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ルターの礼拝 [礼拝]


ルターの礼拝についての基本的な著作は、
 「会衆の礼拝式について」(1523年)
 「フォーミュラ・ミサ」(1523年)
 「ドイツミサ」(1526年)
の三つ。
礼拝順序が示されているのは「フォーミュラ・ミサ」と「ドイツミサ」。しかしいずれも、いわゆる式文ではない。


1.Von ordenung gottis diensts ynn der gemeine


1523年の聖霊降臨日。ドイツ語で書かれた。

邦訳は、青山四郎訳「会衆の礼拝式について」(『ルター著作集第一集第五巻』p.269-)。

礼拝順序を示しているわけではないが、礼拝から不純物を取り除き、御言葉による礼拝の回復と、神の言葉が説教されることを訴えている。


2.Formula missae et communionis


1523年末。ラテン語で書かれた。

一般に「フォーミュラ・ミサ」と言われている。

邦訳は、青山四郎訳「ミサと聖餐の原則」(『ルター著作集第一集第五巻』p.281-)。あるいはこれをもとに鈴木浩、湯川郁子によって改訂されたものが『ルター著作選集』(教文館、2005)のpp.437-460。

特徴は、
  • ①他の考え方をするのは自由であり、ルターはこれが強制されることを望んでいない。
  • ②ラテン語であり伝統的な様式を踏襲しているのは、従来の礼拝に慣れ親しんだ人たちへの配慮であり、また、目新しいものにばかり飛びつく連中がいるため。
  • ③伝統に沿いつつも、人間が犠牲を献げることにつながる要素を徹底して排除。具体的には、奉納と奉献文を否定して実体変化と犠牲奉献に関わる言葉や所作を取り除いた。かわりに制定語を重視。
  • ④自国語による説教を勧め、自国語の讃美歌の必要を述べている。


3.Deutsche Messe und ordnung Gottisdiensts


1526年元旦。ドイツ語で書かれた。

一般に「ドイツ・ミサ」と言われている。

邦訳は、青山四郎訳「ドイツミサと礼拝の順序」(『ルター著作集 第一集第六巻』、聖文舎、1963)。

特徴は、
  • ①自国語による礼拝。
    (ただし、
    • a) 自国語による礼拝の実践はすでにカールシュタットらが行っていた。
    • b) 賛美歌をドイツ語で会衆も歌うが、ドイツ語の讃美歌が十分に揃うまではラテン語も許容。
    • c) 目的は信徒の信仰理解のためと、異教徒や未信者、若者・子ども、召し使いへの伝道・教育のため。)
  • ②礼拝の順序も言語もそれ自体が絶対化されたり強制されてはならず、各人の自由であることを強調
    (ただし、ころころ変えるのは民衆が混乱するのですべきでない。また、弊害があればすぐに変更すること。)。
  • ③信徒の信仰理解、異教徒への伝道、子どもへの教育のために、教理問答を重視。
  • ④急進的な改革をせず、時が来るのを待つ。祭服などは、廃れるか、廃止したいと思うようになるまでそのままにしておく。
  • ⑤標準説教集(説教範例)の必要を提起。

ドイツミサは、フォーミュラ・ミサを廃止したり変更したりするものではない。必要に応じて用いる自由がある(『ルター著作集 第一集第六巻』P.421-422)。結果として、ドイツミサよりもフォーミュラ・ミサがドイツ語の形で定着し、また、宗教改革の広がりに伴って各国語で行われることになった(『キリスト教礼拝・礼拝学事典』p.437)


文 献(順不同)


見たもの


  • 前田貞一「ルター派の礼拝」、『キリスト教礼拝辞典』(日本基督教団出版局、1977年)pp.369-373。
  • W.ナーゲル(松山與志雄訳)『キリスト教礼拝史』(教文館、1998年)のpp.158-169。
  • J.F.ホワイト(越川弘英監訳)『プロテスタント教会の礼拝 その伝統と展開』(日本基督教団出版局、2005年)のpp.63-85。
  • 『キリスト教礼拝・礼拝学事典』(日本基督教団出版局、2006年)の「礼拝の系譜」の項目の中の徳善義和「ルター派」、pp.436-438。「礼拝の歴史」の項目の中の出村彰「宗教改革時代」、pp.486-488。
  • 徳善義和「ルターと讃美歌2 信仰改革は礼拝改革へ具体化」、『礼拝と音楽』158号、2013夏、pp.52-56。

見たけど役立たなかったもの


  • 『ルターと宗教改革事典』(教文館、1995年)の「礼拝改革」の項目(徳善義和)。記述の分量が少なく、フォーミュラ・ミサやドイツミサの中身の話はない。
  • 『礼拝と音楽』No.175、2017年秋号。特集「礼拝改革者ルター」。ルターの礼拝改革に取り組む具体的な話はないし、フォーミュラ・ミサやドイツミサについても上の文献を補うような知見はなかった。カトリック、フォーミュラ・ミサ、ドイツミサ、ミュンツァーのドイツ語ミサ、ブツァー、カルヴァンの礼拝式順を比較できる一覧表(p.18)があるのは便利かも。

見ていないもの


  • V.ヴァイタ(岸千年訳)、『ルターの礼拝の神学』、聖文舎、1969年。
  • ゴードン・W・レイスロップ(平岡仁子訳)、『21世紀の礼拝――文化との出会い』 、教文館、2014年、125頁、1500円+税。


補 足


前田貞一は『キリスト教礼拝辞典』(日本基督教団出版局、1977)の「ルター派の礼拝」の項目で、ルターの著作で礼拝順序に関わる基本的なものとして英語版ルター著作全集"Luther's Works"から、上記3つの他に、"A Christian Exhortation to the Livonians Concerning Public Worship and Concord"(1525)を挙げている。

これの原題は"Eyne Christliche vormanung von eusserlichem Gottis dienste vnde eyntracht, an die yn lieffland." WA18, 417-421. 現代ドイツ語では"Eine christliche Vermahnung von äußerlichem Gottesdienst und Eintracht an die in Livland."

しかし、これは当時のバルト海沿岸のリボニアの町ドルパートでの宗教改革を励ますために送られた手紙で、ルターの礼拝観は表れているだろうが、ドイツでの話ではないので、基礎的な文献ではこの著作については全く触れられていない。邦訳もなし。



ルターと詩編 [聖書と釈義]


マルチン・ルターの生涯や信仰と特に関わりのある詩編の箇所。

● 2:4
「天を王座とする方は笑い、・・・」
ポールソン『はじめてのルター』、p.113。

● 18:3以下
激しい雷を伴った嵐が起こったので、ルターは次のように言った、「さあ、我々はこの体験から第18編の詩を理解し、解釈することを学ぶことができる」
コーイマン『ルターと聖書』p.220。

● 31:2c
(=71:2a)「神の義」(ただし新共同訳では「恵みの御業」)
徳善『マルチン・ルター 生涯と信仰』p.45~。
植田訳『卓上語録』、p.34。

● 45
1532年の講義。
金子晴勇訳、『心からわき出た美しい言葉――詩編45編の講解』、教文館、2010年。

● 46
「神はわがやぐら/砦」(1529年)。
讃美歌1編267、21-377。

46:5の解釈と翻訳について、コーイマン『ルターと聖書』p.245以下。

● 51
ルターの罪理解。1532年の講義。
『ルターと宗教改革事典』p.209。ポールソン『はじめてのルター』、p.168-171。
金子晴勇訳、『主よ、あわれみたまえ――詩編51編の講解』、教文館、2008年。

詩編51:19について「わたしはこの節を金の文字で書きたいほどだ」
コーイマン『ルターと聖書』p.242。

● 71:2a
(=31:2c)

● 90
徳善『マルチン・ルター 生涯と信仰』p.273~。
金子晴勇訳、『生と死について 詩篇90篇講義』、創文社、1978年。
金子晴勇訳、『生と死の講話』、知泉書館、2007年。

● 116:10
「わたしは信じた。それゆえ、わたしは激しい苦しみに襲われた。」
「ルターは、神に信頼することは、ただ一人の神をもつことによって問題を増すばかりであるということを理解していた」
ポールソン『はじめてのルター』、p.129。

● 118:17
「彼は、城の中で過ごした半年の間に多くのことをやり遂げた。詩編が彼の関心の大部分であった。信徒のために、彼は詩編を解説して小さな単行本としたが、そのうち最もよく知られているのは、かの貴重なConfitemini(われら告白せん)である。」
コーイマン『ルターと聖書』p.233。

父ハンスの死に際して、「死ぬことなく、生き長らえて、主の御業を語り伝えよう」
『ルターと宗教改革事典』p.122。

● 130
「深き悩みより」(1523年)。
讃美歌1編258、21-22、21-160。



ルターが「パウロ的詩編」と言っている詩編:
32、51、110、130、143。
植田訳『卓上語録』教文館、p.173。



見た文献:
  • ウィレム・J.コーイマン(岸千年訳)、『ルターと聖書』(ルター神学研究双書7)、聖文舎、1971年。
  • 日本ルーテル神学大学ルター研究所編、『ルターと宗教改革事典』、教文館、1995年。
  • ルター(植田兼義訳)、『卓上語録』、教文館、2003年。
  • S.ポールソン(湯川郁子訳)、『はじめてのルター』、教文館、2008年。
  • 徳善義和、『マルチン・ルター 生涯と信仰』、教文館、2007年初版、2012年第2版。



積ん読 バックナンバー1 [まとめ]


読んでいるかどうかは別にして、机の上に積まれている本10冊。2010年秋~2015秋 (9回分)

2010.9.30

  • 宮田光雄『平和のハトとリヴァイアサン
  • 徳善&百瀬『カトリックとプロテスタント』
  • 古屋安雄『宗教の神学』
  • 『桑田秀延全集第三巻』
  • 近藤勝彦『礼拝と教会形成の神学』
  • 森本あんり『現代に語りかけるキリスト教』
  • 加藤常昭『改訂新版 雪ノ下カテキズム』
  • 古屋安雄『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか』
  • 『ブルンナー著作集第2巻』
  • ニーバー『光の子と闇の子』

2011.3.3

  • ポールソン『はじめてのルター』
  • ベノア『ジァン・カルヴァン』
  • 『イエスと共に歩む生活 はじめの一歩Q&A』
  • ヘイゲマン『礼拝を新たに』
  • 『神学』72号「愛と法――教会を建てるために」
  • 大串眞『開拓伝道物語』
  • 森井眞『ジャン・カルヴァン ある運命』
  • 保科隆『葬儀』
  • 疋田博『キリスト教葬儀』
  • TOMOセレクト『慰めと希望の葬儀』

2012.10.8

  • ブルンナー『信仰・希望・愛』
  • 奥田知志『もう、ひとりにさせない』
  • 竹森満佐一『わが主よ、わが神よⅠ』
  • 富岡幸一郎『使徒的人間カール・バルト』
  • クーピッシュ『カール・バルト』
  • ボンヘッファー『ボンヘッファー選集9聖書研究』
  • バルト『和解論Ⅲ/1』
  • ボーレン『祝福を告げる言葉』
  • ハンター『山上の説教講解』
  • シュトレッカー『「山上の説教」註解』

2013.4.3

  • 聖(セイント)☆おにいさん1,2
  • 鈴木有郷『ラインホルド・ニーバーとアメリカ』
  • 平野克己『主の祈り イエスと歩む旅』』
  • ネストレ第28版
  • ホワイト『キリスト教の礼拝』
  • 田川建三『新約聖書 訳と註 マタイ/マルコ』
  • ゲリー・ウィルズ『リンカーンの三分間』
  • 川島貞雄『ペトロ』清水書院
  • 『旧約聖書を学ぶ人のために』世界思想社
  • 越川弘英編『宣教ってなんだ?』

2013.10.10

  • 浅野順一『モーセ』(岩波新書)
  • フォン・ラート『モーセ』
  • ギューティング『新約聖書の「本文」とは何か
  • ナウエン『いま、ここに生きる』
  • 『どちりな きりしたん』(岩波文庫)
  • 『ロマン・ロラン全集18 政治論1』
  • ヴェスターマン『聖書の基礎知識 旧約編』改訂新版
  • 越川弘英『信仰生活の手引き 礼拝』
  • 山中正雄『心の診察室』
  • 『渡辺総一 いのりの造形 共に歩むキリスト』

2014.4.2

  • ◆渋谷・赤坂『憲法1人権』第5版有斐閣アルマ(とても読みやすく諸説が簡潔に紹介されている)
  • ◆西谷幸介『十字架の七つの言葉』ヨルダン社(いまでも入手可能、在庫僅少)
  • ◆加藤常昭『黙想 十字架上の七つの言葉』(この時期の定番)
  • ◆バルト『和解論Ⅱ/4』(「教団の秩序」とか)
  • ◆八木谷『もっと教会を行きやすくする本』(なかなかそうはできなくてすいません)
  • ◆『10代と歩む洗礼・堅信への道』(使ってみてます)
  • ◆丸山真男『日本の思想』岩波新書(古書店で50円でゲット)
  • ◆三浦綾子『夕あり朝あり』(白洋舎クリーニング)
  • ◆クラウス『力ある説教とは何か』(「樽が非常に良く響き、反響するときは、たいして中身が入っていない」p.94)
  • ◆カトリック『YOUCAT』(すごいね!)

2014.10.1

  • ◆スタインベック『怒りの葡萄』(主人公に同行する説教師が気になる)
  • ◆『謙堂・植村正久・物語』(植村の伝記は他にあまりない)
  • ◆『教会アーカイブス入門』(教会史編纂の手引き)
  • ◆セイヤーズ『ドグマこそドラマ』(「地上最大のドラマ」はバルトも絶賛)
  • ◆パネンベルク『組織神学入門』(キリスト論は教会と伝道の基盤)
  • ◆近藤勝彦『癒しと信仰』(ずいぶん前の説教・講演集)
  • ◆藤掛明『一六時四〇分』(付録に中年期のメンタルヘルスの講演概要あり)
  • ◆『洗礼を受けずに亡くなった幼児の救いの希望』(神の限りない憐れみが第一にある)
  • ◆ナッシュ『幼子の救い』(これも洗礼を受けずに亡くなった幼子の救い)
  • ◆ロイドジョンズ『説教と説教者』(御言葉を語る恵みと注意を再確認)

2015.4.1

  • ◆ミルトン『言論・出版の自由』(岩波文庫、原田純訳。表現の自由。)
  • ◆稲垣久和『改憲問題とキリスト教』(公共の福祉、市民社会の形成)
  • ◆『ヴァイツゼッカー大統領演説集』(永井清彦編訳、岩波。)
  • ◆『国権と良心 種谷牧師裁判の軌跡』(この中に中平健吉「教会闘争としての種谷牧師裁判」)
  • ◆日本平和学会編『平和を考えるための100冊+α』(見出しは75冊)
  • ◆ヘスラム『近代主義とキリスト教』(カイパーのカルビニズム講義)
  • ◆ヘッセリンク『改革派とは何か』(RCAは「改革派」、CRCは「キリスト改革派」)
  • ◆デーヴィス『現代における宣教と礼拝』(邦訳1968年の古典。Missio Dei)
  • ◆永井春子『十戒と祈りの断想』(他に『青少年のためのキリスト教教理』も)
  • ◆渡辺和子『愛をこめて生きる』(他に『信じる「愛」を持っていますか』、『目には見えないけれど大切なもの』)

2015.10.1

  • ◆シュミート『旧約聖書文学史入門』(Schmidはスイスではシュミート)
  • ◆『新版総説旧約聖書』(五書は大住、歴史書は山我)
  • ◆ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典』(100項目のつもりが数え間違えて105項目)
  • ◆大住雄一『神のみ前に立って』(なかなか十戒の各論に入らない)
  • ◆深井智朗『伝道』(漬け物販売のバイトの話)
  • ◆上野千鶴子『生き延びるための思想 新版』(弱者が弱者のまま尊重される思想)
  • ◆宇沢弘文他『格差社会を越えて』(新自由主義批判)
  • ◆ドレッシャー『若い夫婦のための10章』(結婚準備の学び)
  • ◆大嶋裕香『愛し合う二人のための結婚講座』(これも学びのためだが耳が痛い)
  • ◆三浦綾子『光あるうちに』(道ありき第三部)

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説教は説教者を越えていく [礼拝]


わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた。
1テサロニケ2:13より
1.

