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人権は「普遍」なのか [読書メモ]

人権は「普遍」なのか(岩波ブックレット).jpg小林善彦、樋口陽一編、『人権は「普遍」なのか――世界人権宣言の50年とこれから』(岩波ブックレットNo.480)、岩波書店、1999年、56頁+世界人権宣言7頁。

1998年12月11~12日のシンポジウムでの、7人の発表の要約。


■内 容
小林善彦、「日本で「人権宣言」が受け入れられるまで」
鵜飼哲、「人権の「境界」について」
増田一夫、「プロセスとしての人権」
坪井善明、「「アジアにおける人権」とはなにか」
ロニー・ブローマン、「人道援助と「悪の凡庸さ」」
辻村みよ子、「「女性の人権」とは何か」
樋口陽一、「人権の普遍性と文化の多元性」


■自分のためのメモ

天賦人権論
1883年(明治16年)に馬場辰猪(ばば・たつい)が『天賦人権論』を書いている。(p.6)

民主主義と人権
民主主義と人権は、どちらかがないときには、どちらも成立しない。(p.8、54)

世界人権宣言の意義
世界人権宣言(1948年)の意義の一つは、国民国家を人権の境界とする考え方に異議を唱える端緒となったことだ。(p.10)

ハンナ・アレント
ハンナ・アレントは『全体主義の起源』(1951年)の中で、近代の人権概念が国民国家の枠の中で、国民である者に限って人権を保障するという原理に基づいている限り、少数民族、難民、無国籍者は人権の埒外に置かれざるを得ないと批判した。(p.6、17にも)

「護る」ではなく「獲得する」
人権は、完成した形で存在していてそれを「護る」というものではない。むしろ、常に「獲得」すべきものである。(p.16)

ある権利が確保されると、その先にさらに獲得すべき権利が姿を現す。人権はに固定された範囲はない。歴史と共に伸張していく。(p.16、20)

悪の凡庸さ
ハンナ・アレント『イェルサレムのアイヒマン――悪の凡庸さに関する報告』(1963年)で、悪を犯すという意図のもとではなく、極端に自らの責任を限定して、自分が置かれている狭い立場以外の立場からはものが考えられなくなってしまい、思考が欠如した中で悪が犯されることが示された。(p.33-36)
(邦訳は大久保和郎訳、『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』、みすず書房、1969年。)

女性の人権
1789年のフランス人権宣言「人および市民の権利宣言」では、権利の主体はオム(人=男性)とシトワイヤン(市民=男性市民)であった。そこで、1791年、オランプ・ドゥ・グージュは、「女性および女性市民の権利宣言」を発表した。(p.38-39)

個人の尊重と人権
最近では、平等を定めた憲法14条ではなく、個人の尊重という原理を明確にした13条を中心に人権を考える傾向が強くなっている。(p.42)

ジレンマと自己決定権の矛盾
人権問題には常にジレンマがある。中絶の権利の主張は胎児の人権を侵害することになる。売春婦は男性支配の例として批判されるべきか、それとも女性の職業選択の自由や、身体の処分についての自己決定権か。しかし、自己決定権の名で人間の尊厳を捨てることは喜ばしいことではないだろう。自己決定というコンセプトそのものに矛盾が内在している。(p.43-44、50-51)

ユニバーサルな人権
人権の無視・侵害がuniversalにゆきわっている。しかし、人権という理念はuniversalな価値を持つものとしてuniversalに追求されるべきものである。(p.52)


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