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ヴァルター・リュティ [書籍紹介・リスト]

ヴァルター・リュティ(Walter Lüthi, 1901.1.5 - 1982.9.3)

今年の9月3日でリュティ没後30年。

(ちなみに、2012年9月3日はドラえもん生誕マイナス100周年だっ。)


1.邦訳リスト

 邦訳出版リストは、野崎卓道(のざき・たかみち)訳、『祝福される人々 山上の説教講解』、新教出版社、2009年。の「訳者あとがき」にある。

 ただし、次のものが抜けている。

 井上良雄編訳、『我は初めなり、終わりなり』(新教新書43)、新教出版社、1960年。

2.生 涯

 リュティの生涯についても、野崎卓道訳『祝福される人々 山上の説教講解』の「訳者あとがき」に記されている。

 その中から、面白いエピソードを一つ。

 牧師になっていたリュティが、祭りの時に友人たちとビールを飲んでいたら、リュティを知っているある女性教師が、牧師がビールを注文するとは何事かと咎めた。彼女は断固たる禁酒主義者であった。リュティはこの女性と結婚した。

3.祈祷会での学び

 訳者は、自身の教会の聖書研究祈祷会で9回に分けてリュティの『祝福される人々 山上の説教講解』を学んだとのこと(「訳者あとがき」、p.168)。

 ちょうど私も祈祷会で「山上の説教」の「幸い章句」をじっくり取り上げようと考えていたので、この訳者の言葉に惹かれて、この本をテキストにしてみた。

 ところが、いきなりこの本を読んではちょっと消化しきれない。そこで、この本を祈祷会の出席者皆で読む前に、例えばマタイ5:3では、旧約から「貧しい」とはどういうことか、新約では「貧しい」とはどういう意味か、「天の国」とはどういうことかなどを、聖書箇所を多く挙げて整理しつつ確認していった。

 そうしたら、1節を学ぶのに一月以上かかり、祈祷会30回を超えてまだ「幸い章句」を続けている。


新教セミナーブックのボンヘッファー [書籍紹介・リスト]

 現在「新教セミナーブック」のシリーズに入っているボンヘッファーの著作は次の5冊。

新教セミナーブック31
『キリストに従う』(森平太訳): 『ボンヘッファー選集 第3巻 キリストに従う』(1966年第1版、1972年第2版)が2003年に新教セミナーブックになった。

新教セミナーブック32
『現代キリスト教倫理 増補改訂版』(森野善右衛門訳)2003年。: 『ボンヘッファー選集 第4巻 現代キリスト教倫理』(1962年)が、1978年に原著の付録の部分も収録して増補改訂版となり、2003年に新教セミナーブック32として新装版。訳者によると、1992年の原著新版に沿った新訳の準備を進めているとのこと。

新教セミナーブック33
『説教と牧会』(森野善右衛門訳)。最初は1975年に「教会と宣教双書1」。2004年に新教セミナーブック。

新教セミナーブック34
『教会の本質』(森野善右衛門訳)。最初は1976年に「教会と宣教双書6」。2004年に新教セミナーブック。

新教セミナーブック38
『告白教会と世界教会』(森野善右衛門訳)2011年。『ボンヘッファー選集 第6巻 告白教会と世界教会』(1968年)から、単行本となった『共に生きる生活』を除き、新たに「アメリカ日記」を追加。その他、訳文を見直し、訳者による付論を追加。

ボンヘッファー『共に生きる生活』 [書籍紹介・リスト]

ドイツ語原著

(1) 最初は、Theologische Existenz Heuteという双書のHeft 61として1939年に出版された。
(2) 次に、単行本で、Dietrich Bonhoeffer, "Gemeinsames Leben, Chr. Kaiser Verlag: München, 1939.
(3) 後に、『ボンヘッファー全集』(Diertich Bonhoeffer Werke)(DBWと略される)に収められた。Herausgegeben von Gerhard Ludwig Müller und Albrecht Schönherr, "Dietrich Bonhoeffer Werke, Fünfter Band," Chr. Kaiser-Verlag: München, 1987.

英訳のタイトルは"Life Together"。

邦 訳

岸千年訳『交わりの生活』(ほぼ新書サイズ170mm×110mm)1.岸千年訳『交わりの生活』(聖文舎、1960年)の聖文舎編集部による「まえがき」によれば、同志社大学神学部の学生の朝比奈敏子が1954年、闘病中に英訳からの重訳で翻訳を完了したものがあるとのこと。

2.しかし、英訳にはかなり省略されている箇所があったので、聖文舎が岸千年にドイツ語原書からの翻訳を依頼して出版されたのが、岸千年訳『交わりの生活』、聖文舎、1960年、新書サイズ、145頁。


森野善右衛門訳『告白教会と世界教会』(四六判)3.森野善右衛門訳、『ボンヘッファー選集Ⅵ 告白教会と世界教会』、新教出版社、1968年。この中のpp.263~383が「共に生きる生活」。上のドイツ語原著(2)の1955年第8版を翻訳の底本とし、英訳を参考にして、原著にはない小見出しが付けられた。


森野善右衛門訳『共に生きる生活』(教会と宣教双書2)(四六判)4.森野善右衛門訳、『共に生きる生活』(教会と宣教双書2)、新教出版社、1975年。奥付には改訂新版と記されている。『告白教会と世界教会』に収められたものに必要最小限の訳文の訂正を加えて単行本化。「解説――あとがきに代えて」は新たに執筆された。聖句索引あり。138+索引2頁。


森野善右衛門訳『共に生きる生活』改訳新版(四六判)5.森野善右衛門訳、『共に生きる生活』(改訳新版)、新教出版社、2004年。『ボンヘッファー全集』(DBW)の第5巻に収められたものを底本として全面的に新しく訳出された。182頁+人名索引1頁+聖句索引3頁。

