SSブログ

佐古純一郎 [読書メモ]

佐古純一郎
1919.3.7-2014.5.6

評論家だったり大学教授だったり牧師だったりで、いったいどういう経歴になっているのかと思い、わたしなりの関心からその生涯を区分してみると、次のようになる。

第1期(~1951年) キリスト教との出会い
1948年5月23日(ペンテコステ)受洗
1949年日本聖書神学校入学

第2期(1951~1961年)評論家としての出発
神学校へ通うも、牧師の道ではなく評論家としての道に進んだ。
1951年 最初の評論集『純粋の探求』出版。
1957年まで、創元社や角川書店に勤務。
1960~1961年 『佐古純一郎著作集』全8巻(春秋社)刊行。

第3期(1959~1967年)二松学舎大教員
第2期と若干重なるが、
1959年 二松学舎大文学部専任講師
1961年 助教授
1962年 教授

第4期(1967~1984年) 中渋谷教会牧師
1967年7月1日 日本基督教団中渋谷教会伝道師
1971年12月14日 受按、牧師になる。
1984年まで中渋谷教会牧師

第5期(1986~1989年)二松学舎大学長

第6期(1989年以降)執筆活動の晩年




 文芸批評や文学論ではなく、キリスト教的な著作として今の私(これまでの私)にとって関心のあるのは次の二つのみ。

『文学にあらわれた現代人の不安と苦悩』(教養新書)、日本YMCA同盟出版部、1957年。

夏目漱石『こころ』に始まり、石原慎太郎『太陽の季節』、三島由紀夫、大岡昇平、丹羽文雄などなどを取り上げて、孤独や人間不信による男女関係の歪みや自殺の問題をあらわにする。

最後に、おそらくキリスト教を押しつけられたくない今の人にとってはドン引きしてしまうほどに、イエス・キリストの愛を語る。

「私は自分が愛されている存在であることを、生の奥底から実感することができるのである。かつて生きることに絶望し、いくたびか人生を清算しようと決意した自分が、いまは自殺ということにナンセンスを感ずることができるのは、愛されている自分を知っているからである。私は誰に愛されているのか。ためらうことなしに告白しよう。キリスト・イエスにと告白しよう。・・・愛するということは、愛されるということの同義語でしかない。」(p.112-113)


「かつて青春の日に、人生無意味の虚無感に襲われ、もはや生きていることには耐えられない状況に追い込まれた私が、いまははっきりと人生は無意味でないと叫ぶのである。・・・人生は無意味ではない。人生には使命があるからである。・・・「神は・・・和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神は・・・わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。・・・」私はパウロの言葉によって示されたこのことのほかに、自分に与えられている人生の使命はないと確信している。」(p.116-119)


他に、「文学の倫理と信仰」、「性の反宗教的性格」、「現代における死」、「戦後文学における女性」を収録。


この本を読んで牧師になっ人が少なくとも三人はいるとのこと(『共助』第64巻第8号、2014年12月、基督教共助会出版部、p.19-24の佐古純一郎葬儀説教)。




もう一つは、

『キリスト教入門』、朝文社、1989年初版、1992年新装版、295頁。

「第一部 キリスト教入門」は『信徒の友』に連載されたもので、求道中の人向けに自由に記された全12章。

「第二部 信仰によって救われる」は、ガラテヤ人への手紙を読み進めることを中心に様々な聖書箇所を紹介しながら信仰のエッセンスを語った、中渋谷教会での説教、全10章。

「第三部 祈りについて」も中渋谷教会での実際の学びから生まれた全7章。

「第四部 愛について」は、13頁ほどの「愛の力」と、『愛を問う』(女子パウロ会、1973年)に収録されていた「愛は応答(レスポンス)である」(46頁)の2編。


じっくり読み返したいのは「祈りについて」と「愛は応答である」。



「説教塾」の初期の機関誌 [書籍紹介・リスト]

「説教塾」は加藤常昭を中心に1987年に開始された。

その初期の機関誌『説教塾』は、1988年5月の第1号から1994年7月の第8号まで。発行は説教塾。

その後1999年から、体制を新たにして『紀要・説教』(発売:教文館)として現在に至っている。

説教塾のサイトには、2015年6月19日現在、初期の機関誌『説教塾』についての情報はない。


以下は、『説教塾』の中から、わたしの関心のある主な論考等。

説教塾機関誌編集委員会編『説教塾』創刊号
(1988年5月)

・加藤常昭「説教塾開塾に際して われわれの課題」
・ペーター・ビクセル(山口隆康訳)「机は机」(説教者のための物語)


「説教塾」出版委員会編『説教塾』第2号
(1988年8月)

・加藤常昭「ハイデルベルク大学創立600年記念 国際説教学シンポジウム報告」
・ハイデルベルクグループ(加藤常昭訳)「説教分析のためのテーゼ」
・山口隆康「説教における<内容と形式>の問題(上)」


「説教塾」出版委員会編『説教塾』第3号
(1989年8月)

・山口隆康「説教における内容と形式の問題(下)――説教聴聞とパラダイムの転換」
・芳賀力「神義論と説教の言葉」
・深井智朗「説教分析は可能か――「説教分析は可能か」という問いに対する遠回りな回答の試み」


「説教塾」出版局編『説教塾』第4号
(1990年2月)(発行は1990年3月)

・加藤常昭「わたしの説教分析」
・山口隆康「説教者の能力か神の全権か?――Kompetenz order Vollmacht?」


「説教塾」出版局編『説教塾』第5号
(1990年10月)

・加藤常昭「説教とは何か――説教を説教たらしめるもの・説教が造りだすもの」
・山口隆康「説教の言葉――CS説教に関する二、三の考察」(「講演のための覚書」ということで、末尾に(未完)と記されている)


「説教塾」出版局編『説教塾』第6号
(1991年7月)

・加藤常昭「黄色いキリスト――黄色いキリスト者?」
・山口隆康「正典論と説教聴聞」


「説教塾」出版局編『説教塾』第7号
(1992年6月)

・加藤常昭「説教とは何か――神の言葉としての説教」
・山口隆康「信仰告白と隠喩的言語――<イエスはキリスト>であると言葉で言うのは簡単か?」
・岡村恒「改革派教会における礼拝――H.G.Hageman, "Pulpit And Table"による問題提起」


「説教塾」出版局編『説教塾』第8号
(1994年7月)

・加藤常昭「説教の出来事の終末論的構造」
・山口隆康「鈴木正久の説教に関する一考察」




ホーリスティック [教会と社会]

福音派の中で、holisticは「包括的」と訳されることが普通のように感じる。

包括的福音などと言った場合、直接的な福音伝道と社会正義のための取り組みを統合的に捉えた宣教活動のもとになる福音理解を意味しているようだ。

特に東日本大震災後、被災地に入って活動する団体の中で、救援物資の提供や被災者に寄り添うことよりも、福音を信じることを直接的に訴える人たちがいた(いる)ことを問題として、言及されることが多くなったような印象がある。

参考:
クリスチャン新聞 復興支援サイト「被災地から問われる包括的福音――JEA宣教フォーラム仙台基調講演〈要約〉 (クリスチャン新聞2012年11月11日号)

関野祐二「震災後の日本における福音主義神学の教理的課題」、『福音主義神学』45号、2014年。




では、the holistic gospelという言い方はいつごろからプロテスタント教会の中で使われるようになったのだろうか。


福音派の1974年のローザンヌ世界伝道会議で、直接的な福音伝道(evangelism)と社会的な正義への取り組み(social action)とを統合的に捉えた宣教活動(mission)が明言された。

we affirm that evangelism and socio-political involvement are both part of our Christian duty.

The Lausanne Covenantの5. CHRISTIAN SOCIAL RESPONSIBILITYの中。



しかし、ローザンヌ誓約(Lausanne Covenant)の中で使われている語は、holisticではなくwholeである。

例えば、

World evangelization requires the whole Church to take the whole gospel to the whole world.

The Lausanne Covenantの6. THE CHURCH AND EVANGELISMの中。


同様に、1989年のマニラ宣言(The Manila Manifesto)でも、"holistic"は用いられてなく、"the whole gospel"という表現が"the whole church", "the whole world"と並んで、キーワードとして用いられている。


2010年のThe Cape Town Commitmentでは、holisticという語が使われている。




これらの日本語訳は、宇田進『福音主義キリスト教と福音派』、いのちのことば社、1993年の巻末にある。

が、どうも、訳語からは、ローザンヌ誓約とマニラ宣言における福音理解の特徴の一つと思われる"the whole gospel"の重要性が感じられない。

ローザンヌ誓約では、第5項でキリスト者の社会的責任を述べたすぐ次の項で、上に引用した文が出てくるが、次のように訳されている。

世界伝道は、全教会が、全世界に、福音の全体をもたらすことを要求する。


マニラ宣言の方は、"The Whole Gospel"という大きな見出しが「あまねく福音を伝えよ」になっている。

このころ(90年代前半)はまだ、こういった福音理解が日本の福音派の中では注目されていなかったということか。

ケープタウン決意表明の邦訳は、日本ローザンヌ委員会訳『ケープタウン決意表明』いのちのことば社、2012年。宇田進と内田和彦による解説あり。第三刷で三個所の訳文訂正。


オン神学 [読書メモ]

『福音と世界』2015年1月号で洛雲海(ナグネ)によって紹介されていた韓国のオン神学(Ohn Theology)について、興味深かったので、引用しつつ、私なりの言葉で言い換えつつ、まとめておく。


