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バルト『ローマ書』の序文を読み直す(2) [読書メモ]

カール・バルト『ローマ書講解』の序文から、気になる言葉のメモ

引用はすべて、小川圭治、岩波哲男訳『ローマ書講解』上(平凡社ライブラリー)、平凡社、2001。

(2)第二版の序文から
第1版について
 「石ころ一つも残っていないほどの新しい改訂版」、「第一版は、今日、その長所と短所と共に、舞台から消え去ることができる。」
「第二版への序」、p.17。

「すべて人間のすることは予備的な仕事でしかない。そして他のすべての仕事にもまして、神学の書物にはこのことが妥当する。」
「第二版への序」、p.17。

「陣地の転換」
「第一版に対する好意的な論評の方が・・・自己批判に役立った。二、三の賛辞を読んでわたしは全く驚き、ただちに主題の核心(ザッヘ)を言い換え、全力をあげて陣地の転換を行わざるをえなかった。」
「第二版への序」、p.19。

易しく分かりやすければいいというものではない
 「われわれ神学者が、ともかくも「信徒」の関心をもっとも強く引きつけるのは、われわれがあまり表立って、意図的にかれらのことを考慮するときではなく、すべての実直な職人がそうであるように、ただ単純にわれわれの問題に取り組んでいるときである。」
「第二版への序」、p.21。

複雑な状況の中で
 「われわれにとってパウロのローマ書も、神学の今日における状況も、今日の世界情勢も、神に対する人間の状況も要するに単純ではない。このような状況の中でその人にとって真理が問題となるならば、その人は勇気を奮い起こして、まずいったんは単純ではありえないという状況に立たねばならない。」
「第二版への序」、p.21。

カルヴァンの注解について
 カルヴァンの注解は、「一世紀と十六世紀との間に立っている壁が透明になるまで、パウロが向こう側で語るのを十六世紀の人間がこちら側で聞くに至るまで、原典と読者との対話が主題の核心(ザッヘ)そのもの(それはあちらとこちらで異なったものではありえない!)に全く集中するに至るまで、その本文との対決の仕事に立ち向か」っている。
「第二版への序」、p.25。

「批判」(クリティーク)とは
 「批判するとは、・・・その文書に含まれているすべての言葉と語句を、・・・その文書が明らかに語っている主題の核心に即して判定すること、・・・ただ一つ語られうる事柄の光の下で解釈することである。」
「第二版への序」、p.27。

注解に取り組むこと
 「わたしが著者でないことをほとんど忘れてしまう地点まで、わたしが著者をよく理解して、かれをわたしの名で語らせ、わたし自身がかれの名で語りうるようになるほどの地点まで、理解しようとする者であるかぎり、わたしは突進しなければならない。」
「第二版への序」、pp.27-28。

聖書の主題
 「時と永遠の『無限の質的差異』・・・『神は天にあり、汝は地上にいる。』この神のこの人間に対する関係、この人間のこの神に対する関係が、わたしにとっては、聖書の主題である・・・。聖書はこの十字路にイエス・キリストを見る。」
「第二版への序」、pp.30。

「神は神であるとの想定以外の想定を立てることができるだろうか。」(吉村訳では「想定」のところは「仮説」)
「第二版への序」、p.31。

「以前と同様その後も、ローマ書の中にはわたしにとっても、説明の困難な箇所がある。」
「第二版への序」、p.33。

熟考せよ
 「わたしの『聖書主義的』方法の定式は、ただ<意識を集中せよ>ということ・・・。」(吉村善夫訳『カールバルト著作集14』p.15では「熟考せよ!」)「もし老子やゲーテを解明することがわたしの職務であるならば、わたしはこの方法を老子やゲーテにも適用するであろう。」
「第二版への序」、p.33。

感動しないで!
 「この本は非常に注意して読んでいただきたい、あまりに早く読まず、わたしのやり方をギリシア語本文や他の注解書と照合してほしい・・・。またどうかできるだけ『感動』したりしないでいただきたい。」
「第二版への序」、p.35。

神の真実
 「ギリシア語のピスティスを『神の真実』と訳したことが重要なことと考えられているが、わたしはどちらにしてもそれほど重要視しなかった。・・・ルドルフ・リーヒテンハンがこの新造語の精神的な生みの親だ」。
「第二版への序」、p.37。

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