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テルトゥリアヌス、埴谷雄高、上野千鶴子 [読書メモ]

2010年11月14日のブログで、「不条理なるが故に、我信ず」(Credo quia absurdum)に近い言葉がテルトゥリアヌスの著作のどこにあるかについて記した。

現存する著作にはまったく同一の記述は見当たらないが、これに近い表現はあるということである。

テルトゥリアヌスの著作からの直接の引用ではないとしても、幾人かの方々からご指摘いただいたように、テルトゥリアヌスの思想をよく現している言葉として、いつしか広まったものだと考えることができるだろう。


評論家・小説家の埴谷雄高(はにや・ゆたか)に『不合理ゆえに吾信ず』という本がある(現代思想社、1961年)。

この本について、本人は「アフォリズム集」と言っている(巻末の埴谷雄高「遠くからの返事」)。谷川雁は「作者への手紙」で「詩というよりは短い形而上的メロディ」と表現している(p.115)。

もともとは1939年頃に同人誌『構想』に連載。その後、1956年に月曜書房から出たらしい(松岡正剛の千夜千冊のページからの情報)。

1961年に現代思想社から出た後は、河出書房新社や講談社の作品集にも収録されているが、やはり、正方形(しかし実測してみたら縦181×横186mm)で“Credo, quia absurdum.”としか書かれていない布張りの装幀でないとインパクトがないだろう。

もちろん、内容にインパクトがあるのだが、現代でもこういうのにあこがれる人がいるようだ。

「サルトルが『嘔吐』を書いたのが1938年、そして、この『不合理ゆえに吾信ず』が私達がその頃やっていた同人誌に出されたのが1939年ですが、それらの仕事は、互いに相知らぬ遠い世界のここかしこで、社会の課題がまだ十分に果たされてもいないにもかかわらず、しかも、すでに新しい大きな存在論の課題に直面しなければならなくなった私達の位置の恐ろしい同時性を物語っているかのごとくです。」

巻末の埴谷雄高「遠くからの返事」、p.128-129。


タイトルについては何も記されていない。したがって、テルトゥリアヌスへの言及もない。


埴谷雄高が、自殺することと子供をつくらないこと、この二つを人間の「最も意識的な行為」だと考えていたことはよく知られている。

そして彼は、「寛大になれない過ち」として「子どもを生むこと」を挙げた。しかし、彼は何度も妻に中絶させている。

これに上野千鶴子が怒っている。

寛大になれない過ちは子どもを生むこと、と平然と答えつつ、妻とセックスを続けて避妊もせず、何度も中絶させておきながら、どの面(つら)下げて言うか!・・・そういう人間の思想は、それだけで信用できない・・・。

上野千鶴子「死ぬための思想/生き延びるための思想」 in 上野千鶴子『生き延びるための思想 新版』(岩波現代文庫/学術270)、岩波書店、2012年、p.283。


1.
上野千鶴子の上の言葉は、これまでの思想はほとんど「死ぬための思想」であって、「生きるための思想」が必要なのにそれがなかったというような議論の中で出て来た話である。

思想は生き方になってこそ思想であるし、それこそが生きた思想だといえる。

「生きるための思想」を築いたとしても、その人がその思想に生きていなければ、死んだ思想になってしまう。

2.
もっとも、その人の生き様は脇に置いて、書物なりの公にされた文献に限定して、そこに記されていることのみを思索や学問の対象とする方法もあり得る。

しかし、社会学の専門家からすれば、その人の生き様が伴っていなければ信用できないということになるのだろうか。

3.
では、神学と神学する者の生き様の関係はどうだろうか。

神を認め、いや、知的に認めるのみならず、心から神を誉め讃えることが、その人の人生の根幹になっていなければ、ほんとうの神学の営みは不可能であろう。

その一方で、神に対する罪を謙虚に認め、人の罪がいかに深いかを知るならば、とても理想通りの生き方はできず、神の御心に適う生き方からはほど遠いことも自覚される。

この相矛盾するような狭間で、しかし、イエス・キリストによって罪を赦されて、神との関わりの中を生きる者へと恵みによって召されていることを感謝しつつなされるのが神学だということになろうか。




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