1.背 景
「オン」とは、「オングル(満月)」とか「オンヌリ(全世界)」のように欠けなく全体的で丸い様子を表す言葉。

韓国教会は、信徒の教会離れが進み、海外から多様な神学が流れ込んで混乱し、様々な教派・教団が乱立している。

そのような混乱状況の中で、オン神学は、全世界のための穏健かつ全体的な神学を志向するもの。


2.成り立ち
長老会神学大学校の金明容(キム・ミョンヨン、Myung Yong Kim)が提唱。

韓国長老教会統合派(PCK)の中で形成されてきた、これまで統全的神学と呼ばれてきたものを発展させた神学。

「改革神学の伝統上にあって福音主義(福音派)神学とエキュメニカル神学ならびにペンテコステ神学を合流させた神学」


3.特 徴
(1)プロセス神学や宗教多元主義などに対して、三位一体論を重視

(2)歴史に対する自由主義神学的楽観主義に反対して、神の主権と恵みの強調

(3)魂の救いのみを強調する行き方に対して、穏健かつ全体的な福音の主張

(4)天上におけると共に地上における神の国を強調

(5)世の至るところにおける聖霊の働きを重視した対話的神学

(6)祈りを軽んじる一部の哲学的傾向に反対して、祈りの重視

(7)世を破滅へと導く悪霊に打ち勝つ愛の力に信頼した倫理


文献
洛雲海「韓国教会通信7」、『福音と世界』2015年1月号(第70巻1号)、新教出版社。




さて、記事中に出てくる「統全的神学」というのは、holistic theologyの訳語だろうか。

Myung-Yong Kimのholistic theologyに関する英語の記事がある。

http://www.christianitydaily.com/articles/2030/20150206/holistic-theology-seminar.htm

あるいは、書籍を紹介しているfacebookの記事もある。




しかし、アメリカではどうもholistic theologyというと、キリスト教神学ではなく、なんだかニューエイジっぽい雰囲気の感じられる世界の用語のようである。
http://www.universityofholistictheology.com/
http://www.aiht.edu/

そうすると、これらとは全然別物よという意味で、区別して"Ohn Theology"と言う意味もあるということか。


テルトゥリアヌス、埴谷雄高、上野千鶴子 [読書メモ]

2010年11月14日のブログで、「不条理なるが故に、我信ず」(Credo quia absurdum)に近い言葉がテルトゥリアヌスの著作のどこにあるかについて記した。

現存する著作にはまったく同一の記述は見当たらないが、これに近い表現はあるということである。

テルトゥリアヌスの著作からの直接の引用ではないとしても、幾人かの方々からご指摘いただいたように、テルトゥリアヌスの思想をよく現している言葉として、いつしか広まったものだと考えることができるだろう。


評論家・小説家の埴谷雄高(はにや・ゆたか)に『不合理ゆえに吾信ず』という本がある(現代思想社、1961年)。

この本について、本人は「アフォリズム集」と言っている(巻末の埴谷雄高「遠くからの返事」)。谷川雁は「作者への手紙」で「詩というよりは短い形而上的メロディ」と表現している(p.115)。

もともとは1939年頃に同人誌『構想』に連載。その後、1956年に月曜書房から出たらしい(松岡正剛の千夜千冊のページからの情報)。

1961年に現代思想社から出た後は、河出書房新社や講談社の作品集にも収録されているが、やはり、正方形(しかし実測してみたら縦181×横186mm)で“Credo, quia absurdum.”としか書かれていない布張りの装幀でないとインパクトがないだろう。

もちろん、内容にインパクトがあるのだが、現代でもこういうのにあこがれる人がいるようだ。

「サルトルが『嘔吐』を書いたのが1938年、そして、この『不合理ゆえに吾信ず』が私達がその頃やっていた同人誌に出されたのが1939年ですが、それらの仕事は、互いに相知らぬ遠い世界のここかしこで、社会の課題がまだ十分に果たされてもいないにもかかわらず、しかも、すでに新しい大きな存在論の課題に直面しなければならなくなった私達の位置の恐ろしい同時性を物語っているかのごとくです。」

巻末の埴谷雄高「遠くからの返事」、p.128-129。


タイトルについては何も記されていない。したがって、テルトゥリアヌスへの言及もない。


埴谷雄高が、自殺することと子供をつくらないこと、この二つを人間の「最も意識的な行為」だと考えていたことはよく知られている。

そして彼は、「寛大になれない過ち」として「子どもを生むこと」を挙げた。しかし、彼は何度も妻に中絶させている。

これに上野千鶴子が怒っている。

寛大になれない過ちは子どもを生むこと、と平然と答えつつ、妻とセックスを続けて避妊もせず、何度も中絶させておきながら、どの面(つら)下げて言うか!・・・そういう人間の思想は、それだけで信用できない・・・。

上野千鶴子「死ぬための思想/生き延びるための思想」 in 上野千鶴子『生き延びるための思想 新版』(岩波現代文庫/学術270)、岩波書店、2012年、p.283。


1.
上野千鶴子の上の言葉は、これまでの思想はほとんど「死ぬための思想」であって、「生きるための思想」が必要なのにそれがなかったというような議論の中で出て来た話である。

思想は生き方になってこそ思想であるし、それこそが生きた思想だといえる。

「生きるための思想」を築いたとしても、その人がその思想に生きていなければ、死んだ思想になってしまう。

2.
もっとも、その人の生き様は脇に置いて、書物なりの公にされた文献に限定して、そこに記されていることのみを思索や学問の対象とする方法もあり得る。

しかし、社会学の専門家からすれば、その人の生き様が伴っていなければ信用できないということになるのだろうか。

3.
では、神学と神学する者の生き様の関係はどうだろうか。

神を認め、いや、知的に認めるのみならず、心から神を誉め讃えることが、その人の人生の根幹になっていなければ、ほんとうの神学の営みは不可能であろう。

その一方で、神に対する罪を謙虚に認め、人の罪がいかに深いかを知るならば、とても理想通りの生き方はできず、神の御心に適う生き方からはほど遠いことも自覚される。

この相矛盾するような狭間で、しかし、イエス・キリストによって罪を赦されて、神との関わりの中を生きる者へと恵みによって召されていることを感謝しつつなされるのが神学だということになろうか。




ミルトン『言論・出版の自由』2 [読書メモ]

ミルトン(原田純訳)、『言論・出版の自由 アレオパジティカ 他一篇』(岩波文庫赤206-1)、岩波書店、2008年。

各種(書誌的?)情報、その他は前回の記事で。


――自分のためのメモ――

●検閲制度の起源
「この検閲の企みが、実はカトリック教会の異端審問所から這い出て、わが国の国教会監督制度によって採用され、このたび長老教会のある人たちに見込まれるまでの経緯を示しましょう。」
(p.14)

書物の検閲は、古代の国家や社会あるいは教会から出たものではなく、また、宗教改革を行った外国の都市や教会の最近の慣行からでもなく、「最大の反キリストの宗教会議および歴史はじまって以来もっとも非道な異端審問所から出て来たもの」だ。(p.22)

●悪い書物も真理のために必要
悪い書物であっても、「思慮分別のある読者には、良いことが多くわかり、論破し、前もって警戒し、例証するのに役立ちます。・・・誤っているものさえ知り、読み、対照することにより、最も真なるものにはやく到達できる・・・。」(p.27)

「あらゆる種類の書物を読み、あらゆる種類の論述に耳を傾けずして、罪と虚偽の国をより安全、危険すくなく偵察することはできません。」(p.30)

●自由な学問のために
「学問を研究し愛するために生まれてきた、自由にして誠実ある人たち・・・の判断や誠実を信用せず、教師や試験官なしで考えを出版する資格はないとするのは、自由にして学問を知る人に対する最大の不快事であり、侮辱である」(p.45)

●教派分裂について
「悪魔は言う、「やつらが各派、各党に分裂したときこそ、時機到来だ」と。愚か者よ、われわれは枝分かれしているが、すべてが成長してきた元の堅い根は悪魔にはわからない。細分化された小隊が、・・・悪魔の旅団を、あらゆる角度から切り進んでいく」のだ。「分派、分裂と思われているものから、より良いものが生まれるのを希望すること」が大切だ。(p.68)

「私は分離がすべて良いとは考えません。〔しかし〕、人間は良い麦を悪い麦から・・・完全に区別できません。それはこの世の最後に天使たちがする仕事・・・。すべての人が強制されるより、寛容に遇されるほうが明らかに有益であり、思慮があり、キリスト教的である。」(p.75-76)

●言論の自由こそすべて
「自由はすべての偉大な知識の乳母である。」(p.70-71)

「あらゆる自由にまさって、知り、発表し、良心に従って論ずる自由をわたしに与えよ。」(p.72)



ミルトン『言論・出版の自由』 [読書メモ]

ミルトン(原田純訳)、『言論・出版の自由 アレオパジティカ 他一篇』(岩波文庫赤206-1)、岩波書店、2008年。

John Milton 1608.12.9-1674.11.8(キリスト教人名辞典による)

この邦訳が出た2008年は、ちょうどミルトン生誕400年にあたる。

次の2つを収録:
「言論・出版の自由――アレオパジティカ」(Areopagitica, 1644)

「自由共和国建設論」(The Readie and Easie Way to Establish a Free Commonwealth, 1660)

これらは、原田純訳編『イギリス革命の理念――ミルトン論文集』(小学館、1976年)に収録のものを全面的に改訳したもの。(訳者「解説」、p.195)




岩波文庫には旧版がある。

上野精一、石田憲次、吉田新吾訳、『言論の自由――アレオパヂティカ』岩波文庫、1953年。
最初は4943、白181、後に赤(32)206-1。

元は新月社、1948年。岩波文庫化に当たって、石田憲次が全面的に推敲した。翻訳の底本はコッテリル(H.B. Cotterill)の注釈書、随時ヘールズ(J.W. Hales)の注釈書も参考にしたとのこと。

ただ、この旧版のことには、原田純訳の新版ではまったく触れられていない。




『言論・出版の自由』はこれまで読み継がれてきたし、これからも読み継がれるであろう。議会多数与党によるマス・メディアへの介入、資本、人事、広告元の圧力、メディア側の異常警戒と自主規制、公安庁や自衛軍による個人の発言の隠密調査と監視、司法判断の不充分による言論の自己抑制、学校教科書と学習指導要領への政治的介入と不断的監督など、山積する今日の様々な課題に『言論・出版の自由』が深いところで答えてくれるからである。

(原田純「解説」、p.176。)




聖書の記事への言及や聖書にある言い回しの使用に関しては、注は十分とは言えない。

たとえば、

「ソロモンは多読は体を疲れさせる・・・」(p.28)はコヘレトの言葉12:12。

「目を上げれば田畑はすでに実りはじめている」(p.66)はヨハネ4:35。

「ミカヤがアハブの前でしたように・・・」(p.74)とは、列王記上22章あるいは歴代誌下18章の記事。

「人間は良い麦を悪い麦から、よい魚を悪い魚から完全に区別できません。それはこの世の最後に天使たちがする仕事・・・」(p.75-76)はマタイ13:29-30、39の毒麦のたとえ話。