説教者は、説教の準備において自ずと、その時の教会の課題や時代の状況の中で聖書を読むことになる。同じように、説教者の信仰の傾向やその時々の信仰的関心が説教に影響を与える。言わば、説教者の信仰が説教に表れ出る。それゆえ説教者は、自分の信仰を客観的に見つめ、それに囚われないように聖書を読むことを心がけなければならない。

2.

説教は、説教者の解釈を披瀝するものではなく、説教者が見出した真理を提示することでもない。説教の準備と語りに真摯に取り組むならば、説教者は、その中で自らの信仰が問い直され、理解が深められ、枠組みが変えられていく。説教を語っている最中や語り終えた後に、準備の時には気づかなかった恵みを見い出すこともある。自分の説教に自分自身が養われることがある。説教は、それまでの説教者を越えていく。

3.

さらに、会衆が説教を聞くとき、説教者が気づいていない恵み、説教者の意図を越えたものを聞き取ることがある。語られた説教の内容と聞かれた説教の内容とは同じではない。説教の言葉は、説教者を越えて会衆に聞かれる。そこで説教は、神の言葉として語られ、聞かれている。

4.

説教が神の言葉として語られ聞かれるとき、聖霊なる神が働いておられる。一人の人間である説教者が語る説教は、聖霊によって、神の言葉として語られ、聞かれる。そのとき、説教の言葉は、単に情報の伝達にとどまらず、会衆一人ひとりをそれまでとは異なる一人ひとりにし、教会全体をそれまでとは異なる教会にする。神の言葉の説教が語られるとき、そこに新しい何かが引き起こされる。説教が語られるところでは、わたしたちが気づかなくても、そこで新しい何かが生じている。

見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。
イザヤ43:19より

マルコのサンドイッチ [聖書と釈義]


マルコによる福音書の特徴のひとつとして、「サンドイッチ構造」が随所に見られることは、よく知られている。

「たとえば彼は、一つの物語を二つに割って、その間に他の伝承をおき、そこに時間の流れを示すという手法をよくとるのであるが、5:25-34とその前後、などに見られるいわばサンドウィッチ式の手法は・・・」
橋本滋男「共観福音書」、
『総説 新約聖書』、日本基督教団出版局、1981年、p.115。


1.もうちょっと学問的な言い方はないのか


『新版 総説 新約聖書』では、「挿入法intercalation」という言葉が紹介されている。
廣石望「マルコによる福音書」、
『新版 総説 新約聖書』、日本基督教団出版局、2003年、p.74。


その箇所で注に挙げられている文献:
James R. Edwards, "Markan Sandwiches: The Significance of Interpolations in Markan Narratives," Novum Testamentum XXXI, 3 (1989) pp.193-216.(リンクはpdf)

この文献を見てみると
  • サンドイッチという言葉がそのまま論文のタイトルに使われている
  • intercalationとかinterpolationとかinsertionとかframingとか、いろいろな言い方が使われているようだ。

framing(枠付け、囲い込み法、囲い構造など)以外はみな日本語にすると「挿入法」か。

というわけで、「挿入法」という用語もあるが、「サンドイッチ構造」と言っても学問的に全然問題なさそうだ。

「学問的文献ではこのような語り方に対して「サンドウィッチ」物語という語を見い出した人たちもいる。」
C.J.デン・ヘイヤール(伊藤勝啓訳)『マルコによる福音書I』
(コンパクト聖書注解)、
教文館、1996年、p.153。


2.いつ頃から?


Edwardsは、sandwich techniqueという言い方についての、たぶん代表的な文献を挙げているが、その中で一番古いのは、
Earnest Best, "The Temptation and the Passion: the Markan Soteriology," SNTSMS 2; Cambridge: The University Press, 1965.
である。

別に、E.Bestが最初に言い出したというわけではないだろう。

しかし、このあたりから、学術的な文章の中でも「サンドイッチ」という言葉が使われるようになっていったのだろうか。

ちなみに、アーネスト・ベストは、「現代聖書注解」の第二コリントを書いている(山田耕太訳、1989年)。


3.サンドイッチ構造が見られる箇所


一般的には、次の5箇所が挙げられる:
3:20-35、5:21-43、6:7-30、11:12-21、14:1-11。
(Edward, p.203。
『説教黙想アレテイア マルコによる福音書』、
日本基督教団出版局、2010年、p.154。)


(1)Edwards

Edwards はさらに、4:1-20、14:17-31、14:53-72、15:40-16:8の4箇所を加えている。

しかし、4:1-20では、1-9節の種を蒔く人のたとえの語りが中断している感じはなく、時間的にも10節で「イエスがひとりになられたとき」と、少し隔たっている。

14:17-31も、最初はユダの裏切り、最後はペトロの離反であって、サンドイッチのパンの種類が上と下で異なる。

14:53-72は、確かに、54節のペトロが大祭司の屋敷の中庭まで入ってきたことが66節以降に続くが、54節は事態がまだ始まっておらず、状況設定の段階であるので、むしろ、伏線に過ぎない。

15:40以降では、40節で婦人たちが遠くから見守っていたことが、イエスの埋葬後も、47節で婦人たちが墓を見つめていたことにつながっているが、ヨセフによるイエスの埋葬によって事態が大きく変化したわけではなく、変わらない。むしろ、このことが16章につながっていくので、15:40-41、47は、16章への伏線と見た方がよい。 

(2)川島貞雄

川島貞雄は、他に、2:1-12、7:1-23を挙げている。
あるいは、「なお、4:1-20、7:1-23、8:1-21参照」と記している。
川島貞雄『マルコによる福音書――十字架への道イエス』
(福音書のイエス・キリスト2)、
日本基督教団出版局、1996年、p.86,111。


2:1-12は、律法学者が心の中でイエスを非難したことによって、中風の人の癒しが中断される。これによって、中風の人を連れてきた四人の男の信仰を見たことによって癒しがなされることに加えて、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることが明確に示される。したがって、この箇所は「サンドイッチ構造」と言ってよさそうだ。

4:1-20は(1)で述べた。

7:1-23は、手を洗わないで食事をすることの話題が、まず、人間の言い伝えの問題として捉えられ、続いて、食物規定の問題に変わっていく。それゆえサンドイッチ構造ではない。

8:1-21では、四千人の供食の話はひとまず一件落着しており、14節以降は、別な機会にパンを一つしか持ち合わせていない話と、五千人の供食と四千人の供食の経験の両方の想起であるので、これもいわゆるサンドイッチ構造とは言い難い。

(3)廣石望

廣石は、6:32~8:10も、二つの供食奇跡の間に、清浄規定論争を含むイエスの異邦人への働きに関する諸エピソードが配置されていると見ている。

廣石はさらに、14:3以降の受難物語全体が、イエスに従い仕える女性たちのエピソードに枠づけられて、男性の弟子たちがイエスを裏切り見捨てる話が置かれていると見る。
『新版 総説 新約聖書』p.75。

しかし、6:32~8:10も14:3~16:8も、具が分厚く何段もの層をなしているアメリカン・バーガーなので、いっぺんには口に入らず、崩して食べるしかない。

(4)結 論

結局、サンドイッチ構造としては、一般的に言われる5箇所:
  • 3:20-35(イエスの身内とベルゼブル論争)
  • 5:21-43(ヤイロの娘と長血の女)
  • 6:7-30(弟子の派遣と洗礼者ヨハネ殺害)
  • 11:12-21(いちじくの木と宮清め)
  • 14:1-11(イエス殺害計画とナルドの香油)
に、
  • 2:1-12(中風の人のいやしと律法学者の非難)
を加えた6箇所を挙げるのがよい。

4.サンドイッチの味わい方


「実際のサンドウィッチでも、挟んでいる両側のパンと、挟まれている具とは一体である。好き好きだから、バラバラにして食べてももちろん構わないが、製作者の意図に従えば、一体として食すのが前提である。パンと具の間に調和があったり、緊張があったりする。バラバラにして食べたときには味わえない味を、一体として食べて味わうのである。」
徳善義和「マルコによる福音書 五章二一~四三節」、
『説教黙想アレテイア マルコによる福音書』、日本基督教団出版局、2010年、p.154。


5.「サンドイッチ」か「サンドウィッチ」か


わたしの周りにある辞書の見出しに載っているのは基本、「サンドイッチ」のようだ。

まあ、「マルチン・ルター」と「マルティン・ルター」との違いと同じようなものか。



鈴木崇巨『礼拝の祈り 手引きと例文』 [読書メモ]


鈴木崇巨『礼拝の祈り』.JPG鈴木崇巨(すずき・たかひろ)、『礼拝の祈り 手引きと例文』、教文館、2014年、164頁、1400円+税。

特 徴

  • 祈祷や祝祷の「祷」の字はすべて、異体字であるunicode:U+79B1(示偏に壽)が用いられている。
  • 著者は、礼拝の中で司式者が聖霊の導きのままに即席の祈りをすべきであるという伝統の中で育ってきた。(p.3)
  • しかし、礼拝をより豊かにするために、祈祷文の準備をしておくことも決して悪いことではないと思っている。(p.3)
  • 牧会祈祷の例文も招詞の聖句箇所も、教会暦にしたがって掲載されているが、この本での教会暦は、
    • 待降節
    • 降誕節
    • 顕現節
    • 受難節
    • 復活節
    • 聖霊降臨節
    • 王国節(8月最終主日から待降節前)
    という区分である。(p.24)
  • 「日本的な祈りからの決別」を訴えている。(p.10,13-14など)
  • イエス、キリスト、聖霊に「さま」を付ける場合と付けない場合とがある。慣れ親しんでいない表現には違和感を覚えるかもしれないが、「日本の教会の現状を考慮して、両方の表現を採用しました」とのこと(p.23)。

内 容

1.「礼拝の祈りについて」

礼拝での祈りについて、8~24ページで解説。

  • 「聖霊に向かって祈ることはあり得ますが、聖霊は祈りの対象というよりも、むしろ私たちが受けて満たされるべきお方、また私たちを祈らしめる神の力ととらえるべきだ」。(p.9)
  • 「日本語の特性から言って、「神がたたえられよ」というような表現はまれですから、日本人クリスチャンの祈りは賛美が少なくなり、感謝が多くなります」。(p.13)
  • 願いが祈りの中心になっていることについて、「日本人特有の神社的な「祈願」」が祈りになっているからだ。「キリスト教の祈りは、神中心の信仰ですから、「賛美」が中心を占めるべきです。」(p.13)
  • 近年は、讃美歌(当然祈りの一種)の終わりに「アーメン」をつけていない歌があったり・・・しています。これは現代の「不確かな時代」「世俗化の時代」の反映ではないかと思われます」。(p.16)

2.「牧会祈祷の例文」

  • 教会暦にしたがった53例
  • ひとつひとつが1見開きに収めてられている。
  • ここでの牧会祈祷とは、「プロテスタント教会の礼拝の中で牧師や長老、執事、役員、信徒などが、会衆を代表して祈る祈祷」のこと。
  • おおむね、賛美(感謝)、懺悔、信仰の表明、祈願の順に構成されている。(p.13)

3.「献金祈祷の例文」

  • 15例
  • 「献金祈祷は、その目的である献身の表明の祈りに絞った方が礼拝そのものを引き締まったものにしてくれる」。(p.134)

4.「招詞の聖句」

  • 教会暦の区分ごとに掲載。それぞれで聖書の順になっている
  • 聖書箇所だけでなくて、聖句の最初の部分とか途中の部分が記されていて、「ああ、この聖句ね」と分かるような配慮がなされている。

招詞と祝祷の理解について

  • ※祝祷を「祈りではない」という理解(p.16~19)はわたしと同じだが、では何であるかというと、「牧師から会衆に発せられる挨拶の言葉」とする点は、わたしと礼拝観を異にする。わたしは、会衆への神の祝福を牧師が取り次いで、会衆を世に送り出すのが祝祷だと理解している。
  • ※招詞についても同様で、著者は「司式者からの挨拶」と記し(p.19)、神が招いているのではなく、司式者が招いているとするが、これはわたしの理解と異なる。わたしは、神が礼拝に招いている言葉が招詞だと考えている。
  • 招詞は聖書朗読ではないので短い聖句がよいという指摘(p.20)は、同感である。なお、著者は触れていないが、説教と関連させて招詞の聖句が選択されることがよくあり、そのような方法は、その日の御言葉への招きのつもりだろうが、礼拝への招きにはなっていない。

関連のわたしのブログ記事

わたしが招詞のリストを洗い出したブログ記事「招詞のリスト4(総集編)」

そのうち、「神が、わたしたちを、礼拝に、呼び集め招く」意味合いがよりはっきりしていると感じられる30箇所ピックアップしたブログ記事「11の使える招詞」


ルターの評伝 [書籍紹介・リスト]

2017年は宗教改革500年ということで、マルティン・ルターの評伝を読んでおこう。

基本は、次の3つ。

徳善義和『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』.JPG

1.徳善義和『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』

  • 岩波新書1372、岩波書店、2012年、183頁、720円+税。
  • 現代の日本におけるルター研究の第一人者によるルターの評伝の決定版。
  • → このブログでの読書メモ

『ルター』清水書院人と思想.JPG

2.小牧治・泉谷周三郎、『ルター』

  • 人と思想9、清水書院、1970、214頁。
  • 徳善義和の岩波新書が出るまでは、日本人による簡便な評伝は、これしかなかったが、今でも重要。
  • 今は1000円+税。
  • 清水書院の人と思想シリーズは、緑っぽいカバーだったが、順次、赤い新装版になっている。)

徳善義和『マルチン・ルター 生涯と信仰』.JPG

3.徳善義和、『マルチン・ルター 生涯と信仰』

  • 教文館、2007、336頁、2500円+税。
  • これは、徳善義和がラジオで語ったのをまとめた全12話。とても読みやすい。
  • 巻末にしっかりした略年譜、日本語で読めるルターの著作(第2版2012年では徳善の『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』(岩波新書、2012)まで掲載)、詳細な索引もあり。

その他、最近の翻訳として次の3つがあるが、いずれも、わざわざ読むほどのものではない。

リュシアン・フェーヴル、『マルティン・ルター――ひとつの運命』

  • 濱崎史朗訳、キリスト新聞社、2001年(原著1988年版からの翻訳、初版は1928年)、356頁、2000円+税。
  • 歴史学の分野のアナール学派の祖と言われるフェーヴルによる、政治、経済、社会、文化といった歴史的状況全体の中で描かれたルター像のようだ。宗教改革者であるルターの評伝という関心からはちょっとずれるかも。

S. ポールソン『はじめてのルター』

  • 湯川郁子訳、教文館、2008年(原著2004年)、302+8頁、1900円+税。
  • 評伝というよりもっと、律法と福音とか、信仰義認とか、聖書解釈とか、悔悛の秘蹟の方向転換とか、自由意志の問題といった、ルターが取り組んだ神学的な展開を紹介したものだが、全体的取っつきにくい感じ。

