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NGな教会の外看板 [伝道]

八木谷涼子『もっと教会を行きやすくする本――「新来者」から日本のキリスト教界へ』(キリスト新聞社、2013年)を参考に(というか、ほとんどそのまんま)、教会の外看板のNGをまとめた。必要に応じて、コメントあり。

わたしの見たところでは、教会の外看板には、
  固定的な内容を記した「案内看板」
と、
  頻繁に中身を張り替える「外掲示板」
とがある。

案内看板は、昔はペンキ、今はカッティングシートで作成されていて、集会案内と牧師名、電話番号などが記されているもの。

外掲示板は、前面がガラス窓になっていて、磁石か画びょうでプリントを張るタイプが普通か。


● NGな案内看板

・傷んだ看板に、はがれかけた文字
・ガムテープで修正、しかもそれがボロボロ
牧師名が前任者のまま
・現在とは時刻等が異なる集会案内
・電話番号に市外局番がない

※ガムテープは劣化が激しいので、ガムテでの修正は絶対やってはいけません。今は、カッティング文字で一文字単位で修正できるので、業者に頼みましょう。

※携帯電話やスマホで電話する人が多いので、掲示板に限らずチラシ等でも、市外局番は必須。


● NGな外掲示板
・ガラスケースの掲示板が、砂ぼこりだらけ
・とっくに終了したイベントのポスター
・文字や紙の色あせ
・日に焼けてぼろぼろの磁石 (2017.5.29追加)


● 共通のNG
・掲示板本体のサビや亀裂、蜘蛛の巣
・下が雑草だらけ
・字が小さすぎ
・誤字脱字
礼拝は誰でも参加OKということが書かれていない



なぜセレブレーションオブラブに乗らないか? [伝道]

日本基督教団の多くの教会は、なぜ、セレブレーションオブラブのような集会に乗らないのか?

ビリー・グラハム、フランクリン・グラハム以外でも、クリストファー・サンとか、あるいはいろんなムーブメント(ずいぶん前にプロミス・キーパーズというのが流行った)、国内ではジェリコジャパンとか甲子園リバイバルミッションとかいろいろあった。最近ではラブ・ソナタとか。

もちろん、ペンテコステ・カリスマ系の集会には、そういう傾向を持った教会でないと関心を持たないし、ワーシップソングをガンガン歌っている教会でないとまったくついて行けないという集会もあろう。

説教者の神学が合わないとか、スキャンダルが報じられたり、アメリカでの政治的立ち位置が問題視されることもある。

もちろん、関わるかどうかは各個教会の判断による。
だから、日本基督教団の中にも、そういったムーブメントや集会に教会として関わったり、教会員に積極的に参加を呼び掛けたりする教会もあるだろう。

でも、別に統計を取ったわけではないが、たぶん、日本基督教団の多くの教会は、関心を持たないと思う。たとえ、その集会に特定の教派的傾向がなく、説教者にスキャンダルもなく、政治的な立ち位置も問題ないとしても。


なぜだろうか。


1.そもそも、ムーブメントに興味を持たない体質である。

やがてそのうちはやりが過ぎ去る時が来るような新しいものには振り回されないで、地道に伝道するんだという体質がある。

そういう体質なのだから、関心を持てと言われても無理である。

別にアレルギーがあるわけではないけれど、納豆はおいしいし体にいいからぜひ食べろと言われても、小さい頃から食べてきた経験がないので、無理な人には無理であるのと同じである。


2.大衆伝道に対する親和性がない。

伝道は各個教会が、あるいは信徒一人ひとりが、コツコツ行うものだという意識が強い。

また、有名な伝道者・説教者にキャーキャー言うミーハーな信仰を持っていない

まあ、賀川豊彦のころまではそういうところがあったかも知れないが。

良くいえば、人気があるからといって安易に権威付けたりしないというか、悪く言えば、頭でっかちの信仰なので、人々から褒めそやされている人がいるとハスに構えて批判したがるクセがあるというか。

そういうわけなのだから、無理に東京ドームとか連れて行かれても、何だか気疲れして帰ってくるだけ。普段礼拝をささげている教会で、静かに説教を聞くのが体に合っているのである。


3.教職制度が堅固である。

礼拝の説教者は、原則として、教団の教師か教団と宣教協約を結んでいる教会の教師に限られる。別に規則に明記されていなくても、そういうものだという意識がある。(たまには神学生が説教したり、牧師が休暇の時には信徒が説教することもあるだろうが、あくまでも例外的なこととして捉える)

そのため、他の教派の牧師を主日礼拝の説教者として呼ぶことは、教団のほとんどの教会では考えられないことだろう。(別に他の教派の牧師職を否定するわけではないし、伝道集会とかで呼ぶことなどはあり得るだろうが)

他教派の牧師に毛色の違う信仰を教えられては困るというような思いを持っている人もいるかもしれないが、そういうことでなくても、説教は教団の教師がするのが当然という教職観というか説教者観が、大衆伝道とか、超教派の伝道集会などの際にも働くことがあると思う。


牧師職の危険と困難 [伝道]