などなど。

こういった個所のいくつかは、岩波文庫旧版ではちゃんと注に記されている。




ネットで見ることのできる英語の注付きの"Areopagitica":

米国ダートマス大学(Dartmouth College)の"The John Milton Reading Room"のサイトの中のAreopagitica

Notes by J.W.Hales, Oxford: Clarendon Press,1874. (Google Books)

Notes by T.G.Osborn , London: Longmans, Green, and Co.,1873. (Google Books)



ワーシップCD Jworship1 [音楽]

JWorship(第1集)韓国のPHWM(Praise Honor Worship Ministry) 制作の、日本で作られたワーシップを韓国のアーティストが歌うJworshipシリーズの1作目のレビュー。

リビングプレイズのj-worshipシリーズとは別物。



第2集(2012年)のレビューはこちら。

第3集(2015年)のレビューはこちら。

第1集のタイトルは、

「JWorship 主イエスに向かう日本の愛の歌」

JWorship - 주님을 향한 日本의 사랑노래


CD1枚全13曲。2008年。


収録されている曲(括弧内は原曲情報)

1.「時を越えて」(日本語)
 (ノアのCD『祈りvol.1』の1曲目。『ノア CDコレクションvol.1』1997年。)

2.「とわに礼拝します」(韓国語)
 (レインボーミュージックの第1作『Send me―主よつかわして下さい―』1998年の6曲目)

3.「あなたをあがめます」(韓国語)
 (レインボーミュージックの第1作『Send me―主よつかわして下さい―』の8曲目)

4.「主の臨在の中で」(韓国語)
 (レインボーミュージックの第1作『Send me―主よつかわして下さい―』の2曲目)

5.「もうふりむかない」(韓国語)
 (ノアのCD『もうふりむかない』の7曲目、『祈りvol.1』の3曲目。楽譜は『ノア CDコレクションvol.1』1997年。後に、いのちのことば社の「子どもリビングプレイズ」のシリーズの第1弾『プレイズワールド ジャンプ』の18曲目。楽譜は『プレイズワールド』増補改訂版、いのちのことば社、2003年の18。)

6.「今主の御名をあがめて」(韓国語)
 (レインボーミュージックの第1作『Send me――主よつかわして下さい――』の9曲目)

7.「涙とともに」(韓国語)
 (ミクタムのPraise&Worship3『インマヌエル』の13曲目。楽譜はミクタムの赤本113)

8.「時を越えて」(韓国語)

9.「私たちのこの口は」(韓国語)
 (リラのCD第1作『LYRE』1996年の1曲目。レインボーミュージックの第2作『We Stand―このところに―』1999年にも7曲目に入っている。楽譜はあちこちにたくさんあると思うが、最近のものでは、『教会福音讃美歌』2013年、いのちのことば社の331番。「私たち」を漢字交じりで表記しているものとかながきしているものとが混在するが、たぶん、リラとしてはかながきが基本のようだ。)

10.「威光・尊厳・栄誉」~「栄光・尊厳・力」(韓国語)
 (ミクタムのPraise&Worship4『リバイバル』の9曲目と、Praise&Worship6『ハレルヤ』11曲目。楽譜はミクタムの赤本128と160)(ジャケットに記載のコピーライトは間違っている)

11.MR(「今主の御名をあがめて」のインストルメンタル)

12.「とわに礼拝します」(日本語)

13.「私たちのこの口は」(日本語)


メモ

MRというのは韓製英語で、ボーカルの入っていないインストバージョンのこと。

YouTUBEには、「とわに礼拝します」の日韓バイリンガルバージョンがアップされている。とはいえ、最初だけ日本語で、後はずっと韓国語。

12曲目の「とわに礼拝します」(日本語)は、
(Aメロ+Bメロ)×2+Cメロ+Bメロ×3+「礼拝します」

13曲目の「私たちのこの口は」(日本語)は、
Aメロ+Bメロ+Aメロ(途中で転調)+間奏+Bメロ+Aメロ(途中で転調)+Aメロ(前半はリズムと歌のみ)+Aメロ後半のみ+間奏+ブレイク後Bメロ(ピアノ+ボーカル)


コメント

1.「時を越えて」(日本語)
一昔から二昔前?のJ-POPのCDの1曲目みたいに、ディストーションのかかったギターがかっこいいポップス調になった。ただ、歌詞の「おおなみにかわる」は今やどうなんだろうか。YouTUBEで聞ける。

2.「とわに礼拝します」(韓国語)
3.「あなたをあがめます」(韓国語)
4.「主の臨在の中で」(韓国語)
6.「今主の御名をあがめて」(韓国語)
レインボーミュージックのオリジナルより、韓国語だけど歌はうまいし、ヘビーローテーションに耐えるサウンドになった。「あなたをあがめます」は、礼拝堂でボリューム上げて聞くと、ベースの重低音が響く。「あなたをあがめます」と「主の臨在の中で」「今主の御名をあがめて」は日本語バージョンも作ってほしかった。

5.「もうふりむかない」(韓国語)
Maranatha!MusicのCCMっぽいイントロから、一転、アニメ声(?)の女性ボーカル。

7.「涙とともに」(韓国語)
岩淵まことの作。こういう曲調を何と言うんだっけ。イスラエル民謡? ジューイッシュ・ソング? ミクタムのオリジナルの方はメシアニック・ダンス調とでも言えばいいのかな。。

9と13「私たちのこの口は」
YouTUBEで日本語バージョンが聞ける。リズムの弾んだダンサブルな曲になった。転調しながら繰り返して7分の長さになっている。

10.「威光・尊厳・栄誉」~「栄光・尊厳・力」(韓国語)
「どーこーでーでも」の「でーで」の部分のコードが違うのが不思議な感覚になる。


というわけで

・歌も演奏もクオリティ高い。

レインボーミュージック(Rainbow Music Japan)の曲がたくさん取り上げられている。

・日本語バージョンは3つしかなくて残念。

・韓国語の歌詞にカタカナでふりがなを振ってくれるとうれしいのだが。。。



ワーシップCD Jworship3 [音楽]

Jworship3韓国のPHWM(Praise Honor Worship Ministry) 制作の、日本で作られたワーシップを韓国のアーティストが歌うJworshipシリーズ。



この第3集が発売された(2015.3.30)。

タイトルは、

「Jworship3 神様が下さった日本のリバイバルの歌」

제이워십 3집 주님이 주신 일본의 부흥노래

CD1枚全12曲。

日本語バージョン10曲と日本語と韓国語のバイリンガル・バージョン2曲を収録。

今回、ジャケットに作者本人の写真とプロフィールが掲載されている。

YouTubeのJworshipのチャンネルに少しずつアップされている。


収録されている曲

1.「栄光から栄光へと」池原仰一 (Acts2:44『僕らのすべて』の5曲目)

2.「イエスに栄光あれ」富田満 (Michiru『Love Song』の9曲目)

3.「キリストの花嫁」津川晋平 (長沢崇史+S.H.O.P.『ダビデの幕屋―主の足もとに―』の9曲目)
『ダビデの幕屋―主の足もとに―』の情報:その1その2

4.「立ち上がる時」田中満矢 (GROWING UP『魂歌』の7曲目)

5.「慕い求めます」長沢崇史 (長沢崇史 with special band『道』の4曲目)

6.「死を打ち破り」長沢崇史 (長沢崇史 with special band『道』の12曲目)

7.「ただひとり」富田満
YouTubeなどを見ると、新宿シャローム教会のワーシップチームWorship Waveによるオリジナルワーシップのようで、作詞・作曲:津川晋平・富田満(Michiru)と二人がクレジットされている。

8.「イエスが愛したように」長沢崇史 (長沢崇史 with special band『道』の11曲目)

9.「喜びの声上げて」林田裕樹
(リアジャケットでは「喜びの声を上げて」と「を」が入っていて統一されていない。ミクタムの『ジーザス』の3曲目。ミクタムでは「喜びの声を上げて - By His Cross」」と「を」が入りサブタイトルが付いている。楽譜は青本(新版)87)

10.「求めて」中山有太 (Praise Station『希望の歌』の4曲目)

11.「キリストの花嫁」日韓バイリンガル・バージョン

12.「求めて」日韓バイリンガル・バージョン


コメント

1.「栄光から栄光へと」:オリジナルより歌もサウンドも良くなった。

2曲目「イエスに栄光あれ」と7曲目「ただひとり」:初めて聞き、オリジナルを知らないが、こういう日本のワーシップが韓国経由で表舞台(?)に上げられるのはおもしろい。このCDが表舞台になるのかどうかはわからないが。

3.「キリストの花嫁」:女性ボーカル。どうも韓国の人には日本語のラ行の発音が難しいようだ。

4.「立ち上がる時」:「賛美するんだ」という歌詞がわたしの年になると何ともなあ。

5.「慕い求めます」:歌い出しの「イエス」のメロは、わたしの頭の中でどうしても別のワーシップソングになってしまう。

6.「死を打ち破り」:すでに定番の曲。

8.「イエスが愛したように」:「愛し合おう」ではなくて「愛し合う」と断言されているところが意味深い。「愛し合おう」と言われるとなかなかそうはできないよという思いが強くなってしまうが、「愛し合う」と言うと、愛し合う存在とすでにされているという大きな恵みの言葉になっている感じ。

9.「喜びの声上げて」:YouTubeの本人がギターを弾きながら歌う動画の演奏が、気軽で楽しそうなノリをしていてよい。このCDではちょっとまとまりすぎたビート感になってしまった。でも、いい曲だ。


10.「求めて」:静かな曲だけに、男性ソロボーカルの声質や歌い方の個性が強くなっている分、オリジナルのみんなでワーシップコーラスという感じの方が親しみやすいかも。


というわけで、前作Jworship2同様、長沢崇史の代表的な曲が多く含まれるほか、いろんな若手の代表的な曲が集められ、富田満という(日本のキリスト教史上に同姓同名の人物がいるが、あっちは「みつる」)人を知ったのが収穫。