T.カウフマン、『ルター――異端から改革者へ』

  • 宮谷尚実訳、教文館、2010年(原著2006年)、188頁、1600円+税。
  • 原著2006年初版からの翻訳だが、2010年に出た改訂版の修正・変更はすべて盛り込まれているとのこと。
  • ワイマール版ルター全集を縦横に引用しながら、ルターの生涯とその意味を解き明かしている。ルターの生涯についてすでによく親しんでいる教養人向けという感じなので、上記の岩波新書と清水書院でルターの生涯を頭に入れている人向け。分量は多くない。
  • 最初は入っていきにくいので、40ページのルターの生涯が始まるところから読む(80ページまで)。
  • 81ページ以降はルターの生涯のいくつかの面を取り上げる。多くの出版物を刊行したことについて、聖書翻訳への取り組み、学者としてのルターと説教者としてのルター、この世のこと(国家、他の学問、科学技術など)との関わり方、結婚の自由や自由の平等性に基づく全信徒祭司性、ユダヤ人観・トルコ人観など。

新約聖書の各書の学び [書籍紹介・リスト]

新約聖書を
・通読などで、聖書の順に読み進めていく上で、
・各書ごとに
・ポイントや特徴などを
・専門的にではないが、ある程度学問的に裏付けられた知識として、
・信徒と共に
学ぶための本。


なお、旧約聖書については、2015年10月19日のブログ記事「旧約聖書の各書の学び」


1.まず、小型の辞典で各書の名の項目を調べる。
基本の三つを教会員に勧める。
・秋山憲兄監修、『新共同訳聖書辞典』、新教出版社、2001年。

・木田献一、和田幹男監修、『小型版新共同訳聖書辞典』キリスト新聞社、1997年。

・木田献一、山内眞監修、『新共同訳聖書事典』、日本基督教団出版局、2004年。


2.次に、各書ごとの解説の付いた聖書を見る。
フランシスコ会訳の『聖書』

・いわゆる岩波訳の『新約聖書』

これらは教会の図書室に入れておく。

3.簡便な解説書を読む。
次の二つは信徒必携。
土戸清、『現代新約聖書入門』、日本基督教団出版局、1979年。
現在、オンデマンド出版

『はじめて読む人のための聖書ガイド』、日本聖書協会、2011年。
旧約から新約まで66書それぞれについて、特徴、執筆目的、背景、構成を、一書につき2~3ページで解説


以上は信徒向けにも勧められる。旧約聖書についてもだいたい同じ(土戸清のが浅見定雄のになるだけの違い)。


4.少し専門的だが簡潔に記されているもの

・原口尚彰、『新約聖書概説』、教文館、2004年。
一人の著者によるので観点がばらけず、ぐだぐだとした議論もないので牧師としても重宝する。

・『新共同訳新約聖書注解』(1、2)、日本基督教団出版局、1991年。
各書の緒論部分を見る。


5.専門的な辞事典
次の二つの辞典・事典は、新約各書が項目として挙げられている。
・東京神学大学新約聖書神学事典編集委員会編、『新約聖書神学事典』、教文館、1991年。

・荒井献、石田友雄編、『旧約新約聖書大辞典』、教文館、1989年。


6.比較的各書ごとに記述された、一応学問的なもの。
新しいもの順。
・『新版 総説 新約聖書』、日本基督教団出版局、2003年。

・E.シュヴァイツァー(小原克博訳)、『新約聖書の神学的入門』(NTD補遺2)、日本基督教団出版局、1999年。

・W.マルクスセン(渡辺康麿訳)、『新約聖書緒論――緒論の諸問題への手引』、教文館、1984年。

・『総説 新約聖書』、日本基督教団出版局、1981年。




NGな教会の外看板 [伝道]

八木谷涼子『もっと教会を行きやすくする本――「新来者」から日本のキリスト教界へ』(キリスト新聞社、2013年)を参考に(というか、ほとんどそのまんま)、教会の外看板のNGをまとめた。必要に応じて、コメントあり。

わたしの見たところでは、教会の外看板には、
  固定的な内容を記した「案内看板」
と、
  頻繁に中身を張り替える「外掲示板」
とがある。

案内看板は、昔はペンキ、今はカッティングシートで作成されていて、集会案内と牧師名、電話番号などが記されているもの。

外掲示板は、前面がガラス窓になっていて、磁石か画びょうでプリントを張るタイプが普通か。


● NGな案内看板

・傷んだ看板に、はがれかけた文字
・ガムテープで修正、しかもそれがボロボロ
牧師名が前任者のまま
・現在とは時刻等が異なる集会案内
・電話番号に市外局番がない

※ガムテープは劣化が激しいので、ガムテでの修正は絶対やってはいけません。今は、カッティング文字で一文字単位で修正できるので、業者に頼みましょう。

※携帯電話やスマホで電話する人が多いので、掲示板に限らずチラシ等でも、市外局番は必須。


● NGな外掲示板
・ガラスケースの掲示板が、砂ぼこりだらけ
・とっくに終了したイベントのポスター
・文字や紙の色あせ
・日に焼けてぼろぼろの磁石 (2017.5.29追加)


● 共通のNG
・掲示板本体のサビや亀裂、蜘蛛の巣
・下が雑草だらけ
・字が小さすぎ
・誤字脱字
礼拝は誰でも参加OKということが書かれていない



もっと教会を行きやすくする本 [書籍紹介・リスト]

八木谷涼子『もっと教会を行きやすくする本』縮小.jpg八木谷涼子『もっと教会を行きやすくする本――「新来者」から日本のキリスト教界へ』、キリスト新聞社、2013年。


帯が、
「雑誌「Ministry」の人気連載「新来者が行く」を単行本化!」
「初めて来た人には、こう見える。」
「全国100以上の教会を訪ねてきた”プロ”の目で総点検!」

教会へのアクセスから礼拝が終わるまでの全ての関門について、新来者がつまずく箇所を総点検し、新来者への配慮に満ちた教会を提言する、大変耳の痛い指摘に満ちた、全5章。「Ministry」連載記事を元に大幅に加筆。

2014年キリスト教本屋大賞受賞。

著者のサイト「くりホン キリスト教教派の森」は、情報満載!(たぶん昨年(2016年)にURLが変わった)




大まかな内容

1.教会に行くまで
 外掲示板
 会堂内外の立て看板
 地図に載っているか
 電話応対など

※電話のガチャ切りについて

「電話をガチャ切りされた教会にぜひ行きたいと思う人はあまりいないでしょう。・・・電話ガチャ切りが身についた牧師の説教は聞きたいとは思いません。」

ガチャ切りする牧師が多いとは、わたしも以前から感じている。電話ガチャ切りの牧師の説教は聞かなくていい。

ただ、フックを指で押して電話を切る作法を知らない人は、牧師以外にも多い。(押す時間が短すぎると「保留」になってしまうということもある。)

もっとも、今後、固定電話でも親機のコードレス化が進むのか分からないが、そうなれば、「切」ボタンを押して電話を切るようになっていくんじゃないかな。

それとも、「じゃあね」とか「失礼します」などのキーワードで受話器を耳から離すと自動的に電話が切れるというヤツが、固定電話にまで広まったりして。


2.初めて礼拝に出てみる
 入り口の場所のわかりやすさ
 入りやすさ
 遅れてきた新来者への配慮
 受付での応対と動線
 名札
 新来者カードと紹介タイム
 新来者に何を渡すか
 どこに着席するかなど

3.礼拝の難しさ
 礼拝についていけない(何を参照していいのかわからない、とっかえひっかえの頻度が多すぎ。)
 使徒信条や週報にふりがなを
 献金用封筒
 献金や聖餐式の説明を
 身体的な困難(室温、照明、椅子が硬い、音響など)
 平和の挨拶
 礼拝の終了時刻を明確になど

※この章の中で、「新来者にもやさしいOHP礼拝」は第2刷から「新来者にもやさしいハイテク礼拝」に変更されたらしい。

※とっかえひっかえの頻度について

確かに、多くの教会の礼拝では、見るべきものが多すぎる。讃美歌、交読詩編、聖書は旧約聖書何ページをお開きください、次は新約聖書何ページをお開きください、主の祈りのプリント、使徒信条のプリント、週報に記された報告をご覧くださいなどなど。

牧師であっても、初めての教会に行ったときは目が回る。

ということは、この「とっかえひっかえの頻度」問題は、かなり重大である。

もっとも、新来会者に対しては、初日からついて行こうとしなくてもいいという見解は目から鱗。



4.教会とインターネット
 基本情報をわかりやすく
 困ったサイト
 再訪したくないサイト
 音声配信・動画配信での注意
 弛緩した礼拝になっていないか

※基本情報とは、住所、アクセス方法、分かりやすい地図、礼拝時間、終了予定時刻も、電話番号かメールアドレス。


5.後奏
 お葬式のこと
 超教派の教会マップの事例
 名刺サイズの教会案内カードのあれこれなど。



結論としては、

すべての牧師と役員は一度は目を通すべき本
ただし、現実には5年や10年では変えられない点も多い。
少しずつできるところから変えていく。
日頃から、新来者への配慮を心に掛けていることが、何よりも大切。




これまでに私が書いたブログ記事:
「林家三平、八木谷涼子」(2012.01.23)
「『ミニストリー』の八木谷(1)」(2012.02.14)
「『ミニストリー』の八木谷(2)」(2012.02.15)
「『ミニストリー』の八木谷(3)」(2012.03.07)
「『ミニストリー』の八木谷(4)」(2012.05.09)
「『ミニストリー』の八木谷(5)」(2012.05.10)
「『ミニストリー』の八木谷(6)」(2012.05.11)
「『ミニストリー』の八木谷(7)」(2012.07.21)
「『ミニストリー』の八木谷(8)」(2012.07.22)




石井錦一『教会生活を始める』2 [読書メモ]

石井錦一、『教会生活を始める』、日本基督教団出版局、1988年。

自分なりの読書メモ。
前回のブログの続き。

なお、石井錦一の全著作を紹介したブログ(2016.8.4)あり。

直接そのままの引用ではなく、若干(ときにはかなり)、自分の表現に改めた。
聖書は主に口語訳聖書が用いられているが、ここでは新共同訳に改めた。



奉仕について

1.不満や愚痴のあるところ、奉仕なし
奉仕というものは、自発性が基本であり、神のためにせずにはおられないという気持ちから出発する。その思いなしに奉仕をするときに、必ず不満や愚痴が出てくる。不満や愚痴のあるところに、まことの奉仕はない。(p.55)

2.まことに救われた者こそ
まことの救いを体験した者は、どうしても、主の十字架の道を共に歩まずにはおれなくなる。まことの奉仕の生き方は、何よりもまず、わたし自身のまことの救いから始まる。(p.145)

3.忙しい人こそ
様々な奉仕や伝道活動に参加をして、忠実な教会生活をしている人は、家でも仕事でもヒマのある人がしているかというと、逆である。職場や家庭で責任をもって活動している人が、教会の中でも重要な働きの担い手となる。忙しい生活であればあるほど、教会生活から充実した信仰が与えられる。(p.199)



信仰の継承

1.子どもも一緒に礼拝
日本の教会は説教中心の礼拝になっているため、説教を理解できる大人だけが礼拝に出て、説教が分からない子どもは説教を邪魔する存在と見なされてしまっている。しかし、讃美歌が歌われ、祈りがなされ、御言葉語られている、その中に、分かっても分からなくても置かれるということ、子どもと共に礼拝の場にいるということが大事である。このことは、教会教育の大事さとは別のことである。(p.66-67)

2.信仰の継承と子育て
子どもにも信仰の自由があるという美名のもとに、結局何もしないことは、無責任である。(p.185)

子どもを育てるということは、親が親として、共に育っていくことだ。(p.195)

3.教育とは忍耐である
教育とは忍耐である。この忍耐には二つのことがある。一つは他人に対する忍耐、もう一つは、自分自身に対する忍耐である。この、自分自身に対する忍耐が、一番難しい。一人の人間が成長していく道筋は、長い時間を待つ心と忍耐、そして、自分自身に失望しない忍耐が大事である。神は、数千年の間、絶えず忍耐をして、旧約の民を教え、導き、ついに、イエス・キリストを遣わして、人間の救いを成就された。この忍耐と希望の神を、わたしたちは信じている。(p.209)

4.家族の救いを求める信仰
自分だけ信じていればという考え方は、間違っている。日本の教会がいつまでも、家庭から孤立して逃げ出してきた信仰者の集団であるかぎり、一代限りのキリスト者で終わり、教会の成長発展は望めない。(p.170)

5.家族の救いのために
たとえ見える現実は不可能であろうとも、神、もし許し給わば、必ず家族のすべての者が救われると確信しなければならない。信仰を趣味のように考えて、自分の都合で出たり出なかったりの教会生活をしていて、どうして家族を信仰に導けるか。(p.170-171)



その他

●まことの聖霊信仰
わたしたちがキリストを信じ、キリストに従い、教会の中に生きることは、聖霊の導きなしには起こりえない。そして聖霊は、御言葉の説教と聖礼典を通してわたしたちに力強く働いていてくださる。この聖霊を信じて生きることが、まことの聖霊信仰である。(p.31)

●霊の結ぶ実
霊の結ぶ実(ガラテヤ5:22-23)は、わたしたちがキリスト者として成長、成熟することであり、キリストにしっかりとつながっているなら、キリストの命がわたしたちの中に流れて、わたしたちは霊的に成長して実を結ぶようになる(ヨハネ15:4)。キリスト者が結ぶ実は、わたしたちの隣人に福音を伝え、伝道することである。(p.232-233)

●信仰生活と教会の法
わたしたちは洗礼を受けたとき、「日本基督教団の教憲・教規に従い、・・・」という誓約をしてキリスト者となった。教会の法のもとに教会生活をすることを決意したのである。しかし実際には、教会の雰囲気とか、あの信徒・この牧師が気に入らないからしばらく礼拝を休むなどと、非常に感覚的、情緒的な教会生活を送っていないだろうか。
(p.115)

●出発点としての洗礼
洗礼を受けるとは、神に信頼すること、すべてをまかせることである。「神さま、あなたを信頼して洗礼を受けます。これから幾度つまずき倒れるかもしれませんが、何度でもあなたから洗礼を受けた出発点を忘れずに生きていきます。よろしくお願いします。」ということである。(p.119)

洗礼を受けてキリスト者となるということは、冠婚葬祭をすべてキリスト教ですると決意することだ。様々な抵抗や問題があるかもしれない。結果として、やむを得ずキリスト教でできないようなことがあっても、できるかぎり、このような生活のあり方をしていきたいという努力をすることが必要である。(p.130)

●すべての信仰者に求められている献身
献身は、神が求めておられる人間の生き方である。神を信じて生きることは、献身して生きることである。献身とは、あらためて何かをすることではなく、信仰に忠実に生きることである。(p.154-155)

●緊張味のある役員会を
役員会は、教会員の転出入や財政に関することの事務的なことを協議しているだけでは、緊張味を欠いている。こんなことでは、教会をして堅実ならしめていくことはむずかしい。(p.160)

●己の死を正しく見つめる
キリストの福音は、十字架の死より復活の生を、喜びをもって信じることである。キリスト者こそ、己の死を正しく見つめて、その死に至るまで本当に生きることを知っているものだ。(p.179)

●救いとは
救いは、苦痛や刑罰からわたしを解放することではない。神は、苦しみに耐えうる聖霊を与えることによって、わたしを救いたもうたのだ。(p.191)

●自分を愛するように
自分の心を見せられたら卒倒しかねないわたし自身だが、その自分自身を本当の意味で大切にできる人が、また、人を愛し、人を大切にしていくことができる。(p.193)