森野善右衛門訳『共に生きる生活』改訳新版2011年第6刷2005年の第二刷で、若干の訳文の訂正がなされた旨を記した「第二刷のためのことば」が最後につけ加えられている。
(いつのまにか、ジャケットもつるっとした紙に替わっている。)



フランシスコ会訳聖書 [書籍紹介・リスト]

フランシスコ会訳聖書 ようやく、フランシスコ会研究所訳の旧新約聖書の合本が発売された。

書 名
 正式には、フランシスコ会聖書研究所訳注、『聖書 原文校訂による口語訳』、サンパウロ、2011年、10+旧約2502+新約729+付録9頁、8400円(2011.12.31までは7000円)。


『フランシスコ会訳聖書』厚さ6.5cm厚さは6.5cm。

概 要
 1958~2002年の45年間かけて刊行された分冊を、訳語、文体、表記を統一し、注を簡略化して1冊にした合本。1984年の『新約聖書』(改訂版)と比較しても、注はさらに少なくなっている。各書の前に「解説」があり、こちらの方はより詳しく書き改められているようだ。ところどころに地図などの図版(旧約88箇所、新約24箇所)も挿入されている。
 地名人名は基本的に『新共同訳聖書』にならっている。すなわち、イエズスはイエスに統一されている。振り仮名は必要な箇所のみ。小見出し付きで、詩編の一編一編にも小見出しが付けられている。
 翻訳の底本は、旧約はBHS、第二正典はゲッティンゲン研究所の「七十人訳聖書」第四版、新約はUBSの修正第三版。
 付録は、「度量衡および通貨」、バビロニア暦とマケドニア暦と太陽暦の「月の対照表」、詩編の分類表、図版一覧、たった一枚の地図「聖書の世界」。なお、これまでのすべての分冊の出版年、担当者・協力者を記したB5サイズ1枚の「謝辞」が挟まっている。

旧約第二正典について
 旧約第二正典は「伝統的な順序に即して旧約聖書の枠の中に」入れられている。すなわち、ネヘミヤ記の次にトビト記、ユディト記、そして、70人訳にあってヘブライ語聖書にない部分を含むエステル記、マカバイ記一、二と続く。また、雅歌の次に知恵の書、シラ書、さらに、哀歌の次にエレミヤの手紙を含むバルク書が置かれている。

本文の校訂について
 独自の本文批評によって、他の翻訳と異なる原文を採用したり、従来の解釈と異なる翻訳がなされた箇所も多い。それらは一応、注に記されているようだ。たまたま目についたところでは:

創世記4:26「エノシュは主の名を呼んだ最初の人であった」。新共同訳は「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」。フランシスコ会訳の注によれば「ヴルガタ訳による本訳のほうが原典に近いと思われる」とのこと。

創世記49:10c「貢ぎ物は彼にもたらされ」。意味不明の「シロ」が出てくることで有名な箇所。注によれば、「シロが誰であるかは不明であり、同語が人名として出るのは本箇所だけで・・・本訳は、文脈によりよくあてはまると思われる新しい解釈に従った」。

ホセア書4:7「彼らは彼らの栄えを恥に変えた」。原文は「わたしは彼らの栄えを・・・」。口語訳、新改訳、新共同訳、岩波委員会訳も同様。一方、マソラの校訂では、ここはティックネー・ソーフェリームで「彼らはわたしの栄えを・・・」と読み替える。しかし、フランシスコ会訳はこのどちらでもなく、注によれば「アラム語、シリア語本に従う」とのこと。


補 足
 なお、カトリックの日本語訳聖書としては、プロテスタントと共同の『新共同訳』以外の従来のものには、ラゲ訳(文語)とバルバロ訳(口語)があった(どちらもウルガタからの翻訳)。ちなみにエミール・ラゲはパリ外国宣教会、フェデリコ・バルバロはサレジオ会。


(2013.3.8画像追加)

サンパウロが2013.2.11に初版の訂正箇所一覧を出した。(2013.3.28付記)




タグ:聖書翻訳

C. K. Barrett 死去 [書籍紹介・リスト]

 Charles Kingsley Barrett(C.K.バレット)(1917年5月4日生まれ)、2011年8月26日逝去。94歳。

記事は、http://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/religion-obituaries/8745353/The-Reverend-CK-Barrett.html

邦訳は次のものしかない。
中村民男訳、『新約聖書の使徒たち』、日本基督教団出版局、1986年。

主要な注解書に、
ICCの使徒行伝2vol.:

"A critical and exegetical commentary on the Acts of the Apostles," T&T Clark, 1994,1998.

Black's New Testament commentariesのローマ書:

"A commentary on the Epistle to the Romans," Adam & Charles Black, 1957初版(アメリカではHarper & Row).Revised ed.がHendrickson, 1991.

Black's New Testament commentariesの第一コリント:

"A commentary on the First Epistle to the Corinthians," 2nd ed., Adam & Charles Black, 1968初版、1971第2版、1992reprinted with additional pref. .

Black's New Testament commentariesの第二コリント:

"A commentary on the Second Epistle to the Corinthians," Adam & Charles Black, 1973.

The New Clarendon Bibleの牧会書簡:

"The Pastoral Epistles in the New English Bible with introduction and commentary by C.K. Barrett," Clarendon Press, 1963.

"The Gospel according to St. John : an introduction with commentary and notes on the Greek text," Westminster Press, 1978第2版.