日本聖書協会『聖書セミナー』と詩編ビデオ [書籍紹介・リスト]

前回、日本聖書協会が発行している『聖書翻訳研究』、『New聖書翻訳』の情報をまとめたが、日本聖書協会から出ている‘不定期’刊行物には、『聖書セミナー』もある。こちらの方は、日本聖書協会の『聖書セミナー』講義録 バックナンバーのページに、最新号のNo.18(2014.8)まで内容が掲載されている。

[追記]
No.15(2011年)の収録内容は、CiNiiBooksの登録データWebCatPlusの登録データを見る。

No.17(2014年)の収録内容は、CiNiiBooksの登録データWebCatPlusの登録データを見る。

(WebCatPlusのデータの並び順は目次の順番ではないので、CiiNiiBooksの方がよい。)



ついでに、日本聖書協会は、オランダ聖書協会が製作した詩編のビデオクリップ(ショートムービー)を日本語版に置き換えて、ユーチューブで公開中。現在、詩編1、13、51、139、146編の五本がアップされている。朗読は、139編のみ久米小百合、他は日高恵による。→YouTubeの日本聖書協会のチャンネル

新しい試みで、これからに大いに期待したい。

個人的には、そんなに映像を凝らなくても、一つの風景を写しながら、癒し系(?)の音楽と普通の朗読で、結構いけるんじゃないかと思いますが。。。。



タグ:聖書翻訳

日本聖書協会『聖書翻訳研究』 [書籍紹介・リスト]

『聖書翻訳研究』、日本聖書協会。

No.1(1970)~No.33(2014.3)で終了。

各号の内容は、日本聖書協会の「聖書翻訳研究」誌 バックナンバーのページで。


しかし、2015年3月現在、No.32の内容までしか掲載されていないので、No.33の内容を以下にメモしておく。

津村春英、「「ヨハネの手紙一」の翻訳に関するいくつかの提言――「神の愛」を中心として」

小友聡、「コヘレト書3章1-17節の翻訳をめぐって」

浜島敏、「ギュツラフのこだわり――「かしこいもの」と「ごくらく」再考」


他に、「聖書 新共同訳」訂正箇所や聖書翻訳研究 総目次、共同訳のあゆみが収録されているようだ。


後継は『New聖書翻訳』(No.1、2014.5)~。

2010年に開始された新たな翻訳事業に携わる翻訳者の聖書翻訳に関する論考を収録。

No.1には、

和田幹男、「新共同訳とフランシスコ会訳から学ぶ」

大島力、「旧約学の動向と聖書翻訳」

小林進、「聖書翻訳で直面する初歩的な問題」

石川立、「聖書を演じることと翻訳」

石黒圭、「日本語における「省略」の考え方」


を収録。

新しい翻訳の方針や特徴、事業の進め方などについては、新翻訳事業についてのページで。


タグ:聖書翻訳

主要な神学者を紹介した最近の書 [書籍紹介・リスト]

最近似たような本が出ているのでまとめてみた。


R.A.クライン、C.ポルケ、M.ヴェンテ編(佐々木勝彦、佐々木悠、濱崎雅孝訳)、『キリスト教神学の主要著作』、教文館、2013年、444頁、4000円+税。

 オリゲネス『諸原理について』
 アウグスティヌス『三位一体論』
 アンセルムス『モノロギオン』『プロスロギオン』
 トマス『神学大全』
 M. ルター『大教理問答』
 J. カルヴァン『キリスト教綱要』
 Ph. メランヒトン『神学総覧(ロキ・コンムーネス)』
 J. ゲアハルト『神学総覧(ロキ・テオロギキ)』
 F. シュライアマハー『信仰論』
 E. トレルチ『キリスト教の絶対性』
 A. リッチュル『キリスト教への手引き』
 K. バルト『教会教義学』
 P. ティリッヒ『組織神学Ⅰ─Ⅲ』
 W. パネンベルク『組織神学Ⅰ─Ⅲ』
 R. ブルトマン『信仰と理解Ⅰ─Ⅳ』
 E. ユンゲル『世界の秘密としての神』
 D. ボンヘッファー『倫理学』
 J. モルトマン『希望の神学』

18人の神学者の主要著作を紹介。


F.W.グラーフ編(片柳榮一監訳)、『キリスト教の主要神学者 上――テルトゥリアヌスからカルヴァンまで』、教文館、2014年、374頁、3900円+税。

 マルキオン
 カルタゴのテルトゥリアヌス
 オリゲネス
 ニュッサのグレゴリオス
 アウグスティヌス
 カンタベリーのアンセルムス
 クレルヴォーのベルナール
 トマス・アクィナス
 マイスター・エックハルト
 ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス
 オッカムのウィリアム
 グレゴリオス・パラマス
 ジョン・ウィクリフ
 マルティン・ルター
 ジャン・カルヴァン
 ロベルト・ベラルミーノ

 F.W.グラーフ編(安酸敏眞監訳)、『キリスト教の主要神学者 下――リシャール・シモンからカール・ラーナーまで』、教文館、2014、416頁、4200円+税。

 ヨハン・ゲアハルト
 リシャール・シモン
 フィリップ・ヤーコプ・シュペーナー
 ヨハン・ヨアヒム・シュパルディング
 フリードリヒ・シュライアマハー
 ヨゼフ・クロイトゲン
 セーレン・キルケゴール
 ユリウス・ヴェルハウゼン
 アドルフ・フォン・ハルナック
 アルフレッド・ロワジー
 エルンスト・トレルチ
 ルドルフ・ブルトマン
 パウル・ティリッヒ
 カール・バルト
 ラインホールド・ニーバー
 H. リチャード・ニーバー
 カール・ラーナー

知らない神学者も出てくるし、両方揃えると8100円もする。


ハンス・キュンク(片山寛訳)、『キリスト教思想の形成者たち――パウロからカール・バルトまで』、新教出版社、2014年、350頁、2900円+税。

 パウロ
 オリゲネス
 アウグスティヌス
 トマス・アクィナス
 マルチン・ルター
 フリードリヒ・シュライエルマッハー
 カール・バルト

こちらはパウロから始める厳選した7人。

この7人は、一つの時代思想を生み出し、パラダイムを転換・交代させた思想家。

芦名定道による書評が、『本のひろば』2015年2月号、p.4-5にあり(pdf)



というわけで、

キュンクは厳選しすぎているし、グラーフのは多すぎるし、値も張るし、クライン・ポルケ・ヴェンテは神学者というよりも著作に焦点を当てているしで、いまのところ、これは、というものはない。



タグ:歴史 神学者

年度始めがイースター [教会年間行事]

4月が年度始まりの教会にとって、今年は年度始まりとイースターとが重なった。

このようなことは、次回は2018年4月1日である。


年度の切り替わりに牧師が異動したり、神学校を卒業して新しく任地に赴く者もいるだろう。

しかし、今年のような場合は、新任であるいは転任して最初の主の日がイースターである。

・洗礼や転入会式がある場合は、どうするのか。

・礼拝の形や聖餐の行い方が教会によって微妙に(あるいは大いに)異なることもあるだろうに。。。。

・3月の最後の週に引っ越しがあったり、牧師館のリフォームがあったりして、受難週は毎日祈祷会があったりするんじゃないかと思うが、いったいどうするのか?



しかも、引っ越しの費用が一番かかる時期に、牧師は転任する。多くの牧師は財政的にそれほど余裕がないのに。

引っ越し費用を教会が負担するとしても、教会だって多くは財政が逼迫している状況だろうに、わざわざハイ・シーズンに引っ越すのは、いかがなものか。


というわけで、提言として、辞任の時期は年度が替わってしばらくしてから、ともかくイースターが終わってからにしましょう。

できれば、その年度の計画を立てて、年度初めの定期教会総会を終えてから、次の牧師にバトンタッチをするのが、教会の継続的な営みのためにふさわしいのではないだろうか。

「新しい年度の計画は、今度赴任してくる新しい牧師に決めてもらいましょう」などとやっているから、教会は牧師によってころころ方針が変わって、一貫性がなくなるのである。


では、神学校新卒の者はどうすればいいのか?

どうすればいいのでしょうかねえ。。。。。

前任者のもとで引き継ぎ期間を数ヶ月過ごすとか、赴任に向けて準備し英気を養う期間とするとか。

でも、その間の生活費は?・・・・・どうすればいいのでしょうかねえ。。。。。






votumとは何か(3) [礼拝]

改革派の教会で、礼拝の冒頭に詩編124:8が告げられたり読み交わされたりするvotumについて。

votumという語はどこから出てくるのか。


1.
カルヴァンの礼拝式文1542、1545、1559には、votumという語は出てこない(CR,OSで確認)。

Calvin himself never called it a votum, as far as we know.

Christian Reformed Church, "Acts of Synod 1968," p.159.



2.
1545年にストラスブールでフランス人教会の礼拝に出席したひとりの学生が礼拝の順序や様子を手紙に書いた。それによると、礼拝の最初はvotumである。
H.G.ヘイゲマン(矢崎邦彦、高橋隆教訳)、『礼拝を新たに』、日本基督教団出版局、1995年、p.43。

おそらく、votumとしてミサの準備に司祭が唱える詩編124:8がストラスブールの礼拝の最初に出て来たので、votumと書き記したのではないだろうか。


3.
1562年のジュネーヴ教会の礼拝順序には出てくるのか?
秋山の紹介の中で、「はじまりのことば(「ヴォタム」という)」と記されている。
秋山徹「カルヴァンのジュネーヴ教会の礼拝」、『礼拝と音楽』142号、2009年夏号、p.20。



4.
1574年のドルト教会会議(Synod of Dordrecht)で、詩編124:8をvotumとして用いることになった。ただし、順序は、Scripture reading and the singing of a Psalmが最初で、その次がvotum。

Geoffrey Wainwright and Karen B. Westerfield Tucker eds., "The Oxford History Of Christian Worship," Oxford University Press, 2005, p.465.


The Synod of 1574 also made use of a fixed votum, a mandatory beginning to the service. Later editions of the liturgy omit mention of the votum.

Donald J. Bruggink and Kim N. Baker, "By Grace Alone: Stories Of The Reformed Church In America (Historical Series of the Reformed Church in America No.44)," Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2004, p.112.


