SSブログ

ヘルマン、クライバー『聖書ガイドブック』 [書籍紹介・リスト]

S.ヘルマン、W.クライバー(泉治典、山本尚子訳)、『聖書ガイドブック――聖書全巻の成立と内容』、教文館、2000年、268頁、2000円+税。


この二人のコンビで書かれたものの邦訳に、『よくわかるイスラエル史』(樋口進訳、教文館、2003年)がある。


目 次

「神の言葉としての聖書」(エドゥアルト・ローゼ) pp.7-44

「旧約聖書」(ジークフリート・ヘルマン) pp.45-169

「旧約聖書外典」(ジークフリート・ヘルマン) pp.171-215

「新約聖書」(ヴァルター・クライバー) pp.217-261


特 徴
・原著はルター聖書に従っている。

・そのため外典もあるが、新共同訳聖書の続編に入っているエズラ記(ギリシア語)とエズラ記(ラテン語)はない。

・モーセ五書は各書ごとではなく、まとめてわずか10頁。そのくせ、JだEだPだDだと言った話をしている。

・12小預言書は各書ごとに取り上げている(それぞれ1~2ページ程度であるが)。

・新約は全部で50ページにも満たない。

・テサロニケは1と2を合わせて1ページちょっと。

・牧会書簡もまとめて1ページ。


結 論
・各書ごとの概説としては、『はじめて読む人のための聖書ガイド』(日本聖書協会、2011年)の方が圧倒的によい。

・簡単な入門的なものとしては、A.グリューン(中道基夫、萩原佳奈子訳)『聖書入門』(キリスト新聞社、2013年)がある。

・というわけで、ヘルマン、クライバーの『聖書ガイドブック』は、今のわたしの関心からは、特に見る必要はないし、教会員に薦められるものでもない。『はじめて読む人のための聖書ガイド』の方が1200円+税で安いし。

・旧約聖書の各書について解説した本のリストは、以前の記事「旧約の各書の学び」にまとめてある。




タグ:入門書

アラン・コルバン編『キリスト教の歴史』 [読書メモ]

しばらく前の4月27日に、C.リンドバーグ(木寺廉太訳)、『キリスト教史』(コンパクト・ヒストリー)(教文館、2007年)を紹介したが、今度はこれ。

Corbin『キリスト教の歴史』アラン・コルバン編(浜名優美監訳、藤本拓也、渡辺優訳)、『キリスト教の歴史――現代をよりよく理解するために』、藤原書店、2010年、534頁、4800円+税。

原著はフランス語、sous la direction de Alain Corbin, "Histoire du Christianisme: Pour mieux comprendre notre temps," 2007.

アラン・コルバン他55名のフランスの歴史研究者たちが、キリスト教史の中の約80のテーマごとに執筆を担当して、知的好奇心はあるがキリスト教を知らないフランス人向けに、大まかなキリスト教史を、どちらかというとカトリックの歴史を中心に、編んだもの。

「この共同の著作は自分の持っている知識を深めたいと思っているキリスト教徒の読者の興味を引くと思うが、それ以上に、単なる知的好奇心から、あるいは自分の身の回りの環境と他者の文化をよりよく理解するために、これまで不透明であり続けた一つの宗教の歴史を知りたいと願うすべての人の関心を引くことになるだろう。」
(「まえがき」p.24)


1項目平均6頁弱。

目次は、藤原書店のページにある。

構成は標準的で、古代、中世、近代、現代の4部構成。


第Ⅰ部
第Ⅰ部は1~5世紀。

第1章~第3章は、ナザレのイエスからパウロの伝道、ローマ帝国による迫害からテルトゥリアヌス、ローマ帝国のキリスト教国化。

第4章は「信仰を規定する」として、異端と正統、グノーシス主義とマニ教、4~5世紀の教義の形成。

第5章は「キリスト教組織の構築」として、使徒言行録以降の職制の発展、洗礼準備教育、聖餐、教会建築、週と暦、貧者への慈善活動、禁欲と修道院。

第6章は、バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリウス、クリュソストモス、ヒエロニムスと『ウルガタ』、アウグスティヌス。

第7章は、ローマ帝国内外のキリスト教の広がり。


第Ⅱ部
第Ⅱ部は中世(5~15世紀)。

「暗黒伝説でも黄金伝説でもなく」という副題のもとに、「安定化と拡大」、「肯定、異議申し立て、司牧の応答」、「救いに向けての尽力」の3つの大きなカテゴリーを立てる。

第1章「安定化と拡大」では、聖ベネディクトゥス、大グレゴリウスから、東方と西方の一致と差異、聖ベルナルドゥスとシトー会、そして、大聖堂について。

第2章では、十字軍、カタリ派(「善き人びと」とカギ括弧付きで表記)などの異端、異端審問、中世の歴史観・終末への関心、第4ラテラノ公会議、アッシジのフランチェスコ、托鉢修道会、トマス・アクイナス。

第3章「救いに向けての尽力」では、煉獄の概念、聖人崇拝・聖遺物、巡礼、聖母マリア(ノートルダム)、慈善事業の急増、聖体崇敬、ヤン・フス、神秘主義、『キリストにならいて』。


第Ⅲ部
第Ⅲ部は近代(16~18世紀)。

第1章は宗教改革で、エラスムスとルター、急進派、カルヴァン、英国国教会のわずか4項目というごく簡単な記述。

第2章は「敵対と闘争」で、イグナティウス・デ・ロヨラ、イエズス会、異端審問所の変化、典礼、ジャンセニスムなど。

第3章はアメリカ、アジア、アフリカへの宣教、キリスト教教育、トリエント公会議、ローマとジュネーヴの比較など。

第4章はバッハ、聖書批評学の誕生(「聖書考証」という訳語はないだろう)、プロテスタントの敬虔主義や大覚醒など、守護聖人、ロシア正教。


第Ⅳ部
第Ⅳ部は現代(19~20世紀)

第1章の「聖書註釈の展開と信仰の諸形態」というのはなんだかわけわからん。

第2章は、ピウス9世、レオ13世の回勅「レールム・ノヴァールム」、第2ヴァチカン公会議、自慰と避妊と産児制限に対するカトリックの見解など。

第3章は、オスマン帝国時代の東方教会、北米のプロテスタンティズム、エキュメニズムと宗教間対話など。



というわけで、特徴をまとめると、
・通史と言うよりは、項目ごとの読む事典という感じかも。

・古代と中世は割と主要な項目を取り上げている感じがする。

・中世は、主要な項目を三つに区分する観点が面白い。

・近代・現代はカトリック中心だが、かなり独特の限定された項目に絞っている感じ。

・「現代をよりよく理解するために」という副題が付いていて、バッハの項目とか産児制限に関するカトリックの見解などの項目が立てられてはいるが、特段、政治や経済、文化などの領域における現代の諸状況とキリスト教(カトリック)との関係を述べているという感じではないように思う。



というわけで、結論としては、
・日本のプロテスタントの信徒がキリスト教史を学ぶのに最初に読む本ではない。

・ある程度、勉強した後で、項目を選んで知識の隙間を埋めるのには役立つかもしれないという感じ。

・必読とか推薦とかではなく、まあ別に読まなくても良いだろう。



「愛します」と歌うワーシップソング2 [音楽]

Geoff Bullockが"The Power Of Your Love"や"Just Let Me Say"の歌詞を変えたことを紹介した前回のブログの続き。


ワーシップソングは、カリスマ運動の中で発展してきた(もちろん、ワーシップソングに影響を与えているのはそればかりではないが)。

特に、神に愛されていることよりも、神を愛しますと歌うことをやたら好むのは、神との個人的な親密さを強調するカリスマ運動の影響であろう。

たとえば、ミクタム・プレイズ&ワーシップの赤本(M赤)、青本(M青)からざっと拾ってみると:
M赤62「主よあなたを愛します」(リビングプレイズ47)
M赤69「神さま感謝します」(リビングプレイズ78)
M赤178「愛します救い主」
M赤180「愛します」
M青49「あなたの愛は」(小坂忠のとてもきれいな曲。神の愛を歌って「わたしはあなたを愛します」と結ぶ)
M青76「心を尽くし」(小坂忠のポップな曲)
M青91「ラブユーソーマッチ」(Hillsongの曲)
M青116「I Love You, Jesus――ここに愛がある――」(せっかく1ヨハネ4:10を歌っておきながら、「愛してる~」)
M青118「愛します主よ」(「愛します」の連続)
などなど。

神の愛を歌った後に「愛します」と歌っている曲もあるが、どうしても後半を繰り返すので、「愛します」の方が強調されてしまう。


(1)人間の側から神に向かって「愛します」と言うことが聖書的でないわけではない(申命記6:5、詩編116:1、マルコ12:30、1コリント16:22など)。
むしろ、マルコ12:30及びその並行箇所があるように、キリスト教信仰にとってきわめて重要である。


(2)その点で、ワーシップソングは、「主、我を愛す」ばかりでなく、「我、主を愛す」と歌うことにも強く関心を向けさせた。

もちろん、従来の讃美歌にも、『讃美歌』321、354の4節、526(聖歌601)"My Jesus, I love Thee"、第2編163などで、主を愛すと歌われていた。しかし、従来の『讃美歌』などでは、三人称的に「主を」愛すと歌われていたのに対し、ワーシップソングでは、主に対して直接「あなた」と呼び掛けている。

従来の讃美歌では畏れ多くてか、恥ずかしくてか、格式に合わなくてか、歌えなかったことを歌ってしまうのは、歌詞に文学性を全く求めないという特徴にも基づいて、ワーシップソングの一つの重要な貢献である。


(3)しかし、それでも、「わたし」が中心になることを退けて、主なる神を信仰と生活の中心とすることが軽視されてはならない。これは、自己中心よりも神中心だとしてよく語られることである。


(4)カリスマ運動やワーシップソングを好む教会が神中心を軽視するつもりはないだろうけれども、「愛します」を強調し、これを繰り返して高揚感を増していくスタイルは、やはり熱狂主義的であり、神の無条件の愛が損なわれてしまっている感が否めない。 (申命記7:8、1ヨハネ4:10)



結 論
以上のことから考えると、Geoff Bullockが歌詞を変えたのは(Geoff Bullock自身の内面的、信仰的な変化もあるだろうけれども)、「愛します」と歌うことを好む傾向に懸念すべき課題があることを示しており、このことは、カリスマ運動の中で発展してきたワーシップソングの流れのなかで、重要な意義あることである。すでに最初の歌詞で知れ渡っていることもあって、浸透しにくいだろうけれども。




「愛します」と歌うワーシップソング1 [音楽]

Geoff Bullockは、"The Power Of Your Love"や"Just Let Me Say"、"This Kingdom"などの作者として知られている、オーストラリアのワーシップ・シンガー・ソングライター。

日本語では、
"The Power Of Your Love"は、シティプレイズ1「パワー オブ ユア ラブ」(1998年)の13曲目「パワー オブ ユア ラブ」。

"Just Let Me Say"は、シティプレイズ2「ランド オブ ライジング サン」(2000年)の6曲目「尽きせぬ愛をあなたに」。

"This Kingdom"は、シティプレイズ2「ランド オブ ライジング サン」(2000年)の4曲目「御国はイエスの中に」。


これらのうち、"The Power Of Your Love"と"Just Let Me Say"について、Geoff Bullockは、2004年に、歌詞を変えたバージョンを発表した。

もとは"Lord, I come to You"だったところを"Lord, You come to me"と歌う。


もとは"Just let me say how much I love you"だったところを"Just let me say how much You love me"と歌う。



(1)、(2)、 (4)は、SoundClickのGeoff Bullockのページで聴ける。

また、(4)はYouTubeにGeoff Bullockのライブ映像あり。

なお、"Just Let Me Say"のalternate lyricsも、"The Power Of Your Love"のVersion2も、2008年のアルバム"Geoff Bullock"に収録されている(SoundClickとは別バージョン?)。



このことについて、Geoff Bullock自身の発言がないかと探してみたところ、見つけたのが、救世軍オーストラリア東地区の"Creative Ministry" 2010年7月号のp.6-8のインタビュー記事より
The miracle of the Gospel is the love that God shows for us. It’s not just a nice cuddly love, it’s a dramatic love. And so I’ve changed that around to ‘just let me say how much you love me.'”