[追記]
C.K.バレットに師事した山田耕太によると、バレットは「自分の著作について決して言及しない姿勢が印象に残った。ガウンを着て講義する最後の教授であった。」
(キリスト教文書センター『本のひろば』No.658、2012年12月号、p.1)


東方敬信 [書籍紹介・リスト]

 東方敬信(とうぼう・よしのぶ)先生にお世話になったので、また、まとまった著作リストがネット上にないので、この機会に作成しました。

 国立国会図書館、東神大図書館、青山学院大学図書館はすべて検索。その他、わたしの蔵書とメモによります。

単 著

『H.リチャード・ニーバーの神学』、日本基督教団出版局、1980年。

『物語の神学とキリスト教倫理』、教文館、1995年。

『神の国と経済倫理――キリスト教の生活世界をめざして』、教文館、2001年。

『生きるための教育――教育人間学とキリスト教』、教文館、2009年。

『文明の衝突とキリスト教――文化社会倫理学的考察』、教文館、2011年。

その他の(一般に流通したものではない)著書

『神学のねらい――現代神学入門』、銀座教会、1974年。

『責任的キリスト教』、深沢教会印刷部、1990年。

『キリストの平和と文化の諸領域(第27回フォーラム東方敬信師講演会)』(東ミッ研フォーラム・シリーズ・パンフレット2)、東京ミッション研究所、1996年。

『ポリスの神学――美徳の誕生 ハワーワス神学をめぐって(第39回フォーラム東方敬信師講演会)』(東ミッ研フォーラム・シリーズ・パンフレット3)、東京ミッション研究所、2000年。

共 著

学校伝道研究会編、『教育の神学』、ヨルダン社、1987年。
    この中の「第4章 キリスト教学校教育」の中に論文あり。

『日本の神学の方向と課題 神学は何をなしうるか――25人の提言』(新教コイノーニア12)、新教出版社、1993年。
    この中の「教会的社会倫理の確立を求めて」

青山学院宗教センター編、『神の前に真実に――キリスト教概論』、教文館、1993年。
   深町正信、伊藤久男、高橋道雄、山岡健、広瀬久允、佐藤元洋と共著の青山学院大学の教科書。後に改訂版あり。この本の前の版(熊谷政喜、深町正信編、『キリスト教概論』、新教出版社、1984年)にも何かあるかも。

東方敬信編、『キリスト教と生命倫理』、日本基督教団出版局、1993年。
    この中の「総論――なぜキリスト教生命倫理なのか?」、「第五章 先端医療技術とキリスト教」、「第九章 生命倫理と地球時代の神学」。

青山学院大学キリスト教文化研究センター キリスト教教育思想研究プロジェクト編、『現代におけるキリスト教教育の展望』、ヨルダン社、1996年。
    この中の「アメリカの宗教と教育――信仰発達論をめぐって」。

青山学院大学総合研究所キリスト教文化研究センター 現代キリスト教文化・倫理研究プロジェクト編、『キリスト教と現代』、日本実業出版社、1997年。
    この中の「キリスト教と現代の政治経済」を鈴木有郷と執筆。

倉松功、近藤勝彦編、『福音の神学と文化の神学――佐藤敏夫先生献呈論文集』、教文館、1997年。
    この中の「物語の神学のキリスト論」。

青山学院大学総合研究所キリスト教文化研究センター編、『ジョン・ウェスレーと教育』、ヨルダン社、1999年。
    この中の「ジョン・ウェスレーのキリスト教倫理」。

青山学院大学キリスト教文化研究センター編、『聖書と共同体の倫理』、教文館、2001年。
   この中の「平和の共同体の倫理」、「この世における「信仰共同体」と「その倫理」」、「あとがき――信仰共同体の冒険としての神の国」。

青山学院大学総合研究所キリスト教文化研究センター編、『キリスト教と人間形成――ウェスレー生誕三〇〇年記念』、新教出版社、2004年。
    この中の「新約聖書におけるキリスト教と人間形成――道徳性発達理論とマタイによる福音書」。

青山学院大学宗教センター編、『地の塩、世の光――人物で語るキリスト教入門』、教文館、2006年。
    この中の第3章「古代と中世の教会」を執筆。

古屋安雄、倉松功、近藤勝彦、阿久戸光晴編、『歴史と神学――大木英夫教授喜寿記念献呈論文集 下巻』、聖学院大学出版会、2006年。
    この中の「グローバリゼーションの意味とそこに潜む闇」。

青山学院大学総合研究所キリスト教文化研究部編、『モラル教育の再構築を目指して――モラルの危機とキリスト教』(青山学院大学総合研究所叢書)、教文館、2008年。
    この中の「物語の神学と礼拝における人間形成」。

海津忠雄、茂牧人、深井智朗と共著、『思想力――絵画から読み解くキリスト教』、キリスト新聞社、2008年。
    この中の「レンブラントに見えないものを解読する」。

芳賀力編、『まことの聖餐を求めて』、教文館、2008年。
    この中の「アメリカ合同メソジスト教会の現状」。

東京ミッション研究所ヨーダー研究会編、『ジョン・H.ヨーダーの神学――平和をつくり出す小羊の戦い』、新教出版社、2010年。
    この中の「序論 ヨーダーは生きている」。

青山学院大学総合研究所キリスト教文化研究部編、『キリスト教大学の使命と課題――青山学院の原点と21世紀における新たなる挑戦』(青山学院大学総合研究所叢書)、教文館、2011年。
    この中の「「真の大学」へのパラダイム転換」。

※青山学院大学のキリスト教文化研究センターによって編まれたものは、後に「キリスト教文化研究部」となっていたり、「総合研究所」と入っていたり入っていなかったり、プロジェクト名が入っていたり入っていなかったり、「青山学院大学総合研究所叢書」となっていたりなっていなかったりするので、注意して記した。