アブラハム・カイパーは、votumとして選ばれる言葉は短い文がよいという議論の中で次のように言っている。
The Synod of Dortrecht (1574) was quite right, thefore, to prescribe the words of Psalm 124:8 as the votum.

Abraham Kuyper, ed. by Harry Boonstra, trans. by Harry Boonstra et al., "Our Worship" (Calvin Institute of Christian Worship Liturgical Studies), Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2009, p.109.
原著は、"Onze Eeredienst," 1911.
この15章(pp.107-115)が"The Votum"という章で、小見出しは、When to Be Pronounced? / Which Votum? / God's Presence / The Words of the Votumとなっている。





No-one is quite sure of how this awkward Latin word crept into and managed to stay in a Reformed liturgy...

Christian Reformed Church, "Acts of Synod 1968," p.159.





タグ:礼拝式文

votumとは何か(2) [礼拝]

改革派の教会で、礼拝の冒頭に詩編124:8が告げられたり読み交わされたりするvotumについて。

ラテン語の元々の意味と当時のカトリック教会でのvotumについて。


1.ラテン語の元々の意味

①(神への)誓約
②(満願成就のお礼としての)奉納物、供物
③祈願;願望、欲求誓い、誓約
④結婚の誓い、結婚

水谷智洋編『羅和辞典 改訂版』、研究社、2009年。


なお、中世のラテン語としては「ヴォートゥム」と発音する。「ヴォータム」は英語読み。


2.カトリック神学

『キリスト教神学用語辞典』の「意向」の項:
votum〔ラ〕「誓い」 カトリック神学において(はっきりと表明したもの、そうでないものを問わず)人がその機会に恵まれていない時に、教会の秘跡に与りたいといういう意志。またある行為が実現される前に表明された、通常司教あるいは長上の意見。

ドナルド・K.マッキム(高橋俊一、熊澤義宣、古屋安雄監修、神代真砂実、深井智朗訳)『キリスト教神学用語辞典』日本基督教団出版局、2002年。



3.キリストに仕える信者

紀元1000年以降、修道院以外で修道士と同じようにキリストに仕える信者は"votum"と呼ばれていた。つまり、そのような人の望みは主にあったというところにこの言葉の語源がある。

W.ジャンセン「アメリカ改革派教会における礼拝の祝い」、『季刊教会』51号、2003.6、p.19。


votumということばは、・・・中世では修道院に入った人々と同じように、厳粛にキリストに仕えようとする信徒のために用いられていた。後に、それは修道士の誓願に使用された。

アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝の理解のために』、キリスト新聞社、2003年、p.10。



4.司祭の沈黙の祈り

the votum first appeared in the service around the year 1000, but it was a silent prayer by the priest.

F. Gerrit Immink, trans. by Reinder Bruinsma, "The Touch of the Sacred: The Practice, Theology, and Tradition of Christian Worship," Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2014, p.17.



5.司祭がミサの準備として

votumと呼ばれていたわけではないが、詩編124:8は、カトリックのミサの準備として、司祭が個人的に唱えていた聖句とされていた。

The saying of Psalm 124:8 was originally said privately by the priest; he whispered it along with his private confession of sin as he entered the sanctuary to celebrate mass. Thus, ・・・it was part of the priest's private preparation for worship.

Christian Reformed Church, "Acts of Synod 1968," Christian Reformed Publishing House. この中のSupplement 3 'Liturgical Committee'の部分(pp.134-198)。引用はp.159。
(この報告文書は、"Psalter Hymnal Supplement: With Liturgical Studies and Forms," Board of Publications of Christian Reformed Church, 1974にも収録されているようだ。)
この情報は、カルヴィン大学とカルビン神学校が設置しているCalvin Institute of Christian Worshipのサイトの中のChristian Reformed Church Worship Snapshotというページによる。



なお、『キリスト教礼拝・礼拝学事典』(日本基督教団出版局、2006年)にはこれに関する項目も記述も全くない。
"New Westminster Dictionary of Liturgy and Worship" (J. G. Davies ed., 2nd ed. 1986 / Paul Bradshaw ed., 2003)は見ていないので不明。




タグ:礼拝式文

votumとは何か(1) [礼拝]

改革派の教会で、礼拝の冒頭に詩編124:8が告げられたり読み交わされたりするvotumについて。

引用1-1
VOTUM
Our help is in the name of the Lord,
who made heaven and earth.
Amen.

"Order of Worship for the Lord's Day," Reformed Church in America, 1987.


引用1-2
votumという用語は、改革派教会では、主の礼拝を開始する宣言として、願い求めを言い表すために、用いられる。

アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝の理解のために』、キリスト新聞社、2003年、p.10。


引用2
招きの言葉の前に次のような言葉を読むことも、プロテスタント教会の古くからの伝統です。この部分はvotumと呼ばれ、神に願い求めることを意味します。
司式者「父と子と聖霊の名によって」
会 衆「アーメン」
司式者「わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある」(詩編124・8)

小栗献『よくわかるキリスト教の礼拝』、キリスト新聞社、2004年、p.81。



1.アメリカ改革派教会
アメリカ改革派教会Reformed Church in America(RCA)の礼拝式文"Order of Worship for the Lord's Day"(1987)は、"Liturgy of the RCA"というページの中のhttp://images.rca.org/docs/worship/lordsday.pdf

礼拝指針"The Directory for Worship"はhttps://www.rca.org/resources/directory-worship


2.キリスト改革派教会
もう一つのアメリカの主要な改革派教会である北米キリスト改革派教会Christian Reformed Church in North America(CRCNAあるいは単にCRC)の式文についての情報は、CRCのサイトの中の"Liturgical Forms & Resources"というページ。

これによると、"Psalter Hymnal" (1987)に収録されているようだが、見たことないので詳細は不明。

CRCのサイトにService for Word and Sacrament (1981)というページがある。ここにはvotumという言葉は出てこないが、冒頭のThe Openingの最初に、
Minister: In the name of the Father, and the Son, and the Holy Spirit.
People: Our help is in the name of the Lord, who made heaven and earth.

とある。

votumについては、Acts of Synod(1968)(PDF 20.39MB)の中でSupplement 3として収録されているLiturgical Committeeからの報告の中で詳細に論じられている(pp.159-160あたり)。

ただし、この報告では、礼拝の始まりにおいてvotumはinvocationとほとんど同じ意味を持っており、主は御言葉が告げられることによってというよりも祈りへの応答として現臨されるのであるから、invocationを使うことにしてvotumという言葉を使うのは止めましょうと提案している。(p.161)


3.
もっとも、RCAやCRCでこれらがどのくらい規範性・拘束力をもっているか、どのくらい実際に使われているかという問題もあるが、CRCの方はどの教会もこの通りに行うようだ。

アメリカ改革派教会の問題はといえば、典礼や礼拝に関して余りにも自由である、という点にある。・・・実に多種多様な讃美歌が置かれており、また礼拝順序も雑多なものの寄せ集めである・・・。キリスト改革派教会では・・・典礼は一つと決まっていて(しかもそれが守られており)、讃美歌も一冊しかない・・・。

I.J.ヘッセリンク(廣瀬久允訳)『改革派とは何か』教文館、1995年、pp.54-55。



4.長老教会
ちなみに、長老教会では、Presbyterian Church(U.S.A.)とCumberland Presbyterian Churchの共同の礼拝式文"The Service for the Lord's Day"が"Book of Common Worship"(Westminster/John Knox Press, 1993)の中にある。

→ ネット上の全文(PDF 4.90MB)

そこには、votumという言葉はないが、Call to Worshipの部分で、Greetingの次のSentences of Scriptureとして読まれる聖書箇所の例の筆頭に詩編124:8が挙げられている。

なお、PC(U.S.A.)は現在、The Directory for Worshipの改訂作業を行っている。



タグ:礼拝式文

カルヴァンの礼拝式文の原典 [書籍紹介・リスト]

カルヴァンの基本的な原典集であるCRとOSの中の、Joannis Calvini, "La forme des prières et chantz ecclésiastiques"の所在について。

CRとかOSとかの略号については、マクグラス(高柳俊一訳)『宗教改革の思想』(教文館、2000年)の巻末付録3と4に詳しい。


1.Corpus Reformatorum, vol.34すなわち、Joannis Calvini, Opera Quae Supersunt Omnia,vol.6
この中の161-210欄。礼拝式文は173欄から。(ページではなく、1ページが左右2欄に分けられて、通し番号が振られている)

CRの中のカルヴァンは29巻から87巻の全59巻に渡る。
Ioannis Calvini opera quae supersunt omnia. Edited by Guilielmus Baum, Eduardus Cunitz, and Eduardus Reuss, 59 vols. Corpus Reformatorum 29–87, 1863–1900.

wikipedia(英語)のCorpus Reformatorumに、便利なグーグルブックスへのリンクあり。
CR34への直リンクはこちら

あるいは、ジュネーヴ大学のアーカイブ。vol.6はこの中のTome 6。


2.Ioannis Calvini Opera Selecta, Vol.2の中にある。

"Joannis Calvini Opera Selecta" eds. Petrus Barth and Guilelmus Niesel, 5 vols. 1926–36.
(Petrusはpeterのラテン語表記、GuilelmusはWilhelmのラテン語表記)

GoogleBooksで検索できる。(検索しかできない)
たとえば、"Nostre aide"(我らの助け)で検索すると、51ページのこの部分がヒットする。


3.オハイオ州立大学図書館所蔵の1542年の"La forme des prières et chantz ecclésiastiques"のファクシミリの1959年リプリント版をGoogleブックスで見ることができる





タグ:礼拝式文

招詞のリスト4(総集編) [礼拝]

招詞のリスト1(日本基督教団式文(試用版))、
招詞のリスト2(カンバーランド長老キリスト教会、2007年)、
招詞のリスト3(キリスト改革派、PC(USA)、RCA)
をマージしたもの。

こうしてみると、神が我々を招く言葉も、人間の側が神を礼拝しようと宣言したり呼び掛けたりする言葉も、votumも、威勢のよい開会の言葉も、何でもありという感じだ。

(詩編は節番号がずれているものがあるかも)

