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佐古純一郎「愛は応答である」(1) [読書メモ]

佐古純一郎『キリスト教入門』(朝文社、1989年初版、1992年新装版)所収の「愛は応答である」から。

わたしなりの関心からの、わたしの言葉でのまとめ。


他者の欠落
自己中心的に、自己の幸福と利益の追求という自己目的として自己の人生を捉えると、他者が欠落してしまう。

そこでは、他者の存在は「利用価値」という価値判断によってのみ計られ、人と人との人格的関係が成立しない。

自己認識
我々は、他者との関係の中でのみ自己を認識でき、他者との関係の中でこそ自己を認識できる。

他者と自分とが、何らかの価値によってではなく、「わたし」と「あなた」という人格的関係にあるとき、私たちは自分が「人格」であることに目を覚まされる。

そのために、他者からの問いかけを真実に聞き、誠実に応答することで、他者との応答的な関係を作り出すことができなければならない。

他者に応答的になれる場所
キルケゴールやマルティン・ブーバーが言う「単独者」でしかないこのわたしが、どこで、真実に他者からの問いかけを聞き、誠実に応答できるのだろうか。

わたしを「人格」として創造してくださった神は、わたしを人格的な「あなた」としてしか取り扱わない。そのような神の前に立つとき、わたしはほんとうに「わたし」である自己を知らされ、真実に自己を主体的な存在として自覚できる。

このような神を、わたしたちはイエス・キリストを仲立ちとして知ることができる。

自己を愛する
自分を愛するとは、自分を、人格的自己として、真にかけがえのない「わたし」として大切にするということである。

自分を真実に「わたし」として愛することができる心は、どこで取り戻すことができるか。それは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」という言葉のもとに自己を連れ戻すことにおいてである。

それは、創造主との正しい関係の中に自己を置くことであり、キリストの十字架によって可能とされる。

隣人を愛する
自己を愛することができるとき、わたしたちは、他者をも自己と同じく「人格的存在」として、真実に「あなた」と呼ぶことができる。

他者との応答的関係を築くために、誠実に他者に耳を傾け応答することが、「あなた」を愛するということである。この意味において、愛は応答(レスポンス)である。

自己の存在の中に人格としての「わたし」を知ることのできる心だけが、他者の存在を人格的な「あなた」として認識することができる。これが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」の意味である。



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