翻 訳

H.リチャード・ニーバー『近代文化の崩壊と唯一神信仰』、ヨルダン社、1984年。

J.M.ガスタフソン『キリスト教倫理は可能か』、ヨルダン社、1987年。

ゴードン・D.カウフマン『核時代の神学』、ヨルダン社、1989年。
    (東神大図書館になし。英語原著とドイツ語訳はあるようだが)

S.ハワーワス『平和を可能にする神の国』(現代キリスト教倫理双書)、新教出版社、1992年。

セオドア・W.ジェニングス編(伊藤悟と共訳)『神学者の使命――現代アメリカの神学的潮流』、ヨルダン社、1994年。

S.ハワーワス、C.ピンチス『美徳の中のキリスト者――美徳の倫理学との神学的対話』、教文館、1997年。

S.ハワーワス、W.H.ウィリモン(伊藤悟と共訳)『旅する神の民――「キリスト教国アメリカ」への挑戦状』、教文館、1999年。

S.M.ハワーワス、W.H.ウィリモン(伊藤悟と共訳)『神の真理――キリスト教的生における十戒』、新教出版社、2001年。

ポール・プルイザー(斎藤武と共訳)、『牧師による診断』、すぐ書房、2004年。
    (東神大図書館になし)

ジョン・マッコーリー、『平和のコンセプト――聖書的・神学的視座から』、新教出版社、2008年。

リチャード・ヘイズ(河野克也と共訳)、『新約聖書のモラル・ヴィジョン――共同体・十字架・新しい創造』、キリスト新聞社、2011年。

不明なもの

青山学院大学研究者情報の東方敬信のページの中に、次のものが記されているが、詳細確認できず不明(近くの図書館にない)。

篠崎信男監修『新しい家政学――統合家政学としてのヒューマン・エコロジー入門』、ヒューマン・エコロジー研究所、1980年。

タグ:神学者

ナザレ企画の本 [書籍紹介・リスト]

ナザレ企画は、現在は株式会社ナザレhttp://www.nazareth.co.jp/

次の三冊が出版されている。

1.磯部理一郎編訳、『わたくしたちの『信条集』』、1993年、310+17頁、1500円。
わたくしたちの『信条集』.jpg 初代教会の5つの基本信条の個人訳と註と原文、「ハイデルベルク信仰問答」の全訳、日本基督教会1890年制定「信仰の告白」の原文(旧漢字旧かな)と現代漢字かな版、日本基督教団信仰告白の原文と口語訳。そして、様々な解説の文章がpp.219-307。

 細かな註はいろいろ勉強になるし、ギリシア語あるいはラテン語原文がいっしょに付されているのは便利。


2.スタンリー・E. ポーター(丹羽喬監修、伊藤明生訳)、『ギリシャ語新約聖書の語法』、1998年、14+298+42頁、2000円。
ギリシャ語新約聖書の語法.jpg 原著は、Stanley E. Porter, "Idioms of the Greek New Testament," Sheffield: JSOT Press, 1995. ("idiom"は慣用句のことではなく語法のこと)で、どちらかというと福音派の人たちに好まれている感じの、中級レベルの統語論的な文法書。
 ポーターは、通常「時制」として捉えられる動詞の用法を、過去・現在・未来という時間軸ではなく、その動詞で表現される行動がどのように展開すると話者(あるいは著者)が見ているかという「アスペクト」として捉えているのが特徴的。


3.原口貞吉、『福音を伝えた道――聖書歴史地図 詳細版』、2004年、10+177頁、3990円。
福音を伝えた道.jpg 紹介は、http://suno.blog.so-net.ne.jp/2011-07-07-1


いずれもISBNなし。また、どれも国立国会図書館に入っていない。

(2011.08.17画像追加)

原田貞吉、『福音を伝えた道』 [書籍紹介・リスト]

原口貞吉、『福音を伝えた道――聖書歴史地図 詳細版』、ナザレ企画、2004年、10+177頁、3990円。

A4 版、オールカラー。

 新約聖書の記述の中に出てくる様々な移動経路を、ローマ時代の文学、歴史書、古地図、里程標の碑文、街道の遺跡などの史料をもとに考証して地図にあらわしたもの。

 イタリヤ、ギリシャ、トルコ、シリヤ、ユダヤの5つの地域それぞれについて、A聖書の記述、B旅程表・古地図、Cローマの里程標、そしてD地誌・史書の4つのテーマで、道路を主とする地理情報がまとめられている。当時の旅程表からは都市間の距離がわかる。出土した里程標を結べば道が見えてくる。歴史書の記述も、どのように道が通っていたかの手がかりとなる。
「本書の主役はあくまで地図の中に引かれた道」であって、その経路が、さまざまな史料(聖書も含む)から説明されている。

 随所にカラー写真あり。衛星写真もあり。正誤表つき。

 重要な史料としては、ポイティンガー地図、アントニニ旅程表、ブルディガラ旅程表など。

「聖書地理の分野では都市遺跡(点)の発掘、調査は行われても、都市を結ぶ経路(線)には比較的関心が薄い。しかし、歴史地理一般の分野ではローマンロードの研究は進んでいて、・・・。これらによって得られる、ローマ時代の経路についての蓄積された学術的業績は、聖書地理や聖書地図には惜しいことに、多くは活用されていない。」(p.130)。

 著者の他の著作に、『パウロの歩いた道』、日本基督教団出版局、1996年。

 使徒17:10でパウロとシラスはテサロニケを夜の内に出発しベレアに向かっているが、テサロニケとベレア間は75~84kmあり、一晩でたどり着ける距離ではない。ベレアのユダヤ人たちはテサロニケのユダヤ人と違って素直で熱心であった(11節)ことは、危険な夜道の旅の労苦が報われるものであっただろう(p.36)。