●この世のもの以上に
教会生活の中で、いつしか、はじめのころの喜びと感謝が消えていく。イエスはペトロに、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロと同じように信仰以前の自分の生活に帰っていくより他ないと思っているわたしたちに、復活の主は問いかけておられる。「あなたは、キリスト者の少ない社会の中で、未信者の家庭の中で、誘惑の多い学校の中で、そして、自分の趣味や、もっと自分がしなければならないと思っている勉強や仕事の中で、・・・それらのもの以上に、わたしを愛するか」と。(p.203)

●悔い改めとは
悔い改めとは、どれだけ悪いことをしたか、どんなでたらめな生活をしてきたかということではなく、生き方そのものの方向転換である。自分を絶対化していた者が、神を絶対とする生活をすることである。真の悔い改めのために、第一に罪の自覚をすること、第二に罪を捨てることである。自分の罪を告白し、赦しを求めるだけでなく、自分が今までよしとしてきた生き方を全部捨てるのである。間違った罪の生き方から、すべて離れて生きる決心である。イザヤ書55:7。(p.220-221)

神は、人が悔い改めて帰ってくるのを待っておられる。具体的には、日曜日ごとに神の家なる教会に帰ることである。真に悔い改め続ける者は、いつも教会に帰るべきところを見いだしている人である。(p.221)

●慎むべきときと、逃げ出してはならないとき
教会の中で問題を感じ批判をもったときに、安易に自分の正しさを主張することは慎まねばならない。しかし、福音の本質、聖書の基本的な原理がないがしろにされていく現実に対しては、わたしたちは逃げ出してはならない。(p.235)




石井錦一『教会生活を始める』1 [読書メモ]

石井錦一、『教会生活を始める』、日本基督教団出版局、1988年。

自分なりの読書メモ。

なお、石井錦一の全著作を紹介したブログ(2016.8.4)あり。

直接そのままの引用ではなく、若干(ときにはかなり)、自分の表現に改めた。
聖書は主に口語訳聖書が用いられているが、ここでは新共同訳に改めた。


信仰の甘えを克服して成長する

1.主の鍛錬
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。」(ヘブライ12:5)
神は、父なる神であるゆえに、わたしたちを真実な信仰者とするために、訓練される。これまでの人生で一度もこのような痛みを経験したことがないならば、その人は本当に神の子であるかどうか疑わしい。(p.14-15)

2.凝り固まった自分が変えられる修養会
教会生活を続けていると、いつの間にか、自分の理性や生活の中でキリスト教や教会生活をとらえてしまい、一つの固定観念によって自分の信仰をよしとしてしまう。それが変えられるのが、修養会だ。
数日の修養会は、自分の信仰と生活が徹底的に変えられることを求める時だ。修養会に参加していながら、礼拝は月一度しか出られないとか、わたしはこの程度の信者なのだなどと、居直ったおしゃべりををしていては、何の信仰の前進も生まれない。(p.60)

3.自分の信仰に満足しない
もし、わたしたちがほんとうに生けるまことの神を信じるなら、自分をごまかして、まあこのくらいでいい、これでも一応信じているのだという自己満足に我慢ができなくなるはずだ。(p.139)

4.「隠れキリシタン」のような生活では信仰は滅びる
教会の中でどんなに熱心に活動し伝道していても、教会の外で「隠れキリシタン」のように生活していたら、なし崩し的に信仰は滅んでいく。自分の信仰をはっきり言い表して、信仰について恐れず語ることができる信徒でありたい。このように決心して信仰に生きるとき、必ずあなたのすべての問題に希望と喜びと感謝が与えられる。(p.159)

5.甘ったれた信仰
今のわたしたちの教会生活は、甘えの教会生活である。牧師には自分の都合と要求を満たしてくれることを期待し、信徒同士では、自分の信仰はだめだが、相手に対しては完全なキリスト者像を要求する。少しでも期待に反すれば、あれでも牧師か、これでもキリスト者かと言っている。 甘ったれた信仰、甘ったれた教会生活がある。信仰の訓練を受けるということが、今日のキリスト者に最も大切な事柄である。訓練はつらいし、きびしい。逃げ出したくなるが、その訓練に汗を流し、涙をぬぐってやっていくときに、本当の自立したキリスト者が成長してくる。(p.161)

6.自分自身を問われているか
説教を通して、御言葉に厳しくせめられ、自分自身を問われる時、それを一番強く共感し、自らの痛みとして受け取る人たちは、もっとも誠実に信仰に生きている人たちである。ほんとうに聞いて従わなければならない人たちは、しばしば、それは自分のことではないと考えている。(p.201)

7.厳しさを通しての成長
人が成長していくには、様々な蹉跌に会うし、挫折に出会う。蹉跌や挫折に会うごとに、今まで知らなかった自分に出会っていく。(p.217)

8.実際の生活の上で信じているか
理屈としては、主イエスはどんなことでも可能であるお方だと信じている(ヨハネ11:22)。しかし、実際の生活においては、その信仰とはまったくかけ離れた生活をしていないだろうか(ヨハネ11:39)。今ここにいる主イエスが復活であり、命である(ヨハネ11:25)。わたしたちは、マルタと共に、死人のよみがえりを現在のこととして示すイエスの前に立って生きる。(p.229)



祈りについて

1.己の無力さを知る
「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(ヨハネ15:5)。このことが分からないと、祈り求めても、自分で少しはできるという気持ちになってしまう。しかし、どんなにすばらしい知恵も力も、神の前には無力である。わたしには何もないという無力を自覚したとき、「神は何でもできる」(マタイ19:26)という偉大な全知全能の神のすばらしさを知る。(p.34-35)

2.できる限り大きな夢を持て
どうしたらすばらしい信仰生活ができるか、どうしたら自分の家庭をしあわせにできるか、どうしたら仕事や勉強をよりよくしていくことができるか、という夢を毎日、新しく持つ。すると、これを実現するための具体的な祈りをすることができるようになる。そのように、神のために、主イエスのために、教会のために、たくさんの大きな夢を持て。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。・・・」(1ヨハネ5:14-15)。この御言葉に信頼して、できる限りの大きな夢を持つことが大切である。(p.36-37)

3.祈りのはじめに神を賛美する
神を礼拝し賛美するときに、中心は自分から神へと変えられていく。自分中心のままで神を賛美することはできない。神への賛美が祈りのはじめに出てくるとき、わたしたちはまことの祈りの場所に立っている。(p.38)

4.神にすべてを打ち明ける
神にすべてを打ち明けることは、祈りの中で一番つらく苦しいことである。しかし、まず自分の弱さと罪を率直に神に打ち明けるなら、「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちをきよめてくださる」(1ヨハ1:9)。それだから、神にすべてを打ち明けるために、「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。・・・どうか、わたしをとこしえの道に導いてください」と祈るのである(詩編139:23-24)。(p.39-41)

5.聴かれない祈り
(内村鑑三「聞かれざる祈祷」(娘ルツ子の死の直後に語られたもの)から)
わたしたちは、ただひたすらに、神の御心に従順になり、イエス・キリストによってのみ、祈りのすべてが聴かれることを確信しなければならない。聞かれない祈りは、神が御自身へとわたしを引きつけようとして設けられた、恵みの手段である。祈りが聞かれるかどうかを神に対してためすのではなく、むしろ、恵みに与るため、恵みのもとにあることが明らかになるために、聞かれない祈りがある。霊自らが、わたしたちのために取りなしてくださる(ローマ8:26)。これを知っている者は、祈りが聴かれないことがあったとしても、ひたすら祈り求め続けることを忘れない。(p.126-127)



伝道について

1.証しの訓練
教会は、主を証しする訓練を教会員にしなければならない。そして、一人ひとりの信徒が証し人となって、他の人々をキリストのもとに導くのである。このことを忘れた教会は成長せず、この主の招きに答えない信徒は、自分ひとりの信仰にとどまってしまう。(p.49)

2.伝道的のための捧げ物
伝道のためには、時間も生活も、わたしたちが考えるよりはるかに多くのものを捧げなければならない。そうしなければ、一人の信仰者を得ることができない。(p.51)

3.伝道の困難
伝道には困難がある。仕事でも勉強でも、苦労しなくてできるものはない。まして、一人の人を導いて神を信じるに至らせるには、もっとも大きな苦労と困難がある。(p.162)

4.伝道的に生きる
伝道は、計算したり、損得を考えたりしたら何もできない。伝道するのだとかまえないで、日常的に伝道的に生きる生活をするほかない。自分の生きている姿勢を変えることだ。それは、いつも聖書をぶら下げ、人に会えばキリストの話をするということではない。いま、このときに、このわたしにだけできること、このわたしがしなければならない生き方を真実にし続けることによって、証しされるような伝道をすることはできないだろうか。(p.165)



続きは、「石井錦一『教会生活を始める』2」で。



エウセビオス『教会史』2 [読書メモ]

エウセビオス(秦剛平訳)、『エウセビオス「教会史」』(上、下)、講談社学術文庫、2010年。

前回のブログ「エウセビオス『教会史』1」で書誌的な面から紹介した。今回はわたしにとって関心のある箇所のメモ。

主な箇所
(特に、正典成立史への関心から)

● Ⅰ,3,8(p.43)
(キリストの三職)
「預言者たちの中にも聖油を受けて型においてキリストになった者がいる(列王紀上19:16参照)。この者たちはみな、全〔世界〕の唯一の大祭司、全被造物の唯一の王、父の預言者たちの中の唯一の主預言者である神的にして天のロゴス、真のキリストを予示するものにすぎない。」

「キリストの三職は、エウセビオス「教会史」第1巻第3章9節で言及されて以来、多くの人が論じて来た。」
(カルヴァン(渡辺信夫訳)、『キリスト教綱要 改訳版 第1篇・第2篇』、新教出版社、2007年、p.538。)


● Ⅱ,15,1~2(p.113-114)
(マルコ福音書の成立)
「神への敬虔の光は、ペテロの〔言葉〕を聞く者の精神〔の内奥〕をかくも〔深く〕照らした。そこで彼らは、神からの教えを一度聞くだけでは、あるいは書かれていないその教えだけでは満足せず、ペテロの同伴者だったマルコに――その福音書は現在残されている――、言葉を介して自分たちに伝えられたその教えの要約を文書にして残してくれるようあらゆる手だてを尽くして頼み、その嘆願をマルコが承知するまでやめなかった。・・・使徒〔ペテロ〕は、霊の啓示を受けて〔マルコの〕業を知るや、・・・その文書が教会で朗読されるのを承認したと言われる。クレメンスは『ヒュポテュポセイス』の第6巻でこの話を引き、そしてヒエラポリスびとの監督でパピアスという者も同じくそのことを証ししている。」

● Ⅱ,25,5~8(p.138-139)
(パウロとペトロの殉教)
「彼〔ネロ〕の時代にローマでパウロが斬首され、ペトロも同様に串刺しの刑にされたと言われる。・・・二人が同じときに殉教したことは、コリントびとの監督のディオニュシウスがローマ人に〔送った〕説教文書の次の一節によって知ることができる。・・・この二人は、・・・イタリアでも同じ所で一緒に教え、同じときに殉教した。」

● Ⅲ,2(p.143)
(第二代教皇リヌス)
「パウロとペテロの殉教の後、リヌスがローマ人の教会の監督職に任命された最初の者になった。」

「誰がペトロの後継者であるかについて、・・・或る者はリヌスだと言い、或る者はクレメンスだとする。」
(カルヴァン(渡辺信夫訳)、『キリスト教綱要 改訳版 第4篇』、新教出版社、2009年、p.120。)


● Ⅲ,3,1~2(p.143)
(ペテロの第二の書簡)
「わたしたちは、第二の書簡と呼ばれるものが正典には含まれないと教えられてきた。だが、それは多くの人びとに有益であると思われたし、〔事実、〕他の文書とともに熱心に読まれてきた。」

(ペテロの他の文書)
「しかし、わたしたちは、彼の名を冠した『事蹟』や、ペテロによる福音書とされるもの、彼の作とされる『教え』、『黙示録』と呼ばれるものなどが公認された〔文書の〕中で伝えられてきたことを全く知らない。なぜならば、初代の教会著作家や現在の教会作家の中には、それらの証言を使用した者が一人もいないからである。」

● Ⅲ,23,1~2(p.176)
(使徒ヨハネ)
「この頃、イエスの愛した使徒であり福音伝道者だったヨハネは、アジアでまだ生きており、そこの教会を監督していた。・・・ヨハネがその頃まで生きていたことは、二人の証人の言葉によって十分に証明されるだろう。その二人とは他ならぬイレナイウスとアレクサンドリアびとのクレメンスである。」

● Ⅲ,24,2(p.181)
(ヨハネ福音書)
「『ヨハネによる福音書』を認められたものとしよう。なぜならば、それが天が下のすべての教会で読まれているからである。初代〔教会〕の人びとがそれを他の二つの〔福音書の〕後の四番目においたのは、それなりの理由があり、・・・。」

● Ⅲ,24,17(p.184)
(ヨハネの書簡)
「第一の書簡が、現在の人びとや初代〔教会〕の人びとによって、議論の余地なく彼の作とされているが、他の二つは否定されている。」

● Ⅲ,25,1~2(p.185)
(新約正典の文書と順序)
「四福音書の聖なる四つ組が最初におかれ、『使徒たちの事蹟』の文書がそれに続く。その後にパウロの書簡がおかれる。さらにその後に、ヨハネの第一〔の書簡〕と呼ばれるものが来るが、わたしたちは〔その次に〕ペテロの書簡を同じように認めねばならない。それらの後に、『ヨハネの黙示録』をおくのが望ましいと思われる・・・。」

● Ⅳ,25
(オリゲネスの旧約、新約正典の目録)
旧約正典目録はⅥ,25,2。新約正典のリストについてはⅥ,25,3~14。
中でも、ヘブライ書についての有名な「一体、この書簡の著者はだれか。真実を知るのは神である。」はⅥ,25,14。

● Ⅳ,26,14(p.272)
(サルディスの司教メリトの旧約正典目録)
エステル記が除外されていることで知られている。

メリトは、「どんな文書が旧約聖書に含まれていたかを知るためパレスチナに旅行し、そこで得た知識をもとにしてエステル記を聖書から除外した。」
(F.V.フィルソン(茂泉昭男訳)『聖書正典の研究――その歴史的・現代的理解』、日本基督教団出版局、1969年、p.7。)


● Ⅵ,14,1~2(p.42)
(クレメンスの正典への言及)
「彼は『ヒュポテュポセイス』の中で、すべての正典文書の内容を簡潔に語り、疑わしい〔文書〕、すなわち、ユダの書簡や他の公同書簡、バルナバ〔の書簡〕、ペテロの作とされる『黙示録』なども素通りしていない。彼は、『ヘブル人への手紙』について次のように言う。すなわち、それはパウロの作であるが、ヘブル人のためにヘブル語で書かれ、ルカが注意深く訳し、ギリシア人のために公刊した。そこで、翻訳の結果、この書簡と『事蹟』(『使徒行伝』)には〔文体上〕同一の色あいが認められる。」

● Ⅵ,25(p.58-64)
オリゲネスの旧約正典目録とヘブル人への書簡などの正典性についての発言。

● Ⅶ,18(p.127)
(長血をわずらった婦人の像)
「わたしたちが聖なる福音書〔の記述〕で知っている、長血をわずらい、わたしたちの救い主によってその苦しみから解き放たれた婦人はこの地の人(カエサリヤ・ピリピ)であったと言われる。そして、彼女の家はこの町にあるとされ、救い主が彼女にされたよき業のすばらしい記念碑がまだ残っている。・・・わたしたちはその市に滞在したときわたしたち自身の目でそれを見ている。」