ラインホールド・ニーバー「キリスト教的牧師職の危険と困難」
in 梶原寿訳『義と憐れみ――祈りと説教』(新教出版社、1975年)、pp.224-239。

(以前に行ったこの本の紹介記事

1953.3.29 ユニオン神学校で牧師職についての会議のための講演。


これを読んで、私なりの関心から学んだこと、考えさせられたことのまとめ


1.ただ啓示によって理解される秘義
 信仰は、知的努力によって理解することができない、理解可能性の向こう側にある世界、すなわち、秘義を認める。
 キリストを理解し見出すのは、瞑想によって無意識的な深みに至りついに神的レベルに達するのでもなく、神との出会いによってである。

2.高慢の罪の悔い改め
 ところで私たちには、自分がよい人間、賢い者、理解力のある者と見られたい思いがある。これは高慢の罪であり、神に対してもこの罪をもっている。
 この高慢の罪を悔い改めなければ、神と出会えない。神と出会う時には、全人格的な悔い改めが起きている。

3.牧師の務めの危機
 そこで、牧師の務めにおける危機の一つは、自分が神について知っているとよそおってしまうことである。
 教会員から牧師は神について何でも知っていると見られ、神に対しても人格的な出会いを抜きにして、知的に理解しようとしてしまう。

4.福音宣教における困難
 私たちは、現代社会に福音を宣べ伝える上で、二つの困難に直面している。

1)経済的あるいは知的に安定した生活をしている人々は、人生が打ち砕かれなければならないなどとは考えない。福音はそのような人々のためにこそあることを語らなければならないという実践的困難。

2)福音は合理的でも科学的でもない。また、福音はただ歴史的啓示によってのみ知りうる。神を知らない世はこのような福音を受け入れられないという知的困難。

 したがって、私たちの課題は、信仰の歴史的、人格的、超越的な独自性と生命力を守りつつ、科学的、形而上学的、合理主義的世界に対して福音を宣べ伝えることである。



『ミニストリー』の八木谷(8) [伝道]

 キリスト新聞社の季刊誌『ミニストリー』に連載されていた、八木谷涼子の「新来者が行く ノンクリスチャン・八木谷涼子の教会ウォッチ」の、わたしの関心からの総まとめ、その8。

 八木谷涼子のサイト「くりホン キリスト教教派の森」の中の「「万年教会新来者」の声」のページも参照。雑誌の記事以上のことが書かれている。

 記事の引用や指摘されている点をわたしなりに言い換えた紹介は「八」、わたしのコメント、補足、お詫びは「私」と記す。

ミニストリーvol.8(2011冬)

「新来者とお葬式」

八: 葬儀には新来者が多く出席する。葬儀における新来者への対応を平時に考えておく。

八: 唱えたり歌ったりする言葉は、すべて式次第にプリントを。ふりがな付きで。

八: 待ち時間に読めるような、簡単なキリスト教案内を式次第に組み込んでおくのもよい。

私: 教会案内や「キリスト教葬儀リーフレット」を式次第と一緒にお渡しする方法がありますね。


 もっと聞きたい、こんなこと

八: キリスト教では死んだらどこへ行くのか。

私: 私は「神の御許(みもと)に行く。」と言うことにしています。「天国」というと、日本人が何となくイメージするのは極楽浄土と変わりなかったりするので。聖書の表現に即した信仰理解としては、「眠りに就いた」ということです。

 眠りに就いているのであれば、やがて目覚める時が来ます。重要なことは、やがて、神さまの御計画によって救いが完成される時が来たら、新しい体と命が与えられて、もはや死も悪も罪もない世界に生きるようにされるということを語ることです。

 いきなり「わたしたちも復活します」とか「わたしたちもよみがえらせていただけるのです」と言うと普段そういう話を聞き慣れていない方は引いてしまうので、丁寧に語ろうと心がけています。


八: 死期の迫った人を教会はどう支えているのか。

私: この点をもっと語ってよいとは刮目でした。ただ、最期の時が来る経過は一人ひとり全く異なります。時間的問題で、病状で、ご家族の状況で、牧師の都合、教会の都合で、訪問できた場合、できなかった場合などいろいろあって、他の人よりも頻繁にケアできる場合とできない場合があって、あまり語れないこともあります。

私: 本人よりも家族の支えが重要な場合もありますね。

私: それから、「教会が支える」という観点は大切ですね。牧師一人で抱えることになってしまいがちです。教会員が代わる代わる訪問して手厚く配慮していても、牧師に来てくれないとダメみたいな。


八: 天寿を全うしたとは言えないようなケースは、どう理解するのか。

私: 夭折や早世したことに、あるいは事故などで急死したことに、神の御計画だとか、人間には分からない何か深い意味があるなどと、無理に意味を見出すことはできないでしょう。しかし、不慮の出来事で命を落としても、神はその命を、決して滅びるに任せはなさらず、御許に救い上げてくださるお方です。残された者たちがそのような神の恵みを信じ、神に感謝します。まさに葬儀は、そのために神を礼拝する時です。


『ミニストリー』の八木谷(7) [伝道]