 使徒16:6でパウロが聖霊によって禁じられて歩む方向を変えた場所は、アパメア(ディナール)であったと推測している(p.68)。

 ヨセフとマリアが人口調査の勅令に従ってナザレからベツレヘムに向かった旅の経路は、二筋考えられる(p.131)。


 ちなみにこの本、国会図書館にも東神大図書館にも入っていないようですよ(2011.7.7検索)。>ナザレさん

日本基督教団宣教研究所編『信仰の手引き』 [書籍紹介・リスト]

教団信仰告白のためのカテキズムができた。
日本基督教団宣教研究所編『信仰の手引き――日本基督教団信仰告白・十戒・主の祈りを学ぶ』、日本基督教団出版局、2010年、199頁、1575円。

これをどう使って学びをしようか。

1.重要な第一問目

 信仰問答書の第一問は、学習者をどのように信仰の対話に引き寄せるかという点で、重要である。ジュネーヴ教会信仰問答も、ハイデルベルク信仰問答も、学ぶ者の実存に寄り添いつつも、そこに問題意識を生起させつつ、一気に、信仰の世界に引き込んでいる。
 『信仰の手引き』も「わたしたち人間の生きた現実や、実存的な問題意識と触れあう」ように、最初の問答が工夫されたとのことである(「解説」、p.164)。
 第一問は、次のようになっている。
 問1「あなたにとって、無くてならないただ一つのものとは、何ですか。」
 答え「神の言葉です。」

2.「とは」とは?

 しかしながら、いきなり「無くてならないただ一つのもの」を問うのは、はたしてどれだけ、現代の日本人が入り易い入り口を提供しているだろうか。
 自分にとって唯一の不可欠なものがあるとか、それは何だろうかと問うことは、すんなり入り込める導入になる感じがしない。
 無くてならないただ一つのものを問うためには、その前に、人生あるいは命のために、唯一の不可欠なものがあるのだということをまず学習者に認識させなければならない。

 特に、「とは、何ですか」の「とは」が気になる。あらかじめ「無くてならないただ一つのもの」があるという認識を持った上で、その唯一不可欠なものとは何かと問うのならば、わかる。
 そうでなければ、第一問目は、「無くてはならないただ一つのもの、何ですか」と問うほうがよいのではないだろうか。 
 確かに、ルカ10:42との関わりから「神の言葉」を明らかにするとは、みごとな導入であるが、しかし、erabolateな感じがするのは否めない。
 ぜひとも、この『信仰の手引き』を学習者向けに解説した書物がほしい。

3.「命の源」の強調が特徴

 問1の後、問2で、神の言葉とはイエス・キリストであると答え、問3で神の言葉は、「この世と来るべき世における命の源」であることを答えている。「神の言葉」を明らかにする導入としては、問1だけ取り出して考えるのではなく、問3までが導入部とされている(「解説」、p.164)ので、これらをひとくくりにして学ぶとよいだろう。
 そうすると、簡単には、一つの例として、次のような筋道で解説しながら学ぶことができる。
 ①わたしたちの命の源は神の言葉です。
 ②神の言葉は、この世の命の源であるだけでなく、来るべき世における命の源でもあります。
 ③それで、神の言葉は、わたしたちにとって、無くてはならないただ一つのものです。
 ④その神の言葉とは、イエス・キリストです。
 こうしてみると、問1は、現代のわたしたちに、命の源として無くてならないものは何であるかを問いかけているのである。

4.人生の目的

 以上のことから、私たちに大切なことは、自らの命の源を知り、無くてはならないただ一つのものを知ることである。わたしたちは人生において何をなすべきかと問うたら、自らの命の源を知り、無くてはならないただ一つのものを知ることだということになる。
 しかし、この『信仰の手引き』は、人生の目的は何かという問いかけをしない。ジュネーブ教会信仰問答やウェストミンスターの大・小の信仰問答のように、人生の目的をまず第一問目で問うて明らかに示すほうが分かりやすく、教えやすいようにも思う。
 この『信仰の手引き』は、直接「わたしたちの人生の目的は何か」と問うことはしていないが、しかし、間接的にこの問いに答えているというよりも、無くてはならないものと神の言葉とは何かを問うことで、最も直接に、人生において知るべきことを教えているのである。
 人生の目的は、イエス・キリストを知ることである。もちろん「知る」とは、知識で知るのではなく、そのお方と出会うことである。それで『信仰の手引き』も問4で「どこでイエス・キリストと出会うことができるか」を問う。もちろんその答えは聖書である。そしてさらに問5~7で、聖書が説き明かされる教会の必要と、中でも説教と聖礼典の重要さが語られる。欲を言えば、「礼拝」という言葉を入れて欲しかったところである。説教が語られ聖礼典が執り行われるのは礼拝であり、礼拝においてわたしたちはキリストと出会うのだから。

岩波文庫のルター [書籍紹介・リスト]

 岩波文庫のルターの著作は以下の4つ。いずれも著者名の表記は「マルティン・ルター」。

1.石原謙訳『キリスト者の自由・聖書への序言』(957、後に青808-1、1933初版、1934改訂版、1955新訳)。
 初版1933年は『基督者の自由 他三篇』のタイトルで957番。内容は、「基督者の自由について」(「について」が付いている)、「『ドイツ語新約聖書』序言」、「同 ロマ書の序言」、「同 ヤコブ書及びユダ書の序言」。
 改訂版1934年は、番号は同じ957番で、全体に渡って訳文が見直された。
 1955年新訳は『キリスト者の自由・聖書への序言』のタイトルで、番号は変わらず957番だが、内容は、「キリスト者の自由」、「聖書への序言」として「新約聖書への序言」、「聖パウロのローマ人にあたえた手紙への序言」、「詩篇への序言」になっている。つまり、これ以前のものの中の「ヤコブ書及びユダ書の序言」が「詩篇への序言」に替えられた。
 その後、増冊が繰り返されている。
 なお、巻末の解説は、『石原謙著作集 第6巻 宗教改革2』(岩波書店、1979)に収録されている。