リンドバーグ『キリスト教史』 [読書メモ]

リンドバーグ『キリスト教史』コンパクトヒストリーC.リンドバーグ(木寺廉太訳)、『キリスト教史』(コンパクト・ヒストリー)、教文館、2007年(原著2006年)、297+35頁、2000円+税。

わずか300ページ弱でキリスト教の歴史全体をざっと、しかし要所要所を押さえながら、見通す。初心者向けではなく、伝統とはとか教理とはといった議論を挟みつつ、また、敬虔主義と啓蒙主義についてまるまる1章を割いて語るなどから、欧米の教養人向けという感じ。


目 次

第1章 記憶すべき責任――キリスト教史学方法論序説

第2章 祈りの法は信仰の法

第3章 兄弟喧嘩――異端信仰、正統信仰、公会議

第4章 天上の国――アウグスティヌスによる聖書の宗教とヘレニズムの総合

第5章 中世キリスト教の展開

第6章 知解を求める信仰――アンセルムス、アベラルドゥス、初期スコラ学

第7章 中世教会

第8章 十六世紀の宗教改革

第9章 敬虔主義と啓蒙主義

第10章 挑戦と応答――十九世紀の教会

第11章 第一次世界大戦以降のキリスト教会

補遺――キリスト教の歴史記述
pp.271~280。古代、中世、近代という時代区分をめぐって。


用語解説

読書の手引
おそらくFurther Readingで、ほとんど英語圏のもの(邦訳のあるものは邦題等も記されているが)。


索引
日本語だけでなく英語表記も添えてあって親切。




読んでみて、わたしなりのメモ。

●伝統と信仰
「伝統とは死んだ者の生きた信仰のことであり、伝統主義とは生きている者の死んだ信仰のことである。」
(ペリカン(鈴木浩訳)『キリスト教の伝統――教理発展の歴史 第1巻 公同的伝統の出現(100-600年)』教文館、2006年、45頁からの引用)
(p.20)


●記念によって過去を現在化する伝統
イエスが死の前夜に弟子たちとなさった食事は、「わたしの記念として(憶えつつ)」なされ続ける。この「記念して行うこと」は、そのひな形を出エジプトの記念としての過越祭の中にもっている。すべての参加者が、伝えられたものを記念することによって出来事の同時代人となるように、過去の出来事が現在化される。伝統とは、過去に固定されず、過去を現在化することによって新たな未来に対して意義をもつものである。
(p.21)


●信仰告白の歴史的相対性
「諸信仰告白の形態は、・・・特定の時代の言語・概念・文化を表し、当時の教会のもっとも強い関心事であった問題や論点も表していた。・・・それ故、教会が信じ教え告白することは、無時間的な真実の集成ではなくて、教会の確信の歴史的な表現である。」
(pp.41~42)


●歴史の中で繰り返されるドナトゥス主義
ドナトゥス主義は、聖職者の道徳的な面での聖性に強く関心をもった運動だったので、同様な考え方は教会史の中で、グレゴリウス改革(11世紀)、宗教改革急進派(16世紀)、近代のカリスマ運動のような信仰復興運動との関わりにおいて、絶えず現れてきた。
(p.79)


●シュペーナーの敬虔主義と万人祭司性
シュペーナーは、敬虔な人々の養成をとおして教会を改革しようとした。なかんずく彼は、万人祭司性の復活と教会における信徒の活動の自由とを求めた。信徒は共同の聖書研究のために牧師と一緒に集まる機会をもつべきであり、また、彼らは説教と牧会の客体ではなく、キリスト教的実践に携わる主体となるべきである。そのために、信徒が聖書全体を瞑想することが奨励された。
(p.200あたりのことをだいぶ言い換えた)


●敬虔主義と啓蒙主義
啓蒙主義は、敬虔主義が強調したいくつかの点を受け継いだ。すなわち、個人の経験に根ざした宗教への人間中心的な態度、より良い未来を志向する態度、教育を通して教え込まれうる道徳性への関心である。
(p.207)


●バルメン宣言とシュトゥットガルト宣言
「バルメン宣言は教会とその信仰告白のアイデンティティにとって記憶と歴史がいかに重要であるかを証言した。バルメン宣言の主要な起草者であるバルトは、宣言本文の明白な特徴をユダヤ人と共有しなかったことをのちに後悔した。」
(p.254)


「バルメン告白は教会と国家の対決と政治的抑圧の領域におけるひな型的な信仰の宣言であり続けている。その告白は南アフリカでのアパルトヘイトへの反対を示す神学的分岐点となった「カイロス文書」(the Kairos Document)(1985年)にも、アパルトヘイトを非難した「改革派教会世界連盟」や「ルーテル世界連盟」にも影響を及ぼした。
(p.255)


「戦後すぐに、ドイツ福音主義教会会議は、「シュトゥットガルト宣言」(Stuttgarter Schuldbekenntnis、1945年10月)において次のように認めた。「私たちは永年の間、イエス・キリストの御名において、ナチズムという恐ろしい形で現れた霊と戦ってきた。しかし、私たちはもっと大胆に告白せず、もっと真実に祈らず、もっと喜んで信じず、もっと激しく愛さなかったことに対して、自らを非難する」。
(p.256-257)


●資本主義か共産主義か(ダレス vs. フロマートカ)
世界教会協議会の第1回総会(1948年、アムステルダム)で、ジョン・フォスター・ダレス(アメリカの長老派の代議員でのちに合衆国国務長官になった)は共産主義を世界平和への最大の障害だと評し、ヨゼフ・フロマートカ(チェコ人神学者)は教会と西欧文明が代表してきた多くの社会的趨勢を具現する一勢力として共産主義を共感を持って理解するように訴えた。総会は、どんな文明も神の御言葉の徹底した裁きを免れえないことを主張して、資本主義と共産主義のどちらかが唯一の有効な選択肢だという仮定を明白に否定した。
(p.263)




山我哲雄『キリスト教入門』 [書籍紹介・リスト]

山我哲雄『キリスト教入門』山我哲雄『キリスト教入門』(岩波ジュニア文庫792)、岩波書店、2014年、11+236+6頁、860円+税。



特 徴

・教養書として、ユダヤ教との関係、歴史上のナザレのイエスについて、キリスト教の成立と東西分裂まで、キリスト教の教派について(特に、カトリックと正教会)、そして、宗教改革とプロテスタント教会について。

・聖書入門的なことや、信仰内容、礼拝の形などについては、必要に応じて触れられるだけで、まとまった仕方では述べられていない。

・ユダヤ教との違いを、受け継いだものと受け継がなかったものに分けて端的にまとめているのは、分かりやすい。

・ジュニア向けの本で、しかも「キリスト教」という宗教の入門というタイトルで、 史的イエス研究の観点でのイエス像を語る のは、はたして適切だろうか?

・4~6章で、 東方正教会とローマ・カトリックの相違 を、歴史を踏まえてポイントを押さえることができるのが、この本の大きな特徴。

・英国教会の複雑な成立の経緯を実に簡潔に分かりやすく記しているが、その他のプロテスタント各派の相違はおおざっぱすぎなのはまあ、仕方がないか。



内容紹介

第1章 ユダヤ教とキリスト教

キリスト教がユダヤ教から受け継いだものとして、 唯一神信仰、契約思想、メシア思想、終末論 の四点を挙げる。

キリスト教がユダヤ教から受け継がなかったものとして、選民思想と律法至上主義 の二つを挙げる。


第2章 ナザレのイエス

信仰を持たない一般の人向けの教養書ということで、信仰の立場からではなく、歴史上の人物として「ナザレのイエス」を研究する学問分野があるよということで、その視点でイエスの生涯をたどる。


第3章 キリスト教の成立

イエスの復活と、贖罪としてのイエスの死の理解、罪の観念の変化など、エルサレム初代教会の成立、パウロの回心と信仰義認論、異邦人伝道など。


第4章 キリスト教の発展――キリスト教の西と東――

ローマによるキリスト教迫害と公認の歴史、キリスト論や三位一体論の発展と公会議、ローマ帝国の東西分裂後、東と西のそれぞれで発展したことによる東方教会と西方教会の相違など。


第5章 ローマ・カトリック教会

ローマ・カトリックのヒエラルキー、七つのサクラメント、煉獄、聖母マリア崇敬、守護聖人、修道会などの特徴、第二バチカン公会議、日本伝来と影響など。


第6章 東方正教会

東方正教会の組織と現況、神品(聖職位階制度)、七つの機密、正教会独特の用語や特徴、ロシア革命からベルリンの壁崩壊とロシア正教、日本の正教会についてなど。


第7章 宗教改革とプロテスタント教会

ルターと宗教改革の三大原理(聖書のみ、信仰のみ、万人祭司説)、ルター派の現在、スイス、フランスの宗教改革、長老制、予定説と資本主義の成立の関係、英国教会成立の経緯と世界各地の聖公会、ピューリタン諸派(長老派、会衆派、バプテスト派、クエーカー派)、ピューリタン革命、ジョン・ウェスレーとメソジスト教会、救世軍、その他、日本のプロテスタント教会(横浜バンド・熊本バンド・札幌バンドから日本基督教団の現在まで)。


おわりに キリスト教と現代

ファンダメンタリズムと福音派、聖霊派(ペンテコステ派)、キリスト教系の新宗教(モルモン教、エホバの証人、統一教会)、エキュメニズム運動など。



Nettletonきょうまで守られ [音楽]

聖歌292「きょうまでまもられ」として知られている歌について。

しばらく前の葬儀で、故人の愛唱賛美歌ということで歌った。

この聖歌の曲と歌詞について、ちょっと込み入ったところがあったので、まとめておく。


1.曲について

曲は、Asahel Nettleton作曲のチューンネームNETTLETON(1825年)として知られている。

ところが、『新生讃美歌』(日本バプテスト連盟、2009)の563番には、
Wyeth's Repository of Sacred Music, Part Second, 1813

とある。いったいこれは何だろうか?


http://www.hymnary.org/tune/nettletonによると、

From William J. Reynolds, Companion to Baptist Hymnal (1976): "Nettleton first appeared as a two-part tune in John Wyeth's Repository of Sacred Music, Part Second (1813, p. 112), where it was named Hallelujah. In the Index it is identified as a new tune, and no composer's name is given. The tune has been attributed to some to Asahel Nettleton (1783-1844), a well-known evangelist of the early nineteenth century, who compiled Village Hymns (1825). However, this compilation contained no music, and there is no evidence that Nettleton wrote any tunes during his life . . . It is not known where the tune name first appeared or who was responsible for it." (pp. 53-54)

The Hymnal Companion to the Lutheran Book of Worship (1981) also notes George Pullen Jackson's observation that the tune is "one of a group related to the folk melody 'Go tell Aunt Tabby (Aunt Rhody, Aunt Nancy, etc.) her old grey goose is dead.'" (p. 519)


というわけで、このメロディーは、1813年にJohn Wyethが編纂した"Repository of Sacred Music"というものの中に、作曲者名が記されずに掲載されたのが最初のようだ。

その後、1825年にAsahel Nettleton編纂の"Village Hymns"に登場する。ところが、この讃美歌集は詞のみであるので、いつからこのメロディがNettletonと呼ばれるようになったは不明ということのようだ。


2.原詞について

原詞は英語で書かれ、Robert Robinsonによる"Come, Thou Fount of Every Blessing"(1758年)。

http://www.hymnary.org/text/come_thou_fount_of_every_blessingによると、この詞について、

In 1752, a young Robert Robinson attended an evangelical meeting to heckle the believers and make fun of the proceedings. Instead, he listened in awe to the words of the great preacher George Whitefield, and in 1755, at the age of twenty, Robinson responded to the call he felt three years earlier and became a Christian. Another three years later, when preparing a sermon for his church in Norfolk, England, he penned the words that have become one of the church’s most-loved hymns: “Come, thou fount of every blessing, tune my heart to sing thy grace.”


歌詞は、いくつか細かな相違のあるものが出回っている。

The original hymn includes five verses, but most modern versions use only the first three. There are a few common word changes in different versions. In some texts, instead of “Here I find my greatest treasure,” (Psalter Hymnal) the first line of verse two reads “Here I raise mine Ebenezer,” a reference to 1 Samuel 7:12, in which Samuel sets up a stone and names it Ebenezer meaning “The Lord has helped us” (Episcopal Hymnal, Presbyterian Hymnal, Baptist Hymnal, Methodist Hymnal). As well, the last line of the second stanza can be read “Interposed his precious blood” or “bought me with his precious blood.” The two verbs signify different metaphors of the atonement of Christ.