● Ⅶ,25(p.140-148)
ディオニュシウスがネポスに反対してヨハネ黙示録の執筆者問題について論じた書からの紹介。

黙示録の正典性については、ディオニュシウスは、「わたしは多くの兄弟がこの小冊子を尊重しているので、それを斥けるような大胆なことはしません。ただし、わたしは自分の理解力の乏しさのためにそれに関しての考えを表明するには至らないことを認めます・・・。私は自分の理解できないものを価値のないものとして斥けたりはせず、・・・。」(Ⅶ,25,4-5)(p.140-141)

「わたしはこの二つ(『ヨハネによる福音書』と公同書簡)の性格や、言葉遣い、そしてその小冊子(『黙示録』)の一般的な傾向と呼ばれるものなどから、〔著者が〕同一人物ではない、と判断します。」(Ⅶ,25,8)(p.142)

● Ⅹ,5,2~14(p.289-292)
エウセビオスがラテン語からギリシア語に翻訳した「ミラノ勅令」


エウセビオス『教会史』1 [読書メモ]

エウセビオス(秦剛平訳)、『エウセビオス「教会史」』(上、下)(講談社学術文庫2024、2025)、講談社、2010年。
上:508頁、下:533頁。

元は、山本書店、1986~88年、三巻本。

文庫化にあたって、上に第1~5巻を収録、下に第6~10巻を収録と、二分冊になった。

また、人名や地名はギリシア語の原音表記から一般的な表記に変更、左註は本文中に小活字で組み込むなど。

巻はⅠ、Ⅱ、・・・、章は(1)、(2)、・・・、節は文中に〔一〕、〔二〕、・・・と表記。


巻末の解題、あとがきなど
上巻の巻末に、訳者による「エピレゴメナ〔解題〕」あり。エウセビオスの生涯についてと『教会史』について。エウセビオスのギリシア語のひどさについても。

エウセビオスが真正な資料とそうでない資料を吟味せずに引用しているとか、典拠としたものから自分に都合のよい結論を性急に引き出そうとしている点について、「エウセビオスは教会史のヘロドトスであって、ツキディデスではない。」(p.489)

下巻の巻末に、
  訳者あとがき
  学術文庫版へのあとがき
  ローマ帝国の皇帝一覧
  教会管区の一覧
  各管区の監督一覧
  殉教者の一覧
  異端の一覧
  引用されている文書の一覧
あり。どれも、『教会史』の中で言及されている箇所が明示されている。

さらに、聖書引用索引、事項索引、人名索引、地名索引あり。

「ヨセフスを読んだ者はまちがいなくエウセビオスに進み、そしてエウセビオスを読み終えた者は、ヨセフスを読み返すであろう。」(「訳者あとがき」p.414)


内容について

「わたしはこの物語の進行にしたがい、各時代の教会著作家のうちのだれが、〔真正性の〕疑わしい〔文書の〕中のどれを利用したか、また正典に含まれ〔教会で〕認められた文書について彼らが何と言っているか、そして、そのように扱われなかった〔文書〕についてどのように言っているかを、〔使徒の〕継承とともに示そうと思う。」
(Ⅲ,3,3)(p.143-144)

第6巻はオリゲネスの伝記的記述や著作とその時代の迫害・拷問・殉教、同時代の人物について。


続きは、「エウセビオス『教会史』2」で、わたしの関心のある箇所のメモ。



「折々のことば」653 [その他]

「折々のことば」653(鷲田清一、『朝日新聞』2017年1月31日)は、前田護郎訳「新約聖書」からローマ書の一節の紹介。
http://www.asahi.com/articles/ASK1W4CJXK1WUCVL00S.html

「折々のことば」には聖書中の箇所が記されていなかったが、8章24節後半~25節である。

新共同訳だと、
「見えるものに対する希望は希望ではありません。・・・わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」



前田護郎訳の新約

1.前田護郎責任編集、『世界の名著12 聖書』、中央公論社、1968年。
中沢洽樹による「旧約聖書」(部分訳)と前田護郎による「新約聖書」(部分訳)

中沢洽樹による部分訳「旧約聖書」は、創世記、出エジプト記、イザヤ書、伝道の書。
(ただし、創世記は20章、25:1~6、26:1~33などを欠く。
出エジプト記は3:18~22、4:8~9,21~23、35:1~40:33などを欠く。
イザヤ書は5:25を10:4と5の間へ移す他、4:2~6、5:26~30、7:18~25、8:19~9:1aなどを欠く。
伝道の書は7:1~14,19~22などを欠く。)

前田護郎による部分訳「新約聖書」は、ネストレ25版(1963年)を定本とし、
 マタイ福音書
 マルコ福音書
 ルカ福音書
 ヨハネ福音書
 ローマ書
 ピレモン書
の6書のみ。

後に、『世界の名著13 聖書』(中公バックス)、1978年。

1968年版で12巻目だったのが中公バックスで13巻目になった。それは、続編として出た「中国の科学」が中公バックス化に当たって12巻目に入れられたため。

2.新約の全訳が、中央公論社、1983年。

3.中央公論社版(1983年)が後に『前田護郎選集 別巻』として復刊。教文館、2009年。


前田護郎訳に対する批判

簡単に見つかるのは、
川村輝典「「聖書の翻訳」の検討 前田護郎編「聖書」(世界の名著12) 新約聖書(四福音書、ローマ、ピレモン)の批判」、日本キリスト教学会編『日本の神学』No.8、1969年、pp.20-27。


まあ今となっては、前田護郎訳は、特に参照すべき訳ではない。


関連する聖書箇所

ヘブライ11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

2コリント4:18「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。・・・」

ヨハネ20:29「・・・見ないのに信じる人は、幸いである。」
など。


星の王子さま

サン=テグジュペリの『星の王子さま』(Le Petit Prince)の中の有名な言葉は、
仏:Le plus important est invisible.
英:What is essencial is invisible to the eye.
内藤濯訳:「かんじんなことは、目には見えない。」
(『星の王子さま オリジナル版』、岩波書店、2000年、p.103。)


宮田光雄

「こころで見ることを知った≪子ども≫の目とは、信仰の目のことでしょう。神にたいする信頼において人間の不安や恐れに打ちかったもの、それゆえに、素直にこころの真実と優しさとにたいして感受性をもつ人は≪子ども≫です。自分の人生を父なる神の愛に全面的に委ねて生きることのできる人は≪神の子≫なのです。」

(宮田光雄、『大切なものは目に見えない――『星の王子さま』を読む』(岩波ブックレットNo.387)、岩波書店、1995年、p.48。)


ついでに、『星の王子さま』に出てくる砂漠や泉などについて、
「夜や砂漠、渇きや泉など『星の王子さま』に出てくるさまざまの象徴は、サン=テグジュペリの生い立ちに影響をあたえたキリスト教的背景なしには理解できないものです。この物語を語る作者の想像力は、これらの象徴の喚起する聖書的な追憶に深く養われたものだ、と言われています。」

(宮田光雄、同書、pp.35-36。)


ちなみにここで宮田は文献として、A.ドゥボォー(渡辺義愛訳)『サン=テグジュペリ』ヨルダン社、1973年を挙げている。


なお、宮田光雄の岩波ブックレットの中に、『新約聖書を読む 『放蕩息子』の精神史』(岩波ブックレットNo.337、岩波書店、1994年)がある。
これを紹介したわたしのブログは、「宮田光雄、放蕩息子の精神史」


イエスの十字架上の七言 [教会年間行事]

2016-02-26の記事「四旬節の定番」で、四旬節定番の本とCDを紹介した。

それと重複するが、今回は、主イエスの十字架上の七つの言葉に関する本とCDの紹介。

CIMG1166 (640x329).jpg

1.
西谷幸介、『改訂新版 十字架の七つの言葉――キリスト教信仰入門』、ヨベル、2015年。
かつてはヨルダン社から出ていたものの新版。七つの言葉をそれぞれ学ぶのにおすすめ。

2.
加藤常昭、『黙想 十字架上の七つの言葉』、教文館、2006年。
学びのためと言うより、じっくり黙想している文章。

3.
W. H. ウィリモン(上田好春訳)、『十字架上の七つの言葉と出会う』、日本基督教団出版局、2017年。
十字架上の七つの言葉を一つひとつ取り上げた、アメリカでの説教なので、学びというより読み物的。

4.
CIMG1174 (640x530).jpgハイドン(Franz Joseph Haydn)「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」(Die sieben letzten Worte unseres Erlösers am kreuze)作品51

最初のオーケストラ版、その後の弦楽四重奏版、ピアノ版、オラトリオ版と様々ある。

弦楽四重奏版は、教会で演奏される雰囲気があるので、礼拝前後のBGMに使ったり、黙想用にかけたりするのに適している。

弦楽四重奏版のCDは、ゲヴァントハウスとかクレーメルとかエマーソンとかいろいろあるが、

ベルギーのクイケン四重奏団(Kuijken Quartet)の演奏も有名で定評があり、モーツァルトの弦楽四重奏(弦楽五重奏では寺神戸亮が加わっている)などでもよく親しまれている。

この演奏は、1994年10月17~20日、オランダ、ハーレム、ドープスヘジンデ教会での録音。
このCD(COCO-70520)は、DENONのクレスト1000のシリーズのNo.109として2003年に発売されたもの(Limited Editionとはたぶんこのこと)。
これは、2001年にデンオンベストマスターズシリーズから発売された「COCQ-85128の原盤による再発売商品」と明記されている。
2010年に出たブルースペックCD版(COCO-73134)もたぶん同じ録音。

5.
シュッツ(Heinrich Schütz)のオラトリオ「十字架上のイエス・キリストの七つの言葉」(Die Sieben Worte Jesu Christi am Kreuz)SWV478もある。


よく知られている讃美歌 [音楽]

『讃美歌21』の中にある曲に限定して、

讃美歌であると認識されているかどうかは別にして、

教会に来たことのない人にも割と知られている(と思う)讃美歌10曲。

この曲は讃美歌になっているんです、とか、讃美歌なんですよ、というアプローチのために。


● 120 主はわが飼い主 The Lord's my shepherd
戦メリ

● 211 あさかぜ静かに吹きて Still, still with Thee
メンデルスゾーンの無言歌第2巻op.30の第3曲Consolation。

● 261 もろびとこぞりて Hark the glad sound! The Savior comes
クリスマス。ヘンデル。

● 264 きよしこの夜 Stille Nacht, heilige Nacht!
英語ではSilent night, holy night。クリスマス。最もおなじみ。

● 434 主よ、みもとに Nearer, my God, to Thee
タイタニック

● 451 くすしきみ恵み Amazing grace
『讃美歌第2編』167では「我をも救いし」、『聖歌』では「おどろくばかりの」なのでややこしい。本田美奈子.

● 471 勝利を望み We shall overcome
ニグロ・スピリチュアル、プロテストソング。

● 493 いつくしみ深き What a friend we have in Jesus
『讃美歌21』では「いつくしみ深い」。葬儀でも結婚式でも歌われる。
文部省唱歌「星の界」(ほしのよ)(杉谷代水作詞)、「星の世界」(川路柳虹作詞)。

● 504 主よ、御手もて Thy way, not mine, O Lord
ウェーバー、魔弾の射手

● 532 安かれ、わがこころよ Stille, mein Wille
英語ではBe still my soul。シベリウスのフィンランディア。


これらの中でもベスト3を選ぶとしたら、
  264 きよしこの夜
  451 くすしきみ恵み
  493 いつくしみ深き
だろう。




J-popのハレルヤ [音楽]

教会に来たことがない若い人たちに、

Jポップによく出てくる「ハレルヤ」ってどういう意味か知ってる?

・・・という展開に使うために、

タイトルに「ハレルヤ」が入っている最近のJ-Pop、10曲。
(主にYouTubeで「ハレルヤ」で検索)

『ごちそうさん』で毎日聞いてた年配の人もいる、ゆずの歌だけでいいのだが、せっかくなので調べてみた。

より以前の名曲には、黛ジュンの「恋のハレルヤ」(1967年、後に荻野目ちゃんがカバー、ちなみに荻野目洋子は柏市出身)とか泉谷しげる(1989年)とかある。



ゆず「雨のち晴レルヤ」 (NHK連続テレビ小説『ごちそうさん』(2013年度下半期)の主題歌)

AAA (トリプル・エー)「ハレルヤ」 (エイベックスのダンス・ポップ、2006年)

GReeeeN「ハレルヤ!!!!」 (2009年のアルバム『塩、コショウ』に収録)

セカイイチとFoZZtone「ハレルヤ」 (『バンドマンは愛を叫ぶ』2014年に収録)

moumoon(ムームーン)「ハレルヤ」 (2011年のアルバムに収録)

普天間かおり「ハレルヤ」 (Leonard Cohenの'Hallelujah'を日本語でカバー!)

Bitter & Sweet「ハレルヤ」 (アイドルっぽい女性2人ユニット。2015/12/23発売のミニアルバム収録)

la la larks「ハレルヤ」  (2015年)

JOYSTICKK「ハレルヤ」 (ヒップホップ)

RAG FAIR「ハレルヤ」 (アカペラ男性グループ、2005年)

Mr.Children「Hallelujah」 (2000年のアルバム『Q』に収録)


ミスチルまで入れたら11曲になった。




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山内進編『正しい戦争という思想』 [読書メモ]

山内進編、『「正しい戦争」という思想』、勁草書房、2006年、14+270+32頁。

一橋大学21世紀COE「ヨーロッパの革新的研究拠点――衝突と和解」の研究成果。

これまで日本になかった、「正しい戦争」あるいは「正戦」に関する基本書としての位置づけで発行された。

第1部は歴史的視点から、ヨーロッパの内と外での正戦論を考察。
第2部は宗教的視点から、キリスト教とイスラム教の正しい戦争論を考察。
第3部は現代思想的論点から、ヨーロッパ(特にドイツ)とアメリカの知識人の議論と国際法理論とを検討。


目 次

はしがき――「正しい戦争」という思想 山内進

序論 聖戦・正戦・合法戦争――「正しい戦争」とは何か 山内進

第1部 ヨーロッパの内外から見た「正しい戦争」

第1章 異教徒に権利はあるか――中世ヨーロッパの正戦論 山内進

第2章 ≪征服はなかった≫――インカ帝国征服戦争――正戦論に対する敗者の異議申し立て 染田秀藤

第2部 キリスト教とイスラームの「正しい戦争」

第3章 キリスト教の正戦論――アウグスティヌスの聖書解釈と自然法 荻野弘之

第4章 イスラームにおける正しい戦い――テロリズムはジハードか 奥田敦

第3部 現代の「正しい戦争」論――ヨーロッパとアメリカ

第5章 20世紀における正戦論の展開を考える――カール・シュミットからハーバーマスまで 権左武志

第6章 最近のアメリカが考える「正しい戦争」――保守とリベラル 阪口正二郎

第7章 国際法から見た「正しい戦争」とは何か――戦争規制の効力と限界 佐藤哲夫

結びにかえて――「正しい戦争」の道徳性 森村進


巻末に文献表(本文の章ごとには分けられていない)と事項索引、人名索引。



以下、「はしがき」と「序論」を読んでのメモ(p.41まで)。


はしがき

・ 戦争が良いか悪いかという判断とは別に、正しいか正しくないかという判断基準がありうる。

「正戦」(justum bellum, just war)は西洋精神史の中で培われてきた神学的・法学的概念である。これに対して、「正しい戦争」(justifiable warとかrighteous warとかgood war)はより一般的に、思想として戦争の是非を論じたり、他文明圏を含めて議論する場合の表現である。