(太字は複数回挙げられている箇所)


創世記1:1,3
出エジ15:2
出エジ20:8
申命記6:4-5
ヨシュア1:5
歴代上16:34,36
ヨブ19:25

詩編24:1
詩編24:9-10
詩編29:2
詩編33:1-5
詩編34:3
詩編34:13-15
詩編43:3-4
詩編46:10
詩編50:14-15
詩編51:12-14
詩編51:19による
詩編68:20-21
詩編95:1,2
詩編95:1-3
詩編95:1-7
詩編95:6-7
詩編96:1-2
詩編96:1-3
詩編96:1-4
詩編98:1,3による
詩編100
詩編100:1-2
詩編100:1b-3a
詩編100:1-5
詩編100:1,2,5
詩編116:12,13
詩編118:23-24
詩編118:24
詩編124:8

イザヤ35:1-2
イザヤ40:4-5
イザヤ40:9b-10a
イザヤ40:28,31
イザヤ42:1a
イザヤ43:1
イザヤ43:18-19a
イザヤ53:6,12c
イザヤ55:1,6-7
イザヤ55:6-7
イザヤ55:6,7b
イザヤ57:15
イザヤ60:1-2
エレミヤ6:16abcd
エゼキエル36:26a,28bによる
ホセア10:12abc
ヨエル2:12-13a
ヨエル3:1
ミカ6:6,8より
ハバクク2:20
ハガイ1:8
ゼカリヤ2:14,17
ゼカリヤ8:7-8
ゼカリヤ9:9による
マラキ1:11
マラキ3:1

マタイ5:3
マタイ5:9
マタイ6:33a
マタイ7:7-8
マタイ8:11
マタイ11:28
マタイ16:24
マタイ19:14bcd
マタイ21:9b
マタイ24:44
マタイ28:5b-6b
マタイ28:18-20
マルコ1:15
マルコ2:17bc
ルカ2:10b-11
ルカ3:4b-6
ルカ10:20
ヨハネ1:14
ヨハネ3:16
ヨハネ4:23
ヨハネ4:23-24
ヨハネ4:24
ヨハネ6:35
ヨハネ6:51ab
ヨハネ6:51
ヨハネ8:12
ヨハネ10:9
ヨハネ10:11
ヨハネ10:14,15b
ヨハネ11:25
ヨハネ12:24
ヨハネ14:6
ヨハネ14:26
ヨハネ16:13a
ヨハネ16:33bc
ヨハネ20:21-22

使徒1:8
使徒2:17ab,21
使徒3:6c
使徒16:31bc
ローマ5:5
ローマ5:5-6
ローマ12:1
ローマ13:12
1コリント10:13bc
1コリント13:13-14:1a
1コリント15:54b-55
2コリント5:17
2コリント9:10
ガラテヤ3:28
エフェソ3:12
エフェソ4:22-24
エフェソ5:9-11
エフェソ5:14
エフェソ5:14cde
フィリピ4:6-7
コロサイ3:16
コロサイ4:2
1テモテ1:15
2テモテ3:16-17
2テモテ4:1-2
テトス2:11
ヘブライ4:14-16
ヘブライ12:14
ヘブライ13:7
ヘブライ13:15
ヤコブ1:12
ヤコブ4:8
1ペトロ2:3-4a
1ペトロ2:9-10
1ペトロ3:9
1ペトロ3:10-11
1ペトロ3:18a
1ペトロ5:6
1ペトロ5:7
2ペトロ1:5-7
1ヨハネ3:5
1ヨハネ3:16による
1ヨハネ3:16-18
1ヨハネ4:9
ユダ21
黙示録2:7
黙示録2:10de
黙示録3:8
黙示録3:18-19
黙示録3:20
黙示録19:5
黙示録19:5b
黙示録21:5
黙示録22:20



タグ:礼拝式文

招詞のリスト3 [礼拝]

■日本キリスト改革派の式文

『日本基督改革派教会式文』(1984年)(リンクはpdf)招詞の例として記されている個所:

詩編95:1-7
詩編96:1-4
詩編100:1-5
ヨハネ4:23-24
黙示録19:5


■PC(USA)

PC(USA)とCumberland Presbyterian Churchの"Book Of Common Worship" (Westminster/John Knox Press, 1993)で、主日礼拝式文The Service for the Lord's Dayの一番最初の"Call to Worship"の中の"Sentences of Scripture"の部分(p.48-50)に挙げられている聖書箇所:

詩編124:8
詩編118:24
詩編95:1,2
詩編116:12,13
詩編34:3
詩編96:1,2
詩編100:1,2,5
ミカ6:6,8より
マラキ1:11
詩編24:1
(その他、教会暦に沿った個所などがたくさん別記されている)


■RCA

RCAの1987年の"Order of Worship"の"Votum"(詩編124:8)の次の"Sentences"に挙げられている聖書箇所:

詩編95:6-7
詩編33:1-5
詩編43:3-4
詩編96:1-3
詩編100
出エジ15:2
イザヤ55:1,6-7
ゼカリヤ8:7-8
ヨハネ4:24

(日本語に訳されたものは、アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、キリスト新聞社、2003年。)



タグ:礼拝式文

招詞のリスト2 [礼拝]

■カンバーランド長老キリスト教会

『神の民の礼拝 カンバーランド長老キリスト教会礼拝書』(一麦出版社、2007年)で招詞として挙げられている個所は、式文中に記されている詩編95:6-7と、追加として後ろにまとめられている81個所がある。

追加分の中には、「教会暦と行事に沿った招詞」と「主題に沿った招詞」も含まれている。

これら82の招詞個所を聖書の順に記すと次のようになる。

(新約からたくさん選ばれているのが特徴的)

出エジ20:8
申命記6:4-5
歴代上16:34,36
詩編34:13-15
詩編50:14-15
詩編95:6-7
詩編100:1b-3a
詩編124:8
イザヤ40:28,31
イザヤ53:6,12c
イザヤ55:6-7
イザヤ60:1-2
エレミヤ6:16abcd
ホセア10:12abc
ハガイ1:8
ゼカリヤ2:14,17

マタイ5:3
マタイ5:9
マタイ6:33a
マタイ7:7-8
マタイ8:11
マタイ19:14bcd
マタイ24:44
マタイ28:5b-6b
マタイ28:18-20
マルコ2:17bc
ルカ2:10b-11
ルカ3:4b-6
ルカ10:20
ヨハネ1:14
ヨハネ4:23-24
ヨハネ6:35
ヨハネ6:51ab
ヨハネ6:51
ヨハネ8:12
ヨハネ10:9
ヨハネ10:11
ヨハネ10:14,15b
ヨハネ11:25
ヨハネ14:6
ヨハネ14:26
ヨハネ16:33bc
ヨハネ20:21-22
使徒1:8
使徒2:17ab,21
使徒3:6c
使徒16:31bc
ローマ5:5-6
1コリント10:13bc
1コリント13:13-14:1a
2コリント9:10
エフェソ3:12
エフェソ4:22-24
エフェソ5:9-11
エフェソ5:14cde
フィリピ4:6-7
コロサイ3:16
コロサイ4:2
2テモテ3:16-17
2テモテ4:1-2
テトス2:11
ヘブライ4:14-16
ヘブライ12:14
ヘブライ13:7
ヘブライ13:15
ヤコブ1:12
1ペトロ2:3-4a
1ペトロ2:9-10
1ペトロ3:9
1ペトロ3:10-11
1ペトロ5:6
1ペトロ5:7
2ペトロ1:5-7
1ヨハネ3:5
1ヨハネ3:16-18
1ヨハネ4:9
ユダ21
黙示録2:7
黙示録2:10de
黙示録3:18-19
黙示録3:20
黙示録19:5b



タグ:礼拝式文

招詞のリスト1 [礼拝]

■日本基督教団の式文

日本基督教団信仰職制委員会編『日本基督教団式文(試用版)主日礼拝式・結婚式・葬儀諸式』(日本基督教団出版局、2006年)は、「主日礼拝式A」の招詞の部分で、『讃美歌21』96-1に招詞の例があるとしつつ、詩編95:1-3を記している。

ただし、詩編95:1-3は『讃美歌21』93-1では挙げられていない。

『讃美歌21』93-1には、特定の教会暦のものも含めて53例が挙げられている。

そこで、これらに詩編95:1-3を加えた54の招詞個所を、聖書の順に記すと次のようになる。


創世記1:1,3
ヨシュア1:5
ヨブ19:25
詩編24:9-10
詩編29:2
詩編46:10
詩編51:12-14
詩編51:19による
詩編68:20-21
詩編95:1-3
詩編96:1-2
詩編98:1,3による
詩編100:1-2
詩編118:23-24
詩編124:8
イザヤ35:1-2
イザヤ40:4-5
イザヤ40:9b-10a
イザヤ42:1a
イザヤ43:1
イザヤ43:18-19a
イザヤ55:6,7b
イザヤ57:15
イザヤ60:1-2
エゼキエル36:26a,28bによる
ヨエル2:12-13a
ヨエル3:1
ハバクク2:20
ゼカリヤ9:9による
マラキ3:1

マタイ11:28
マタイ16:24
マタイ21:9b
マルコ1:15
ヨハネ3:16
ヨハネ4:23
ヨハネ12:24
ヨハネ16:13a
使徒1:8
ローマ5:5
ローマ12:1
ローマ13:12
1コリント15:54b-55
2コリント5:17
ガラテヤ3:28
エフェソ5:14
1テモテ1:15
テトス2:11
ヤコブ4:8
1ペトロ3:18a
1ヨハネ3:16による
黙示録3:8
黙示録21:5
黙示録22:20



タグ:礼拝式文

『憲法の想像力』と聖書 [読書メモ]

奥平康弘『憲法の想像力』.jpg奥平康弘『憲法の想像力』、日本評論社、2003年。

さまざまな雑誌や新聞などに発表・掲載された、『憲法の眼』(悠々社、1998年)以来の論考・随想集。1995年~2002年7月までの『法学セミナー』、『書斎の窓』、『法律時報』や朝日新聞の記事などから選択された19編を、書き下ろしの「法と想像力――なぜ「想像力」か」をプロローグにして収録。