3.日本語詞について

(1)『聖歌』(1958年)と『聖歌 総合版』(2002年)

『聖歌』273「いのちのいずみに」は中田羽後訳。これは『聖歌 総合版』の250。

『聖歌』292「きょうまでまもられ」は笹尾鉄三郎の作詞(1897年)(訳詞ではない)。これは『聖歌 総合版』の273。

というわけで、中田羽後による訳詞のものと、笹尾鉄三郎が詞を付けたものとがある。

しかも、273という番号が『聖歌』と『聖歌 総合版』でかぶっており、ややこしい。


(2)その他の讃美歌集

『新聖歌』(2001年)は、笹尾鉄三郎の「きょうまでまもられ」のみを採用、171番。

『新生讃美歌』(2003年)563「すべての恵みの」は、©2003日本バプテスト連盟 の新たな訳詞。

『教会福音讃美歌』(2012年)には収録されていない。


SDAの『希望の讃美歌』にもあるそうだが、持っていないので不明。


4.YouTubeで聞く"Come, Thou Fount of Every Blessing"厳選3つ

CCMの大御所Amy Grantの2002年のアルバム"Legacy...Hymns & Faith"に入っているもの

モルモンのヒスパニック系三人姉妹のグループElenyiとピアノ

アメリカのCCMシンガー、フェルナンド・オルテガFernando Ortega



マルティン・ルター(岩波新書) [読書メモ]

徳善義和『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』.JPG徳善義和『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』(岩波新書1372)、岩波書店、2012年、183頁、720円+税。

これまでは、日本人による、簡便で、読みやすく確かな評伝は、清水書院の人と思想シリーズの『ルター』しかなかったが、ついに、現代の日本におけるルター研究の第一人者によるルター評伝の決定版が出た。



読んでみて、わたしなりのメモ。

「神の義」における「行為者の属格」用法
「神は「義(正しさ)」を、イエス・キリストというかたちで、罪深き人間への「贈り物」として与える。その結果、「義」はそれを贈られた人間の所有するものとなり、人間は救われる。」
(p.39-40)


十字架の神学
「ハイデルベルク討論」(1518年)において掲げられた「神学的命題は、次の四つをもってルターの「十字架の神学」の核心を示している点で重要である。
一、律法とそれにもとづく人間の行いによっては、人間は救われないこと。
二、罪に墜ちた後の人間の自由意志とは名ばかりであって、これによるかぎり、人間は罪を犯すほかはないこと。
三、神の恵みを得るには、人間は自己自身に徹底的に絶望するしかないこと。
四、神の救いの啓示は、キリストの十字架によってのみ与えられること。」
(p.59-60)


悔い改めと福音
「イエスが「悔い改めなさい」と言ったのは、自分たち人間に日々時々刻々、悔い改めを望んでいるからだ・・・。心の中の本当の悔い改めがなければ、どれほど一生懸命に罪の償いを果たしても無駄である。・・・教会の行いは、ただ神の御心にのみ添うものであって、人間の我欲や利得とは一切関わりをもたないもののはずである。「教会の宝」とはひとえに、聖書の中に示されるイエス・キリストのことばと働き、すなわち福音ではないのか。」
(p.67-68)


破門の大教勅
1521年1月3日、
「教皇からついに破門の大教勅が発せられた。この破門の大教勅は、二一世紀の現代に至るも、いまだ解かれていない。」
(p.83)


ヨーロッパの近代とルター
「ヨーロッパの近代は、思想的には、個人の人格、主体性、信念や信条を尊重することを基本に発展したが、ルターのこの発言〔1521年のウォルムス議会での喚問に対する答え〕はその先駆けとなった・・・。」
(p.85)


「大胆に罪を犯しなさい」の文脈
〔メランヒトンへの手紙の中で〕
「あなたが恵みの説教者であれば、作り物の恵みではなく、本物の恵みを説教しなさい。もしそれが本物の恵みであれば、作り物の罪ではなく本物の罪を負いなさい。神は作り物の罪人を救われはしない。罪人でありなさい。大胆に罪を犯しなさい。しかし、もっと大胆にキリストを信じ、喜びなさい。」
 ともすると、「大胆に罪を犯しなさい」という言葉だけが独り歩きし、誤解されることがあるが、これは決して罪を犯すことを奨めているわけではない。私たち人間は罪を犯さざるをえない存在である。それは認めなくてはならない。しかし、それ以上に、キリストが共にいることの救いに感謝すべきであるという趣旨を言っている。」
(p.94)


民衆の魂の救いのために
「九五箇条の提題でルターが聖職者や神学者たちに問いかけ、訴えようとしていたことは、単なる教会批判ではなく、民衆の魂の救いのためには何が必要かということであった。」
(p.68)

「ルターが指摘し、批判したのは、教会組織や聖職者たちの堕落や腐敗そのものではない。・・・ルターは教会の教えが民衆を誤った信仰に導いていることに強い憤りを感じていた。」
(p.121-122)


リフォームではなくリフォーメイション
「リフォーメイションを日本語にするならば、やや生硬な表現だが、「再形成化」という言葉がふさわしいのではないか・・・。すなわち、それまでキリスト教的一体世界であった西欧が、ルターの始めた運動をきっかけにして細分化し、キリスト教世界であることに変わりないものの、従来のあり方とはまったく別の、多様なキリスト教世界に再形成された、ということである。」
(p.116-117)

「ルターの宗教改革が、たんに教会の堕落を正すのを目的としていたなら、それは文字どおり「改革(リフォーム)」であり、「リフォーメイション」と呼ばれることはなかったであろう。それが「改革」を超えて、歴史を画するものにまでなったのは、人びとの信仰のあり方を根本的に変えるものだったからである。ルターが、あらゆる苦難と困難を乗り越えて成し遂げようとしていたのは、人びとの魂を支える「信仰の再形成」だったのである。」
(p.122)


ルターは歴史上はじめて賛美歌を作った
「礼拝改革を進めるなか、ドイツ語による説教につづいてルターが導入したいと考えたのは、民衆が歌うドイツ語の賛美歌であった。中世の伝統的な聖歌ではやはり、もっぱらラテン語が使われていた。礼拝に際して歌う典礼歌や教会賛歌は形式が厳格に整えられ、教会に所属する音楽家や聖歌隊が歌うものであった。・・・ルターはそれを改め、普段つかうドイツ語で歌うことを通して、民衆を礼拝に参加させようと試みた。」
(p.141)

「民衆が歌う賛美歌は、やがて「コラール」と呼ばれるようになっていった。」
(p.143)





讃美歌21の中のマタイ受難曲 [音楽]

『讃美歌21』に入っている、バッハ『マタイ受難曲』に出てくるコラールの一覧

しばらくまえに、イースター前の期節の名称について「四旬節、受難節、レント、大斎」と言う記事を書き(2016.2.24)、そして、わたしにとってこの期節の定番である本とCDを紹介した「四旬節の定番」という記事を書いた。(2016.2.26)。

そのとき紹介したCDはバッハの『マタイ受難曲』であるが、『讃美歌21』の中にどれだけ収録されているだろうかと思って、季刊誌『礼拝と音楽』のバックナンバーを繰って調べてみた。

また、一般的に言われている曲番号と、CDに付いている小冊子(いわゆるライナーノーツ)の番号とが違っていつも困惑しているので、その点も考慮した。



『讃美歌21』の番号順。

一般的と思われる新バッハ全集(NBA)での曲番号と、
わたしが持っているリヒター指揮1958年録音アルヒーフ版CD(POCA-2006/8)の番号とを掲載した。

讃美歌21 マタイ受難曲の番号
番 号 タイトル NBA リヒターCD
87 罪なき小羊 1 1
215 心をはずませ 40 48
294
(128曲)
ひとよ、汝が罪の 29 35
295
569(曲)
見よ、十字架を
今やこの世に(曲)
10 16
37 44
310、311 血しおしたたる 15 21
17 23
44(曲) 53(曲)
54 63
62 72
313 愛するイエス 3 3
19 25
46 55
447 神のみこころは 25 31
528(詞) あなたの道を(詞) 44(詞) 53(詞)


※『讃美歌21』の87「罪なき小羊」は、第1曲の中でソプラノ・リピエーノ(児童合唱による)の部分


参考文献
・竹佐古真希「バッハコラール一覧表」、『礼拝と音楽』161号(2014年春号)、pp.20-21。

・村上茂樹「受難曲とコラール」、『礼拝と音楽』132号(2007年冬号)、pp.24-27。



マクグラス『総説 キリスト教』 [書籍紹介・リスト]

マクグラス『総説 キリスト教』.JPGアリスター・E.マクグラス(本多峰子訳)、『総説 キリスト教』、キリスト新聞社、2008年、724頁(A5判、上製)、7500円+税。

Alister E. McGrath, "Christianity: An Introduction," 原著2006年第2版からの翻訳(原著初版は1997年)。

キリスト教についてほとんど知識のない人がキリスト教信仰とキリスト教の歴史や現状について知るための手引きとして、基礎的な理解を整理した入門書。




「キリスト教は単なる一連の概念ではなく、一つの生き方である。」
(p.12)


「キリスト教内部で働く生き生きとした力は、外側から中を覗いているだけでは、理解することも、その本当の良さを知ることもできない」
(p.15)


「一冊の本だけでは決してキリスト教信仰の豊かさや多様さを十分に伝えることはできない。・・・キリスト教徒であることは、日常の生活が信仰によってある種の影響を受ける、はっきりとした生き方の問題なのだ。・・・キリスト教を理解する最も良い方法は、地元の教会や共同体でキリスト教に参加することだ」
(p.16)


第1章 ナザレのイエス

「キリスト教は決して自己完結した独立の概念体系などではない。むしろ、イエス・キリストの生と死と復活が引き起こした問に答えようとする持続的な応答なのだ。」
(p.18)


イエスの重要性
1.イエスは神を啓示し、受肉した神である。
2.イエスは救い主であり、イエスによって神との新しい関係が可能になっている。
3.イエスは贖われた生のモデルであり、キリスト教徒はキリストの似姿になるように招かれている。

ユダヤ教とキリスト教の連続性についてや、当時のユダヤ教内の諸派について簡潔に紹介している。(pp.28-37)

 イエスの意味を考えるに際して、その生涯特に死と復活という出来事と、その意味とを区別することの重要さを指摘し、「メシア」、「主」、「救い主」「神の子」、「人の子」、「神」という「キリスト論的称号」について概説する。(pp.62-78)

第2章 聖書入門

第3章 旧約聖書

第4章 新約聖書

第5章 キリスト教の信仰内容の背景
 信仰とは何か?

 神の存在証明

 キリスト教信仰の源

 「召し使い」――神学と文化の対話

 神学とは何か

第6章 キリスト教信仰の核――概要

第7章 キリスト教の歴史――略史

第8章 キリスト教――グローバルな視点で
 アフリカ、アジア、北アメリカ、南アメリカ、ヨーロッパのキリスト教の状況、教派ごとの状況(福音派は「福音伝道主義」と訳されている)

 「キリスト教――そのグローバルな関心の概説」としてキリスト教のグローバル化

 原理主義の挑戦

 イスラム教徒の緊張関係

 プロテスタント教派の不確かな未来

 西洋キリスト教の商品化(マクドナルド化:効率、算定可能性、予測可能性、管理)

 脱西洋化

 新たな「教会のあり方」の出現として、コミュニティー教会、セルチャーチ(この本では「細胞教会運動」)そして「求道者に配慮した」教会を紹介

第9章 信仰生活――生きたリアリティとしてのキリスト教との出会い
 結婚式と葬式

 クリスマスイブ礼拝の9つの聖書朗読

 礼拝とサクラメント

 教会暦

 「文化に対するキリスト教の態度――一般的考察」

 文化へのキリスト教の影響として特に、自然科学と芸術、建築、イコン、文学など



巻末に、
 キリスト教用語集、
 さらに学びたい方へ(英語圏のみの文献リスト)
 詳細な索引
あり。



結論:

値段が高いので、個人にお薦めというわけにはいかないが、教会の図書には必須。




ヨハネ福音書の注解書 [書籍紹介・リスト]

ヨハネ福音書の
  ・全体にわたって
  ・原典にあたって詳細な
  ・説教に有用な
  ・日本語で書かれた
信頼できるものは、ないのか?