 キリスト新聞社の季刊誌『ミニストリー』に連載されていた、八木谷涼子の「新来者が行く ノンクリスチャン・八木谷涼子の教会ウォッチ」の、わたしの関心からの総まとめ、その7。

 八木谷涼子のサイト「くりホン キリスト教教派の森」の中の「「万年教会新来者」の声」のページも参照。雑誌の記事以上のことが書かれている。

ミニストリーvol.7(2010秋)

 今回は、指摘されているポイントのみ。

「ここが困ったウェブサイト part2」

・ホームページとブログを効果的に使い分ける方法もある。

・文字のサイズを固定しない。

・ブログは「概要表示+続きを読む」方式にしない。

・1ページ分の容量を少なくする。特に画像のサイズに注意する。

・点滅、GIFアニメ、マーキー(左右などに流れる文字列)、刻々と更新されるツイッター情報など、何かが動いている効果もじゃま。

・「いきなり讃美歌」(ページを開いたとたんに讃美歌が流れる)は大迷惑。

・広告が出る無料ブログは避ける。

・コメント欄は放置しない。特にスパム広告の書き込み。


『ミニストリー』の八木谷(6) [伝道]

 キリスト新聞社の季刊誌『ミニストリー』に連載されていた、八木谷涼子の「新来者が行く ノンクリスチャン・八木谷涼子の教会ウォッチ」の、わたしの関心からの総まとめ、その6。

 八木谷涼子のサイト「くりホン キリスト教教派の森」の中の「万年教会新来者」の声」のページも参照。雑誌の記事以上のことが書かれている。

ミニストリーvol.6(2010夏)

 記事の引用や指摘されている点をわたしなりに言い換えた紹介は「八」、わたしのコメント、補足、お詫びは「私」と記す。

「ここが困ったウェブサイト part1」

A 基本情報が抜けている

八: はじめてそこに行ってみようという人が第一に求めるものは、具体的な道順。最寄りの駅やバス停からの順路を示した地図はぜひほしい。バスの時刻表にリンクを張るなどの工夫も。

八: 基本情報以外にも、礼拝堂やその教会の雰囲気がわかるような写真、教役者の氏名、写真、プロフィールなど、教会の沿革、教会が全くはじめての人のためのQ&Aなどがあると、はじめての人にとってありがたい。


B 更新されていない

八: 更新する余裕がないなら、せめて年に一度はトップページに出てくる年や日付を新しくして、生存証明を。

私: ウェブサイト作りを精力的に進めてきた信徒がいなくなったり、積極的に取り組んできた牧師が交代してしまうと、教会ホームページもそれっきり・・・ということがよくあります。「せめて年に一度は日付だけでも新しくして生存証明を」とは、たいへん有益な提言です。


八: サイトを担当してくれた人がいなくなるとサイトが放置状態になる実例があることから、教会の公式サイトを誰かが単独で背負い込むのは危険。また、サイト運営の中心人物が何らかの事情でアクセス不能になったときのため、ファイル転送の設定情報などを複数の人間が共有し、管理するバックアップ体制が肝心。

私: 日本の教会の規模だと、たまたまウェブページ作成の好きな人が教会に来るようになって、初めて教会のホームページが立ち上がり、その人の他には誰も手を出せないということがあるのでは。また、時には、そのようなウェブページ作成者がたいへん自己本位で、役員会の提言を聞こうとせず、会議での協議もしようとしないなどということもあったり。



C 責任の所在が不明
八: 公式サイトなのか、一信徒による非公式サイトなのか、はっきりさせておいたほうが信頼性が高い。

私: 独自ドメインでない場合に特に必要ですね。


八: 記載されているメールアドレスは、誰が受け取って誰が返事を書くのか、プライバシーは守られるのか、そういったあたりも記しておいてほしい。

私: 大切なご指摘ありがとうございます。




『ミニストリー』の八木谷(5) [伝道]

 キリスト新聞社の季刊誌『ミニストリー』に連載されていた、八木谷涼子の「新来者が行く ノンクリスチャン・八木谷涼子の教会ウォッチ」の、わたしの関心からの総まとめ、その5。

 八木谷涼子のサイト「くりホン キリスト教教派の森」の中の「万年教会新来者」の声」のページも参照。雑誌の記事以上のことが書かれている。

なんと、絶版になっていたと思った八木谷涼子著『知って役立つキリスト教大研究』がパワーアップして、『なんでもわかるキリスト教大事典』として朝日新聞出版から朝日文庫の一つとして2012年4月刊行! 略称は、「なんテン」とのこと。

さて、

ミニストリーvol.5(2010春)

 記事の引用や指摘されている点をわたしなりに言い換えた紹介は「八」、わたしのコメント、補足、お詫びは「私」と記す。

「礼拝はいつ終わる?」

A 礼拝の終了時間

八: 新来者にとって、終了時間は重要。心の準備が違ってくるし、礼拝後に別の予定も決められない。

八: 礼拝後に「報告」のアナウンスや「来週の讃美歌の練習」などがあって時間が延びる時も、あらかじめ告知されている終了時間でひとまず退出できるチャンスを与えてほしい。


