ルターのりんごの木2 [読書メモ]
「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日なおわたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」
前回の記事で、この言葉の起源や広がり、作者について調査した、M.シュレーマン(棟居洋訳)『ルターのりんごの木――格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ』(教文館、2015年)を紹介し、読みにくい本であったが、ポイントをまとめた。
さらに、日本での引用に関する、いくつかの点について。
ゲオルギウは?
この言葉の出典に関する日本での話題でよく出てくる、ゲオルギウ(谷長茂訳)『第二のチャンス』、筑摩書房、1953年(原著1952年)は、シュレーマンのこの本の本文中には出てこない。ちょっとがっかり。。。
「訳者あとがき」で、徳善義和先生がこの本の最後の箇所で、ルターの言葉として引用されているのを見たのが最初であったということが触れられている。そこで、ちょっと考えてみた。
ゲオルギウは、ルーマニア生まれだが、フランスに亡命した。この著作はフランス語で書かれた。C. V. Gheorghiu, "La seconde chance", 1952. ゲオルギウは、この本の中で「りんごの木」の言葉をドイツ語で記しているので、ドイツでこの言葉が広く知れ渡り始めた1950年5月以降かあるいはそれ以前に、この言葉を知ったのであろう。
『第二のチャンス』のドイツ語訳が出たのは、邦訳より遅く、1957年(ドイツ語タイトルは "Die zweite Chance")。したがって、ドイツ語訳の出版が遅かったため、ゲオルギウ『第二のチャンス』は、ドイツ語圏では「りんごの木」の言葉の広がりには貢献しなかったということだろう。
最近の引用
(1) 徳善義和
『マルチン・ルター 生涯と信仰』(教文館、2007年)。
「たとい明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える」
世界の終わり、それは神のみ手の中のことだ。この世界の完成としての、世界の終わりが神のみ手から来る。そのことをルターははっきり信じていました。それが神のみ手から来るものであるならば、あれやこれやと私たちが詮索してみたり、考えて悩んでみたりしてもしょうがない。それは神にお任せしよう。そして、私としては今日一日私に託されている仕事を精一杯行っていこうという、そういう気持ちはもうルターの生涯の中に絶えずあったわけで、それに似た言葉をルターはよく言っていますので、たといこの言葉がルターのものでなくても、考え方、信仰的な基本はルターのものだと言っていいと思うわけです。」
p.152-153。
徳善義和は、「滅びる」ではなく「終わりの日」と言っているところがポイント。「終わりの日」は、聖書に基づくキリスト教終末論の用語である(イザヤ2:2、エレミヤ23:20、30:24、48:47、49:39、ヨハネ6:39-54など)。この表現ならば、シュレーマンが指摘しているような世俗的な世界の滅亡のことではなく、キリスト教信仰の終末観に立った表現になっている。
(2) 江口再起
日本聖書協会編『日本聖書協会「宗教改革500年記念ウィーク」講演集』(日本聖書協会、2018年)に収録されている、江口再起「贈与の神学者ルター」の最後で、
ルターが語ったと語り継がれている、あの有名な言葉を引用して私の講演を終わりにしたいと思います。
「たとえ明日世の終わりが来ようとも、それでも今日わたしはリンゴの木を植える。」
p.59-60。
ここでも、「滅びる」ではなく「世の終わり」と言っている点がポイント。世俗的な世界の滅亡のことではなく、キリスト教信仰における終末の表現である。しかし、それならば、徳善義和のように「終わりの日」と言った方がより明確だろう。
ではどうするか?