ヨハネ福音書研究のアプローチは多様であり、日本人研究者を例にして言えば(1)伝承史・編集史を用いた研究(土戸清、松永希久夫)、(2)哲学的・神学的なアプローチを用いたもの(伊吹雄)、(3)グノーシスとの関連で論じていく研究(大貫隆、小林稔)などがあります。
土戸清、『ヨハネ福音書のこころと思想2』(教文館、2002年)の「あとがき」、p.309。


NTD(松田伊作訳、1975年)、現代聖書注解(鈴木脩平訳、1992年)はあるが、原典の手触りがわかるようなタイプの注解書ではない。

コンパクト聖書注解EKKのヨハネは未刊。

ブルトマン(杉原助訳、大貫隆解説)『ヨハネの福音書』(日本基督教団出版局、2005年)は、18,000円(税別)もするし、わたしにとっては説教に有用とは言えない。

最初の部分に限れば、松永希久夫やカール・バルトもあるが。

高砂民宣『栄光のキリスト』.JPG受難物語に限れば、高砂民宣、『栄光のキリスト――ヨハネによる福音書の受難物語』(大森講座25)(新教出版社、2013年、1000円+税)も考察の役に立つ。




というわけで、日本語で現在のところは次のもののみ。
伊吹雄『ヨハネ福音書注解』P1110120.JPG伊吹雄、『ヨハネ福音書注解』(全三巻)、知泉書館、Ⅰ:2004、Ⅱ:2007、Ⅲ:2009。
288+428+512=1228頁。5000+6000+7600=18,600円(税別)もするが、ブルトマンを買うよりこっち。


イエス・キリストと切り離したしかたで先在のロゴスから語るような議論を避け、「歴史内にあるわれわれにとっては、受肉しないロゴスへのアクセスは、受肉したこのイエスを除いては他にない。」(p.18)とし、したがって、「「初めに」ついて語るには「初めに・・・あった」というふうに、現在の視点から語られる」とする(p.24)。現在の場所とは、「イエス・キリストの到来によって、ここに今開かれている霊の次元であり」(p.12)、すなわち、「この「・・・あった」ということは、現在からする霊におけるアナムネーシス(想起)というものに他ならない」(p.13)。

このようにヨハネ福音書そのものの全体から捉えていく方法や、緒論的な議論をまとまった形でしていないとかなど特徴は、佐々木啓による書評、『日本の神学』No.44、2005年

しかし、なじみのある歴史的批評学的なスタイルではないので、かなり取っつきにくいかも。



大きなものではないが信頼できる注解として、『新共同訳新約聖書注解Ⅰ マタイ~使徒言行録』の中のヨハネは松永希久夫と山岡健によるもの。

あとは日本人によるものでは、「説教者のための聖書講解 合本」のヨハネ(1991)「アレテイア 釈義と黙想 合本」のヨハネ(2004)だが、やはりいろんな人が書いているので玉石混淆だし、どうやらどちらも版切れ。

『説教黙想 アレテイア』でヨハネ福音書が連載されて合本が出るのを待ちたい。

また、日本基督教団出版局から刊行予定の日本人による書き下ろしの注解書シリーズNTJのヨハネ(伊東寿泰)に期待したい。

その他、土戸清が「目下執筆中の『ヨハネ福音書注解――試訳と解釈――』」と記している(『ヨハネ福音書のこころと思想1』教文館、2001年、p.295-296)。その後、この話は出てこないが、どうなったのか?


日本語のものが以上のような状況なので、英語のものに手を出してみると、原典に当たって詳細な議論をしていて、かつ、学問的議論に終始せず説教に有用なものは、

Anchor Bible(R.E.Brown, 1966,1970)は2巻合わせて1208頁。定評あるものだが、出版年的にはそろそろ古さを感じる。なお、この著者による『解説「ヨハネの福音書・ヨハネの手紙」』(湯浅俊治監訳、田中昇訳、教友社、2008年)は、簡潔すぎ(228頁、ヨハネ福音書の部分はpp.13-157)。

BECNT(Andreas J. Köstenberger, 2004)は20+700pp.(607頁以降、文献表とindex)とやや中型の注解書の趣きで、図書館でDarrell L. Bockのルカ(すごく分厚く、中身も濃い)の隣に並んでいるとさすがに見劣りしてしまう。

ICCは、J.F.McHughによる新しいものが2009年にまず1-4章が出た(ペーパーバック版は2014年)が、その続きはまだ出ていない。

NIGTCは、Richard Bauckhamによると予告されているようだが、未刊。

WBCは、G.R. Beasley-Murrayによるもので、1999年に第2版が出たが、1987年の初版からbibliographyなどがupdateされているだけで、注解部分は同一のようなので、初版があれば第2版はいらないが、全体的に他と比べて分量が十分でない感じがする。

と言うわけで、詳細でクリティカルなものとして信頼できるのは、やはり今だに、Anchor BibleのR.E.Brown。今後のICCとNIGTCの完成に期待する。


ちなみに、土戸清が絶賛しているのは、Sacra Paginaのシリーズの中のF.J.Moloneyによるもの(1998)。「先行するヨハネ福音書研究者の最近の業績の多くを自らの研究の対話の相手として叙述をすすめ、学的に公正な判断を随所に示している。信頼に値する注解書である。」
土戸清「わたしが推薦する注解書」(『説教黙想アレテイア特別増刊号 説教者のための聖書注解書ガイド』、日本基督教団出版局、2009、p.72)


土戸清『ヨハネ福音書のこころと思想』全7巻その土戸清がヨハネ福音書を講解した、『ヨハネ福音書のこころと思想』が全7巻で出ている(教文館、2001~2005年)。説教とは言え、著者のヨハネ福音書研究の成果が余すところなく語られているので、これが現時点で、日本語で読めるヨハネ福音書の全体にわたる最良の注解と言えるかも。

書評:
関川泰寛による書評、日本基督教学会、『日本の神学』No.45、2006年。
遠藤勝信(1~3巻)、小林稔(4~7巻)による書評、日本新約学会、『新約学研究』No.34、2006年。
(土戸清『使徒言行録 現代へのメッセージ』日本基督教団出版局、2009年のあとがき、p.394でこれらの書評に言及されているが、どういうわけか、号数と刊行年が全く間違っている。)


(2017.7.5加筆修正)


四旬節の定番 [教会年間行事]

四旬節定番の本とCD

加藤常昭『黙想 十字架上の七つの言葉』.JPG1.
加藤常昭、『黙想 十字架上の七つの言葉』、教文館、2006年。

読む者も、読みながら一緒に黙想する。

家庭集会でこの時期に毎年、七言を一つずつ取り上げている。7年たったら、また最初に戻る(皆、7年前の学びは忘れている)。



西谷幸介『十字架の七つの言葉』.JPG2.
西谷幸介、『十字架の七つの言葉』、ヨルダン社、1999年初版、2000年改訂、2006年改訂3版。

この写真はヨルダン社刊のものであるが、ヨルダン社が事業を閉じて残念に思っていたら、昨年ヨベルから出てくれた。

西谷幸介『十字架の七つの言葉』改訂新版.JPG『改訂新版 十字架の七つの言葉――キリスト教信仰入門』、ヨベル、2015年。



ラーゲルクヴィスト『バラバ』.JPG3.
P. ラーゲルクヴィスト(尾崎義訳)、『バラバ』(岩波文庫赤757-1)、岩波書店、1974年。

最初は岩波現代叢書、1953年。

2013年11月15日に重版されたのが最後か?



バッハ『マタイ受難曲』リヒター(アルヒーフ).JPG4.
バッハ『マタイ受難曲』(BWV244)、カール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団、録音:1958年6~8月ミュンヘン、Archiv。

バッハのマタイ受難曲の定番。



四旬節、受難節、レント、大斎 [教会年間行事]

2016年は2月10日から3月26日まで、教会暦で、四旬節(しじゅんせつ)、受難節、レントとかいう期節(「季節」ではない)を過ごしている。
(いつを終わりの日とするかにも、いろいろあるようだが)

各教会でどの名称を使っているか、できるだけ正式なところがわかるように、その教会の文献で調査。


ハリストス正教会:大斎(おおものいみ)

別名で「四旬斎」(しじゅんさい)。

斎(ものいみ)とは、祭の準備として、食事の節制や熱心な祈祷が勧められる時のこと。

文献:ダビデ水口優明編著『正教会の手引』、日本ハリストス正教会教団全国宣教企画委員会、2004年。


カトリック:四旬節(しじゅんせつ)

文献:第二バチカン公会議『典礼憲章』109。


聖公会:大斎節(だいさいせつ)

文献:『祈祷書』、日本聖公会、1990年。


ルーテル教会:四旬節

文献:『ルーテル教会式文』第2版、2001年。


日本基督教団:四旬節

文献:『日本基督教団口語式文』。



というわけで、

四旬節
ラテン語Quadragesima(「第40の」の意、「クワドラゲシマ」と読む。こういうときは「・・・ジェシマ」ではない。)に従った伝統的な言い方。

レント
待降節をアドベントAdventと呼ぶのに対応して日本に定着したカタカナの名称。古期英語に基づく英語Lent。元来の意味は、日が長くなる春のこと。ちなみに、Adventの方は、ラテン語adventus(「到来、接近」の意)に由来した英語。

受難節
受難週や受難日とそろえた、分かりやすい通称的な言い方。

復活前節
イギリスのThe Joint Liturgical Group(JLG)の合同礼拝研究委員会が1967年に発表した"The Calendar and Lectionary"が、教会暦の区分に伝統的な言い方を採用せず、クリスマス、イースター、ペンテコステを中心に、降誕前第○○主日、とか復活前第○○主日、聖霊降臨後第○○主日などとした。

これにならって、日本基督教団の聖書日課編集委員会を中心とした研究委員会で、降誕前節、復活前節などとした。

文献:日本基督教団出版局聖書日課編集委員会編、『新しい教会暦と聖書日課――4年サイクル主日聖書日課を用いるために』、日本基督教団出版局、1999年、pp.82~86、115~116、149~150。

というわけで、復活前節という言い方は、伝統を無視してなんだか合理主義に流された言い方なので、採用するのはやめておきましょう。



結論:

イースター前の40日間(主日を除く)は、「四旬節」(しじゅんせつ)と言います。






11の使える招詞 [礼拝]

『讃美歌21』93-1やカンバーランド長老キリスト教会の『神の民の礼拝』、その他に挙げられている招詞を集めた招詞のリスト4(総集編)の中から、

神が、

わたしたちを、

礼拝に、

呼び集め招く


感じの御言葉を30箇所ピックアップ。


 申命記6:4-5
 歴代上16:36≒詩編106:48
 詩編29:1-2
 詩編33:1-3
 詩編46:11
 詩編50:14-15
 詩編95:6-7
 詩編96:1-3 ≒歴代上16:23-24
 詩編100:1b-3a
 詩編100:4-5
 イザヤ43:1
 イザヤ55:1
 イザヤ60:1
 ヨエル3:1、5a ≒使徒2:17、21
 ハバクク2:20
 ゼカリヤ2:14
 ゼカリヤ8:7-8
 マタイ7:7-8
 マタイ11:28
 ヨハネ3:16
 ヨハネ4:23
 ヨハネ6:35
 ヨハネ8:12
 ローマ12:1b
 ヤコブ4:8
 1ペトロ2:9-10
 1ペトロ3:18a
 黙示録3:20
 黙示録19:5
 黙示録21:6-7


さらに厳選して11箇所にしぼってみた。

 詩編29:1b-2
 詩編46:11
 詩編96:1-3
 詩編100:1b-3a

 イザヤ43:1def
 イザヤ60:1
 ハバクク2:20

 マタイ11:28
 ヨハネ4:23ab
 ヨハネ6:35
 ローマ12:1b


一年間、招詞聖句を一つに固定して用いる場合、たとえば、

詩編→預言書→新約

のパターンを3回繰り返し、4回目だけは 詩編→新約 とすれば、招詞の御言葉を11年周期で用いることができる。

11という素数にするのは、頌栄の讃美歌やその他との組み合わせがなるべく重ならないようにするため。



追加:
エレミヤ33:3も悪くない。



加藤隆『旧約聖書の誕生』 [読書メモ]

加藤隆、『旧約聖書の誕生』(ちくま学芸文庫 カ-30-1)、筑摩書房、2011年。
(2008年単行本の文庫化)


なお、加藤隆によるNHKテレビ「100分de名著」のテキストで、
 『旧約聖書』(2014年5月)
また、
 『集中講義 旧約聖書――「一神教」の根源を見る』(2016年1月) 
が出た。


『旧約聖書の誕生』について、せっかくざっと目を通したので、いくつかメモっておく。


●旧約聖書の中心

聖書はたいへんに複雑な書物である。旧約聖書の中心的な箇所を、無理を承知で挙げるとすると、申命記6:4「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は、唯一の主である」だ。
p.42-43あたり。


●文学ジャンルについて

「エジプト脱出という緊迫した状況の中で、祭りの儀式のあり方についてのかなり詳しい指示が行われているのは奇妙なことではないだろうか。・・・除酵祭とエジプト脱出の結びつきに関しては歴史的事実の報告ではなく、イスラエルがカナンに定着して以降の時期におけるイスラエル民族にとっての出エジプトの出来事の意味づけが問題になっている。つまり聖書のテキストは、表面的な体裁(過去の出来事の報告)と、実際の内容(過去の出来事についての、後の時代における意味づけ)が重なりあっていて、・・・。これはつまるところ文学ジャンルの問題だ・・・。」
p.88-89、93。

「江戸時代を背景にしたギャグ漫画に、学問的な歴史書のような歴史的正確さがないと非難しても、・・・的はずれである。同じように創世記一章の創造物語に科学的正確さがないと非難するのは、文学ジャンルの問題についての理解の欠如からの的はずれな議論である。」
p.101。

江戸時代を背景にしたギャグマンガって、いったい何?