B 礼拝後のティータイム

八: 女性陣が全員あれこれせわしなく立ち働いているのに、男性陣が全員座ってお茶か食べ物が出てくるのをぼーーーっと待っている――そんな姿を見たとき、いたたまれない思いをした。

八: 基本的には女性に対しては女性が応対するほうが無難。


八: コーヒーの苦手な人もいるので、口に入れるものを出す際は相手の意向を確認してほしい。

私: わたしもコーヒー、ダメです。




『ミニストリー』の八木谷(4) [伝道]

 キリスト新聞社の季刊誌『ミニストリー』に連載されていた、八木谷涼子の「新来者が行く ノンクリスチャン・八木谷涼子の教会ウォッチ」の、わたしの関心からの総まとめ、その4。

 八木谷涼子のサイト「くりホン キリスト教教派の森」の中の「万年教会新来者」の声」のページも参照。雑誌の記事以上のことが書かれている。

 記事の引用や指摘されている点をわたしなりに言い換えた紹介は「八」、わたしのコメント、補足、お詫びは「私」と記す。

ミニストリーvol.4(2010冬)
「ついていきにくい礼拝」

A 何を参照すればよいのか分からなかったり、参照するものが多い。

八: アナウンス無しにいきなり皆で祈りを唱えたり歌ったりすると、何を参照すればよいのか分からないので、きちんとアナウンスする。

私: 讃美歌の番号ははっきり告げるとか、聖書のページを告げた後、会衆が開けているか見回して確認してから朗読し始めるなども、気をつけたい。わたしも、初めての教会の礼拝に出たとき、司式者が式文のページを告げた後すぐに読み始めちゃって、自分がそのページをようやく開いたときにはもう終わっちゃったところだったりすることがあります。


八: 参照するものが多すぎる場合もある。『讃美歌』を歌って次は『聖歌』を歌うなど。その日に参照するものが一つの冊子にまとまっているなど、とにかく「とっかえひっかえ」の頻度は少ないに越したことはない。

私: 自分でもあっちこっち見るものが多いなあと感じているのに、どうすることもできなくて、すいません。なんとか、「主の祈り」だけは、「讃美歌21の93の5Aにあります」と言うのはやめ、備え付けの『交読詩編』の裏表紙見返しに貼り付け、「備え付けの『交読詩編』の冊子の裏表紙の見返しをご覧ください」などと言うようにしました。プロジェクタを活用したいですが、プロジェクタを置く場所とスクリーンのスペースがないのは難点です。


B 説明不足

八: 献金と聖餐を新来者にどう説明するか。その局面に、その教会の誠実さがはっきり表れる。

私: うちの教会では、今年度から聖餐の説明を週報に入れました。献金の説明は、新来会者に渡す別紙に記しています。


C 建物や設備の問題、その他

八: 会堂が暑すぎる。寒すぎる。

私: すいません。まさにうちの教会のことです。コンクリート打ちっ放しの礼拝堂なので、夏は暑すぎ、冬は冷え切ってます。新来者に限らず、礼拝出席者が空調などを気にせずに礼拝に集中できるようにすることが大切ですね。空調の効き具合や音響の調子を調節するために礼拝中役員がうろいろするのも、おかしなことです。


八: 備え付けの本の字が小さすぎる。照明が暗すぎて読めない。

私: 讃美歌や聖書は大型のものが出版されています。『新共同訳聖書』はA4サイズのものも販売されています(うちの教会は受付に常備済)。『交読詩編』も大型のものがあるといいのにと思います。

私: 教会によっては、少し薄暗い方が雰囲気があるなどという根拠のない意見が幅をきかせたりすることがあります(ついでにいうと、礼拝堂はノアの箱船をイメージしてとか、ステンドグラスがあったほうがいいとか、やっぱりパイプオルガンをなどというのも根拠レスですね)。
 讃美歌を見たり聖書を見たりするならば、図書館並みの明るさを参考にすべきでしょう。

・JISの「照明基準総則」(規格番号Z9110))http://www.jisc.go.jp/app/pager?id=90089や「屋内作業場の照明基準」(規格番号Z9125)http://www.jisc.go.jp/app/pager?id=89892 では図書館の閲覧エリアは500ルクス以上、

・全国学校図書館協議会の学校図書館施設基準http://www.j-sla.or.jp/material/kijun/post-38.html では、机上照度は300ルクス以上

・日本図書館協会編『図書館ハンドブック』第5版(1990年)によると、読書には最低でも500ルクス程度が必要とのことらしい。


八: 椅子が硬すぎて長く座っていられない。

私: これもすいません。だいたい、どこの教会の礼拝堂でも、長椅子の設計が昔ながらで現代人に向いていないと常々思っています。狭い会堂にできるだけ多くの人が座れるように小さめのサイズで作ってあるのではないでしょうか。長椅子ではなく一人掛けの椅子にしている教会は、おおむね座りやすそうです。


