SSブログ

イザヤの壁 [その他]

1.イザヤ書2:4に次の言葉がある。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。

2.この言葉は、ミカ書4:4にもある。どちらが先かというよりも、同一の言葉が同時期の二人の預言者の言葉として記されていることが興味深い。

3.この言葉は、ニューヨーク市の国連本部の向かいにあるラルフ・バンチ公園(Ralph Bunche Park)の壁に刻まれている(1番街と42ndストリートが交わる角の北西側)。この壁は「イザヤの壁」(The Isaiah Wall)と呼ばれている。

4.イザヤの壁に刻まれている英文は、次の通り。
“They shall beat their swords into plowshares. And their spears into pruning hooks: Nation shall not lift up sword against nation. Neither shall they learn war any more.”

イザヤの壁1.jpgイザヤの壁2.jpg
(2011.3.1の記事に写真を追加して改訂。写真はSNさんに撮影してきていただきました。SNさん、ありがとうございます。)
タグ:旧約聖書

ピラトの裁判 [聖書と釈義]

――特にマルコにおいて(マルコ15:1-15)

1.ピラトの裁判は不当なものであったか?

 どの福音書も、裁判の手続きをきちんと記そうなどとは考えていない。裁判の手続きに焦点が当てられているのではない。それゆえ、この裁判は偽りに満ちていたとか、不正であったとかを一生懸命述べている本もあるが、そのことが重要なのではない。
 裁判の正当性よりも、ユダヤの宗教的指導者たちの訴えに対する、ピラトの人間としてのあるいは権力者としての対応の姿が各福音書に描かれている。

2.なぜ使徒信条はピラトという固有名詞を出しているのか?

 各福音書が描いているピラトの姿には、それぞれ特徴がある。マタイは、ピラトの責任回避を強調する(マタイ27:24)。ルカは群衆の求めになびいてしまう日和見主義的な姿を記す(ルカ23:23-24)。ヨハネは「真理」を解さない様を記す。それぞれの福音書で異なるピラトが描かれている。
 それぞれの福音書で異なる姿が描かれているからこそ、この裁判でどう振る舞ったかというピラトの対応あるいは態度が重要である。それゆえに使徒信条において、わざわざピラトの個人名が挙げられて、教会の信仰内容が言い表されているのである。

3.マルコの描くピラトは?

 では、マルコはどうだろうか。マルコ福音書においてピラトは、ユダヤの宗教指導者たちがイエスを訴える理由は「ねたみ」(マルコ15:10)であると知っていた。マタイにもこの記述はある(マタイ27:18)が、マタイではこのことは、群衆に責任を転嫁することにつながっていく。それに対しマルコでは、群衆はあまり前面には出ず、ピラトから満足させられる役目を担うだけである(マルコ15:15"τω οχλω το ικανον ποιησαι")。
 つまり、マルコの描くピラトは、マタイやルカのように群衆の求めに強く判断が影響される人物ではなく、また、イエスとバラバのどちらを釈放しようと、あるいは、イエスがどうなろうと、どちらでもよいのである。
 マルコ福音書におけるピラトにとっては、そもそもこの裁判はユダヤの指導者たちのねたみによるものであったのだから、本腰を入れて関わるような裁判ではなかった。ユダヤ人の王を僭称したからといって、ローマ帝国に反逆するような重大な罪ではなく(そう説明している本もあるが)、ピラトにとってはちゃんちゃらおかしい、一笑に付すようなことであった。
 もちろん、ローマ帝国の権威によって裁判を行うのならば、正当な理由もないのにイエスを死刑に処することはできず、ユダヤの宗教指導者たちの思惑通りに動くわけにはいかないだろう。ローマから派遣されてきている総督として、ユダヤの宗教指導者たちのつまらぬ訴えなど突っぱねることも簡単だが、わざわざそうしようとも思えないほどのつまらない内容の裁判であり、まともに首を突っ込んでもしかたがない裁判である。彼らの訴えを認めてやっても、ユダヤの王を自称しているらしい一人の不思議な(15:5)男が死ぬだけである。群衆の求めにわざわざ逆らう必要も感じられない。
 そのようなわけで、ただ群衆を満足させるために、ピラトは主イエスを十字架へと引き渡すのである(15:15)。

4.マルコにおける焦点はどこか?