アダムとイヴの「二人が歴史的に存在したかを問うことは、文学ジャンルについてまったく無理解だということになる。・・・すべての人間が根源的にアダムとイヴだということが示されている。」
p.159。



●聖書は環境破壊の元凶か

「環境問題は自然に対する人の科学的アプローチが展開した結果生じてきた問題である。・・・創世記一章のエピソードで人は、「神に似ている」とされている。・・・そのような「神に似た人」による「自然の支配」は、「神による自然の支配」に似たものだ・・・。創世記一章のエピソードにおける神と自然との関係は「神が自然を創造する」ということである。つまり「神は自然を創造的に支配している」。神は、少なくとも、「自分に役立つように自然を利用する」というあり方で自然にかかわっているのではない。とするならば、「神に似た人」は、「自然を創造する」というあり方で「自然を支配」すべきだ・・・、少なくとも、「人が自分に役立つように自然を利用する」ように「自然を支配する」ということにはなっていない・・・。」
p.157-158。


●聖書を理解する

「聖書には相容れない立場が示されていることから、聖書は矛盾しているとして聖書を拒否することは、聖書が理解できなかったことを意味する。」
p.171。



●愛について

「愛とは何か。・・・恋がさめても捨てないのが愛である。・・・完璧な人はいない。相手も人間であり、不完全である。・・・しかし相手を捨てない。・・・愛には人間の理解を超えるところがある。・・・愛は、人間の合理的であたりまえの態度ではない・・・。とするならば、そこには神が働いている・・・。結婚が神の制度とされたりする場合があることも、このように考えると理解が可能かもしれない。・・・結婚は神の愛を二人の関係に制度的に介入させる企てだ・・・。」
p.202-204。


「「愛している」と宣言することは、相手に価値がなくても、相手がいい加減でも、相手を捨てないと宣言しているということになってしまう・・・。したがってみだりに「君を愛している」などと言うべきではない。」
p.205。

大学の授業で毎年、これを言っているのかな(笑)。


●神は岩

「自然科学者は神は岩ではないと考え、・・・このメッセージを無視する。宗教学の専門家は、メモ帳を開いて「聖書には<神は岩>と記されている」と書き込んで、メモ帳を閉じる。・・・しかし「神は岩」という言明がそれを読む者に神との関係のあり方を迫るものとして受け取る者にとっては、この言葉は自分にとっての神とのについての呼びかけになっている。呼びかけを受け入れないと、自分は呼びかけによって拒否されることにもなってしまう。岩を尊重しない者はその岩に自分が打ち砕かれる。しかしその岩に他の者はしっかりとした足場を築く。」
p.529。

けっこう、いいこと言っています。




「神学文献大調査」更新 [その他]

わたしのWebサイト「神学文献大調査」、5年ぶりに更新しました。


『旧約聖書を学ぶ人のために』 [書籍紹介・リスト]

『旧約聖書を学ぶ人のために』世界思想社並木浩一、荒井章三編、『旧約聖書を学ぶ人のために』、世界思想社、2012年、12+338+4頁、2300円+税。

聖書学的な旧約聖書学への入門というよりも、旧約思想への入り口の紹介という感じだが、入門者でなくても有益な示唆を得ることができる。それは、編者がテーマに沿って適切な執筆者に依頼したからであろう。「旧約聖書の中心的メッセージに焦点を絞り、その歴史的、文化史的、信仰史的な文脈を重視する叙述」を目指した(「はじめに」、p.ii)

以下、執筆者とタイトル。コメントは目次の詳細の主なものだったり、私なりのキーワードのメモだったり。


Ⅰ 旧約聖書へのアプローチ――その成立・展開と風土――

荒井章三「旧約聖書とは何か」
名称、成立と区分、翻訳、キリスト教と旧約聖書など

月本昭男「旧約聖書の世界」
自然風土、歴史風土、宗教的風土



Ⅱ 旧約聖書は歴史をどう描いているか

大住雄一「民の選びの歴史」
歴史の共通理解は教育によって育てられる(申命記6:20-25)、選びの歴史(申命記7章)、カノニカル(正典的)な歴史、礼拝で共有される歴史、申命記的歴史、六書説と四書説、選びの主への排他的忠誠を徹底させるのか、それとも、被造世界全体の神との関係の回復を目指すのか、二つの歴史思想

小友聡「試練と摂理」
イサク奉献の物語(創世記22章)、過酷な試練の中で服従と信仰によって摂理を知る、ヨセフ物語(創世記45章)

関根清三「終わり・黙示・メシア――終末論の諸態と批判的展望――」
この論で課題として残された問題については、『旧約聖書の思想 24の断章』(岩波書店、1998年、改訂新版が講談社学術文庫、2005年)の19~20章で、特にアモス書に即して展開しているとのこと。



Ⅲ 旧約聖書は人間をどう見ているか

人と人との関わり

勝村弘也「男と女」、「親と子」
サムソン(士師記13-16章)、雅歌、アブサロム、箴言

佐々木哲夫「友情・兄弟」、「隣人・外国人・敵」
ダビデとヨナタン、イサクとイシュマエル、エサウとヤコブ、ルツ記の慈しみ(ヘセド)と責任


人と神との関わり

並木浩一「罪の赦しに生きる人――原初史の人間像――」
アダムとエバ、カイン、ノア

並木浩一「神に問う人――神議論的問いを深めた人々――」
アブラハム(創世記18章)、エレミヤ、ヨブ

飯謙「神を賛美する人――「詩編」――」
嘆きの歌、信頼の歌、たたえの歌、表題と構造



Ⅳ 旧約聖書は現実をどう捉えているか

山我哲雄「自然と人間」
神の被造物としての人間と自然――<神>対<人間・自然>(神の超越性、創造と秩序など)、神の似姿としての人間――<神・人間>対<自然>(人間による自然の支配について)、自然の中に現れる神の力――<人間>対<神・自然>(ヨブ記など)

鈴木佳秀「契約と法」
律法とモーセ、十戒、契約の書、申命記における国家と法、神聖法典

大島力「預言者の現実批判」
預言者による王国批判と宗教批判

鈴木佳秀「戦争と平和――聖戦――」
聖戦、聖絶、シャローム



Ⅴ 旧約聖書研究史・文献紹介

山我哲雄「旧約聖書研究史・文献紹介」
2段組34ページに渡り、研究史・研究動向を紹介しつつ主要文献を紹介、注解書も紹介している。これだけでも牧師必携。




タグ:旧約聖書

最近の旧約聖書の学びの本 [書籍紹介・リスト]

前回、旧約の各書ごとの学びのために、ポイントや特徴などを整理する上で有用な本をリストアップした。

その中で比較的最近のものは、

・『新版 総説 旧約聖書』、日本基督教団出版局、2007年。
(内容は専門的なので、信徒向けではない。執筆者によってしょうもない部分もあるが、一応、牧師必携。)

・浅見定雄、『改訂新版 旧約聖書に強くなる本』、日本基督教団出版局、2010。
(横書きで新共同訳対応になった改訂新版。信徒必携。

・『はじめて読む人のための聖書ガイド』、日本聖書協会、2011。
(旧約から新約まで66書それぞれについて、特徴、執筆目的、背景、構成を、一書につき2~3ページで解説。これも信徒におすすめ。)

・C.ヴェスターマン(左近淑、大野恵正訳)、『聖書の基礎知識 旧約篇』、日本基督教団出版局、2013年。
(これも、邦訳初版は1984年だが、横組み、新共同訳対応の改訂版になった。牧師必携。信徒におすすめと言うほどではないかなあ。初版の縦組みしか知らないけど。)

であった。


その他の最近のもので、、旧約の各文書ごとになっておらず、あるいはすべての文書を網羅してなく、あるいは簡単すぎ、あるいは専門的過ぎて、今回の目的のためには特に見る必要ないもの:


[日本基督教団出版局]

・福万広信、『聖書』、日本基督教団出版局、2013年。
キリスト教学校の中学生向け教科書

・落合建仁、小室尚子、『聖書入門――主を畏れることは知恵の初め』日本基督教団出版局、2014年。
キリスト教学校の大学初年度の教科書


[教文館]

・W.H.シュミット(木幡藤子訳)、『旧約聖書入門』(上、下)、教文館、上:1994年、下:2003年。
「入門」とあるが専門書。上下合わせて税別8000円。ドイツの神学校の教科書。

・C.レヴィン(山我哲雄訳)、『旧約聖書――歴史・文学・宗教』、教文館、2004年。
専門的な内容を簡潔に記述したつもりのようだが、内容が凝縮されているためか、かえって初心者には分からない。索引なし。訳者による日本語文献が挙げられている点だけなんとか良心的だが。

・W. H.シュミット、W.ティール、R.ハンハルト(大串肇訳)、『コンパクト旧約聖書入門』、教文館、2009年。
「入門」とあるが、一般向けではない。これからほんとに専門的に学ぼうとする人向け。索引がないのは致命的。文献表も原著のものを羅列しただけで見にくい。

・K.シュミート(山我哲雄訳)、『旧約聖書文学史入門』、教文館、2013年。
これも「入門」とあるが専門書。索引は充実。慣れればけっこうおもしろいので、わたしは使っている。
→全目次を紹介した2015.10.14の記事

[キリスト新聞社]

・越川弘英、『旧約聖書の学び』、キリスト新聞社、2014年。
キリスト教学校の大学初年度の教科書。

・A.グリューン(中道基夫、萩原佳奈子訳)、『聖書入門』、キリスト新聞社、2013年。
学問的な視点ではなく、聖書への親しみを持つように、聖書の内容を紹介した感じ。惜しいのは、新約はほぼ各文書ごとなのに、旧約は、「すべての始まり」、「アブラハム」、「ヤコブ」、「ヨセフと兄弟」、「モーセ」、「約束の地」、「ダビデとソロモン」・・・といった感じ。ヨブ記~雅歌、三大預言書は文書ごとだが。1項目につき2~4頁ほどなので、ほんとに超入門という感じ。初心者におすすめ

・石黒則年、『旧約聖書あと一歩』、キリスト新聞社、2011年。
旧約聖書の読みどころを取り上げた信徒向けあるいは伝道用の軽い筆致のエッセー、1項目3~4頁の全50講。でも学問的な知識にも多少踏み込んだ解説がある。聖書の学びの会で使えるかも


[新教出版社]

・大野惠正、『旧約聖書入門 1 現代に語りかける原初の物語』、新教出版社、2013年。
全5巻の予定だがまだ1のみ。1は、聖書全体と旧約聖書の成立から原初史の部分についての全15講。2は、アブラハムから創世記の最後までの全23講で、2015.11.24発売予定。


[その他の出版社]

・加藤隆、『旧約聖書の誕生』(ちくま学芸文庫 カ30-1)、筑摩書房、2011年。
最初は2008年の単行本。聖書について全く知識のない知識人向けの講義録という感じの語り口の読み物風の概説的入門書で、緒論的ではなく通論的。できる限り実際の聖書を読んで聖書に親しんでもらおうと、聖書の引用文も多い(新共同訳を元にしつつ、敬語表現などを除き、部分的に独自の訳語に変更したのかなという感じ)。巻末にモーセ五書のJEPD資料表あり。注や文献表はないのでやっぱり読み物。聖書箇所索引はあり。
→読書メモの形で紹介した2016.2.21の記事

・並木浩一、荒井章三編、『旧約聖書を学ぶ人のために』、世界思想社、2012年。
聖書学の入門ではなく、旧約思想の紹介という感じだが、入門者でなくても有益な示唆を得ることができる。特に、山我哲雄による「旧約聖書研究史・文献紹介」は、感涙もので、研究史の要点とともに注解書の紹介もあり、牧師必携
→目次と執筆者、主な内容を紹介した2015.10.29の記事

・大頭眞一、『聖書は物語る――一年12回で聖書を読む本』、ヨベル、2013年。『聖書はさらに物語る』、2015年。
旧約から新約まで。それぞれ12講ずつ、要所要所を選んで。中高生向け教科書の大人版といった感じ。さらに間を埋めて、全部を聖書の順に並べ直して合本にしてくれたら、いいかも。『さらに物語る』のほうには、平野克己が推薦の言葉を書いている。