・ 西洋は古代ギリシア・ローマ時代から正戦論を発達させてきたので、現代においても欧米的発想では正しい戦争と正戦が一体的に論じられることが多いが、これらは区別すべきである。正しい戦争がありうるとしても、それは西洋的正戦と同一のものとは限らない。



序論 聖戦・正戦・合法戦争――「正しい戦争」とは何か

正しい戦争は、①神との関係で正当化される聖戦、②ヨーロッパ的観念である正戦、③国際法的な意味で合法とされる戦争に分けられる。

1.正しい戦争
・ 戦争に対する態度は、大きく①肯定派、②否定派、③条件派に分けられる。

・ 肯定派は戦争を賛美する立場、否定派はいかなる戦いも認めない立場である。「正しい戦争」論は、戦争は本来行うべきでないし、避けなければならないが、決して戦わないという選択は非現実的であるとして、条件付きで戦争を認める立場に含められる。

・ 「正しい戦争」の論点は、戦争を行うか行わないかではなく、それが正しい武力行使か否かである。そこでは、事情によっては許される戦争があるというという考えを前提としている。

・ 「正しい戦争」論は、自衛戦争すら認めないというわけではないが、すべての戦争を認めるのでもない。武力行使の必要な事態があることを認め、しかし、その原因と方法に「正しさ」という条件を付すものである。この点で、「正しい戦争」論は、時として「緩やかな平和主義」と重なり合う。


2.聖戦
・ James T. Johnson (1997) による分類:
①神の命令のもとに戦われる戦争――古代イスラエルやイスラームのジハード。これはまず武器への特殊な呼び掛けではなく、信仰への熱意に対する命令である。
②正しく権威づけられた神の代理人により、神のために戦われる戦争――十字軍、スンニ派の指導者の呼びかけによるものなど。
③神自身によって戦われる戦争――旧約聖書。
④内外の敵から宗教を守るための戦争――古代ユダヤ、ジハード。
⑤正しい宗教を宣伝するか神の権威と一致する社会秩序を打ち立てるために行われる戦争。
⑥宗教的一体性を強調し、かつ(あるいは)逸脱者を処罰するために行われる戦争――異端に対する戦い。ドナティウス派に対して、アルビ派・カタリ派への十字軍など。
⑦参加者自身が儀式的にかつ(あるいは)道徳的に「聖」的になる戦争。

・ 十字軍は正当な神の使い、代理人によって訴えられて遂行された聖戦(praelia sancta)である。宗教性を絶対的要因とする聖戦は、正戦そのものではない。

・ 20世紀後半から21世紀にかけて、再び十字軍的とも思える正戦論や聖戦的ジハードが語られることが多くなり始めたが、まず聖戦と正戦を論理的に区別しなければならない。


3.正戦――古代・中世
・ 正戦はあくまでヨーロッパ的な概念であり、聖戦が宗教的であることを決定的要素とするのに対し、正戦は、祖国の防衛など正当な理由を根拠とする戦争である。(ただし、正戦が根拠とする理由は多岐にわたり、そのなかに宗教的理由を含む場合もある。この場合は、聖戦は正戦の一部と言うことになる。)

・ ヨーロッパ中世においては、宗教的社会であるゆえに正戦と聖戦はしばしば重なり合っていた。しかし、近世初頭のヨーロッパの国際法学者たちによって、聖戦と正戦は切り分けられた。

・ アウグスティヌスは、「神の意思」「神の命令」を重視し、その意味で聖戦論を語ったが、言葉は正戦を用いた。ここから、ヨーロッパキリスト教世界に正戦という言葉が流布し、キリスト教といえども場合によっては武器をもって戦うことが許されるという思想が根付いた。

・ トマス・アクィナスの正戦論は、『神学大全』2.2.40「戦争について」に示されている。正戦であるには、①正当な権威、②正当な原因、③正当な意図の三つがすべて必要である。このいずれも、神の意思と関係づけられるわけではない。この点で、アクィナスの正当戦争論は後世に多大な影響を与えた。


※p.19「キケローの正戦論は世俗的なもので、キリスト教の教義とは何の関係もなかった」って、あったりまえじゃん。キケロは紀元前の人間だよ。


4.正戦――近世・近代
・ トマス・アクィナスは聖戦的要素を正戦論の基本的要素から排除し、異教徒との共存の可能性を認めていた。これは中世から近世に到る一つの重要な思想的系譜である。

・ グロティウス(「国際法の父」と呼ばれる)は、スペインの近世スコラ学者たちと同様に、宗教の違いを理由とした攻撃を認めず、自然法を論拠として、徹底して世俗的な正戦論を展開した。

・ ヨーロッパの拡大と理性的普遍主義の中で、人肉嗜食などの人道に反する行為に対して戦争を行使することは合法とされるという主張が出て来た。これは、自然法に基づく普遍的規範を根拠にした刑罰戦争であり、普遍的正義・権利のための正戦であった。

・ ヨーロッパが洗練された文明的存在として意識されるようになると、ヨーロッパは一個の共同体であって、諸国家はその一員と考えられるようになった。その中での主権国家間の争いは、バランス・オブ・パワーの回復の争いに過ぎず、相手もまた主権国家であると尊重されるとされた。

・ エメリッヒ・ヴァッテル(1714-67)は、主権国家は平等であるゆえ、一方が正しく他方が不正であると決めることはできないとした。したがってもはや正戦論ではない。すべての戦争は、主権国家がその最高の意思に基づいて推進するものであるから、主権国家が戦争をすると決断すれば、それを止めるものは何もない。しかし、ヨーロッパは諸国家間の諸関係と種々の利益とによって連結されている集団を形成しているので、主権国家は、相手の殲滅や吸収、奴隷化、植民地化を目指してはならないという一定のルールのもとに戦わなければならない。

・ 戦争は、単に紛争に決着を付ける最終手段に過ぎないものとなった。殲滅と支配ではなく、賠償と条約によって戦争は終結する。戦争の正しさとは、フェアプレーを行うこととなった。そのルールを定める規則が戦時国際法である。


5.合法戦争
・ 二つのハーグ平和会議(1899、1907)で、戦時の国際法が成文化された。それは、文明国間の条約で定められたものだった。また、それは戦争の防止を図るものでも、戦争の正・不正を図るものでもなく、交戦方法や手段の規制、中立制度の確定を目指すものだった。

・ ヴォレンホーヴェンは、ヴァッテル以後の、主権国家による独断的な戦争の自由を批判して、そのような侵略行為は諸国家の連合軍で撃破すべきだとし、国際的な協力のもとで平和を構築することを主張した。これによって、「違法な戦争」という概念が国際法思想の中に取り入れられた。こうして、グロティウスの刑罰戦争論が再び浮上し、正戦論が復活した。

・ 現代における「正しい戦争」とは、個々の国家や集団が自らの判断で正当性を主張する聖戦や正戦ではなく、国際法に照らして正しいとされる戦争のことであり、国際社会が実定国際法または国際機関または国際世論によって合法とみなす戦争のことである。





以前のブログで関連の文献紹介記事:千葉眞編『平和の政治思想史』おうふう、2009年。




タグ:戦争と平和

辻学『偽名書簡の謎を解く』 [読書メモ]

辻学、『偽名書簡の謎を解く――パウロなき後のキリスト教』、新教出版社、2013年、233頁、2200円+税。

読書メモ、その他。

課題について
「第2パウロ書簡は、パウロの書き遺した内容をどう理解し、実践するべきなのかという課題の前に、パウロなき後のキリスト教徒たちが立たされた状況から生まれてきた文書である。・・・そうだとすれば、これは私たち現代のキリスト教徒が抱える課題と同じではないか。」
(pp.6-7)

先行研究について
「〔第2パウロ書簡は〕真正パウロ書簡と比較すると神学思想が希薄だとか、創造性に欠けるとか、パウロ思想をきちんと継承していないといった批判があちらこちらの注解書や神学書には見られる。」
として、土屋博『牧会書簡』(日本キリスト教団出版局、1990年)について、
「土屋(1990)の牧会書簡注解はその典型例である。」とし、具体例を挙げて「著者の主観が十分に反映していると思う」と記している。(pp.7-8)

内 容
第1章
「パウロ学派」なるものは想定できるのか?という問題について。

第2章
他人の名を語って書くことは古代においてもはばかれた。それで、不自然にならないように記述が工夫され、意図的に曖昧な状況設定になっている。このことを各書について示す。

そして、第3章~第6章で、各書ごとに、より詳細に、なぜ偽名だと判断できるのか、真筆らしく装っている工夫点や状況設定、執筆の意図や時期について論じる。

その際、第2パウロ書簡の取り上げる順序は、Ⅱテサ、コロサイ、エフェソ、牧会書簡の順になっている。コロサイを最初とする通例と異なりⅡテサから始めるのは、それが第2パウロ書簡の典型であり、また、もしかしたらⅡテサが第2パウロ書簡の中で最も早く作られた可能性も否定できないからとする。(p.63)

牧会書簡について、なぜ個人宛なのかについては、「もはや新たな教会宛書簡を造り出すには危険が大きすぎるので、個人宛書簡集が見つかったという体裁」がとられたとする。(p.189)

第7章は「まとめ」。
第2パウロ書簡は、パウロ思想の修正であり、しかし、これこそ正しいパウロ理解だと提示しようとしている。

では、新約正典として第2パウロ書簡をどう読むか? 福音書間に矛盾や対立があるのとおなじく、パウロ書簡についても、立体的に多様なパウロ理解を読み取ることができるはず。(p.206あたり)

書 評
・『本のひろば』(キリスト教文書センター、2013.12)に永田竹司による書評(pdf)あり。

・日本基督教学会編『日本の神学』53(2014)に前川裕による書評(pdf)あり。専門的な書評というよりも内容紹介的だが、このぐらいがわたしにはありがたい。

・『新約学研究』(43号、2015)に三浦望による書評あり。 日本新約学会のサイトには、現在第41号(2013年)までしか掲載されていない。



辻学による主な注解書や緒論
(広島大学の辻学研究室のサイトを参考)
1.『新共同訳 新約聖書略解』(日本基督教団出版局、1999年)の、ヤコブ、ⅠⅡペトロ、ユダを執筆している。

2.『ヤコブの手紙』(現代新約注解全書)、新教出版社、2002年。著者研究室のサイトによると、今となっては、修正を加えたい箇所もあるとのこと。

3.緒論的内容は、『新版 総説新約聖書』(日本基督教団出版局、2003年)で、牧会書簡とヤコブを担当している。

4.『福音と世界』2016年3月号から、Ⅰテモテの釈義の連載開始。

5.日本基督教団出版局から刊行予定の『NTJ ─新約聖書注解』のシリーズでは、ⅠⅡペトロとユダを担当。


というわけで、NTJでペトロとユダが出たら、あとは、『福音と世界』の連載がまとめられて牧会書簡の注解が出るのが期待される。


おまけ:辻学のブログあり




「クレタ人はいつも嘘つき」 [聖書と釈義]

「新約でのギリシア文学の引用(1)」「新約でのギリシア文学の引用(2)」「新約でのギリシア文学の引用(3)」「新約でのギリシア文学の引用(4)」の続き。

テトス1:12に出てくる「クレタ人はいつもうそつき」について。

すでに、「新約でのギリシア文学の引用(2)」で、「ネストレ26版、27版のLoci Citati vel Allegatiにはあったが、ネストレ28版では記載がなくなった。」とか書いたが、もう少しいろいろ。


1.すでによく知られていた言葉

おそらく、テトス書が執筆された当時、すでに広く知られていた言葉。

古代においては、クレテ人に対してギリシア人が悪口を言うのは一種の慣例であった。
土屋博『牧会書簡』、日本基督教団出版局、1990年、p.142-3。


(1)カリマコス
紀元前3世紀のカリマコス(英:Callimachus)が作った賛歌のうちの"εἰς Δία"(『ゼウス賛歌』Hymn to Zeusとして知られている)の中に出てくる。

Perseus Digital LibraryのCallimachus, "Hymn to Zeus"の本文9行目。

Loeb Classical LibraryのCallimachus, Hymns 1. To Zeusは、ギリシア語と英訳対照(何回かアクセスしているとsubscribeしろと言われ、一部分しか見られなくなる)。

『世界名詩集大成1 古代・中世』平凡社, 1960に抄訳がある?

(2)タティアノス
タティアノス(羅:Tatianus)の"Oratio ad Graecos," 27.6

Internet ArchiveのOratio ad Graecos by Tatian, (Corpus Apologetarum Christianorum Saeculi Secundi, Vol.6, 1851) (当該箇所のあるページ)

(タティアノス「ギリシャ人に対する講話」(抄訳)『原典古代キリスト教思想史(1)初期キリスト教思想家』(教文館、1999)にこの部分が入っているかどうかは不明。)

(3)オリゲネス
オリゲネス(英:Origen)の『ケルソス駁論』(羅:Contra Celsum), 3.43

(出村みや子訳、『キリスト教教父著作集』第8,9巻(オリゲネス3,4)(教文館、1987、1997)に入っているか未確認)


(4)そのほか、Athenagoras, Suppl. 30など。


これらの情報は、例えば、I. Howard Marshall, "A Critical and Exegetical Commentary on The Pastoral Epistles," ICC, T&T Clark, 1999, p.199-201.


2.エピメニデスの作か?
(1)カリマコスがエピメニデスを引用?
『旧約新約聖書大事典』(教文館、1989)のp.425「クレタ」の項には「エピメニデスの作としてカリマコスが引用している」と記されている。しかし、カリマコスの『讃歌』を見ると、そういうことではないようである。カリマコスはエピメニデスの言葉だと知っていて使ったかもしれないが、むしろ、当時よく知られていた言葉として引用した感じである。「エピメニデスが言ったごとく」などと、詩文の中でわざわざ言うことはしていない。

(2)アレクサンドリアのクレメンス
クレメンスは、『ストロマテイス』の第1巻14章(1.59.2)の中で、エピメニデスについて使徒パウロがテトス1:12で言及していると言っている。
英訳:
http://www.newadvent.org/fathers/02101.htm
or
英訳
http://www.earlychristianwritings.com/text/clement-stromata-book1.html

邦訳
秋山学、「アレクサンドリアのクレメンス『ストロマテイス』(『綴織』)第1巻─全訳」、筑波大学大学院人文社会系文芸・言語専攻紀要『文藝言語研究 言語篇』、vol.63(2013年3月)(pdf)。

(3)ヒエロニムス
ヒエロニムスのテトス書注解(Commentariorum in Epistolam ad Titum)でもエピメニデスに帰しているらしい。

ヒエロニムスのテトス書注解は、PL, 26.572f.とのこと。
http://www.documentacatholicaomnia.eu/02m/0347-0420,_Hieronymus,_Commentariorum_In_Epistolam_Beati_Pauli_Ad_Titum_Liber_Unus,_MLT.pdf
の572ページの途中からの707(PLが採用したVallarsiの版のページ数)の中らしい。ただでさえわからないラテン語なのに、文字がかすれてて余計わからない。

英訳があるようだ。Thomas P. Scheck, "St. Jerome's Commentaries on Galatians, Titus, and Philemon," University of Notre Dame Press, 2010.

(4)J.R. Harris
James Rendel Harris(1852-1941)は、9世紀のIsho'dadによるシリア語の使徒行伝注解を発見し、Expositor誌に発表した。

James Rendel Harris, "The Cretans Always Liars,"The Expositor," Series7, Vol.2, No.4, Oct. 1906, pp.305-317.

James Rendel Harris, "A Further Note on the Cretans,"The Expositor," Series7, Vol.3, No.4, Apr. 1907, pp.332-337.