 マルコは、他の福音書のようにイエスとバラバを対比させることには、あまり関心がない。群衆の登場も効果的には描かれてなく、ピラトの無関心な様を引き立てるだけである。ユダヤの宗教指導者たちも相談(あるいは協議)して、自分たちの手で処刑せずに、ピラトに委ねてしまっている。結局、ピラトも、群衆も、ユダヤの宗教指導者たちも、この裁判の判決に主体的に関わろうとしていない。今風の言い方で言えばたいへん「ゆるい」仕方でしか主イエスの十字架刑の決定に荷担していない。
 しかし、十字架への「引き渡し」(15:1,15「パラディドーミ」)とは、まさにこのようなものではないだろうか。誰もが刑の宣告への主体的な関わりを避け(「十字架につけろ」という群衆の声が若干強いが、それも祭司長たちに扇動(11節)されたもの)、それでいて、なんとなく皆の思惑どおりに事が進む。これが人間のなすことである。それが、主イエスを十字架へと「引き渡す」のである。
 そのような引き渡しに、主イエスはもはや何も声を発することなく(15:5)従う。言わば、主イエスは十字架への道を引き受けられる。
 それは、「御心に適うことが行われますように」(14:36)とゲツセマネで祈ったとおり、このような歩みが父なる神の意志であると受け止めていたからである。
 ここに、刑の宣告を引き受け、死に至るまで父なる神に従順に(フィリピ2:8)歩まれる主イエスと、主体的な関わりを引き受けず、自分の思惑のままに歩もうとする人間とが対比させられている。

それは、あなたが言っていることです。 [聖書と釈義]

――主としてマルコから――

1.最初に二つのことを確認しておく。

(1)主イエスに問い返される
 主イエスが問われた問いを逆に相手に投げ返している記事が、いくつかある。たとえば、離縁は律法に適っているかと問われて、主イエスは逆に「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されている(マルコ10:2~3)。また、祭司長、律法学者、長老たちが主イエスの言動の「権威」を問題にしたとき、主イエスは逆に、洗礼者ヨハネの洗礼がどこからのものであったかを問い返している(マルコ11:27~33)。皇帝に税金を納めるべきかどうかを尋ねられたときには、逆にデナリオン銀貨を持ってこさせ、「これは誰の肖像と銘か」と問い返している(マルコ12:13~17)。

(2)主イエスを誰というか
 主イエスを何者とするのかということは、信仰において重要な主題である。主イエスが突風を叱りつけ、荒れた湖に「黙れ、静まれ。」と言うと風が止んだとき、弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろう」と言い合った(マルコ4:35~41)。弟子たちが主イエスから「あなたがたは私を何ものだと言うのか」と問われて、ペトロが「あなたはメシアです」と答えた(マルコ8:29)。主イエスが十字架上で息を引き取ったとき、百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言った。

2.「それは、あなたが言っていることです」(マルコ15:2)の意味

 こうしてみると、イエスがユダヤ人の王であるかどうかとは、主イエスが自ら名乗って答えるものではなく、主イエスと出会った者がこの方を何者とするのかという問題である。それゆえ、問いを投げ返すように、あなたがそう言うならばそうだと言葉が返されている。
 したがって、「それは、あなたが言っていることです」とは、あなたが勝手にそう言っているという意味では全くない。あるいは、答えることを拒否したりはぐらかしたりしているのでもない。

3.ピラトとイエスの次元の違い

 ポンテオ・ピラトは祭司長たちの訴えにしたがって「お前はユダヤ人の王か」と言ったのであって、自分自身がどう思うかなど全く考えもしないことであったろう。しかし、主イエスにとっては、自分のことを何者というかという問いは、常に、問う者の主体的な信仰告白の問題なのである。それゆえ、わたしたちにとっても、このお方をどなたとするかが信仰の重要な中心である。