奥平康弘は、1929.5.19 - 2015.1.26。


だいたい引用しつつも、私なりに文章を整理して再構成、また、漢字表記などを改めた。


憲法の「想像力」について
たとえば「死刑は廃止すべきだ」という現状変革的な考えには、「想像力」を働かせなければならない。既存の制度の存在理由に、「反省的」(reflective)な契機をともないながら「想像力」を働かせること自体、並々ならぬエネルギーがいる。

「想像力」をかもし出し、誘い、それへの同調の輪を広げてゆくのには、理論作業だけではとても無理である。「想像力」は、認識した諸事実を積み重ねて有無を言わさぬ形で論証する種類の精神作用であるよりも、より多く感性に訴え、そのレベルから納得へと迫ってゆく心の働きだからである。
(p.4-5)

テクストの実践としての憲法
どんな成文憲法も、現実の社会関係に適用するためにあるのであり、そして適用するためには現実のコンテクストと憲法上のテクストと睨み合わせながら解釈しなければならない。つまり、テクストとしての憲法とは別にプラクティスに基づく憲法(あるいはプラクティスとしての憲法)があるのであって、この意味で憲法とは、解釈と実践を通して現実のコンテクストに適合的なものとして鋳直されたものである。
(p.75-76)

憲法は世代を越えた"未完のプロジェクト"
したがって、「成文憲法としての日本国憲法は、それを起草制定した者たちが属する世代と、その憲法を解釈し自分たちのために活かそうとする現代の人びとの世代とのあいだに取りかわされる高い感度を要する共同作業がもとめられる、世代を越えたプロジェクトなのである。」
(p.40、85)

憲法は実践を通して選びとったもの
そうすると、文書に過ぎない成文憲法を人間の営為・実践の中でどう生かすかが重要である。憲法というものは、実定的なるものとして日々解釈され適用される。その意味で常に「選び直されてきている」。憲法はいかなる意味でも「押しつけられ」たものではなく、市民が日々の実践を通じて「選びとったもの」である。
(p.27、66)

表現の自由について、シフリン(Steven H. Shiffrin)という憲法学者の説の紹介として、
「表現の自由なるものは、19世紀中葉以降の詩人R.W.エマソンやウォルト・ホイットマンなど個人主義的・反抗的・反権威主義的な人たちに象徴されるような性格のロマンティックな傾向を持つ者たちにこそ保障されるべき・・・。こういった人たちの言説は、反体制的・革新的・創造的であって、少数派であるがゆえに、政府や社会によって抑圧されるのが常である。けれども、こうした思潮こそが、社会に活力を与え、、人々を生き生きとさせ、民主主義を推し進めるものなのであって、そうだから、こういった傾向の意見表明を自由闊達におこなわせるためにこそ、表現の自由の憲法保障はあるのだ」(p.22-23)

ハンセン病患者の処遇に関してあげている文献:
藤野豊『「いのち」の近代史』、かもがわ出版、2001年。
小畑清剛『法の道徳性(下)』、勁草書房、2002年。
(p.12)

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


感 想

憲法が常に解釈され、選び直されていくという点は、聖書が決して固定化したテキストではなく、生きた御言葉として解き明かされていくものであり、66の文書を正典として受け取るのも所与のこととして機械的に過去から受け取るのではなく、その歴史の中で現代のわたしたちも確かにこれらこそ神の言葉だとして常に受け取り直されていくことと似ているなあ。



タグ:憲法・人権

植村正久の著作を読める全集(まとめ) [書籍紹介・リスト]

植村正久の著作を収録している主な全集・大系の、収録著作調査のまとめ。


『植村全集』や『植村正久著作集』は、自治体の図書館や一般の大学の図書館にはほとんど所蔵されていません。

でも、少しでも植村の著作にあたることができるようにと、調べました。


斎藤勇編、『植村正久文集』(岩波文庫)、岩波書店、1939年。
http://suno.blog.so-net.ne.jp/2015-01-07

内村鑑三、『日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學』、講談社、1964年。
http://suno.blog.so-net.ne.jp/2015-01-09

武田清子編、『現代日本思想大系6 キリスト教』、筑摩書房、1964年。
http://suno.blog.so-net.ne.jp/2015-01-08

武田清子、吉田久一編、『明治文學全集46 新島襄 植村正久 清澤滿之 綱島梁川 集』、筑摩書房、1977年。
http://suno.blog.so-net.ne.jp/2015-01-18

松本三之助編、『近代日本思想大系31 明治思想集Ⅱ』、筑摩書房、1977年。
『近代日本キリスト教文学全集10』、教文館、1978年。
藪禎子、吉田正信、出原隆俊編、『新日本古典文学大系 明治編26 キリスト者評論集』、岩波書店、2002年。
以上3つはまとめてhttp://suno.blog.so-net.ne.jp/2015-02-15



植村正久を収録している大系・全集(その他) [書籍紹介・リスト]

松本三之助編、『近代日本思想大系31 明治思想集Ⅱ』、筑摩書房、1977年。

植村のは次の6本を収録:

「政治主義に関する管見」
「帝国議会の開設」
「政治上の徳義」
「愛国、輿論、及び新聞紙」
「日清戦争を精神問題とせよ」
「福沢先生を弔す」


『近代日本キリスト教文学全集10』、教文館、1978年。

植村のは次の3本を収録:

「詩人論」
「馬琴小説の神髄」
「黒谷の上人」

山形和美の解説あり。

もうひとつの解説、佐古純一郎「「文学界」の評論家たちを中心に」には、植村正久への言及はあまりない様子。


藪禎子、吉田正信、出原隆俊編、『新日本古典文学大系 明治編26 キリスト者評論集』、岩波書店、2002年。

植村の他、巌本善治、徳富蘇峰、北村透谷、内村鑑三の社会評論、及び、山路愛山「現代日本教会史論」を収録。

かなづかいなど底本を忠実に再現、注も、脚注と巻末の補注があって充実している。

植村のは次のものを収録:

「欧洲の文学 其二 トルストイ伯」
「欧州の文学 其三 トーマス、カアライル 上」
「欧州の文学 其四 トーマス、カアライル 下」
「日本の基督教文学」(上、中、下)
「自然界の予言者ウオルズウオルス」(其一、其二)」

これらはみな『植村正久著作集』(新教出版社)に入っているが、「現代表記に全面的に改変されていて、初出の形からは遠い。」とのこと。岩波文庫の『植村正久全集』も本文校訂としては中途半端とのこと。

植村正久についての解説は、藪禎子「精神の地平を拓く――植村正久・巌本善治」(p.595-572)。

なお、同じシリーズの『新日本古典文学大系 明治編12 新体詩 聖書 讃美歌集』(岩波書店、2001)に、植村正久、奥野昌綱、松山高吉編『新撰讃美歌』(明治23年12月)が収録されている(校注と解説は下山孃子)。ただし、楽譜は19曲のみ。



タグ:植村正久

明治文學全集46の植村正久 [書籍紹介・リスト]

武田清子、吉田久一編、『明治文學全集46 新島襄 植村正久 清澤滿之 綱島梁川 集』、筑摩書房、1977年。

これに収録されている植村正久の著作。
(旧漢字はパソコンで出すのがめんどくさいので新漢字の部分あり)

-----ここから-----

福音道志流部
真理一斑
今日の宗教論及び徳育論

〔キリスト論論争〕
 福音同盟會と大挙傳道
 海老名弾正君に答ふ
 海老名氏の公開状に就て
 挑戦者の退却
 海老名弾正氏の説を読む
 海老名弾正氏に與ふ
 海老名弾正氏の告白を紹介す
 彼我相違の點を明かにす
 基督教思想の潮流
 基督論を先にすべし
 基督と其の事業
 宮川經輝氏の基督論
 新人記者の答へを読む

〔人物論〕
 カルヴィンの第四百回誕生日
 ジョン ノックスの人物及び其事業
 黒谷の上人
 ジェムス、バラ氏
 眞正なる自由

-----ここまで-----

「黒谷の上人」とは法然の通称。「眞正なる自由」は片岡健吉の追悼会での言葉。



巻末の「研究・解題・年譜・参考文献」の中に、

石原謙「志の宗教」(『植村正久全集』の完成の際の講演を記者が記したもののようだ。『福音新報』第1894号、昭和7年1月14日に収録。)

植村正久の部分の「解題」は武田清子。武田清子『植村正久――その思想史的考察』(教文館、2001)に収録されている。

年譜は武田清子、岡田典夫編。かなり詳しい。

参考文献も武田清子、岡田典夫編で、富士見町教会の月報「路の光」に掲載されたものまで含み、相当網羅されている。



[付記]
筑摩書房の『明治文學全集』(全99巻+別巻総索引)は、2013年初めに「特別限定復刊」された。刊行開始(1965年)から半世紀ぶりとのこと。→筑摩書房の『明治文學全集』のページ
(2015.01.20)


タグ:植村正久

日本現代文學全集・講談社版14 [書籍紹介・リスト]

内村鑑三、『日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學』、講談社、1964。

編集は、伊藤整、亀井勝一郎、中村光夫、平野謙、山本健吉。

奥付には著者として内村鑑三しか記されていないが、内村鑑三集、植村正久集、新島襄集の三部から成る。


巻末にあるのは、

亀井勝一郎によるわずか6ページの「作品解説」、

大内三郎による「内村鑑三 キリスト教文學入門」と書いてありつつ、中身は内村鑑三と植村正久と新島襄の紹介(pp.410-419)

三者それぞれの年譜と参考文献。


1980年の増補改訂版があるのか?