八: 「お体にさわりのある方はどうぞ座ったままで」などとアナウンスがあると気が楽になる。

私: 自分の説教でない礼拝のときに会衆席にいて、たまたま体の調子がひどく悪くて立っているのがつらいことがありました。お年を召した方などは毎週大変だろうとその時初めて思い、その後、年に何回かですが、礼拝の最初の方の讃美歌や主の祈り、交読詩編を全部座ったままで行っています。

私: 「どうぞお座りのままで・・・」を週報にも記載し、アナウンスもするとよいですね。心がけています。どういう文言だっけかな。でも説教中に座っていられないとなると、「説教中に突然立ち上がって伸びをしてもかまいません」と書かねば。


D その他

八: 拘束時間(とくに説教の時間)が長すぎて・・・

私: ほんとにすいません。m(_ _)m


八: 礼拝終了予定時刻が記されているといい。

私: はい、検討します。


八: 「乳幼児連れのお母さん専用室あります」とあると、子連れママも安心して行ける。

私: あることをちゃんとアピールしなければ、せっかく設備があっても、意義が半減ですね。


八: 手の内側に皮膚疾患を持つ方にとって、「当教会では握手をします」とあらかじめ分かると助かる。

私: 普段の礼拝の中で握手をする習慣はないですが、いろいろな方への配慮が大切ですね。


E 全体として

八: 新来者のために(あまりコストのかからない形で)工夫できることがあるのではないか。あと少しの配慮があれば、新来者も教会員もさらに楽になる。


『ミニストリー』の八木谷(3) [伝道]

 キリスト新聞社の季刊誌『ミニストリー』に連載されていた、八木谷涼子の「新来者が行く ノンクリスチャン・八木谷涼子の教会ウォッチ」の、わたしの関心からの総まとめ、その3。

 八木谷涼子のサイト「くりホン キリスト教教派の森」の中の「「万年教会新来者」の声」のページも参照。雑誌の記事以上のことが書かれている。


 八木谷さんの指摘なのか、わたしのコメントなのか区別が付かなくなりそうなので、一応、記事の引用や指摘されている点をわたしなりに言い換えた紹介は「八」、わたしのコメントは「私」と記してみた。

ミニストリーvol.3(2009秋)
「はじめて礼拝に出たとき」
 八:「新来者カード」について、郵便による案内を希望する人のみ住所を残していけるシステムがあれば十分じゃないでしょうか。
 八:礼拝後の紹介タイムはプロテスタント名物といえる。その日はじめて訪れた人にとっては緊張の瞬間。新来者カードに、礼拝の最後に紹介していいか、それとも遠慮したいかという項目があって自分で選べると、上がり症の人は救われる。

 私:うちの教会の「新来会者カード」には下の方に、「郵便物をお送りしてよろしいでしょうか。 はい・いいえ」という欄があります。住所を記入していながら、これに「いいえ」と答える人がいないとも限らないですね。教会としては、「いいえ」にマルがついていれば郵便物を送ることはしませんが、住所が記されていると、地域別の集いなどのときに、声をおかけしてお誘いしやすいということあります。(「地域別の集い」はうちの教会ではまだ模索中ですが)

 私:そもそも教会は、何でわざわざ、「新来会者カード」を書いていただいて紹介するのだろうか。世間一般の感覚からすると、匿名でちょっと見学するくらいでもいいじゃんという感じかもしれない。けれど、プロテスタント教会としては特に、ここは「神の家族」だし、個々人ばらばらで礼拝しているのではなくて、「神の民」として礼拝している、しかも一人ひとりが没個性的に扱われるのではなく、一人ひとりの名を持った人格が尊重されているのだから、ということか。ホームパーティに招待されて来た人をみんなに紹介するのはあたりまえという感じでしょうか。もっとも、教会員一人ひとりが新しく来た人をウエルカムする雰囲気をつくり上げることが大切でしょう。

 私:さて、整理すると、まず、「新来会者カード」に書いていただくときに、「可能な範囲でお書きください」とか「差し支えない範囲でご記入ください」などと一言添えるようにしたいです。カードそのものにもその旨が記されていると良い。
 私:それから、指摘されているように「礼拝後にご紹介してよろしいでしょうか。はい・いいえ」という項目もあるとよい。
 私:そして、紹介するときも、本人にしゃべらせるのではなく、「差し支えなければ、その場でちょっとお立ちいただければと思います。」と前置きしてから、「何々市からお越しのマルマルさん。」・・・「よくいらっしゃいました。ありがとうございます。どうぞまたいらっしゃってください。」(拍手)という程度にする。(これだけはすでに実施済)
 私:そして、礼拝がすべて終わって立ち上がるときに、まわりの教会員が自然に、「よくいらっしゃいましたね」「続けていらしてね」とさりげなく声を掛ける。せっかく紹介の時に拍手しても、その後のさりげない声掛けがなかったら、先ほどの拍手もまったく白々しくなってしまう。

「座席の問題」
 八:後ろと左右の端は、早々に教会員で占められる場合が多い。空いている席は新来者が好んで座りたいと思えるような場所ではない。
 八:いつの間にか特定の人が座る習慣になっている座席がある。でも、新来者にはわかりません。
 八:みんな自主的に来ているはずの教会で、なぜ後の席が人気なのか。