4.王なる主イエス

 ピラトは祭司長たちの訴えにしたがって、イエスに対し「お前はユダヤ人の王か」と尋問した。ローマ帝国の支配下にあって王を自称することは帝国への反逆であるかもしれないが、特に帝国に対して反旗を翻す政治活動を展開したわけでもないのだから、ピラトにとっては、勝手に王を自称している不思議な人にすぎないのであって、本腰を入れて裁判するような問題ではない、一笑に付す程度のことでしかなかったかもしれない。
 いずれにしてもピラトにとっては、王とはこの世の意味での支配者であった。
 しかしイエスがユダヤ人の王であるとは、主イエスは神の民イスラエルの王であると信仰を持って告白することである。主イエスは、神の国の支配を世に現すお方である。主イエスは、わたしたちの王として来られた(エレミヤ23:5、ミカ5:1、ゼカリヤ9:9など)。わたしたちは、主イエスによって神の国が到来していることを認め、わたしたちがその御国に入れられていることを喜ぶ。そして、イエスを王として(黙示録17:14)あがめるのである。

自然災害の意味(9) [信仰]

後 記

 自然災害についていろいろ記したが、関連する事柄を自分なりに整理してまとめないではいられなかった。その中で記したとおり、まさに、どう主体的に受け止めるかということであろうが、しかし、「わたしたちは、不条理としか思えない事柄に遭遇したとき、そこに理由や意味を見出すと安心する」とも書いたように、このような作業も、事柄を整理することで安心しようとする点で、同じかもしれない。


 十分読み返す暇はなかったけど、参考になると思う文献を二つ。
V.E.フランクル(山田邦男、松田美佳訳)、『それでも人生にイエスと言う』、春秋社、1993年。
 何か客観的な人生の意味を問うても答えはない。そうではなく、意味のある人生をどう送るかが問われている。そのように、自然災害についても意味を問うのではなく、わたしたちの方が問われている。香山リカも新聞で紹介していた(朝日新聞、2011.4.3)。

H.S.クシュナー(斎藤武訳)、『なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記』 (同時代ライブラリー 349)、岩波書店、1998年。
 今は、岩波現代文庫で(2008年刊)。地震や事故などに神の意志があるのではない。わたしたちは、この現実の中で生きていくことを学ぶだけである。なぜこんなことが起きたのかという問いを超えて立ち上がり、こうなった今、私はどうすればよいのかという新しい問いに生きることが、わたしたちにできることである。

 執筆中に読んで、考えの参考になったブログ
「大和郷にある教会」という巣鴨聖泉キリスト教会の牧師によるブログの「自然災害と終末論的解釈」という記事。

自然災害の意味(8) [信仰]

(8)なぜ自分ではないのか

 なぜ自分ではなくあの人たちなのかと問うことがあるかもしれません。しかし、彼らが特別罪深かったわけではありませんし、逆に、わたしたちが賢かったわけでもありません。そこに理由はありません。

 自然災害に遭うのは、だれであってもおかしくありません。地震や津波で持ち物のすべてを失ってしまったのは、自分だったかもしれません。このわたしであっても何もおかしくないことです。ただ住んでいたところが違うだけです。
 すると、なぜあの人たちなのかと問うことはふさわしくないでしょう。そうではなくて、自分だったかもしれないと思うことが大切です。そして、このわたしが受けても何らおかしくない苦難を、彼らが代わりに受けたと受け取ることも許されるでしょう。

 ここから、キリストの代償を思うことはできないでしょうか。このわたしの代わりに彼らが苦難を受けてくださったことは、キリストの身代わりの贖罪を指し示していると受け止めることができます。キリストがわたしたちの罪を担ってくださったように、彼らはわたしたちの代わりに苦難を担ってくださっています。キレネ人シモンのように(マルコ15:21)。

 それゆえ、わたしたちは、新聞やテレビで報道される被災地の惨状や避難所生活の困窮を見て、それで終わりではなく、彼らのところにキリストが共におられるのを見ます。そのキリストは、わたしたちの身代わりに罪を担い、あらゆる苦難に勝利された復活のキリストです。そこからわたしたちは、罪を赦してくだっている勝利のキリストがわたしたちにも共にいてくださることをあらためて知ります。
 ボランティアに駆けつける勇気もなく、被災地の人々に寄り添う力もないわたしたちですが、そうしてこそわたしたちは、わたしたちなりにこの出来事を主体的に受け止めて、自分を納得させ安心させることができるでしょう。

自然災害の意味(7) [信仰]

(7)終末は近いのか

 さて、大きな自然災害が起きると、「終末が近い」と言い出す人が必ずいます。しかし、わたしたちは、終末が近づいたとか近づいていないとか論評したり騒いだりするのではありません。