2.吉村善夫訳『現世の主権について 他二篇』(5153-5154、後に青808-2、1954)。
 1977年第2刷は岩波文庫創刊50年記念復刊、1996年春リクエスト復刊。他二篇とは「軍人もまた祝福された階級に属し得るか」と「ドイツ全都市の市参事会員に対する勧告」。

3.吉村善夫訳『マリヤの讃歌 他1編』(古くは2651-2652、後に青808-3、1941)。
 1993年秋リクエスト復刊。吉村善夫訳「マリヤの讃歌」と石原謙、吉村善夫訳「死の準備についての説教」。

4.石原謙訳『信仰要義』(2001-2002、後に青808-4、1939)。
 1940年の再冊に際して訳文の「不穏当な箇所」や誤植などが訂正されている。少なくとも1984年に第12刷。「小教理問答書」「シュマルカルデン條項」「信仰條項の告白」「十戒の要義、信仰の要義、我等の父(主の祈)の要義」を収録。「信仰條項の告白」は、『キリストの聖餐禮を論ず、告白』("Vom Abendmahl Christi, Bekenntnis," 1528)の第三部とのこと。

水谷智洋編『羅和辞典』研究社 [書籍紹介・リスト]

水谷智洋『羅和辞典』研究社水谷智洋編『羅和辞典 改訂版』、研究社、2009年、22+889頁、6300円。

 一応、田中秀央編の羅和辞典(1952初版、1966増訂新版)の改訂版であるが、その歴史と基本思想を受け継ぎつつも、全く新しい辞書という感じである。



1.内容

辞典本文はpp.1-732。

付録として、ローマの暦、通貨、人の名前、主要な略語、そして変化・活用表。

さらに、pp.781-883に、Cassellのラテン語辞書が羅英と英羅の二本立てであることにならって作成された「和羅語彙集」(野津寛による)がある。


2.収録語彙

見出し語4万5千とのこと。

収録語彙は、紀元前200年頃からの古ラテン語、紀元前1世紀頃から紀元後200年頃の古典ラテン語を中心とし、紀元3世紀以降の教父の語彙や中世・近代ラテン語の学術用語も「視野に収めている」。

特に、起源200年頃以降の語彙、あるいは語義、用例には上付◇記号が付けられている。これは、「Oxford Latin Dictionaryがその収録する語彙の下限を2世紀末に置いていることにならおうとする試み」とのこと。

用例として用いられている著作家・作品の中には、アウグスティヌス、カッシアヌス、キプリアヌス、ヒエロニムス、ラクタンティウス、偽キュプリアヌス、テルトゥリアヌス、そして、ウルガタ聖書が見られる。


3.これまでの版とのつながり

田中秀央編の内表紙にあった"Festina lente!"はなくなったが、文章中にこの言葉が出てくる初版の「まへがき」が、「本辞典の足跡を示すために」掲載されている。


4.評価

数万円もする辞書を買うほどラテン語を勉強するわけではないし、かといって古ラテン語や古典ラテン語限定という感じの辞書では教父の著作でちょっと調べるのに使えるのかどうか不安だし、というわけで、もしかしたら羅英辞典で何かいいのがあるかもしれないが、さしあたり手元に置いておく入手容易なラテン語辞典としてはこの『羅和辞典 改訂版』しかない。




オットー『聖なるもの』(2) [書籍紹介・リスト]


3.邦訳は次の三つ

最新の久松訳を中心にしつつ、他の訳を参考にするという感じか。

以下、新しい順。


(1)久松訳

久松英二訳、岩波文庫青811-1、2010年。465頁+8頁、1197円。

付録は「ヌーメン的詩歌」と「補遺」。原注pp.375-400、訳注pp.401-433。解説はpp.435-465の約30頁にわたり、巻末にオットーの主要業績リストと人名索引。


(2)華園訳

華園聰麿(はなぞの・としまろ)訳、創元社、2005年、357頁、3360円。

著者名の表記はルードルフ・オットー。原注は各章末に置かれ、全ページの下段3cmちょっとが訳者脚注のスペースになっている。

原著の付録にあるオランダのヨースト・ファン・デル・フォンデルの「天使賛歌」とユダヤ教の新年祭の頌歌「Melek Eljon」のドイツ語訳、また本文に関する短い補注(これらは久松英二訳ではみな「付録」として訳出されている)は、一部を訳注で取り上げたほかは割愛したとのこと。

その代わり、オットーの論文集『超世界的なものの感情』から「仏教におけるヌミノーゼ・非合理的なもの」の一部が「仏教におけるヌミノーゼなもの――坐禅におけるヌミノーゼな体験」として付け加えられている。

pp.341-351が「訳者あとがき」、人名索引だけでなく事項索引があるのは便利。


(3)山谷訳

山谷省吾(やまや・しょうご)訳、岩波文庫青428(6958-6960)、1968年、325頁。後に青811-1。

オットー自身による「序文(29-30版への)」(1936年1月)あり(久松訳にはない)。

「附属論文」として、オットー『ヌミノーゼに関する論文集』から「預言者の神体験」、「随伴せる徴」、「霊的経験としての復活の体験」の三論文を「著者の意向によって、選出翻訳したもの」(解説、p.321f)。