おそらく、人々の口に上るごとに、少しずつ形成されていった言葉でありつつ、最終形に至ることなく、様々なバージョンが生まれ続けている言葉である。
では、引用する際、どのバージョンがよいだろうか。あるいは、どういう風に言うのがふさわしいだろうか。
- 「明日」と「今日」の対比は活かしたい。
- できるだけシンプルに言いたい。
- 「世界が滅びる」というのは我々の終末観に合わない。むしろ、神の計画が成就し、世界が完成されるというキリスト教的な意味で「終わりの日が来る」あるいは「終末が来る」と言うのがよい。
- しかし、いつ終末が来るかは、人間にはまったく分からないことである。そういう意味で、明日かもしれないが、その時を人間が前もって知ることは決してない。あらかじめ知ったとしたらという仮定は、まったくナンセンスである。
- 後半に、「それでも」とか「それでもなお」という言葉が入るのは、明日終末が来ることをあらかじめ知ったとしたらということが前提になるので、これらの言葉を入れるのはおかしい。
- キリスト教的終末観を表す言葉とするならば、世界の滅びとか人生の終わりに抵抗して希望を抱き続けるという言葉ではなく、いつ到来するか分からないが必ず到来する終末に向けて、たゆまず黙々となすべき務めに励むという意味に解すべきであり、できるだけそのように解せる表現にすべきである。
そうすると、前半は「たとえ明日終末が来ようとも」あるいは「たとえ明日終末が来るとしても」となる。「来るとしても」の方がいいか。
後半は、「わたしは今日りんごの木を植える。」でよいだろう。
そして、重要なことは、「これはルターの言葉であるという説は否定されているが」というような但し書きを必ず付け加えること。
結 論:
これはルターが言ったという説は否定されているが、
「たとえ明日終末が来るとしても、わたしは今日りんごの木を植える。」
柴田昭彦「真実を求めて」
この「りんごの木」の言葉の、日本での様々な引用について詳細に追究した、柴田昭彦のホームページ「真実を求めて」は力作であり、よく知られている。
- 寺山修司はこの言葉を確信犯的に革命の言葉にしたとか、
- 石原慎太郎が誰の言葉として紹介しているかの変遷や、
- 梶山健編著『世界名言大辞典』(明治書院)で版を重ねても誤りが修正されていないどころかかえって改悪になっているとか、
- 開高健の色紙の文言の異動を整理して、紹介している人が勝手に「リンゴ」を「林檎」としてしまっているなどの問題を指摘、
- 書籍やテレビドラマなどでの引用を一覧にし、
- リルケの詩集やトラークル全集を調べ上げてこの言葉がないことを確認、
- ゲオルギウ『第二のチャンス』のフランス語原著まで入手して調査
しているのにはまったく脱帽する。
ルターのりんごの木 [読書メモ]
M.シュレーマン(棟居洋訳)、『ルターのりんごの木――格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ』、教文館、2015年(原著1994年)、321+9頁、2700円+税。
「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日なおわたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」
この言葉がルターのものであることは否定されるものの、どこに起源があるのかという問題と、この言葉が戦後のドイツでどのように理解されて広まったかを、史料やアンケート調査をもとに丹念にたどった研究結果。
408箇所に付けられた注が、巻末の76頁を占めているが、参照されているのは、ほとんどドイツ語の文献。
文章は読みにくい。「著者の文章には、議論の筋道が錯綜している上、挿入文が多く、省略もかなりあって翻訳にあって苦労も多かった・・・」(「訳者あとがき」p.320)。
おおざっぱなまとめ。
A 言葉の起源と広がり
1.1940年代に出現
最も古い典拠は、領邦教会全国評議員会議長カール・ロッツの1944年10月5日付の内輪の回状(タイプライター打ち)。
「たとえ明日世界が滅びようとも、われわれは今日りんごの苗木を植えようではないか。」
※他との大きな違い:「われわれは」、「~ようではないか」。
この文書が現れる前に、教会の何かのグループの中で少なくとも口伝えで広がったと想定できる。
2.最初の印刷物は1946年
「女子聖書サークル」(MBK)がカール・ハイザー社から発行したカード。
「たとえわたしが明日世界が破滅することを知ったとしても、今日わたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」
※他との大きな違い:「滅びる」ではなく「破滅する」。
3.「ひとりの著名な人」の言葉として
レナーテ・(フォン・デア・)ハーゲン、『火の柱』、ギュータースロー社、1947年。
「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、わたしは今日それでもなおわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」
※他との大きな違い:「それでもなお」。
4.まったく別の分野で
フリッツ・カスパリ、『実り豊かな庭』、1948年。
この本はガーデニングの本らしい。しかも、この言葉の作者をフリードリヒ・ラウクハルトとしている。
「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、それでもわたしは今日なお木を植えるであろう。」
※他との大きな違い:「りんごの苗木」ではなく「木」。
5.1950年5月のラジオ放送
1950年5月20-21日、ヘルマンスブルクで行われた「ジャーナリスト会議」でニーダーザクセン領邦教会監督ハンス・リリエが語った。この会議の報告が、5月25日の22時~22時10分、北西ドイツ放送のラジオ番組で、ジャーナリストのティロ・コッホによってなされた。
「ある日マルティン・ルターが、もし明日世界が滅びることを確かなこととして知ったとしたら、あなたは何をしますか、と問われた時、わたしはそれでもなおりんごの木を植えるでしょう、と答えました。」
6.1950年5月末
マールブルクにおける少年警備団・福音主義教会(中等教育)生徒聖書研究サークル(BK)の全国会議で、(後の報告書によると、)ハンス・リリエと福音主義教会総会議長のグスタフ・ハイネマンが共にルターの言葉をもって発言の結びとした。
「たとえ明日世界が滅びるとしても、わたしはなお今日わたしのりんごの苗木を植えようと思う。」
二人が全く同じ文言で語ったかは不明。
7.1958年、ブリュッセル万博
「農業」部門のパビリオンの中に設けられたエントランス・ホールに、この言葉が様々な言語で掲げられ、マルティン・ルターの名が添えられた。
「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日わたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」
結 論
この言葉を確認できる最も古い史料の年は、1944年である。
1950年5月のラジオ放送とマールブルクの全国会議を通して、この言葉は、ドイツのプロテスタント及びその他の各方面に知れ渡り、また、一般社会にも広がった。その極めつけが1958年のブリュッセル万博だった。
B 誰の作か?