旧約の各書の学び [書籍紹介・リスト]

旧約聖書を
・通読などで、聖書の順に読み進めていく上で、
・各書ごとに
・ポイントや特徴などを
・専門的にではないが、ある程度学問的に裏付けられた知識として、
・信徒と共に

を学ぶための本。


1.まず、小型の辞典で各書の名の項目を調べる。

・秋山憲兄監修、『新共同訳聖書辞典』、新教出版社、2001。

・木田献一、和田幹男監修、『小型版新共同訳聖書辞典』キリスト新聞社、1997。

・木田献一、山内眞監修、『新共同訳聖書事典』、日本基督教団出版局、2004。


2.次に、各書ごとの解説の付いた聖書を見る。

・フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』、サンパウロ、2011。

・旧約聖書翻訳委員会訳、『旧約聖書』(Ⅰ~Ⅳ)、岩波書店。


3.簡便な解説書を読む。次の二つは信徒も必携。

浅見定雄、『改訂新版 旧約聖書に強くなる本』、日本基督教団出版局、2010。
(横書きで新共同訳対応になった改訂新版)

『はじめて読む人のための聖書ガイド』、日本聖書協会、2011。
(旧約から新約まで66書それぞれについて、特徴、執筆目的、背景、構成を、一書につき2~3ページで解説)

最低限、ここまではやる。

以上の7つの文献は、七つ道具というほどではないが、フランシスコ会訳聖書と岩波訳聖書は教会の図書に入れておくとして、その他は必携の書物として各自というか、一家に一冊ずつというか、揃えておくことを教会員にも勧めたい。


以下は、余力と時間しだい。


4.その他、余力に応じて、見ておくもの。

・C.ヴェスターマン(左近淑、大野恵正訳)、『聖書の基礎知識 旧約篇』、日本基督教団出版局、2013年。
(これも、邦訳初版は1984年だが、横組み、新共同訳対応の改訂版になった。)

・荒井献、石田友雄編、『旧約新約聖書大辞典』、教文館、1989。


5.簡潔な注解書の緒論部分を読む。

・『新共同訳旧約聖書略解』、日本基督教団出版局。

・『新共同訳旧約聖書注解』(1~3)、日本基督教団出版局。


6.より専門的な部分をきちんと押さえるには、必ずしも各書ごとではないが、目を通す基本は次のもの。

・『総説 旧約聖書』、日本基督教団出版局、1984年。

・『新版 総説 旧約聖書』、日本基督教団出版局、2007年。

さらにその先は、個別の注解書の緒論部分や旧約文学史の専門書。


[追 記]
はじめ、4.のところにS.ヘルマン、W.クライバー(泉治典、山本尚子訳)『聖書ガイドブック――聖書全巻の成立と内容』(教文館、2000年)を一応挙げておき、「持っていないので不明だが」と記しておいた。その後、図書館で見てみたらたいしたことないので、削除した。『はじめて読む人のための聖書ガイド』があれば十分なのと、より初心者向けにはA.グリューン(中道基夫、萩原佳奈子訳)『聖書入門』(キリスト新聞社、2013年)の方がふさわしい。




シュミート『旧約聖書文学史入門』 [書籍紹介・リスト]

シュミート『旧約聖書文学史入門』K.シュミート(山我哲雄訳)、『旧約聖書文学史入門』、教文館、2013年、429頁、4500円+税。

Konrad Schmid, "Literaturgeschichte des Alten Testaments: Eine Einführung," Wissenschaftliche Buchgesellschaft: Darmstadt, 2008.


著者について

コンラート・シュミート(1965.10.23-)

「ドイツ語圏にはSchmid, Schmidt, Schmittなど、さまざまなスペルの「シュミット」という苗字があり、その発音はドイツの標準語(ホーホドイッチュ)では区別なく「シュミット」であるが、・・・スイスでは「シュミート」に近い発音で呼ぶそうである。特に旧約学界では、「シュミット」という姓の研究者が多い・・・。そこで、本人の承諾を受けたうえで、日本語表記は「コンラート・シュミート」とした。」
「訳者あとがき」p.370。



内容について

タイトルに「入門」とあるが、初心者向けでは全くなく、専門家向け。

牧師必携というほどのものでもない。が、著者問題とか資料とかの細かな議論をするような緒論ではなく、各書の神学をあーだこーだと議論しているわけでもなく、テキストそのものの特徴をきちんと押さえていくので、索引を利用して各文書に関する箇所を調べていけば、けっこう、おもしろい。

正典の順ではなく、また、各文書を一冊の書として扱うのでもなく、各文書を各時代の層に分解し、歴史の順に沿って、互いに影響を及ぼし合いながら、各時代に書き継がれ、絶えず成長発展していく過程を総合的にたどる。

特に、テキスト間の相互関係やそれによるテキストの発展に注目して叙述されている。

一つのテキストをある特定の時代に位置づけるとしても、口伝や文書の形での前史や、文学として成立した以降の後史があることを排除するものではない。ただ、例えばモーセ・出エジプト物語が最初に文学として成立したのは新アッシリア時代であったと想定できるので、この時代のところで述べられている。(「まえがき」p.8)

時代区分は、アッシリア以前、アッシリア時代、バビロニア時代、ペルシア時代・・・という、イスラエルを支配することで影響を与えた大国によって区分されている。


六つの時代に分け、それぞれに、第1章 歴史的諸背景、第2章 神学史的特徴づけ、第3章 伝承諸領域という三つの章を置く。すなわち、歴史的背景と神学史的な特徴を述べた後、その時代に形成されたと考えられる伝承について、物語的伝承とか預言者的伝承とか法的伝承といった種類ごとに記す。


たぶん原著でゲシュペルトになっている強調部分は、太字かつアンダーラインになっていて見やすい。


巻末に膨大な専門的文献表あり。ほとんどが英語、ドイツ語圏のもの。邦訳文献リストが1ページだけあり(p.414)。有用な聖書索引、人名索引あり。日本人では、浅野も関根も左近もないが、大住が挙げられている(p.165、398)。


目 次

A 旧約聖書文学史の課題、歴史、諸問題
第1章 なぜ旧約聖書文学史なのか
  • 第1節 課題設定
  • 第2節 研究史
  • 第3節 神学的位置づけ
  • 第4節 古代イスラエルの文学の一端としての旧約聖書
  • 第5節 「ヘブライ語聖書」と「旧約聖書」
  • 第6節 旧約聖書の「原テキスト」の問題
  • 第7節 旧約学内部における旧約聖書文学史の位置
  • 第8節 歴史的再構成の基盤、諸条件、可能性、限界
  • 第9節 旧約学の比較的最近の研究諸傾向と旧約聖書文学史に対するその帰結

第2章 古代イスラエルにおける言語、文字、書物、文書作成
  • 第1節 言語と文字
  • 第2節 文書作成の素材的諸局面
  • 第3節 文書作成および受容の文学社会学的諸局面
  • 第4節 著者たちと編集者たち
  • 第5節 旧約聖書の文学の同時代の読者たち
  • 第6節 様式史的展開の諸要素

第3章 進め方と叙述法
  • 第1節 大国群の文化圧力と旧約聖書文学史の時代区分
  • 第2節 歴史的文脈化
  • 第3節 神学史的特徴づけ
  • 第4節 伝承諸領域の様式史的、伝統史的、社会史的区分
  • 第5節 旧約聖書のテキスト群や諸文書の間の「水平」と「垂直」の相互関係
  • 第6節 聖書内在的な受容としての編集
  • 第7節 伝承と記憶


B アッシリア到来以前のシリア・パレスチナ小国家世界を枠組とした古代イスラエル文学の諸端緒(前10−8世紀)
第1章 歴史的諸背景
第2章 神学史的特徴づけ
第3章 伝承諸領域
  • 第1節 祭儀的諸伝承と知恵的諸伝承
    • (a)北王国の諸聖所の文学
    • (b)エルサレムの神殿祭儀の文学
    • (c)知恵的伝承
  • 第2節 年代記的伝承と物語的伝承
    • (a)北王国の諸伝承
    • (b)エルサレムの宮廷文学


C アッシリア時代の文学(前8-7世紀)
第1章 歴史的諸背景
第2章 神学史的特徴づけ
第3章 伝承諸領域
  • 第1節 祭儀的、知恵的諸伝承
    • (a)詩編
    • (b)比較的古い知恵文学
  • 第2節 物語的諸伝承
    • (a)申命記主義的な『列王記』の諸端緒
    • (b)士師物語群(士3-9章)
    • (c)モーセ・出エジプト物語
    • (d)アブラハム=ロト・ツィクルス
  • 第3節 預言者的諸伝承
    • (a)ホセア書、アモス書における預言者的伝承の諸端緒
    • (b)最古のイザヤ伝承、およびそのヨシヤ時代の受容
  • 第4節 法的諸伝承
    • (a)契約の書
    • (b)申命記


D バビロニア時代の文学(前6世紀)
第1章 歴史的諸背景
第2章 神学史的特徴づけ
第3章 伝承諸領域
  • 第1節 祭儀的、知恵的諸伝承
    • (a)反詩編としての『哀歌』
    • (b)民の嘆き、および個人の詩編の集団化
  • 第2節 物語的諸伝承
    • (a)ヒゼキヤ=イザヤ物語
    • (b)サムエル記-列王記下23章に対する、列王記下24-25章による発展的加筆
    • (c)出エジプト記2章-列王記下25章の大歴史書の成立
    • (d)ヨセフ物語
    • (e)創世記の族長物語
    • (f)非祭司文書のシナイ伝承
  • 第3節 預言者的諸伝承
    • (a)エレミヤ伝承の諸端緒
    • (b)エゼキエル伝承の諸端緒
    • (c)第二イザヤ
  • 第4節 法的諸伝承
    • (a)十戒
    • (b)申命記主義的申命記


E ペルシア時代の文学(前5-4世紀)
第1章 歴史的諸背景
第2章 神学史的特徴づけ
第3章 伝承諸領域
  • 第1節 祭儀的、知恵的諸伝承
    • (a)祭司文書
    • (b)神政主義的詩編
    • (c)ヨブ記
  • 第2節 物語的諸伝承
    • (a)非祭司文書の原初史
    • (b)ダニエル伝説群(ダニエル書*1-6章)
    • (c)創世記-列王記下を範囲とする大歴史書の成立
    • (d)エズラ記-ネヘミヤ記
  • 第3節 預言者的諸伝承
    • (a)ハガイ書/ゼカリヤ書
    • (b)第二イザヤ、第三イザヤにおける発展的加筆
    • (c)エレミヤ書、エゼキエル書における発展的加筆
    • (d)「申命記主義的」な立ち帰り神学
    • (e)古典的預言の聖書的な構築
  • 第4節 法的諸伝承
    • (a)神聖法典
    • (b)民数記
    • (c)トーラーの形成


F プトレマイオス朝時代の文学(前3世紀)
第1章 歴史的諸背景
第2章 神学史的特徴づけ
第3章 伝承諸領域
  • 第1節 知恵的諸伝承
    • (a)箴言1-9章
    • (b)ヨブ記28章および32-37章
    • (c)コヘレトの言葉
    • (d)「メシア的詩編集」
  • 第2節 物語的諸伝承
    • (a)歴代誌
    • (b)バラム・ペリコーペの拡張
    • (c)ダビデ伝承中のヘレニズム的要素
    • (d)エステル記
    • (e)トーラーのギリシア語訳
  • 第3節 預言者的諸伝承
    • (a)預言書における世界審判テキスト
    • (b)「大イザヤ書」(イザ1-62章)の形成
    • (c)第三イザヤにおける敬虔な者と邪悪な者
    • (d)エレミヤ書におけるディアスポラからの帰還と王国の再建
    • (e)第二ゼカリヤと第三ゼカリヤ
    • (f)イザヤ書と12預言書の編集上の同調
    • (g)ダニエル書2章と7章における世界諸帝国


G セレウコス朝時代の文学(前2世紀)
第1章 歴史的諸背景
第2章 神学史的特徴づけ
第3章 伝承諸領域
  • 第1節 祭儀的、知恵的諸伝承
    • (a)詩編の書の神政主義化と再終末論化
    • (b)シラ書、ソロモンの知恵
  • 第2節 預言者的諸伝承
    • (a)「ネビーイーム」の形成
    • (b)マカバイ時代のダニエル書
    • (c)バルク書
  • 第3節 物語的諸伝承
    • (a)物語的文書における世界時間秩序
    • (b)マカバイ記、トビト記、ユディト記、ヨベル書