 私:「礼拝堂の後方の座席は、新来会者のために空けておくように」と牧師が何度言っても、後ろから席が埋まっていったりします。ある教会ではロープを張って、教会員が座らないようにしていたり。
 私:いつもと違う席に座ると礼拝の心が乱れるというのも、問題ですね。わたしたちはいつも同じ座席に座って安心するのではなく、キリストの救いの恵みから平安をいただくのです。
 私:最前列から座席が埋まっていくような、魅力ある礼拝を工夫し、人々も期待を持って集まってくる、そういう礼拝を目指すことも、重要でしょう。
 私:それにしても、初めて来られた方を、緊張を強いるような座席に座らせるようなことは、何としても避けたいと思います。しかし、それには教会員の協力というか意識改革が必要だ。

『ミニストリー』の八木谷(2) [伝道]

 キリスト新聞社の季刊誌『ミニストリー』に連載されていた、八木谷涼子の「新来者が行く ノンクリスチャン・八木谷涼子の教会ウォッチ」の、わたしの関心からの総まとめ、その2。

 八木谷涼子のサイト「くりホン キリスト教教派の森」の中の「「万年教会新来者」の声」のページも参照。雑誌の記事以上のことが書かれている。


 八木谷さんの指摘なのか、わたしのコメントなのか区別が付かなくなりそうなので、一応、記事の引用や指摘されている点をわたしなりに受け止めて言い換えた紹介は「八」、わたしのコメントは「私」と記してみた。

ミニストリーvol.2(2009夏)
「電話の対応」
 八:「はい、教会です」ではなく、「はい、これこれ教団なになに教会の牧師のかくかくです。」と名乗りましょう。
 私:わたしが電話をかけたときも無愛想に感じる教会が多いです。明るい声で応対しましょう。

 八:電話のガチャ切りはやめよう。
 私:わたしもいつもとっても気になっています。会社員時代、新入社員の時に、電話を切るときは指でフックを静かに押して切ってから受話器を置くようにと教わりました。多くの牧師はそのような切り方を知らないようです。

「入りやすい教会」
 八:どこから入ったらいいのか分からない教会がある。「本日○時より礼拝。こちらからお入りください。」といった案内板があると助かる。特に、メンバーがもっぱら通用口から出入りするため正面玄関が閑散としている教会、個人住宅にしか見えない教会などは要注意。
 私:うちの教会も、駅から歩いてくると、正面玄関にたどり着く前に裏通路の門扉があるなあ。「入り口はこちら」というような対策を何かしないと。

『ミニストリー』の八木谷(1) [伝道]

 キリスト新聞社の季刊誌『ミニストリー』に連載されていた“プロのノンクリスチャン”とちまたで呼ばれている(?)八木谷涼子の「新来者が行く ノンクリスチャン・八木谷涼子の教会ウォッチ」が終了してしまった。残念。

 そこで、無謀にも、これまでの12回分をわたしの関心から総まとめしてみる。八木谷さんの指摘なのか、わたしのコメントなのか区別が付かなくなりそうなので、一応、記事の引用や指摘されている点の紹介は「八」、わたしのコメントは「私」と記してみた。

 そのまえに、サイト「くりホン キリスト教教派の森」を見たら、なんと、新潮OH!文庫が終了してしまい、八木谷涼子『知って役立つ キリスト教大研究』も、2010年9月30日をもって絶版となってしまった。これも残念。古本は第6刷以降をお求めくださいとのこと(10刷まで出た)。(わたしがこの本を紹介している「神学文献大調査/諸教派」のページ


ミニストリーvol.1(2009春)
「看板・掲示板でその教会がわかる」
 私:案内看板は、うちの教会も新しくしました。今の時代は、カッティングシートで作るので、白黒でもカラーでも同料金ですし(たぶん)、一文字単位で修正が可能です。
 私:集会の時間が変わったり牧師が交代したときに、ガムテープなどを貼ってしまうと、帰って粘着剤がこびりついて取れなくなってしまいます。看板の内容が変わったら、すぐに看板屋さんに修正をお願いしましょう。

 八:夕礼拝や平日の集会など、看板に記されている集会が急に休会になるとき、たとえメンバーが固定していたとしても、きちんと張り紙を出しましょう。
 私:はい、これから気をつけます。でも、Webサイトの方は、どうしようかしら。急に葬儀で祈祷会が中止ということもあるので、「はじめて出席する場合、事前に電話かメールでご連絡を」と記しておきましょうか。

「地図に載っている教会、いない教会」
 八:市販の地図に自分の教会が載っていなければ、発行元に連絡してみる。次の版から載せてもらえばしめたもの。一般の人が利用する地図に教会の存在を示すことはもっとも基本的な伝道ではないか。

 八:教会案内やWebサイトに載せる地図は、徒歩、車、公共交通機関などどんな交通機関でで行く人にも分かるように。


八木谷涼子のサイト「くりホン キリスト教教派の森」の中の「「万年教会新来者」の声」のページ

林家三平、八木谷涼子 [伝道]