この言葉がルターのもとでは見つからない、ルターに由来を求めることは無駄であることは、1954年、1959年に確認された。
では、誰の作か?
1.シュヴァーベンの敬虔主義 説
シュヴァーベンの敬虔主義者が最初に言ったという説があるが、確認できない。
2.キケロ 説
キケロの「それでも彼は、将来初めて役に立つ木を植える」という言葉が我々が問題としている言葉と結びついていることを裏づけることはできない。
3.ヨハナン・ベン・ザッカイ 説
紀元一世紀のヨハナンの言葉が20世紀まで伝えられてきたという手がかりはまったくない。
4.フリードリヒ・クリスティアン・ラウクハルト 説
彼に由来するという説は極めて疑わしい。
ただし、聞き間違いがあった可能性はある。「ルター」と「ラウクハルト」は発音上、まったく違っているとは言えない。
また、フリッツ・カスパリの『実り豊かな庭』(1948年)という、宗教とまったく関係のないガーデニングの本で、ラウクハルトの作として言及されていることは、どう判断すればいいのか。
結 論
誰の作かは分からない。これまで出て来た様々な説は現在のところすべて否定される。
C ルターと関係があるのか?
ルターの詩編46:3の聖書翻訳に「すぐに世界が滅びようとも」とあり、また、「たとえ・・・であっても」という言い回しは、ルターの讃美歌「神はわがやぐら」の第3節に見られる。
しかし、「りんごの苗木」という表現はルターに見当たらず、ルター以外にも見受けられないなじみのない表現であり、決定的に独創性がある。
この言葉は世界の滅亡ということをまったく世俗的に理解しており、ルターの終末論や倫理を表現したものとは言えない。明らかに、20世紀半ば以前の時代の信仰、あるいは人生観の関心事を表現している。
結 論
今後、この言葉を「これはルターが言ったらしい」などと曖昧にすることは、もはや許されない。
十字架刑 [信仰]
主イエスの十字架刑について
1.残酷な十字架刑
ローマ帝国の処刑方法
犯罪人を十字架にはりつけにする処刑方法は古代の諸民族に多く見られるようですが、ローマ帝国は、奴隷などが大きな罪を犯した際に十字架刑を行いました。ローマの市民権を持つ者には十字架刑は用いられなかったほど、厳しい刑罰でした。
はりつけの木の形
はりつけにする木の形にはX型、T型などがありましたが、主イエスが掛けられたのは十字型のものでした。それは、罪状書きが上に掲げられた(マタイ27・37、ルカ23・38、ヨハネ19・19)ことからも分かります。
横木は背負わされて
十字架刑は、犯罪人を付けてから地上に立てる場合と、十字架を立ててからそこに犯罪人を付ける場合とがありました。主イエスの場合は、十字架の横木を背負わされて町の外の刑場まで歩かされ、そこにはすでに十字架の縦木が立てられていました。
釘は掌か手首か
十字架への付け方は、犯罪人の手首に釘を打ち込むか、縄で縛るのが通常だったようです。主イエスの場合はヨハネ20・24~29から、手のひらに釘を打たれたと見なされています。
すぐに絶命したのか
十字架刑に掛けられると、通常1~2日かけて死に至りました。しかし主イエスの場合は、わずか6時間ほどでした(マルコ15・25、34~。44節も参照)。
そのまま晒された死体
十字架刑は、人前で見せしめに行われ、また、すぐに絶命するのではなく時間をかけて死に至らされ、さらに、死後もそのままに晒されて猛禽の餌食とされました(主イエスの場合はアリマタヤのヨセフがその日のうちに遺体を引き取った。マルコ15・42~45ほか)。それゆえ、十字架刑はきわめて屈辱的で残酷な刑罰でした。
2.ローマ帝国による刑罰
ポンテオ・ピラトの判決
主イエスはローマ帝国の裁判によって十字架刑の判決を受けました(ヨハネ19・10)。その判決を下したのが、ローマ帝国から任命されてローマの属州ユダヤの総督になっていたポンテオ・ピラトでした。
世俗の裁判の意味
ユダヤ教の宗教裁判ではなく、世俗の裁判で死刑判決を受けたことが重要です。それは、主イエスの十字架刑による刑死が、世俗の全領域に及ぶことを意味しています。わたしたちの日常生活のすべてのみならず、国家や政治にも、主イエスの十字架の死の支配が及んでいます。
3.神の呪い
「木にかけられ者」の意味
旧約には十字架刑は出て来ませんが、申命記で、木に掛けられた者は神に呪われたものとされています(申命記21・22~23)(なお、この箇所の新共同訳の「木にかけられた死体」という訳は「木にかけられた者」に訂正されています)。おそらく、死体が晒されて猛禽の餌食となったむごたらしさが、神の呪いを受けたと理解されたのでしょう。