James Rendel Harris, "St. Paul and Epimenides,"The Expositor," Series8, Vol.4, No.4, Oct. 1912, pp.348-353.

いちいち読んでいられないが、Isho'dadによる使徒行伝注解の中で、エピメニデスによるとされる4行の詩文の2行目に、「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。」という言葉あるとされている。この詩文の4行目は「あなた〔ゼウス〕の中に、我らは生き、動き、存在する」となっている。これは使徒17:28に引用されている言葉。

しかし、I. H. Marshallによると、どうも怪しい(Isho'dad's accuracy has been questioned)ということであり、近年の多くの注解者も疑問を呈しているようだ。

まあ、一つの詩でもって、使徒17:28とテトス1:12という二つの出所不明箇所が解決するとは、なんともうますぎる話だったということか。


結 論

・ 前3世紀のカリマコスの作品の中に「クレタ人はいつも嘘つき」という言葉が出て来ることは確からしい。

・ それ以前では、アレクサンドリアのクレメンスらがエピメニデスとしているものの、エピメニデスが記したかどうかは確証がない。
(言語学的には、ギリシア語がアッティカ方言であってクレタのギリシア語になっていないから、エピメニデスではありえないという専門的な理由もあるようだ。)

・ そもそも、エピメニデスという人物が伝説的というか神話的な面がある。迷子の羊を探しに行って、洞穴で一休みしして昼寝をして、起きたら57年後だったとか。

・ そういうわけで、ネストレは28版から、この箇所の出所について何も記さなくなったのだろう(か?)。

・ 牧会書簡の緻密な注解書は、日本語ではまともなものはなく、I.H.MarshallによるICCがよい。

・ wikipediaは、日本語版も英語版もあてにしてはならない。



「新約でのギリシア文学の引用」
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新約でのギリシア文学の引用(4) [聖書と釈義]

「新約でのギリシア文学の引用(1)」「新約でのギリシア文学の引用(2)」、及び、「新約でのギリシア文学の引用(3)」の続き。

ジョン・ミルトン『アレオパジティカ』の中で、
「パウロは一人の悲劇詩人を含め、三人のギリシャ詩人の格言を聖書に入れるのは、神の冒涜ではないとしました。」
と記されている。
(原田純訳『言論・出版の自由 アレオパジティカ 他一篇』、岩波書店、2008年、p.24。)

訳者の注によると、この3人とは、使徒17:28のアラトス、一コリント15:33のエウリピデス、テトス1:12のエピメニデスであるとあるが、これについて。


●使徒17:28
ここをアラトスとするのは、まったく問題ない。

●一コリント15:33
ここは、多くの注解書でメナンドロス(英語形はMenander)とされている。が、ネストレにはエウリピデスも記されているし、その他にもいろいろ出てくるらしい(たとえば、NIGTCのA. C. Thiseltonによる第一コリント注解のp.1254と、脚注249参照)。

そういうわけで、一コリント15:33をエウリピデスとするのは、間違いではない(メナンドロスも書いておいてほしいところだが)。

また、おそらくそういうわけで、岩波文庫の旧訳の上野・石田・吉田訳『言論の自由――アレオパヂティカ』(岩波文庫4943、1953年)の注は、「ユーリピディーズまたはメナンダーから」とされているのであろう(海外の『アレオパヂティカ』やその研究書を参考にしたのだろうが)。

●テトス1:12
ネストレ28版ではギリシア文学のどこに見られるかの記載がなくなったが、ネストレ26版、27版ではエピメニデスとされていた。
したがって、テトス1:12をエピメニデスとするのは間違っていない。

逆に、ネストレ28版しか見ていなかったら、パウロが引用したギリシア詩人の格言として、何でテトス1:12が挙げられるのか、もとになっているギリシア詩人は誰なのか、分からない。


というわけで、結論:
1.原田純訳『言論・出版の自由 アレオパジティカ 他一篇』(岩波文庫)のこの箇所の注は、まちがっているとは言えません。

2.ネストレは、古い版もちゃんととっておいて、参照しましょう。



なお、ミルトンの『アレオパジティカ』については、
 2015年5月13日のブログ記事
 2015年5月14日のブログ記事
を参照。


「新約でのギリシア文学の引用」
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新約でのギリシア文学の引用(3) [聖書と釈義]

「新約でのギリシア文学の引用(1)」、及び、「新約でのギリシア文学の引用(2)」の続き。

ネストレの巻末のLoci Citati vel Allegatiに記されている古代ギリシア文学からの引用箇所のうち、
ネストレ26版(27版も同一、28版ではなくなった)で出典不明とされている6箇所

  ヨハネ7:38
  一コリント9:10
  二コリント4:6
  エフェソ5:14
  一テモテ5:18
  ヤコブ4:5

についてのコメント。


● ヨハネ7:38
「・・・聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
直接これの引用元と考えられる旧約聖書の箇所はない。ネストレ26~28版の本文も斜体にはしていない。

● 一コリント9:10
「耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。」
ネストレ26~28版の本文は斜体にしているが、新共同訳では引用文になっていない。

● 二コリント4:6
「闇から光が輝き出よ」
ネストレ26~28版は斜体にしていない。直接これの引用元と考えられる旧約聖書の箇所はない。

● エフェソ5:14
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
ネストレ26~28版は、斜体にはしていないが、字下げして詩文にしている。
直接これの引用元と考えられる旧約聖書の箇所はない。洗礼の際の賛歌か、他宗教やグノーシスの影響を受けた言葉が元にあるのか、諸説ある。

● 一テモテ5:18
前半の「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」は、申命記25:4。
後半の「働く者が報酬を受けるのは当然である」は、旧約には当てはまる箇所がないが、ルカ10:7(並行マタイ10:10)でいいんじゃないの?
すでに福音書が知られていたということか。

● ヤコブ4:5~6
「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」
ネストレ26~28版は斜体にしていない。
直接これの引用元と考えられる旧約聖書の箇所はない。
どこまでが引用句なのかについて諸説あり、「・・・妬むほどに深く愛している」までとするものもある(口語訳、フランシスコ会訳など)。


「新約でのギリシア文学の引用」
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新約でのギリシア文学の引用(2) [聖書と釈義]

「新約でのギリシア文学の引用(1)」の続き。

ネストレの巻末のLoci Citati vel Allegatiに記されている古代ギリシア文学からの引用箇所は、
  ネストレ26版では6箇所(使徒26:14の2回を一つに数える)
  ネストレ27版では5箇所
  ネストレ28版では4箇所
になった。

そこで、ネストレ26版にあった全6箇所:
  使徒17:28
  使徒20:35
  使徒26:14
  一コリント15:33
  テトス1:12
  二ペトロ2:22
について、ただし、使徒17:28は前半と後半があってややこしいので2つに分けて、以下にコメントする。


● 使徒17:28前半
我らは神の中に生き、動き、存在する。

前半については、大きく二つの見方がある。

A:明白に何かの引用として記す方法(新共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳)
B:地の文の中で、よく知られている言い回しを使ったとする方法(ネストレ)

もう一つ問題があり、原文ではこの節の真ん中にある「あなたがたのうちの詩人たちの中のある者たちも言っているごとく」(直訳私訳試訳)を
A:「我らは神の中に・・・」と後半の「我らもその子孫・・・」の両方に掛ける(新共同訳)
B:後ろの「我らもその子孫・・・」だけに掛ける(岩波訳、フランシスコ会訳)

この引用元については、ネストレ26~28版いずれも、何も記していない。注解書等には、テトス1:12とともにエピメニデスという説がよくあるが、現在では怪しいということか(テトス1:12の「クレタ人はいつも嘘つき」についての2016年9月29日の記事参照)。

荒井献によれば、「われわれは神のうちに・・・存在する」(荒井は「うちに」に傍点を付している)と謳われている汎在神論的思想は、当時の通俗哲学的な詩句であり、したがって何かの引用ではなく、「それを反映したルカの地の文章とみなすべきであろう。ギリシア語底本〔春原注:ネストレ28版〕も引用文としてプリントしていない。」
(荒井献、『使徒行伝 中巻』(現代新約注解全書)、新教出版社、2014年、p.438-439)



● 使徒17:28後半
我らもその子孫である。

後半は、アラトス(希:Ἄρᾱτος、羅:Aratus)の「パイノメナ」(希:Φαινόμενα、羅:Phaenomena)、5。

作品名の日本語表記にはいろいろあるが、ラテン語風だと「フェノメナ」だけど、ギリシア語の文学なのでギリシア語の読み方に従った方がよい。すると「ファイノメナ」でもよいかもしれないが、古典ギリシア語なので「パイノメナ」の方がいい。

「パイノメナ」は、そのまま「現象」とか、内容を汲んで「星辰譜」などといろいろに和訳されている。

「パイノメナ」はアラトスの現存する唯一の作品で、「天文詩」ともいうべきもので、「ストア主義的なゼウス讃歌から始まって、神話・伝説、ことに星座への変身物語をきわめて効果的に配置しながら1154行にわたって叙述」したもの(松本他『ギリシア文学を学ぶ人のために』世界思想社、1991年、p.248)。

邦訳は、伊藤照夫訳『ギリシア教訓叙事詩集』(西洋古典叢書)、京都大学学術出版会、2007年に収録されている。


● 使徒20:35
「與ふるは受くるよりも幸福(さいはひ)なり」(大正改訳)

「受けるよりは与える方が幸いである」(新共同訳)


ネストレ26版のLoci Citati vel Allegatiにはあったが、27版でなくなった。

ネストレ26版では、Thucydides Ⅱ97,4とある。
ネストレ27版では、本文の外側欄外にThucydⅡと記されている。
ネストレ28版では、本文の外側欄外にも記されていない。

トゥキディデスは紀元前400年頃の古代アテネの歴史家なので、主イエス御自身が言った言葉として記録しているはずはない。似たような言い回しがあるということか。


邦訳は、トゥキュディデス(小西晴雄訳)、『歴史』(上、下)(ちくま学芸文庫ト-15-1,2)、2013年。これは、『世界古典文学全集11』(筑摩書房、1971年)の文庫化。

2.97.4の箇所は、上巻208ページ。これを読むと、たまたま似たような表現があるという程度で、意味は逆だし(「与えるより受けるを得とし」)、格言となるような言い方でもない。


岩波文庫では、トゥーキュディデース(久保正彰訳)、『戦史』(上、中、下)(岩波文庫 青406-1~3)、1966~1967年。
「贈答品の授受については、一般のトラーキア人の間におけると同様オドリューサイ人の間でも、ペルシアの慣習とは逆に、与うるよりも受けるを徳とする風習があったが(そして求められて与えざるは、求めて得ざるよりも大なる恥とされていた)・・・」
上巻、p.290。


邦訳は他に、京都大学学術出版会からのものもあり。


似たような言い方は、ディダケー(十二使徒の教訓)1.5
「誡命に従って与える人はさいわいだ。・・・貰う人はわざわいだ」
佐竹明訳
(荒井献編『使徒教父文書』(講談社文芸文庫)1998年、p.28。)


あるいは、クレメンスの手紙――コリントのキリスト者へ(Ⅰ)2.1。
「受取ることよりもむしろ与えることの方に喜びを抱いている。」
小河陽訳
(荒井献編『使徒教父文書』(講談社文芸文庫)1998年、p.83。)



「与える人は幸いだ」は、ギリシアの格言としてよく知られていたようだ。その一方で、この言葉が含まれた主イエスの語録があったと考えられるかもしれない。

ただし、主イエス自身がこれを言ったと言えるかどうかは難しそうだ。
(荒井献、「「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使20:35)はイエスの言葉か」 in 『福音と世界』2016年9月号、新教出版社、pp.34-41参照。)



● 使徒26:14
とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う。

エウリピデス(希:Εὐριπίδης、羅:Euripides)の「バッカイ」(希:Βάκχαι、羅:Bacchae), 795(ネストレ27版は794sと記す).

ネストレ26版には、Euripides, Bacchae 794 とJulianus, Or. 8,246b(ユリアヌス『演説集』)の両方が記されているが、27版でJulianusはなくなった。ユリアヌスは、361-363年にローマの皇帝を務めたいわゆる背教者ユリアヌスのことなので、より古い紀元前480頃(あるいは485頃?)-406頃のエウリピデスだけが残されたということか。

「バッカイ」について、ディオニュソス(元はギリシア語なので、ラテン語風に「ソース」などと伸ばさない)のことをローマ神話では「バックス」と言い、これがさらにギリシア語に戻されて「バッコス」となり、彼に信従する女性たちのことを、これを女性複数形にして「バッカイ」と言った(ということだろうと思う)。それで、「バッコスの信女たち」という表記もある。

「バッカイ」の邦訳は、逸身喜一郎訳で岩波書店の『ギリシア悲劇全集 9』に収録されている(文庫化されている。『バッカイ――バッコスに憑かれた女たち』岩波文庫赤106-3、2013年)。
これによると、795行目(794行目から文はつながっている)は、ディオニューソスの言葉で、
「棒を蹴とばして怪我をするより、私なら供物を捧げるのに。」
逸見喜一郎訳
(『ギリシア悲劇全集9』、岩波書店、1992年、p.50)
(文庫だとp.82。)



岩波訳の注によると、これは古代ギリシアの格言で、エウリピデスの他に、アイスキュロスの『アガメムノン』1624にも出てくるらしい。

アイスキュロスは前525年生まれなので、エウリピデスより年長である。ネストレがエウリピデスを記すのは、アイスキュロスの方はまだ格言的な言い回しになっていないためか。

「アガメムノン」の邦訳は『ギリシア悲劇全集1』(久保正彰訳、岩波書店、1990年)に収録されている。この1624行目は、
「突き棒を蹴るな、ということだろう。蹴って痛がるのは、あなたのほうだ。」
久保正彰訳
(『ギリシア悲劇全集1』、岩波書店、1990年、p.106)



格言とかは、少しずつ表現が変化しながら自然と語り継がれ広まるという面もあるだろうから、そもそもぴったりの出典というものがない場合もあるだろう。パウロは、自分の回心の話をする際、ギリシア文学を意識的に引用したというより、すでによく知られていた格言を、出典など気にせずに挟んだという感じではなかろうか。


● 一コリント15:33
悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする。

喜劇作家メナンドロス(希:Μένανδρος、英:Menander)の「タイス」(希:Thaïïs)の断片から(番号は、ネストレ27版ではKockの218、ネストレ28版ではKassel-Austinの165)。


ネストレ27版、28版では、括弧して、エウリピデスの断片1024とイコールとある。

岩波書店『ギリシア悲劇全集12 エウリーピデース断片』(1993年)に邦訳あり。この1024は、
「(三行破損)」と記した後、つまり4行目として、
「邪悪な交わりがすぐれた風習を損なってしまうのである。」
(p.477)


年代的には、メナンドロスは前342/1年~293/2年、エウリピデスは前485/4頃~406年である。
(松本他編『ギリシア文学を学ぶ人のために』世界思想社、1991年による。)


しかし、これも、すでによく知られた格言であったのだろう。
(cf. Anthony C. Thiselton, "The First Epistle to the Corinthians: A Commentary on the Greek Text" (NIGTC), Wm. B. Eerdmans Pub. Co., 2000, p.1254.)