 第一に、終末は、すでにイエス・キリストの到来によって始まっています。すでに始まっている終末の時の中で、わたしたちのなすべきことは、主なる神を礼拝し、イエス・キリストの福音を伝道することです。

 第二に、まだまだイエス・キリストの福音を知らない人がたくさんいます。もちろん終わりの時がいつ来るかはわたしたちには全く分かりませんが、しかし、その一方で、神は、そうたやすく世を終わりにはしないでしょう。なぜなら、神は、すべての人が信じるように、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、忍耐しておられるからです(2ペトロ3:9)。したがって、ここでも、終末はまだしばらく来ないなどと議論したり安心したりするのではなく、わたしたちは、まだ救いを知らない人にキリストの十字架と復活の福音を告げ知らせることに力を注がなければなりません。

 結局、わたしたちのなすべきことは、自然災害があるなしにかかわらず、主を礼拝し、福音を宣べ伝えることに集中することです(2テモテ4:2)。

自然災害の意味(6) [信仰]

(6)わたしたちは浅はかでした

 主体的に受け止めるということを前項で述べましたが、被災地や原子力発電所から比較的離れたところにいる者として、どのように考えれば、今の事態を少しでも主体的に受け止めることができるでしょうか。たとえば、この災害を、原子力発電に依存して享受してきた生活への戒めと受け止めることもできるでしょう。

 たとえ、自分の家の電力をすべて自家発電でまかなったとしても、さまざまな工業製品の製造や物流、販売は、電力需要全体に対する原子力発電の寄与に負っています。このパソコンも、このパソコンの先につながっているプロバイダのサーバも、原子力発電による電力供給のおかげです。食品ですら、製造から販売に至るまで電気なしではわたしたちの手元に届かないでしょう。

 すると、今のこの事態を主体的に受け止めるならば、東電の対応や政府の動きを批判するよりも、あるいは、やっぱり原子力は危ないなどといまさらながら原発に反対するよりも、あるいは、津波の高さが想定外だったと開き直るよりも、わたしたちは、原子力発電に依存しなければまかなえないほどの電力需要によって生活を享受してきて「浅はかでした」と言わなければならないのではないでしょうか。

自然災害の意味(5) [信仰]

(5)主体的に受け止める

 すでに述べたように、自然災害に神の意図はありません。そのような意味で、自然災害に意味はありません。しかし、わたしたちは、自然災害のような苦難を通して、被造物の不完全さを思い、神の国を待ち望み、キリストの勝利に目を向け、神の執り成しを願い求めます。

 でも、そうすると、困難を通して信仰が強められるのでしょうか。すると、自然災害はやはり、信仰が強められるための試練なのでしょうか。

 信仰が強められるとか戒められるといったことは、自然災害に対して何らかの意味を見出すというよりも、受け止め方の問題でしょう。無理に客観的な意味を見出そうとすることよりも、ある意味で主観的なことと言えますが、どう受け止めるかが重要です。積極的に受け止めていこうという態度としては、主体的な受け止め方になります。

 したがって、それは、第三者が言うのではなく、苦難を体験した当事者が、信仰によってそのように受け止めるものです。第三者が、この自然災害はこういう意味だとか、ましてや天罰だなどと言うべきではありません。苦難を体験した人が、この自然災害はおごり高ぶり豊かな生活をしている現代人に対する天罰だと、主体的に受け止めるならば、誰もそれを否定できません。かえって、重い言葉として耳を傾けるべきでしょう。しかし、第三者が外から客観的な仕方で言うことはできません。これは主観的で主体的な受け止め方の問題であるからです。

 そして、たとえ直接に災害を被っていなくても、わたしたちは、起きた事態を自らのこととして主体的に受け止めていくことはできます。直接に被害を受けた方々の思いや置かれた状況と、そうでない者との隔たりは極めて大きいでしょうが、多少なりとも被災者に寄り添うことはできると思うのは、許されるでしょう。そのところで、わたしたちは、困難の中にいる方々と共に歩むことができますでしょうし、大きな隔たりを抱えながらも何とか共に歩もうとすることしかできないのでありましょう。

自然災害の意味(4) [信仰]