この言葉はガラテヤ3・13で、主イエスがわたしたちのために呪いとなってくださって、律法の実行によって義とされようとする呪いから信仰による義へとわたしたちを贖い出してくださったのだと受け止められています。
神への全き従順
主イエスの十字架刑は、「自らその身にわたしたちの罪を担ってくださった」ものであり(一ペトロ2・24)、主イエスがこのような十字架につけられたことは、神への全き従順によるものでした(フィリピ2・8、ヘブライ12・2)。
4.十字架の愚かさと伝道
十字架のつまずき
主イエスが残酷な十字架刑に処せられたことは、一般の人からすればまことに目を覆いたくなる忌まわしいものでしたが、しかしそれがわたしたちのためであったと受け止める者にとっては救いの出来事です。
現代においても、十字架は人々にとってつまずきとなるものですが、信仰者へと召された者にとっては神の力がそこに現されているものです。十字架のキリストは、「召された者には、神の力、神の知恵」(一コリント1・24)です。
十字架を誇りとする
それゆえ、世の人々にとってはまったくつまらぬものに見える十字架を、しかしわたしたちは誇りとします(ガラテヤ6・14)。それは、十字架につけられたキリスト以外は何も知るまいと心に決めるほどです(一コリント2・2)。
神の救いの力
わたしたちは、このようなキリストの十字架を宣べ伝えます。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力」(一コリント1・18)なのです。
(初出:『柏教会月報』、第405号、2017年3月号、p.1。)
ワーシップCD Jworship4 [音楽]
Jworshipのシリーズの第4作、2017年4月4日リリース。
分かる範囲での原曲情報とコメント。
『ジェーワーシップⅣ 日本に与えられた賛美の油注ぎ』、PHWM(Praise Honor Worship Ministry)、2017。
曲目リスト
- 1.花も
- MEBIGの名曲。CD『さんび大爆発10』に収録されている。
- YouTubeではNCM2 (New Christian Music Ministry)の演奏がよく再生されているようだ。
- 2.イエス様ふれてください
- 大和カルバリーチャペルの副牧師、倉知契の作詞作曲。『ジェーワーシップⅣ 賛美楽譜集』では漢字で「イエス様触れてください」になっている。
- 3.あなたがすべて
- Acts2:44のセカンドアルバム『To the King』(2013年)の4曲目。
- 4.全地の王イエス
- シオン・プレイズの1st『主は私の光』(2013年)の1曲目。
- 5.命の光
- 長沢崇史 with Special Bandの『道』(2012年)の1曲目。
- 2017年8月9~11日の日本基督教団宗教改革500周年記念「リフォユース500教会中高生大会」でも賛美された。
- 6.カルバリの十字架
- 中畑友里のアルバム『今は恵みの時』の3曲目。
- 7.主の愛注ぐ
- Acts2:44のセカンドアルバム『To the King』(2013年)の8曲目。
- 8.山々が生まれる前から
- ミクタム『ホーリーパワー』の3曲目。楽譜はPraise&Worship2(青本)-113。
- ミクタムのCDの中の、水野弘子の透き通ったボーカルには全くかなわない。ただし、ミクタム『ホーリーパワー』では、全体を通して歌うのは1回だけで物足りなかったのだが、このJworship4では2回繰り返してくれて、さらにしつこくあちこち繰り返してくれているのは、とてもよい。
- 9.どんな時でも
- Praise Station『希望の歌』(2012年)の1曲目。
- 10.天の御座におられる方に
- 中山有太 Worship Project『ホザナ』(2015年)の11曲目。
- 11.イエス様ふれてください Bilingual
- 日本語と韓国語
- 12.あなたがすべて Bilingual
- 日本語と韓国語
コメント
- 「花も」とか「命の光」という既に定番になっている曲が取り上げられているのもよいが、その中で、新たな(?)発掘として「イエス様触れてください」が取り上げられたのがよい。
- 全体として、どうしても外国人が歌っている日本語なので、ヘビーローテーションには耐えられない。次回作は、ぜひとも方向転換して、礼拝の中でそのまま再生して賛美できるような作品にしてほしい。
- アレンジや演奏はよいので、ぜひカラオケ(インストルメンタル)も付けてください。