H 聖典化と正典形成
第1章 「聖典」と「正典」の区別
  • 第1節 ヨセフスと第四エズラ書14章
  • 第2節 シラ書の序言、および「律法と預言者」

第2章 その歴史の枠内における旧約聖書文学の聖典化
  • 第1節 聖書の叙述
  • 第2節 宗教的テキスト-規範的テキスト-聖なる文書-正典(カノン)
  • 第3節 旧約聖書の文学史と正典史




タグ:旧約聖書

最近の山我哲雄の著作 [書籍紹介・リスト]

私もこの世界を学び始めた最初は山折哲雄と混同したが、山我哲雄(やまが・てつお)の方。

最近というのは、だいたい2011.3.11以降ということで。


『キリスト教入門』(岩波ジュニア新書792)、岩波書店、2014年。
第1章 ユダヤ教とキリスト教
第2章 ナザレのイエス
第3章 キリスト教の成立
第4章 キリスト教の発展――キリスト教の西と東
第5章 ローマ・カトリック教会
第6章 東方正教会
第7章 宗教改革とプロテスタント教会
おわりに キリスト教と現代


『一神教の起源――旧約聖書の「神」はどこから来たのか』(筑摩選書0071)、筑摩書房、2013年。
第1章 一神教とは何か
第2章 「イスラエル」という民
第3章 ヤハウェという神
第4章 初期イスラエルにおける一神教
第5章 預言者たちと一神教
第6章 申命記と一神教
第7章 王国滅亡、バビロン捕囚と一神教
第8章 「第二イザヤ」と唯一神観の誕生


『海の奇蹟――モーセ五書論集』、聖公会出版、2012年。
11論文集
「モーセ五書」の成立
失楽園物語と王権批判
ノアの呪い
アブラハムの祝福
ハガルとイシュマエル
アブラハムとアビメレク
「有りて有るもの」
「海の奇蹟」
祭司文書における供犠と浄、不浄の体系
祭司文書の歴史像
「モーセ五書」の最終形態について


・『日本の神学』53号に鈴木佳秀による書評あり。
・『基督教學』48号、北海道基督教学会(2013年)に古賀清敬による書評あり。
・『本のひろば』2013年5月号に月本昭男による書評あり。


並木浩一、荒井章三編、『旧約聖書を学ぶ人のために』、世界思想社、2012年。
この中の第4部「旧約聖書は現実をどう捉えているか」の第1章「自然と人間」、及び、第5部「旧約聖書研究史・文献紹介」を執筆。

「旧約聖書研究史・文献紹介」は2段組34ページに渡る。全体的に初学者を意図しているが、これだけでも、牧師必携であろう。

この中で、山我哲雄自身が監修者の一人に加わっている『新版 総説 旧約聖書』(日本基督教団出版局、2007年)について、「より最近の動向を踏まえたものだが、最近の旧約研究の多様性というか、悪く言えば定説不在の混乱ぶりを反映して、正直に言ってややまとまりの乏しいものになってしまっている」とのこと(p.304)。


[翻 訳]

K. シュミート、『旧約聖書文学史入門』、教文館、2013年。
 →全目次付きの紹介記事(2015.10.14のブログ)


これの前の翻訳は、オトマール・ケール『旧約聖書の象徴世界――古代オリエントの美術と「詩編」』、教文館、2010年、なんと9400円+税! 高くて買えません。。。


(2015.10.14加筆)


高齢者祝福礼拝の時期と名称 [教会年間行事]

2011年9月21日のブログで、高齢者祝福礼拝の目的や対象者などについてまとめておいたが、さらに、いつ行うかと名称について。

1.いつ行うか
キリスト教として特に決まったことはないと思うので、別に1年の中でいつでもいいのだが、国の休日で9月の第三月曜日となっているので、その近くが分かりやすい。

大概は、第三月曜日の前日の日曜日ということになろう。

ところが、その日は必ずしも第三主日というわけではなく、年によって第二主日のこともある。2014年がそうだった。次回は2025年。

毎年第三主日と思い込んでいると、忘れた頃に第二主日になるのでびっくりする。

まあ、国の休日とは関係なく、第二なら第二、第三なら第三と決めてしまってもいいかもしれない。

なお、今年2015年のようにシルバーウィークとかいう連休になったりすると、ご家族とご旅行に行かれていて、せっかくの高齢者祝福の礼拝に出席されない方が出てくるかもしれないが、それは考えてもしかたないでしょう。

2.名称をどうするか
「記念礼拝」という言い方は、過去の出来事を記念するときに使う(創立○○年記念礼拝など)。

「感謝礼拝」というのも、おかしい。高齢者に感謝するのではなく、神に感謝する。もし感謝礼拝という言葉を使うとすれば、長寿感謝礼拝か?

一番いいのは、幼児祝福式とか成人祝福とかがあるので、私の仕えている教会ではそれぞれ幼児祝福礼拝、成人祝福礼拝としているのに合わせて「高齢者祝福礼拝」がよい。

「老人祝福礼拝」はしっくりこない。「敬老祝福礼拝」は変。

ただ、幼児祝福や成人祝福は、祝福を受ける対象の者が明確であるのに対し、高齢者祝福の場合、対象者を明確にするには年齢で線引きをしなければならない。

年齢での線引きに関しては、2011年9月21日のブログ記事を参照

対象者を明確にしなくても「高齢者祝福礼拝」とするか、それとも少し観点を変えた名称にするか。

一案として、高齢の方々を敬う側がいなければ敬老にならないという観点から、「高齢者を覚える礼拝」という名称はどうだろうか。

3.参考資料
・中村公一「高齢者への祝福」、『礼拝と音楽』140号、2009年冬号、pp.36-37。「敬老祝福式」の招き、聖書箇所、祈りなどの実践例が紹介されている。

・『神の民の礼拝 カンバーランド長老キリスト教会礼拝書』、一麦出版社、2007年のp.166に、「長老祝福の祈り」が1例のみあり。

・日本基督教団の『口語式文』や『式文試用版』にはない。



タグ:祝福礼拝

教会の○○周年記念誌の編集 [教会形成]

『教会アーカイブズ入門』いのちのことば社東京基督教大学教会アーカイブズ研究会編(山口陽一、鈴江英一、新井浩文、杉浦秀典、阿部伊作著)、『教会アーカイブズ入門――記録の保存と教会史編纂の手引き』、いのちのことば社、2010年、143頁、1300円+税。


この中の

第2章、鈴江英一「3年あれば、教会史はできる――札幌元町教会40年史を例に」

をもとに、柏教会での経験も加えながら、記念誌(年史)の作り方のまとめ。

というか、柏教会の記念誌作成に当たって、この本に大いに触発された。


1.教会史を製作する意義
①神が教会に下してくださった恵みの確認
②教会の歴史と活動の共有
③なされた伝道の成果の証し
④これからの教会形成や宣教方向を考えるための材料と機会の提供と励まし

2.資料整備なくして教会史なし
執筆に取りかかりたいというはやる気持ちを抑えて、編集の入り口の土台をまず固める。
まして、複数の執筆者による共同作業では、資料の全容を明らかにし、情報を共有することが不可欠。

(私のメモ: 記念誌編纂のための資料: 教会総会議事録、教会総会資料、役員会議事録、月報、週報、配布物綴り、会計の帳簿等、委員会の記録や集会記録など)


3.出典を明らかにしておく
1枚のカードに一つの事項を記録したカード(カード型データベース)を作成する。
こうすることで、教会史にいちいち出典を掲げなくても、元資料に立ち戻ることができる。

(私の意見: この本でも触れられていたかもしれないが、たとえば、ある講演会で実際になされた講演のタイトルが何であったかを知るのは難しい。毎年度の教会総会の資料は他のところから転記してきた二次的なものなので転記ミスがありうるし、役員会議事録にも実際の講演題が正確に記録されていないことがある。事前に作成して配布されたチラシに記されている講演題は仮の題かもしれないし、週報の予告もあくまで予告である。当日のレジメがあればよいが保存されていないこともある。これら全体を総合的に判断して、実際になされた講演題を推定するという作業を行わなければならない。)


4.構成の細部まで刻み込んでから執筆を始める
教会史はボリュームに限度があるはずなので、章、節、項のめやすとなるページ数が決まる。
もちろん、執筆の過程で変わってくるが、あらかじめ分量を設定しておくと、書き過ぎないよう自制が働く。

項は、さらにその細目のレベルまで分解し、そこに何を記すべきか、留意点、出典や資料の箇所を明らかにしておく。この作業を飛び越えて執筆を始めると、どこかで行き詰まることが多い。

全体や細部の構成は、執筆を進めていく中で変わっていってかまわないし、変わっていくのが当然。

5.事実を客観的に書く
資料に裏付けられたことを記す。
文章も、極力客観的な記述を心がける。
原稿は、編集委員会で全体的な統一、整合性を図り、調整する。

(私の意見: この本によると、『札幌元町教会40年史』では、「執筆者の意図を尊重しつつ」文章を調整したとの基本方針を立てたようだ。しかし、初稿の執筆者の意図が必ずしも明確でなかったり、望ましいものではない場合がある。そのような場合、委員会で十分議論して執筆すべき内容を明らかにし、担当者に書き直してもらうか、あるいは委員会で直接文章を練ることになる。その他のこととして、表現などで意見が割れる場合には、元の執筆者の表現を採用するという判断をする場合もある。)


(私の意見: このように、委員会で文章の細部まで調整するため、初稿の執筆者は、自分が執筆した文章が真っ赤に添削されることも受け入れることができる謙虚さと冷静さと客観的な視点を持ち合わせた人が望ましい。というか、そのように鍛えられる。牧師である私が書いた文章も、真っ赤に修正が入ったこともあった。)


「客観的な歴史があり得るかというのは、歴史の書き方に絶えずつきまとう問い」である。それゆえ、「資料に基づいて正確に書くことに努め、執筆者の個人的な評価や感情、感想を加えることなく執筆する」態度が重要である。

「恵みによって」とか「主の導きによって」と言った表現はしない。

6.能動態か、受動態か
能動態で書くか、受動態で書くか。

この本では、「文章の主語を明確にすること、受動態の文章は極力避けること――つまり能動態で書く――ことです」ということを各執筆者に「特にお願いした」とのことである。「たとえば或る問題を提起したのは、牧師か、役員会なのか、教会学校教師会なのか、はっきりさせておくということです」。

私の意見: ケースバイケースであるが、必ずしもそうすべきではなく、むしろ、それは記すべきではないことが多い。それは、礼拝順序の変更にしろ、新たな伝道方策の提案にしろ、行事の見直しにしろ、集会の持ち方にしろ、教会形成の重要な展開にしろ、多くの場合、最初は誰かが提起したのであろうが、取り組むべき教会の課題として役員会が審議に取り上げたのであるからである。たとえば総会での誰かの発言がきっかけで新たな動きが始まっても、その人が言い出しっぺであることが重要なのではなく、総会という主の御心を尋ねる場がきっかけとなったのである。  教会史に記される教会の歩みの主体は教会であるが、それは、すなわち、教会の中の全部門とイコールであり、教会員全員とイコールのものである。したがって、たとえば年表に記すような教会の活動は、基本的にすべて教会がその行為の主体であり、それゆえ、原則として受動態で書くべきである。


私の意見: っと書いてみたが、実際は、文章が全部受動態だったり全部能動態だったりすると、メリハリがなくなる。そこで、柏教会の記念誌では、自然と適宜使い分けることになった。箇条書きにすれば主語を省略してもおかしくならないので、「いついつから、○○するために、○○を行った。」とか、「いついつから、○○のために、○○が行われた。」言った書き方を混在させることになった。


私の意見: 箇条書きにしたのは、何よりも客観的な記述を目指したためで、文章で執筆するとどうしても接続詞などが入ったりして客観性が薄れるので、すべて箇条書きにした。



『創立60周年記念誌 柏教会この十年の歩み 2003年~2012年』こうしてできあがったのが、60周年記念誌編集委員会編、『創立60周年記念誌 柏教会この十年の歩み 2003年~2012年』、日本基督教団柏教会、2014年、A5判、205頁、印刷:シャローム印刷。である。


タグ:読書メモ

なぜセレブレーションオブラブに乗らないか? [伝道]

日本基督教団の多くの教会は、なぜ、セレブレーションオブラブのような集会に乗らないのか?