(4)神の執り成し

 わたしたちは、完全なる神の絶大な力を信じます。世は不完全ですが、神は完全なお方であり、全能なお方です。

 そのような神は、不完全な世すらも、神の御計画に益するものとしてくださいます(ローマ8:28)。わたしたちにとっては悲惨としか思えない現実であっても、神はそれを意味あるものとしてくださいます(たとえどのようにしてかわたしたちにはわからなくても)。神の霊がわたしたちのために執り成してくださるのです。

 だからわたしたちは、不条理としか言えない苦しみや悲しみの中からでも、勝利のキリストを仰ぎ、神を誉め讃えるのです。

自然災害の意味(3) [信仰]

(3)キリストの勝利

 わたしたちは、自然の不完全さを通して、わたしたち自身の不完全さをも知らされます。あるいは、自然の猛威を通して人間の小ささを知るということもあるでしょう。いずれにしても、人間もまた被造物であり不完全であって、神に対して意味のあることを実行できない存在です(ローマ7:18以降参照)。すなわち、わたしたち人間は罪人です。自然の猛威を通して、わたしたちは自らの被造物としての罪人の姿を思い知らされます。

 しかし、わたしたちの罪はイエス・キリストがすべて引き受けてくださり、処分してくださいました。キリストは、あらゆる苦難、あらゆる悩み、苦しみにすでに勝利されています(ヨハネ16:33)。

 自然の驚異を目の前にして、わたしたちは、自分自身の罪深さを思い、神の御前に赦しを請い、キリストの勝利を見つめます。この勝利のキリストは、世に来られたキリストであって、いつもわたしたちと共にいてくださいます。

 わたしたちは、不条理としか思えない事柄に遭遇したとき、そこに理由や意味を見出すと安心するかもしれませんが、わたしたちが本当に安心するのは、勝利のキリストが共にいてくださることによってです。わたしたちは、主イエスによって平和を得ます(ヨハネ16:13)。わたしたちは、自然災害の中に置かれていても、平和のキリストが共にいてくださることを知っています。勝利と平和のキリストに伴っていただいて、わたしたちは、苦難を乗り越え、くぐり抜けていきます。

自然災害の意味(2) [信仰]

(2)「神の国」を待ち望む

 自然災害に意味も理由もないならば、ただ諦めるしかないのでしょうか。いえ、わたしたちは神の国を見つめます。

 神の国には、死も罪も悪もなく、いかなる苦難も悩み悲しみもありません。神の国で、それらは一切存在することができません。自然災害も同じです。被造物の不完全さは神の御心に反するものですから、自然災害すら神の国には存在しません。

 それゆえわたしたちは、自然災害を通して、あらためて神の国に思いを向け、神の国を願い求めます。わたしたちは、主イエスが「こう祈りなさい」と教えてくださった「主の祈り」を祈る中で、「御国を来たらせたまえ」と常に神の国を祈り求め続けていきます。自然災害に見舞われたとき、わたしたちは、いつも御国を求める祈りを祈っていることをあらためて確認し、なおも切に神の国を求めていきます。

 ただし、神の国はまだ到来していません。したがって、苦難や自然災害は世から完全に消え去ったわけではありません。しかし、十字架と復活のイエス・キリストが世に来られたことによって、神の国の到来が既に始まっています。わたしたちは、このキリストに結ばれて、神の国が完全に到来する前に、その恵みをいただきます。こうしてわたしたちは、神の国の到来の確かさのうちに、神の国を待ち望んでいきます。

自然災害の意味(1) [信仰]

(1)造られたものの不完全さゆえ

 地震や津波で、多くの人の命が奪われました。どうしてそのようなことが起きるのでしょうか。なぜ自然災害があるのでしょうか。神の側に何らかの意図があるのでしょうか。

 大地も海も神によって造られたものです。被造物は造られたものに過ぎず、神ではないゆえに、不完全です。

 それで、被造物のすべてのことに意味があるわけではありませんし、自然のすべての動きに、お造りになった神の意図があるわけではありません。不完全であるゆえに、意味の見出せない部分があり、意味のないことが起こります。

 したがって、地震や津波などの天災がなぜ起きるのかと問われれば、「造られたものの不完全さゆえに」としか言いようがありません。神が何らかを意図して行ったというようなことでは全くありません。

でも、それだけではありません。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。