支えない。

トレルチ(大坪重明訳)、『歴史主義とその克服』、理想社、1968年。この中の第2章「世界宗教の中でのキリスト教の位置」(1924)。

寛容と独自性 [宗教の神学]

「寛容とは、相対立する真理要求に無関心な態度を示すことではない。それと反対に、寛容は、何が真実で規範的なのかということに関する決定に基づいてのみ可能である。・・・人間は、究極的真理をまだ完全に見てはいない。それゆえキリスト教の真理意識は、他者への寛容を要求する。」
「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分」 1Cor13:9。
しかしこのことは、キリストにのみ救いがある(Acts4:12)ことを放棄するものではない。「もしもイエスがこの世で唯一の救い主ではないとすれば、われわれはなぜキリスト者とならなければならないのであろうか」。

パネンベルクは、ここから、この真理を主張するために、ただイエス・キリストのうちにのみ唯一の神が臨在している、すなわち、イエスは受肉した神の永遠の御子であるという命題を明らかにするキリスト論の課題を語る。

というわけで、ポイントは、
(1)他者への寛容は、決して、自らの特殊性や具体性、独自性を放棄するものではない。むしろ、絶対的な真理のもとに自らを相対化できていてこそ、他者に寛容であることができる。
(2)究極的真理をまだ完全には見ていないという終末論的観点が、自らを謙遜にし、謙虚にする。

パネンベルク(佐々木勝彦訳)、『組織神学入門』、日本基督教団出版局、1996年、pp.76-77。

諸宗教の中の啓示の可能性 [宗教の神学]

カール・バルト『教会教義学』の「和解論」の中

被造物と歴史の世界全体は、その右にイエス・キリストが座しておられる神の支配領域であるのだから、神は教会の外の領域で御自身を証しする自由を持ち給う。しかし、もしそのような領域で神の言葉が語られるとしたら、それは神御自身がイエス・キリストにおいて語り給う言葉以外にありえない。そのような聖書的・教会的でない領域の言葉は、イエス・キリストから委託されその権限を与えられたならば存在しうる。

そうであるならば、そのようなところで語られた言葉に対して、それがどんなに我々にとって縁遠い言葉であろうと、耳を閉ざす理由があろうか。それに耳を閉ざすような態度は聖書に対して従順だと言えるだろうか。

しかし、そのような言葉に耳を傾けることは、全教会がしなければならない事柄ではなく、一部の人に拘束力を持つにすぎない。聖書と関わるように、それらの言葉に関わることはできない。また、これらの考察は、教義学として、神のただ一つの言葉であるイエス・キリストの限界づけられることのない力を論じるためになされたのであって、その種の言葉が理論的・実際的に考慮できるかという問題の原理的な考察であった。

井上良雄訳、『和解論Ⅲ/1』、新教出版社、pp.160-226。

柏市全体の伝道のために [伝道]

1.柏市の人口
   人 口:398,741人、世帯数:158,706世帯 (2010年4月1日現在、柏市のホームページより)

2.柏市の教会数とクリスチャン人口
『クリスチャン情報ブック2010』掲載は26教会(ただし、SDAやカトリック、正教会は掲載されていない)。
『キリスト教年鑑2010』では25教会。
両方をマージすると、柏市内のキリスト教会は28教会。

柏市のクリスチャン人口は、『クリスチャン情報ブック2010』の各教会の会員数を合計し(856)、さらに『キリスト教年鑑2010』のSDA(77)と正教会(41)を足すと、974人。

3.1教会あたりの人口
 398,741÷28=14,241人 つまり、1教会あたり1万4千人に伝道しなければならない。

教会の規模の違いを考慮すると、日本基督教団柏教会の場合、
柏市人口398,741÷市内総信徒数974人×教会員数275人=112,581人
つまり、日本基督教団柏教会がカバーすべき人口は11万3千人。
※275人とは『クリスチャン情報ブック2010』に提供した2008年3月末での現住陪餐会員、不在会員、未陪餐会員の合計。

4.チラシを配る世帯数
柏市の1世帯あたり人口は2.51人。
日本基督教団柏教会がカバーすべき世帯数は、112,581人÷2.51人/世帯=約44,850世帯。
つまり、目標として約4万5千枚のチラシを定期的に配る!

5.チラシ配布のコスト
紙代印刷代ポスティング代などすべて込みで一枚10円として、45万円。年2回で90万円!

このコストを下げるには、(1)一枚のコストを下げる、(2)配布回数を減らす、(3)1世帯あたりの人口を増やす、(4)人口を減らす、(5)教会員数を減らす、(6)日本基督教団柏教会以外の市内総信徒数を増やす(他教会の教会員数を増やす! つまり、市内の他教会の信徒数が少なく日本基督教団柏教会が30%近くを占めている状況が問題で、他教会のために伝道することが必要なのだ!!)。

キリスト者の政治や社会の問題との関わり方 [教会と社会]

1.使徒信条が歴史を通じ地域を越えて公であることにみられるように、信仰の中心は普遍的である。それに対して政治や社会の諸問題は、特定の時代や場所に依存した問題である。中心的信仰は絶対的であり、政治や社会の問題は相対的であると表現できよう。

2.それのみならず、政治や社会の問題が相対的であるのは、個々人によって受け止め方が異なるという意味でもある。現実の諸問題(憲法改正、教育基本法改正、ヤスクニ、日の丸・君が代、部落差別、性差別、在日外国人差別、児童虐待、不登校、ニート、引きこもり、ホームレス、DV、アルコール依存・薬物依存、自殺、中絶、買売春、児童ポルノ、少子化、孤独死・無縁死、脳死と臓器移植、裁判員制度、在日米軍基地問題、核兵器廃絶、環境問題、人口問題、食糧問題・・・等々きりがない)を具体的に思い浮かべると、関心の程度や関わりの深さにさまざまあると思わされる。
大まかに三つに分けられるだろうか。
 A:キリスト者であれば大概同じ判断になるだろうと考えられる問題
 B:各自の職業上の立場や生活上の利害関係と深く絡み合って関心や判断が分かれる問題
 C:特に信仰とは関わりなく、各個人がまったく自由に判断してかまわないと考えられる問題
実際に現実の諸問題をどれに分類するかは、これまた、各個人によって異なるだろう。

3.我々は、こういった相対的な問題について、自己の判断や立場を他者に押しつけてはならないことに、注意しなければならない。また、自己の内においても、そもそも相対的である種類の問題を絶対化してはならない。相対的である政治や社会の問題への態度や取り組みが絶対化されるとき、これは偶像礼拝だからなどと、信仰的な根拠が強調されることがある。しかし、相対的な問題が絶対化されるとき、それは信仰ではなくイデオロギーとなる。

4.神ならぬ者を絶対化しないように、神のみを絶対として他を相対化し、他者に対しても謙虚さと寛容さとを持たなければならない。


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