ビリー・グラハム、フランクリン・グラハム以外でも、クリストファー・サンとか、あるいはいろんなムーブメント(ずいぶん前にプロミス・キーパーズというのが流行った)、国内ではジェリコジャパンとか甲子園リバイバルミッションとかいろいろあった。最近ではラブ・ソナタとか。

もちろん、ペンテコステ・カリスマ系の集会には、そういう傾向を持った教会でないと関心を持たないし、ワーシップソングをガンガン歌っている教会でないとまったくついて行けないという集会もあろう。

説教者の神学が合わないとか、スキャンダルが報じられたり、アメリカでの政治的立ち位置が問題視されることもある。

もちろん、関わるかどうかは各個教会の判断による。
だから、日本基督教団の中にも、そういったムーブメントや集会に教会として関わったり、教会員に積極的に参加を呼び掛けたりする教会もあるだろう。

でも、別に統計を取ったわけではないが、たぶん、日本基督教団の多くの教会は、関心を持たないと思う。たとえ、その集会に特定の教派的傾向がなく、説教者にスキャンダルもなく、政治的な立ち位置も問題ないとしても。


なぜだろうか。


1.そもそも、ムーブメントに興味を持たない体質である。

やがてそのうちはやりが過ぎ去る時が来るような新しいものには振り回されないで、地道に伝道するんだという体質がある。

そういう体質なのだから、関心を持てと言われても無理である。

別にアレルギーがあるわけではないけれど、納豆はおいしいし体にいいからぜひ食べろと言われても、小さい頃から食べてきた経験がないので、無理な人には無理であるのと同じである。


2.大衆伝道に対する親和性がない。

伝道は各個教会が、あるいは信徒一人ひとりが、コツコツ行うものだという意識が強い。

また、有名な伝道者・説教者にキャーキャー言うミーハーな信仰を持っていない

まあ、賀川豊彦のころまではそういうところがあったかも知れないが。

良くいえば、人気があるからといって安易に権威付けたりしないというか、悪く言えば、頭でっかちの信仰なので、人々から褒めそやされている人がいるとハスに構えて批判したがるクセがあるというか。

そういうわけなのだから、無理に東京ドームとか連れて行かれても、何だか気疲れして帰ってくるだけ。普段礼拝をささげている教会で、静かに説教を聞くのが体に合っているのである。


3.教職制度が堅固である。

礼拝の説教者は、原則として、教団の教師か教団と宣教協約を結んでいる教会の教師に限られる。別に規則に明記されていなくても、そういうものだという意識がある。(たまには神学生が説教したり、牧師が休暇の時には信徒が説教することもあるだろうが、あくまでも例外的なこととして捉える)

そのため、他の教派の牧師を主日礼拝の説教者として呼ぶことは、教団のほとんどの教会では考えられないことだろう。(別に他の教派の牧師職を否定するわけではないし、伝道集会とかで呼ぶことなどはあり得るだろうが)

他教派の牧師に毛色の違う信仰を教えられては困るというような思いを持っている人もいるかもしれないが、そういうことでなくても、説教は教団の教師がするのが当然という教職観というか説教者観が、大衆伝道とか、超教派の伝道集会などの際にも働くことがあると思う。


夏休みにどこの教会にいくか [その他]

「牧師が休暇をいただいて、日曜日に、家族でどこの教会に行くか」問題について。

教会の敷地内に牧師館があったりすると、休暇の日曜日にうろうろしているところを信徒に見られたくないので、前日から旅行に出たり、朝早く出発したり。

しかし、小さな子どもがいる場合、なかなかそうもいかないこともある。

電車が不便な地域では、車で出かけることになる。

あらかじめ「今度そちらの教会に出席します」などと連絡しちゃうと、「じゃあ、せっかくなので説教を」などと言われて休暇にならなくなっちゃうので、連絡はしない(笑)。


ネットでいろいろ調べて、情報収集する。

1.礼拝開始時刻
これはたいがい、ホームページに書いてあるので安心。

2.こどもの礼拝出席
おとなの礼拝前の教会学校からは行ってられないので、親子室があるか、それとも、普段からおとなと子どもが一緒に礼拝している形式かなどが重要。

でも、そういった情報がホームページに書かれていないことが多い。特に親子室の有無が。

3.駐車場
これも、何台くらい止められるかの情報はほとんどない。
そのため、停めそこなうことのないように、かなり早めに到着するように、出発しなければならない。

4.説教者
せっかく礼拝に行くのだから、その教会の牧師の説教を聞きたいが、そこの教会も牧師が夏休みだったりして、信徒が説教だったりすることがある。

そういう、次の日曜日の礼拝の説教者の情報というのも重要だと感じる。ホームページでというより、ツイッターやフェイスブックで情報発信している教会は、割とそういったリアルタイム性のある情報も得られるかな。

5.教会の規模
少人数の礼拝に子連れで行くと、うちの家族だけやたら目立っちゃう。しかも子どもがぐずったり、走りまわったりして、親としては礼拝に集中できない。
(うちの教会に来ている、小さいお子様を連れた方は、いつもそうなんだなあとつくづく知ることになる)

また、子連れだと、礼拝後に「昼食もご一緒に」とか引き留められると困っちゃうことがある。

知り合いの牧師がいる教会に行くときは別として、夏休みで来ただけで、礼拝だけで失礼したいという場合は、礼拝が終わったらさっと帰りたい。

そのためには、比較的人数の多い教会がいい。

でも、平均の礼拝出席者数をホームページに記している教会は少ないんじゃないかな。


というわけで、まとめると、

教会のホームページやSNSなどに、
・親子室などの有無
・駐車場の情報
・次主日の説教者
・平均の礼拝出席者数
を明記しましょう。



ガブリエル・マルセルの問題と神秘 [読書メモ]

アルフォンス・デーケン、『心を癒す言葉の花束』(集英社新書0648C)、集英社、2012年、p.24-27より。

フランスの哲学者で、「20世紀のソクラテス」と言われたらしい、アルフォンス・デーケンの恩師、ガブリエル・マルセルの「問題」と「神秘」について。

わたしなりの言葉でのメモ。


マルセルは、人間が直面する現実を「問題」と「神秘」の二つの次元で考えた。

「問題」は、客観的に見て、知識や技術で解決することができるもの。

「神秘」は、コントロールすることも把握することもできない深い領域。愛、自由、人間、自然、出会い、存在、誕生、生、死、悪などが挙げられる。


今の教育は、ほとんどが問題解決のための技術的な教育に偏り、「神秘」の次元に属するものを「問題」の次元で解決しようとする傾向がある。


人為を超えた「神秘」に対峙するときは、自分の限界を認め、素直な驚き、謙遜、畏敬、開かれた心を持って向き合うことが大切。


苦しみも神秘の次元に属するものであり、簡単な解答はない。しかし、どうしようもない苦しみにさらされたときも、事態をあるがままに受け入れて眺めれば、苦しみに埋没することなく、新たな段階へと踏み出してゆくことが可能となっていく。




赦す [読書メモ]

アルフォンス・デーケン、『心を癒す言葉の花束』(集英社新書0648C)、集英社、2012年、p.77より。

「赦す」ということについて。

わたしなりの言葉でのメモ。



赦すとは、感情的なことではなく、意志の力による行動である。


感情に支配されてしまうこともある中で、意志によって、「赦す」という自由な決断ができる。


赦すとは、相手を一人の人間として全面的に評価しようとする自発的な行為である。


赦したと思っても、否定的な気持ちが残っていることもよくある。傷が深ければ深いほど、否定的な感情はなかなか払拭できない。それでも、意志のレベルから赦そうと努力する。すると、感情のレベルでも少しずつ変わっていく。



佐古純一郎「愛は応答である」(2) [読書メモ]

佐古純一郎『キリスト教入門』(朝文社、1989年初版、1992年新装版)所収の「愛は応答である」から。

わたしなりの関心からの、わたしの言葉でのまとめ。(その2)


社会の形成
わたしたちは、人と人とが応答的関係によって結びついている「責任社会」(responsible society)を形成する責任を負っている。

情報化社会の中で、伝達された情報に対して主体的にのぞみ、自己に対する問いかけとして聞き、誠実な応答をすべきである。そのようにして、わたしたちは責任社会に対して連帯し参加することができる。

人類の自滅を免れるために
自己中心性を原理とする利益社会は、人々をますます利己的にし、世の中を人と人とが互いにかみ合い食い合う世界にし、自然を破壊している。

もしわたしたちが、自己中心性を絶対化して、すべての存在を自己の欲望の充足の前に手段化し、利用するという生活態度から、根本的に生まれ変わらないなら、人類の文化はおそらく自滅を免れないだろう。

わたしたちが今しなければならないことは、クリスチャンになるということよりも、真実に神の前に立って、わたしがほんとうに「わたし」になり、あなたがほんとうに「あなた」になることである。

教育
人格的な応答としての「愛」が、わたしたち日本人の生活の中に欠けている。

まず自らを、何ものにも代え難い、かけがえのない「わたし」として深く自覚できるような教育が必要である。

そのために、わたしたちはまことの「言」(ことば)を聞かなければならない。根源的な「言」(ことば)に立ち帰らなければならない。

そのような真の「宗教」に根を下ろしている教育を真剣に考えなければならない。



佐古純一郎「愛は応答である」(1) [読書メモ]

佐古純一郎『キリスト教入門』(朝文社、1989年初版、1992年新装版)所収の「愛は応答である」から。

わたしなりの関心からの、わたしの言葉でのまとめ。


他者の欠落
自己中心的に、自己の幸福と利益の追求という自己目的として自己の人生を捉えると、他者が欠落してしまう。

そこでは、他者の存在は「利用価値」という価値判断によってのみ計られ、人と人との人格的関係が成立しない。

自己認識
我々は、他者との関係の中でのみ自己を認識でき、他者との関係の中でこそ自己を認識できる。

他者と自分とが、何らかの価値によってではなく、「わたし」と「あなた」という人格的関係にあるとき、私たちは自分が「人格」であることに目を覚まされる。

そのために、他者からの問いかけを真実に聞き、誠実に応答することで、他者との応答的な関係を作り出すことができなければならない。

他者に応答的になれる場所
キルケゴールやマルティン・ブーバーが言う「単独者」でしかないこのわたしが、どこで、真実に他者からの問いかけを聞き、誠実に応答できるのだろうか。

わたしを「人格」として創造してくださった神は、わたしを人格的な「あなた」としてしか取り扱わない。そのような神の前に立つとき、わたしはほんとうに「わたし」である自己を知らされ、真実に自己を主体的な存在として自覚できる。

このような神を、わたしたちはイエス・キリストを仲立ちとして知ることができる。

自己を愛する
自分を愛するとは、自分を、人格的自己として、真にかけがえのない「わたし」として大切にするということである。

自分を真実に「わたし」として愛することができる心は、どこで取り戻すことができるか。それは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」という言葉のもとに自己を連れ戻すことにおいてである。

それは、創造主との正しい関係の中に自己を置くことであり、キリストの十字架によって可能とされる。

隣人を愛する
自己を愛することができるとき、わたしたちは、他者をも自己と同じく「人格的存在」として、真実に「あなた」と呼ぶことができる。

他者との応答的関係を築くために、誠実に他者に耳を傾け応答することが、「あなた」を愛するということである。この意味において、愛は応答(レスポンス)である。

自己の存在の中に人格としての「わたし」を知ることのできる心だけが、他者の存在を人格的な「あなた」として認識することができる。これが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」の意味である。



佐古純一郎「愛の力」 [読書メモ]

佐古純一郎『キリスト教入門』(朝文社、1989年初版、1992年新装版)所収の「愛の力」から。

わたしなりの関心からの、わたしの言葉でのまとめ。


愛は「生かす力」である。

(1)
愛は、自己を生かす力にもなり、他者を生かす力にもなる。

自己を生かす力としての愛は、自己中心的な愛であり、「自己愛」である。

自己愛において、他者は人格的な存在として認識されておらず、物的な利用価値としてしか価値づけられていない。

これが絶対化されて私利私欲の充足に向かうと「利己愛」になる。

(2)
「自分を愛する」とは、利己愛ではなく、自己愛でもない。

自己の人間性を大切にし、自らの存在を人格的存在として深く自覚し、自らを生かそうとする。

そうしてこそ、他者をも、物的存在ではなく人格的存在として認めることができる。

ここに、他者を自己の幸福や利益の手段とするのではなく、よりよく生かす力としての愛が発動する。

(3)
しかし、我々は自己中心的な愛を捨てることができない。

そこで主イエスは、
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」
と言って、わたしたちのために死んで復活され、自らわたしたちを愛によって生かしてくださっている。

他者を生かす主イエスの愛によって、このわたしはほんとうに生かされている。

この、他者を生かす力である愛に、自らの人生の根源をしっかり置いて、きょうを生きていく。

(4)
このような主イエスが、
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」
と言われるのだから、それは不可能なことなどとあきらめないで、主イエスの愛に誠実に応答して、他者を生かす力としての愛をわたしたちも持っていきたいと願う。



この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。