原注は本文の各章末に置かれ、訳注はpp.315-317のわずか3頁。解説はpp.319-325。

同じ岩波文庫から久松英二による新訳が出たので、山谷訳は絶版。




オットー『聖なるもの』

カント「永遠平和のために」(2) [書籍紹介・リスト]

2.主な邦訳は次の3つ。

(1)宇都宮芳明訳『永遠平和のために』(岩波文庫青625-9)、岩波書店、1985年、138頁、525円。
 副題は「一哲学的考察」と訳されている。訳注は80箇所。訳者による解説は14頁。全体でも138頁の薄い本。さすがに他の訳に比べて訳文は硬く、活字も小さい。

(2)中山元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』(光文社古典新訳文庫)、光文社、2006年、387頁、680円。
「啓蒙とは何か――「啓蒙とは何か」という問いに答える」、「世界市民という視点から見た普遍史の理念」、「人類の歴史の憶測的な起源」、「万物の終焉」、「永遠平和のために――哲学的な草案」の5編を収録。訳者による小見出しが適宜付されていて、読みやすい。「永遠平和のために」にはpp.147-273で、50箇所に訳注が付けられている。巻末には、6頁の「カント年譜」と、pp.280-384の100頁を超える訳者による「解説――カントの思考のアクチュアリティ」。
 カントが「共和制」や「民主制」をどのような意味で用いているかについては、中山元による解説を読む。

(3)池内紀(おさむ)訳『永遠平和のために』、綜合社(発売:集英社)、2007年、114頁、1365円。
 是非とも若い人に読んでもらうべく企画され、前半50頁は『永遠平和のために』の中からのアンソロジーとカラー写真、pp.53-90が本文で、200年以上も前の文体は捨て、学問的措辞や用語にこだわらず、検閲官用の構文は無視し、なるたけ簡明な日本語で訳された(訳者による「解説」p.113)。注は付けず、原注も省略、宇都宮訳や中山訳と比較すると「超訳」とも言えるような訳文。二つの補説は抄訳、二つの付録は、アフォリズム風に抜き書き。全体で114頁、ハードカバー。

 というわけで、まず池内訳で入門したのち中山訳でじっくり読むか、中山訳で読んだ後に池内訳でポイントを確認するか。

金素雲、澤正彦、沢知恵(3) [書籍紹介・リスト]

 朝日新聞で2010年8月18日~20日に「百年の明日 日本とコリア 家族・第四部」として、金素雲と沢正彦と沢知恵のことが記事になっていたので、それにちなんだまとめ。

3.沢知恵(さわ・ともえ)(1971.2.14- )
 金素雲の孫。澤正彦と金纓の子。シンガーソングライターというか、歌手というか、ピアノ弾き語り。
 カーステレオで気軽に聞くと言うよりも、家でじっくり聞くのが似合うタイプのうた歌い。しかも、聞き惚れるというよりも、沢知恵の世界に引きずり込まれるという感じかな。

(1)入門的なお薦めは、次の二つ。
・『シンガー』、CMCA 2021、2008年。
 カバーベスト15曲。松田聖子の「スイートメモリーズ」、シンディー・ローパーの「タイム・アフター・タイム」、荒井由美「ひこうき雲」、さだまさし「風に立つライオン」、尾崎豊「卒業」など。
 アマゾンで全曲試聴可。

・『ソングライター』、CMCA2022、2008年。
 1991年のデビューから2008年までのオリジナル15曲のベスト盤。もちろん、夏川りみ、クミコ、アン・サリー、持田香織らにカバーされている代表作「こころ」も収録。
 アマゾンで全曲試聴可。

(2)最新作は、『ライブ・アット・ラカーニャ』の春、夏、秋、冬の四部作。すでに春、夏、秋と発売されていて、冬が10月20日発売予定。
沢知恵オフィシャルサイト
タグ:朝日新聞

金素雲、澤正彦、沢知恵(2) [書籍紹介・リスト]

 朝日新聞で2010年8月18日~20日に「百年の明日 日本とコリア 家族・第四部」として、金素雲と沢正彦と沢知恵のことが記事になっていたので、それにちなんだまとめ。

2.澤正彦(さわ・まさひこ)(1939.4.20 - 1989.3.27)
金素雲の娘、金纓(Kim Young)の夫。新聞記事では「沢」となっていたが、著書は見る限りみな「澤」と表記さえていたので、ここでも「澤」とする。

(1)澤正彦の著作は次の六つ。
・『南北朝鮮キリスト教史論』、日本基督教団出版局、1982年。論文集。
・『ソウルからの手紙――韓国教会のなかで』、草風館、1984年。
・金纓と共著、『弱き時にこそ――癌を告知された夫婦の日記』、日本基督教団出版局、1989年。
・『未完 朝鮮キリスト教史』、日本基督教団出版局、1991年。遺稿を整理して編まれたもの。
・『韓国と日本の間で――贖罪的求道者の史観から』、新教出版社、1993年。さまざまな論文・エッセイ集だが、澤正彦を一番手っ取り早く知ることの出来る本だと思う。「植村正久の朝鮮観」や、「韓国と私」「韓国教会の説教」などの「現代韓国論」、「中国キリスト教史研究」も含まれている。「日曜日訴訟」は礼拝が公的であることや安息日・主日の意味、信教の自由との関わり、明治初めの改暦の経緯を知る点でも興味深い。
・金纓訳、『日本キリスト教史――韓国神学大学講義ノート』、草風館、2004年。韓国の読者を対象に、日本のキリスト教史を日本の文化、思想、政治との関連から綴ったもの。あとがきによると、原著(韓国語)の改訂版で、著者が漢字で記した日本の人名・地名のハングル表記が「見事なほどに、ほとんど間違ってい」いるので、著者の名誉のためにもこの本を出版したとのこと。