なお、「豪華版」の『日本現代文学全集14』(1977年)は別シリーズ(北原白秋他)なので注意。


◆植村正久集の部分の目次

最初に、植村直筆の文字が付されている(p.208)
「主のめぐみ恆々朝の鮮なるごとし」(かなあ?) 「一千百十四年四月六日 植村正久」

以下、全部で52編を収録。


福音道志流部


(文学論)
今の文學
文學上の理想主義に付て一言す
基督教文學と佛教文學
宗教と文學
基督教との新聞雑誌及び其の記者
日本基督教の文學
同情ある基督教文學の必要
文藝界の好傾向

(西洋の文學)
詩人ブラウニング
ブラウニングの詩『カルシヽの書翰』
ブラウニングの宗教
畎畝の詩人ロベルト・ボルンズ
自然界の豫言者ウォルズウォルス
詩宗テニソン
テニソンと其の詩

(時論)
無主義の世界、無信の世界
實際と理想
不敬罪と基督教
宗教上の観察
基督教徒の社会問題
信用は進歩幸福の源なり
『武士道』

(人物評論)
福澤先生の諸行無常
王陽明の「立志」
新島襄
黒谷の上人

(主張)
日本評論の発行
福音週報の発刊に付き一言す
福音週報
福音新報
基督教の日本に對する使命
基督教と武士道
世界の日本
保守的反動と進歩の機縁
日本の文明
三種の愛國心
文明の相違――國家の生存
武士的家庭と基督教的家庭
吾らの社会問題
日本主義(?)
社会問題と基督教徒
日本の教育と基督教
日本人の短所
現代思想の缺點
大學の獨立
日本教育の缺點
他界心
日本に於る基督教の活動

(キリスト教)
基督と其の事業
傳道何の爲ぞ
國民は基督教を要する乎


巻末に、植村の年譜(鵜沼裕子作成、大内三郎閲)、植村の参考文献(鵜沼裕子編集、大内三郎閲)あり。



タグ:植村正久

筑摩書房『現代日本思想大系6 キリスト教』 [書籍紹介・リスト]

武田清子編、『現代日本思想大系6 キリスト教』、筑摩書房、1964、405頁。


奥付の編者略歴には、「武田清子(本姓 長(チョウ)」と記されている。


解説 武田清子「地の塩――キリスト教と近代日本の形成」(pp.7-58)


Ⅰ 日本の精神的伝統とキリスト教

小崎弘道「政教新論」(3~6、9章の抄録)
植村正久「黒谷の上人」
新渡戸稲造「武士道――日本の魂」(矢内原忠雄訳による1~5章と17章の抄録)


Ⅱ 福音の把握・人間の考察

植村正久「われらの信仰」
高倉徳太郎「福音的キリスト教の特質」(『福音的基督教』の第五講)
高倉徳太郎「自己を徹して恩寵へ」
石原謙「キリスト者の自我追求――高倉徳太郎の場合」(『福音と世界』1964年3月号の「高倉徳太郎論――自我追求の姿勢と課題」に加筆改題して収録。後に『石原謙著作集 第10巻』に収録。 →「石原謙著作集第10巻」の目次のページへ
波多野精一「時と永遠」(第7章の一部を抄録)


Ⅲ 社会的現実への対決

村井知至「社会主義とキリスト教」(『社会主義』の第9章)
吉野作造「デモクラシーとキリスト教」
賀川豊彦「労働者の自由」(『自由組合論』の第2編)
矢内原忠雄「マルクス主義とキリスト教」(序論の1~3と本論の1のみの抄録)
矢内原忠雄「国家の理想」(1937年9月。戦後『日本の傷を医す者』に収録)


Ⅳ 文化創造の精神

高倉徳太郎「キリスト教と文明の精神」
吉満義彦「文化と宗教の理念」(前半のみの抄録)
矢内原忠雄「日本精神への反省」(岩波新書『日本精神と平和国家』の中の第一部)
大塚久雄「アジアの文化とキリスト教――ヴェーバーの「儒教とピュウリタニズム」をめぐって」(『思想史の方法と対象』に収録された「東西文化の交流における宗教社会学の意義」を加筆訂正改題して収録)




タグ:植村正久

斎藤勇編『植村正久文集』 [書籍紹介・リスト]

植村正久文集(岩波文庫)第2刷(右)と第3刷(左)斎藤勇編、『植村正久文集』(岩波文庫2069-2070、青(33)-116-1)、岩波書店。

1939年第1刷
1983年第2刷
1995年第3刷(1995年春のリクエスト復刊)。

たぶん、1995年以降、復刊していない。


ちなみに、植村正久は 1858.1.15~1925.1.8 なので、2015年1月8日は植村没後ちょうど90年。


収録されている文章は以下の通り

-----ここから-----

1.宗教思想家評論
重厚の人ルウテル
カルヴィンの第四百囘誕生日
エフ・デヰ・マオリスについて(ヰは小書き)
黒谷の上人

2.時評
愛國、輿論、新聞紙
日本の基督教文學
支那日本の相違なる點
武人たる神學者
福澤先生を弔す
美服せる罪悪
最近死去せる名流
基督に於て死にし實業家

3.西洋文學論
トルストイ伯
トマス・カアライル
自然界の豫言者ウォルズウォルス
テニソンと其の詩
杜鵑一聲――ピッパの歌

4.譯詞
田舎鍛冶
白屋の土曜の夕
み惠ある光よ

5.雑
書翰三通
任職滿三十年記念會に於て
自叙傳(英文から邦譯)

-----ここまで-----

「エフ・デヰ・マオリス」はF.D.モーリスのこと。

「愛國、輿論、新聞紙」の冒頭には、「愛國とは何ぞ。・・・愛國の眞意は、國民を愛するに在り・・・。」とあり、「國民」に強調の傍印が付されている。そして、自国の過去をいたずらに愛重したり、その美粋を保つことではなく・・・というようなことが書かれている。

「武人たる神學者」は世良田亮の死去に寄せた追悼文。

「福澤先生」とはもちろん福澤諭吉

「美服せる罪悪」は星亨(植村の文章では「享」)という政治家の暗殺事件について。

「最近死去せる名流」は板垣退助と和田垣謙三。その次の「實業家」は6代目森村市左衛門(ノリタケカンパニーやTOTO、日本碍子の前身となる日本陶器合名会社を設立)。

「ウォルズウォルス」はもちろんワーズワース(あるいはワーズワスとも表記される)。

「杜鵑」は「ほととぎす」。「杜鵑一聲」の文章は、ブラウニングの『ピッパ通過す』の詩に寄せて。

「田舎鍛冶」には、ロングフェローの詩を「散文に譯して家庭の諭言となす」との添え書きがある。

「白屋の土曜の夕」の「白屋」には「くさのや」のルビ。Burnsの"Cotter's Saturday Night"の大意を訳出したもの。

「み惠ある光よ」は『讃美歌』(1954年版)の288「たえなる道しるべの光よ」の翻訳と解説。ジョン・ヘンリー・ニューマンのこの詞は、故郷を想うとかのロマンチックな内容ではなく、世に大飛躍をなそうと青年が抑えきれぬ志を持って門出をするときのような歌だと語る。

書翰三通は、長女澄江宛、アメリカ留学中の三女環宛、そして船中より季野婦人に宛てたもの。


あとがきの齋藤勇「植村正久先生の文學的寄與」は、『神学と教会』第2巻第1号(長崎書店、1935)に収録されたものに加筆したもの。

表紙や奥付では「斎藤」だが「編者序」とあとがきでは「齋藤」。

さいとう・たけし、1887.2.3-1982.7.4。


2014年の没後年数など [その他]

2014年の没後年数などに関する記事のまとめなど


2014年は、

  パネンベルク死去(2014.9.5)  →パネンベルクと「歴史の神学」

  梶原寿死去(2014.5.6)  →キング牧師の重要な演説と手紙  →キング牧師の伝記

  カーレ没後50年  →BHK、BHS、BHQ

  フォン・ゾーデン没後100年  →フォン・ゾーデン逝去100年

  蛭沼寿雄生誕100年  →フォン・ゾーデン逝去100年

  アイルトン・セナ没後20年  →アイルトン・セナの墓碑銘


その他、(何か書こうかと思ったけれど、その余裕がなかった)

  辻宣道没後20年

  マックス・ヴェーバー生誕150年

  ジャン・カルヴァン没後450年

  日本基督教団信仰告白制定60年

などであった。


(こういうことをきっかけに、関連の本を読みたい。でも、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み直す暇はなかった。いや、読み直そうなんて思わなかったけど。。。。。)


私の手帳にメモしてある今年の物故者

  今橋朗 2014.1.27死去 81歳

  まどみちお(本名:石田道雄) 2014.2.28死去 104歳

  井上洋治 2014.3.8死去 86歳

  梶原寿 2014.5.6死去 81歳

  佐古純一郎 2014.5.6死去 95歳

  岩村信二 2014.7.25死去 94歳

  三浦光世 2014.10.30死去 90歳

  ヨゼフ・ピタウ 2014.12.26死去 86歳


このブログの各記事に付けたタグの一覧

伝道宣隊キョウカイジャー [教会形成]

『キリスト新聞』連載の「伝道宣隊キョウカイジャー」より、メモしておきたい言葉。

前に進めば必ず批判され、攻撃される。・・・「ファリサイ」クリスチャンが石を投げてくるんだよ。ふん、しょうがねえさ、いろいろ事情があるんだろうからよ。  でも気にするな。打ち返すな、ましてこちらから石を投げるなんて絶対にNGだぜ。・・・涼しい顔して全部避けろ。大して球威もないさ。
(2014.7.12、キョウカイブラック)

そうか、大して球威がないものか。でも、1週間、1ヶ月と痛みが続くこともあるのだが。。。。。


教会は1人が10人分の奉仕をするよりも、10人で1人分の奉仕をするほうが大事
(2014.10.25、キョウカイグリーンが伝道セミナーで聞いて衝撃を受けた言葉)

私も衝撃を受けました。


ハラハラしても、失敗しても、任せてみる。・・・わたしだってきっと神からそんな思いで牧師職を任されている。・・・だから、ハラハラ、気を遣いながらも任せる輪を広げていく。それこそが教会の姿なのだ・・・。
(2014.10.25、キョウカイグリーン)

この世の社会では全く愛想をつかれてしまってもおかしくないような失敗続きで「使えない」と判断してしまうような場合でも、教会には、世にはなき「任せる輪」がある。


相手の大切にしているもの、宗教、信仰、信条がどういうものであれ、決して悪く言ったり、見下したりしないようにし、相手の想いを尊重しよう・・・。
(2014.11.1、キョウカイイエロー)



あれは完全に「牧師とはこうあるべき」というモラルハラスメントだった。
(2014.12.25号、キョウカイレッド)

あれは「モラルハラスメント」に入るのか。



この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。