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田中小実昌『アメン父』 [読書メモ]


田中小実昌、『アメン父』、河出書房新社、1989年。

  • 後に、講談社文芸文庫、2001年。
  • 長編小説と紹介文に書かれていることがあるが、190ページほどなので全然長くない。
  • 河出書房新社のページによると日本図書館協会選定図書だそう。
  • 田中小実昌の父とは、田中遵聖(本名:種助)牧師(1885.11.7-1958.3.18)。アサ会(アメン教団)創立者。説教集『主は偕にあり 田中遵聖説教集』(新教出版社、2019年、3000円+税)が出ている。
  • 田中小実昌(1925.4.29-2000.2.27)は1979年に直木賞受賞。父をテーマとした作品には他に「ぽろぽろ」(1979年谷崎潤一郎賞)など。『日本キリスト教歴史人名事典』(教文館、2020年)の「田中小実昌」の項には、直木賞受賞はあるが谷崎潤一郎賞受賞は記されていない。
  • 2020年は没後20年だった。『朝日新聞』2020.11.2「文化の扉」欄に特集記事あり。「その作品には哲学者のカントやスピノザ、ライプニッツ、ベルクソンが出てくる。プロテスタント神学者カール・バルトも熟読していた。」
  • 伊藤義清『教界人物地図』(教友社、2004年)は、田中小実昌から書き始めている。

像があると拝みやすく、親しみやすい。用心しないと何でもすぐ偶像になる。十字架も、立派な会堂も。清らかさ、神々しさ、俗世間にはない聖なるものなど、宗教的なものは偶像になりやすい。

(p.30-31)

心境や宗教心、宗教的感情は,宗教とは関係ない。宗教はココロの問題ではない。

(p.33-35)

「十字架を信じるって、こちらが信じるという観念的なことよりも、十字架のほうでぶちあたってくるほうが、事実なのではないか。」

(p.46)

「父には宗教経験なんてことも,関係のないことだった。どんな経験でも経験はたくわえもつものだ。アーメンはもたない。たださずかり、受ける。もたないで、刻々にアーメン・・・。」

(p.98)

「光が満ちあふれていても、自分のからだが光でいっぱい、光で充実しているのではない。あるのは、ただ光だけで。・・・光にあたって、くらさと罪が身にしみる。・・・充実した人生をおくってると言うような人は、光もくらさもなにも知らない人だろう。」

(p.104)

「サウロ(パウロ)がイエスにぶちあたられたのは、神秘的体験でもないしそんな宗教経験でもない。体験も経験も自分でもつもの、自分の財産(ないし負債)だが、これ〔イエスにぶちあたられたこと〕は自分でもつものではない。」

(p.181)

十字架の意味や意義ではない。「ただ十字架が、わたしどもにせまってくること」だ。

(1コリント2:2からの田中遵聖の説教より)(p.186)

「アメンが父をさしつらぬいている」

(あとがき、p.193)


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