● テトス1:12
クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。

「クレタ人はいつもうそつき」あるいは「クレタ人はいつも嘘をつく」について、エピメニデスEpimenidesの「託宣について」という意味のDe oraculis。ギリシア語ではπερὶ χρησμῶν

ネストレ26版、27版のLoci Citati vel Allegatiにはあったが、ネストレ28版では記載がなくなった。

「エピメニデスの作としてカリマコスが引用している」(『旧約新約聖書大事典』、教文館、1989、p.425「クレタ」の項)ということだが、エピメニデスの存在自体が伝説的である。ネストレ28版のLoci Citati vel Allegatiでなくなったのはそのためか、あるいは、それ以前からある格言らしいからか。


● 二ペトロ2:22
前半の「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」は箴言26:11。

後半の
豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る。
について、ヘラクレイトス(羅:Heraclitus)断片B13?。

『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2002年)の「豚に真珠」の項(大貫隆)では、2ペトロ2:22後半について、「ヘラクレイトスの断片13(ディールス/クランツ版)「豚はきれいな水よりも、泥を喜ぶ」(アレクサンドリアのクレメンス『絨毯』Ⅰ,2,2他に引用)が有力である。」
とある。「絨毯」とは「ストロマテイス」のことか?

アレクサンドリアのクレメンスの『ストロマテイス』は、平凡社の『中世思想原典集成1』にあるのか?
また、教文館の『キリスト教教父著作集』収録への準備として、秋山学による翻訳が、筑波大学大学院人文社会系文芸・言語専攻紀要『文藝言語研究 言語篇』に順次発表されている。「ストロマテイス」の第1巻は、vol.63(2013年3月)にある(pdf)

注解書には、『アヒカルの書』(アヒカル物語とも、Achikar)とされているものが多い(『新共同訳聖書注解』、『現代聖書注解』など)ので、以前はこの説が主流だったか?

いずれにしても、パウロもペトロも、出典となるギリシア文学を知っていて引用したというよりも、格言のような形で当時、人々にあるいは知識人の中で良く知られていた言葉を使ったということだろう。


「新約でのギリシア文学の引用」
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新約でのギリシア文学の引用(1) [聖書と釈義]

ネストレの巻末のLoci Citati vel Allegatiに、新約の中で、旧約その他の文書から引用されている言葉の箇所がまとめられている。

そこには、旧約聖書と旧約外典偽典からの引用箇所の他、古代ギリシア文学などからの引用もまとめられている。

Loci Citati vel Allegatiは、ネストレ26版からある(ネストレ25版(わたしが見たハンディ版)は旧約からの引用のみ)。

ところが、ギリシア文学からの引用として挙げられている箇所は26版、27版、28版それぞれで異なる。

そこで、それぞれの版に掲載されている箇所を挙げる。

その際、ネストレでは著者のアルファベット順に記されているが、ここでは聖書の順で記す。


1.ネストレ26版
ギリシア文学からの引用は7箇所、不明6箇所。
  使徒17:28
  使徒20:35
  使徒26:14(×2)
  一コリント15:33
  テトス1:12
  二ペトロ2:22

不明が、
  ヨハネ7:38
  一コリント9:10
  二コリント4:6
  エフェソ5:14
  一テモテ5:18
  ヤコブ4:5
(これらのうち、一コリント9:10と一テモテ5:18は斜体で記されていて、何かの直接的な引用とされている)


2.ネストレ27版
ギリシアの文学からの引用は5箇所、不明6箇所。
  使徒17:28
  使徒26:14
  一コリント15:33
  テトス1:12
  二ペトロ2:22

不明が、
  ヨハネ7:38
  一コリント9:10
  二コリント4:6
  エフェソ5:14
  一テモテ5:18
  ヤコブ4:5
(26版同様、これらのうち、一コリント9:10と一テモテ5:18は斜体で記されている)

※ネストレ26版と比較して、使徒20:35がなくなったのと、使徒26:14が一つになった。その他は同一。


3.ネストレ28版
ギリシア文学からの引用は、4箇所。不明の記載はない。
  使徒17:28
  使徒26:14
  一コリント15:33
  二ペトロ2:22

※ネストレ27版と比較して、テトス1:12がなくなった。不明の記載もなくなった。


「新約でのギリシア文学の引用」
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石井錦一の著作 [書籍紹介・リスト]

石井錦一、1931年2月25日~2016年7月4日。

石井錦一『キリスト教入門』1.『キリスト教入門 第一部』、福音プリント社、1955年、5+91頁。

1972年に松戸教会から再版されたときには『キリスト教入門』。聖書について、神について、イエス・キリストについて、聖霊について、三位一体の神について、教会についての全7講。それぞれの末尾に理解を確認する質問付き。




石井錦一『祈れない日のために』2.『祈れない日のために』、日本基督教団出版局、1985年、194頁。

『信徒の友』の巻頭の祈り集。「まえがき」は高見澤潤子。巻末の「あとがき」は石井錦一によるが、さらに日本キリスト教団出版局局長代行四竈揚による「発刊に至るまで」がある。




石井錦一『教会生活を始める』3.『教会生活を始める』、日本基督教団出版局、1988年、254頁。

『信徒の友』に掲載されたさまざまな文章をまとめたもの。教会生活の初心者だけでなく、教会生活の長い者にとってもためになる。信仰生活の中にある自分勝手さや甘えを厳しく指摘する。あとがきは、関東大震災の廃墟の中から日本同盟基督協会の再建と伝道を志しつつも、病のために26歳で生涯を終えた「上島時之助をおぼえて」。




石井錦一『信じられない日の祈り』4.『信じられない日の祈り』、日本基督教団出版局、1992年、198頁。

『信徒の友』の巻頭の祈り集。『祈れない日のために』の続編。巻末の「祈れないときの祈り」は、1991年10月27日のNHK第二「宗教の時間」で放映されたもの。




石井錦一『癒されない心の祈り』5.『癒されない心の祈り』、教文館、1998年、202頁。

『信徒の友』の巻頭の祈りやその他を集めたもの。最後の「祈りの中の出会い」の章では、著者の病気や『祈れない日のために』出版の経緯など、そして、脳腫瘍で10歳で亡くなった少年の話とその両親の手記。さらにあとがきでは、挿絵を描いた林静枝ががんの病の中で洗礼を受けたこと。1999年の再版から、「再版に際して」で林静枝が亡くなったことが記されている。




石井錦一他『わたしの伝道』6.『わたしの伝道』、発行:日本基督教団伝道委員会(発売:日本基督教団出版局)、2010年、110頁。

伊藤瑞男、東岡山治、西原明と共著。石井の筆は「信徒によって育てられた」。
2012年9月9日のブログに抜き書きメモあり。




松戸教会月報 石井錦一先生記念号.jpgおまけ

葬儀で配られた、松戸教会月報に連載された記事をまとめた特集号。




追 加

石井錦一、木下宣世、関茂、渡辺正男、『一日一祷 毎日の聖書と祈り』、日本基督教団出版局、2020年。

『信徒の友』巻頭の祈りを集めたもの。




樋口陽一 朝日新聞夕刊 [その他]

朝日新聞夕刊「人生の贈りもの わたしの半生」コーナー
2016年5月30日~6月10日、憲法学者 樋口陽一

私なりのメモ


井上ひさし『子どもにつたえる日本国憲法』
「ひさし君が2006年に「子どもにつたえる日本国憲法」という本で、こう書いています。国民が主権の憲法は、国民が国の基本的な形を作るために出した、いわば「政府への命令書」。だから国や政府の好き勝手は許されない。「憲法が、国家の暴走を食い止めている」と。」
第1回(2016.5.30)より


最初の話は面白く
「正確な知識で肉付けする作業は、後でいい。教師が生徒に話す「最初の話」は面白くなくてはね。」
第3回(2016.6.1)より


憲法には人間の経験と知が蓄積されている
「憲法の中には、社会のあり方を数百年にわたって試行錯誤してきた、人間の経験と知の蓄積があるんだ。自由や権利といった人間に共通する普遍的な価値を守ることと、各国の多様な文化や伝統を守ること。二つの両立は可能です。」
第8回(2016.6.8)より


憲法押しつけ論に対して
「丸山真男先生は、私の本への返書にこう書いて下さった。「ある一つの文化の発生論と、その普遍性・妥当性を混同する議論が根強いが、キリスト教はほかならぬヨーロッパ世界の外で発生したのです。」つまり文化は、発生地を離れて広がり、定着していくものだと。」
第9回(2016.6.9)より


個と、群れへの連帯
「群れに従えば、いちいち行く先を考えずに済む。しかし群れごと全滅する危険もある。どの個体も、群れに任せずに、自分の思う「正しい方向」を考え続けていれば、全滅を回避できるかも知れない。・・・「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉があったが、私の場合は「あくまで個に徹し、時に連帯も恐れず」なんです。」
第9回(2016.6.9)より


守るためのメンテナンス
「守るためのメンテナンスを怠ってはいけない」
第10回(2016.6.10)より


歴史の凝縮
「人権も、国家も、憲法も、平和も、しょせんは人間が作り出したフィクションです。・・・議論をやめれば、あっけなく消えてしまう。〔しかし〕その幻想は、理想でもある。そして人間の途方もなく長い歴史が凝縮されています。」
第10回(2016.6.10)より


憲法を読み解くために
「憲法には身を守るための様々な「鍵」がありますが、「自分はどう生きたいのか」「何に価値を置くのか」と常に問うていかなければ、なかなか読み解けない。その義務は、自分自身が自分に課すほかない。」
第10回(2016.6.10)より



愛に関する記事(これまでのまとめ) [まとめ]

これまでのこのブログでの愛に関する記事の一覧
(それぞれは脈絡はぜんぜんありません)


2016-06-14 「「愛」は自己本位的」
「愛」という日本語は自己本位的な言葉?


2016-05-16 「「愛します」と歌うワーシップソング2」
主を「愛します」と歌うことの是非


2016-05-03 「「愛します」と歌うワーシップソング1」
Geoff Bullockの"The Power Of Your Love"と"Just Let Me Say"


2016-02-21 「加藤隆『旧約聖書の誕生』」
相手に価値がなくても捨てないのが愛。だから・・・


2015-07-28 「佐古純一郎「愛は応答である」(2)」
応答的関係による「責任社会」


2015-07-27 「佐古純一郎「愛は応答である」(1)」
「自分を愛するように・・・」の意味


2015-07-02 「佐古純一郎「愛の力」」
愛は他者を生かす力


2015-06-24 「佐古純一郎」
愛するは愛されるの同義語だ。


2014-07-09 「晴山陽一『すごい言葉』2」
ニーバー「神は汝の敵を愛せとは言ったが、・・・」


2012-10-11 「奥田知志『助けてと言おう』その2」
「「助けて」と言える牧師」のところ。


2011-05-30 「アガパオーとフィレオー」
ヨハネ21:15~19でアガパオーとフィレオーに違いがあるか。


● 2010-09-15 「教会の隣人とはだれか?(2)」
この記事の9項と10項で、善きサマリア人の隣人愛について。



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山浦玄嗣『イエスの言葉 ケセン語訳』 [読書メモ]

山浦玄嗣『イエスの言葉 ケセン語訳』(文春新書839)、文藝春秋、2011年。

マタイの八福をはじめ、4福音書だけでなくその他の箇所からもケセン語訳で御言葉を紹介し、聖書の信仰を独特に語る38話。
4福音書以外では、創世記2:16~17、11:4、ローマ3:28、ヤコブ2:24~26。

漢語を使わないで表現し、聖書特有の用語も避け、世の人々に具体的に通じる訳語を考え、辞書的意味や語源はほぼ無批判に取り入れる。

以下は、ケセン語訳でおもしろかったところではなく、解説で目にとまったところ。

(愛については、前回の記事「「愛」は自己本位的」に記した。)


●善悪の知識の木の実
「善悪の知識」とは、何が善で何が悪かということを判断する力のこと。ことの善悪を判断するとき人は、「俺は絶対正しい!」と信じて、絶対者になってしまう。神に対して人間の側が絶対に正しいなどと言うことはできず、また、人との間で自分は絶対に正しいと信じて突き進むと、その先に滅びが待っている。すべての戦争は双方とも正義を振りかざす旗のもとに行われ、正義と正義がぶつかり合うところに破滅がある。

しかし、人間は正しさに忠実であろうとするほど、自分の信じる正義この、抜け道のない悲惨から人間を助けるのが神であり、そこに救いがある。
(p.34~37あたりを参考にかなり言い換えた)



●幸せと幸いの違い
幸いは、自己中心的な都合の良さを喜ぶのであって、運まかせの好都合という側面がある。一方、幸せは人と人との交わりにおける温かくほのぼのとしたうれしさである。


●マタイ5:4
親しい人が亡くなって、その野辺送りで泣いている人を、イエスはそばに引き寄せて、しっかりと抱きしめてくれる。ここに幸せがある。


●マタイ5:5「柔和な人」
支配者の搾取に抵抗せず言われるままに従う人が、為政者からみれば「柔和な人」であり、そのような財産もない人に、イエスは相続財産をくださる。


●マタイ5:8「神を見る」
顔と顔を合わせ、目と目を合わせて微笑みかわす幸せをいただく。「かたじけなくも神さまにお目通りがかなう」とでもいうべきだ。


●「裁くな」
「裁くな」とは「人の善し悪しを言うな」ということである。人間はどうしても、自分のものさしで他人を測る。自分のものさし以外のものさしがあるかも知れないということを考えたくもない。

人間は常に自己修正の余地を自分の中に持っている必要がある。絶対に正しい人などどこにもいないからである。

これこそがエデンの園で「善悪を知る木」の実を食べた人間の姿であった。人が自分の信じる正義に徹底的に忠実であろうとすれば必ず陥ってしまう救いようのない悲惨な結末、それを聖書は「闇」と呼んでいる。この「闇」から抜け出すにはどうしたらいいのか。それが、「敵であっても大事にしろ」「人の善し悪しを言うな」である。
(p.128-129)



●治療と治癒
治療と治癒は全く異なる。生活習慣の改善を指導し、薬を与え、手術をし、病気が平癒するように手を尽くす。これが治療である。しかし、いくら治療しても治癒しない場合がある。テラペウオー(治療)することはイアオマイ(治癒)させるための手段であり、イアオマイさせることはテラペウオーすることの目的であって、両者は同じではない。

「テラペウオーする」は「治療する・いやす」の両義を持ち得るが、しかしその過去形「テラペウオーした」は、治療に成功した場合にだけ「いやした」と訳せるのであって、失敗したら「いやした」とは訳せない。しかし、失敗したとしても「治療した」とは訳せる。
(p.175~176)





「愛」は自己本位的 [読書メモ]

山浦玄嗣『イエスの言葉 ケセン語訳』(文春新書839)(文藝春秋、2011年)のpp.112-119あたりから、私なりの言葉でのまとめ。


「愛」という語について


日本語の「愛」は自己本位的
愛とは相手を好きになることで、特に今の日本語では、男女の恋愛感情について言うのがほとんどである。このような愛においては、自分の気に入ったものは愛するが、気に入らないものは愛せない。すなわち、愛とは自己本位的な感情である。


「愛する」とは上の者が下の者に言う言葉
もともと、愛という言葉は上の者から下の者に対して使われた。主君は臣下を愛すると言うが、臣下が主君を愛するとは言わない。下の者が上の者に対していだく好意は「慕う」と言う。臣下は主君をお慕いするのである。これが元来の日本語の使い方である。


敵を大切にする
ドチリイナ・キリシタンでは、アガパオーを「大切にする」と訳した。「大切にする」なら、上下関係も好き嫌いもない。上杉謙信は、塩不足で困窮していた宿敵武田信玄に塩を送って助けた。これが「敵を愛する」、いや「敵を大切にする」ということだ。          


愛とは大事にすること
大事なことは、憎い相手に対しても、あいつも人なのだと思って大事にすることだ。大事にするということは、自己本位の感情とは関係がなく、あくまでも相手本位の行動を指す言葉である。

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