 林家三平(初代)のネタだったろうか、次のようなのがあった。

「今度、山田君が訪ねて来るから、ご馳走を出してやってくれ。」
「あらあなた、また来るようにですか、それとも、もう二度と来ないようにですか?」

 教会は、「ご馳走」とは言わないまでも、礼拝にはじめて来られた方がまた来るようにと配慮し工夫しているだろうか。まるでもう二度と来ないようにしてしまってはいないだろうか。

1.教会にたどり着けるか
 Webサイトでの案内地図、駅の案内表示、電柱広告、ここが教会だと分かる看板、はっきり見える屋根の上の十字架など。
 せっかく教会に行こうと思い立って出かけても、たどり着くのに苦労させてはいけない。

2.入り口、受付
 教会の入り口がどこだか分かるような構造や案内になっているか、受付はハード的にもソフト的にもフレンドリーで、暖かい雰囲気と対応になっているか。

3.礼拝前
 初めての方でも緊張せずに礼拝堂で礼拝を待てる雰囲気になっているか。やたらと礼拝前に新来会者に話しかけたりしていないか。珍しがってじろじろ見たりするのはもってのほか。礼拝前の礼拝堂が静まりかえっているのも、はじめての方は緊張する。BGMがあるとよいのではないか。

4.礼拝中
 讃美歌を開いたり、聖書を開いたり、さらには主の祈りだ、交読詩編だ、・・・っと、はじめての方はたいへん。配慮してくれる人が付けられたとしても、いろいろ気兼ねしちゃうし。少しでも、あっちを開いたりこっちを開いたりということを減らしたい。開く必要のあるときは、司式者は十分な間をおく。
 礼拝の順序も、余りにも細かく週報などに書いてあっても、どこをやっているのかすぐに分からなくなっちゃうし、礼拝全体の式文の冊子を渡されても、全体がどうなっているのかまったく分からないし、順序が何も示されずひたすらワーシップソングを歌って、いつの間にか説教に入っていつ終わるか分からないっていうのも不安だし。
 献金の案内や、聖餐の説明も、すぐに分かるように。

5.礼拝後
 名前の紹介などは、して欲しくないという意思表示ができるようにしておく。紹介しても軽く会釈するだけですむように。間違ってもマイクを渡して一言言わせるようなことはしない。
 人によって違うので難しいが、さっと帰りたい人にはさっと帰れるように。親しくお話しするのもいやではない人であっても、新来会の時からあれこれ聞いたりしないように。

6.さらにその後
 「またいらっしゃってください」の簡単な絵はがきを出すのがよい。封書で立派な文面で送ってこられると、引いてしまう。その後も、コンサートやクリスマスなどの案内を定期的に、しつこくない程度に。

 こういったことについて、雑誌『ミニストリー』の八木谷涼子の連載「新来者が行く ノンクリスチャン・八木谷涼子の教会ウォッチ」が参考になる。

エリアで考えてみる伝道活動(3)――県、地域 [伝道]

前々回の記事:「エリアで考えてみる伝道活動(1)――世界」前回の記事:「エリアで考えてみる伝道活動(2)――日本」の続き

3.地域伝道
このエリアでは、祈り、献金、奉仕という区別ではなく、具体的な伝道的活動として考えられそうなことを、思いつくままに。

(1)都道府県という範囲では、個教会が直接伝道活動をするというより他の教会のために。
a)会堂建築などの中で経済的に困難な状況にある教会、過疎地の教会、無牧の教会、その他大きな課題に直面している教会などのために、祈り、献金、奉仕の全側面から応援する。
b)開拓伝道している教会を、祈り、献金、奉仕の全側面から応援する。場合によって、自分の教会の開拓伝道ととらえて取り組む。
c)同じ地域の他の教会が抱えている課題を理解し、共有し、担い合う。

(2)市町村あるいは大字や丁目という範囲では、個教会が直接伝道していく。
a)そのまえに、他の教派の教会との連携も考える。伝道のために手を取り合う。あるいは、縄張り争いではなく自由競争として、伝道を活発にする。
b)定期的にチラシを配ったり、伝道集会を開いたり。
c)宣伝、広報にも抜け目なく。電話帳広告、電柱広告、駅看板、バスの車内アナウンス、地域情報紙へのイベント情報の投稿、地域ケーブルTV局への働きかけ(イブ礼拝の生中継とか)。インターネットも忘れずに。
d)教会の近隣との交わりや関わり。チラシによる定期的な情報発信(直接的な伝道的情報のみならず、教会では何をやっているのか、教会は何を考えているのかも)。地域への貢献、地域からの信頼・信用を得るために。バザーとか。ゴミ拾いとか。会場提供とか。コンサートへの招待とか。
e)教会員一人ひとりの近隣への伝道をサポートする。トラクトの常備。家庭集会による伝道。

4.家族伝道
タグ:伝道方策

エリアで考えてみる伝道活動(2)――日本 [伝道]

前の記事:「エリアで考えてみる伝道活動(1)――世界」の続き

2.国内伝道
各個教会レベルで考えられることは、祈り、献金、奉仕の三つ。自分の教会でできるかどうかは全く考えず、一般的に考えられることを、思いつくままに列挙してみる。

(1)祈り
a)日本全体のために祈る。国のために、政治のために祈る。
b)47都道府県を一つずつ取り上げて祈る。(教会数や礼拝出席数などを確認しながら)(あるいは、教区ごとに)
c)自分の教会が属する教団の教会を日課などに沿って覚えて祈る。
d)地震などの被災教会のために、また、会堂建築全国募金などを行っている教会のために祈る。
e)教団の伝道部門のために。
f)自教会と関係のある教会のために。

(2)献金
a)自分の教会が属する教団の国内伝道部門、開拓伝道部門に献げる。
b)教団内の有志の伝道団体や教団外の国内伝道団体のために献げる。
c)地震などの被災教会のために、会堂建築全国募金などを行っている教会のために献げる。
d)自教会と関係のある教会に献げる。

(3)奉仕
a)自分の教会が属する教団の国内伝道のプロジェクトや教団外の国内伝道団体からの呼びかけに答えて、教会員を(牧師を、伝道師を)派遣するとか、自教会も参加するとか。
b)自教会の中に国内伝道チームとかキャラバンを組織して活動する。伝道集会やトラクト配布のサポートに赴いたり、赴けなくてもチラシの作成を請け負ったり。
c)自分の教会が属する教団の国内伝道部門や、国内伝道団体のためにできる奉仕をする。
d)知恵の奉仕というか情報提供として、自教会の教会形成や伝道の工夫などの取り組みを、インターネットで公開したり、関係教会に送付する。

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タグ:伝道方策

エリアで考えてみる伝道活動(1)――世界 [伝道]

1.世界伝道
各個教会レベルで考えられることは、祈り、献金、奉仕の三つ。自分の教会でできるかどうかは全く考えず、一般的に考えられることを、思いつくままに列挙してみる。

(1)祈り
a)世界の人々の救いのために祈る。世界の教会のために祈る。
b)自分の教団から派遣されている宣教師がいる教会のために、また、その宣教師のために祈る。宣教師の派遣に関わっている教団の機関・組織のために祈る。
c)自分の教会と関わりのある海外の教会のために祈る。
d)地震などの災害に見舞われた国の教会、大きな事件・事故のあった国の教会のために祈る。

(2)献金
a)教団の宣教師派遣や海外伝道の部門に献げる。
b)海外伝道を行っている伝道団体に献げる。
c)自教会と関係のある海外教会や宣教師に直接、献げる。
d)地震や津波・台風などの災害救援募金の呼びかけに応じて、献げる。

(3)奉仕
a)自分の教会が属する教団の海外伝道のプロジェクトや教団外の海外伝道団体からの呼びかけに答えて、教会員を(牧師を、伝道師を)派遣する。
b)教会員の中から海外伝道チームとかキャラバンを組織し、派遣する。
c)自分の教会が属する教団の海外伝道部門や、国内の海外伝道団体のためにできる奉仕をする。

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タグ:伝道方策

柏市全体の伝道のために [伝道]

1.柏市の人口
   人 口:398,741人、世帯数:158,706世帯 (2010年4月1日現在、柏市のホームページより)

2.柏市の教会数とクリスチャン人口
『クリスチャン情報ブック2010』掲載は26教会(ただし、SDAやカトリック、正教会は掲載されていない)。
『キリスト教年鑑2010』では25教会。
両方をマージすると、柏市内のキリスト教会は28教会。

柏市のクリスチャン人口は、『クリスチャン情報ブック2010』の各教会の会員数を合計し(856)、さらに『キリスト教年鑑2010』のSDA(77)と正教会(41)を足すと、974人。

3.1教会あたりの人口
 398,741÷28=14,241人 つまり、1教会あたり1万4千人に伝道しなければならない。

教会の規模の違いを考慮すると、日本基督教団柏教会の場合、
柏市人口398,741÷市内総信徒数974人×教会員数275人=112,581人
つまり、日本基督教団柏教会がカバーすべき人口は11万3千人。
※275人とは『クリスチャン情報ブック2010』に提供した2008年3月末での現住陪餐会員、不在会員、未陪餐会員の合計。

4.チラシを配る世帯数
柏市の1世帯あたり人口は2.51人。
日本基督教団柏教会がカバーすべき世帯数は、112,581人÷2.51人/世帯=約44,850世帯。
つまり、目標として約4万5千枚のチラシを定期的に配る!

5.チラシ配布のコスト
紙代印刷代ポスティング代などすべて込みで一枚10円として、45万円。年2回で90万円!

このコストを下げるには、(1)一枚のコストを下げる、(2)配布回数を減らす、(3)1世帯あたりの人口を増やす、(4)人口を減らす、(5)教会員数を減らす、(6)日本基督教団柏教会以外の市内総信徒数を増やす(他教会の教会員数を増やす! つまり、市内の他教会の信徒数が少なく日本基督教団柏教会が30%近くを占めている状況が問題で、他教会のために伝道することが必要なのだ!!)。

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