(2)澤正彦の訳書は、三つ。
・閔庚培、『韓国キリスト教史』、日本基督教団出版局、1974年。
・柳東植(澤正彦、金纓訳)、『韓国キリスト教神学思想史』、教文館、1986年。
・閔庚培(尹宗銀、澤正彦訳)、『神の栄光のみ 殉教者朱基徹牧師伝』すぐ書房、1989年。

(3)澤正彦を知るために、金纓の次の著作も楽しくおもしろい。
・『チマ・チョゴリの日本人』、草風館、1985年。澤正彦との出会い・結婚からその後の生活について、詳しく、おもしろい。新版が1993年に出ている。
・『チマ・チョゴリの日本人、その後』、草風館、1993年。韓国の教会と日本の教会の比較から見た日本の教会の欠点もストレートに語られていて、とても興味深い。
 他に、『チマ・チョゴリのクリスチャン――ひいおばあさんから私まで』(草風館、1987年)は、著者の曾祖母、祖母、母、妹と娘たちの、韓国の歴史、韓国教会の歴史の中での歩み。
タグ:朝日新聞

金素雲、澤正彦、沢知恵(1) [書籍紹介・リスト]

 朝日新聞で2010年8月18日~20日に「百年の明日 日本とコリア 家族・第四部」として、金素雲と沢正彦と沢知恵のことが記事になっていたので、それにちなんだまとめ。

1.金素雲(キム・ソウン)(1908.1.5 - 1981.11.2)の主な著訳書

(1)金素雲が翻訳して民話や童謡を日本に紹介したもの
 『朝鮮童謡選』岩波文庫、1933年初版、1972年改版(赤70-1)。
 『朝鮮民謡選』岩波文庫、1993年初版、1972年改版(赤71-1)。
 『朝鮮詩集』岩波文庫、1954年初版、2002年夏の「岩波文庫一括重版」で復刊(赤72-1)。
 他に、子供向けとして、『ネギをうえた人――朝鮮民話選』岩波少年文庫、1953年初版(71)、1987年改版(2025)、2001年新版(089)。これは、33編の民話集。

 『朝鮮詩集』は、最初『乳色の雲:朝鮮詩集』(河出書房、1940年)。その後、興風館、1943年。創元社、1953年。そして、岩波文庫版、1954年。

 なお、『朝鮮詩集』の日本語と原詩との兼ね合いを明かにすべく、収録されている詩の原詩を発掘し、また各詩人たちの略歴を調査して、日本語新訳とハングルの対訳で出版されたものに、金時鐘(キム・シジョン)訳『再訳 朝鮮詩集』(岩波書店、2007年)がある。この本の序文にあたる「『朝鮮詩集』を再訳するにあたって」の中に、次のような言葉がある。
「訳を始めてみて『朝鮮詩集』は、金素雲の訳詞というよりも当時の日本の抒情詩にリズムを合わせた、金素雲自身の、詩の歌であることの確信をもった。」(p.ⅸ)


(2)自叙伝
 上垣外憲一、崔博光訳、『天の涯に生くるとも』(講談社学術文庫903)、1989年。
 初版は新潮社、1983年。日本語で書かれた「狭間に生きる」と韓国語で書かれた「逆旅記」。巻末に金素雲の年譜あり。

(3)エッセイ集のうち、晩年に刊行されたもの
 『近く遥かな国から』、新潮社、1979年。
 『こころの壁――金素雲エッセイ選』、サイマル出版会、1981年。
 『霧が晴れる日――金素雲エッセイ選2』、サイマル出版会、1981年。
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ヴァイツゼッカー『荒れ野の40年』(1) [書籍紹介・リスト]



1.ヴァイツゼッカーについて


リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard von Weizsäcker, 1920.4.15 - 2015.1.31)は、第六代の西ドイツ大統領(1984-1994)であり、二期十年の大統領在任中に東西ドイツが統一されたため、統一ドイツの初代大統領でもあった。

2.「荒れ野の四十年」について


「荒れ野の四十年」は、1985年5月8日のドイツ降伏40周年にあたっての連邦議会での演説。日本語訳は最初、雑誌『世界』1985年11月号に掲載された。その時『世界』の編集長だった安江良介がこの演説に「荒れ野の四十年」という題を付けたという。ドイツでは「五月八日演説」などと呼ばれている。(永井清彦編訳『言葉の力――ヴァイツゼッカー演説集』岩波現代文庫の「訳者あとがき」、p.238)。

3.「荒れ野の四十年」の翻訳


この演説の邦訳には、主として永井清彦のものと加藤常昭のものがある。永井清彦の翻訳は実際になされた演説の録音を元にしている。一方、加藤常昭の翻訳は刊行されたものを底本としている。

(1)永井清彦訳、『荒れ野の四十年―― ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』岩波ブックレット767、2009、63頁、504円。訳者による「解説――若い君への手紙」付き。
 旧版は、『荒れ野の四十年 ヴァイツゼッカー大統領演説全文』岩波ブックレットNo.55、1986、55頁。永井清彦「翻訳に際して」という5頁の文章が巻頭にある。そして巻末には村上伸「ヴァイツゼッカー演説のいくつかの背景」。これらは新版にはなく、本文に対する注も全然違うので、旧版も見ておく価値あり。
 岩波ブックレットの新版と同一の訳が、永井清彦編訳、『言葉の力――ヴァイツゼッカー演説集』(岩波現代文庫/社会193)、岩波書店、2009、4+249頁、1050円に収録されている。これに収録されている演説は次の11編:
  荒れ野の四十年
  パトリオティズムを考える
  基本法――揺るぎない自由の保証人
  自由に堅く立つ
  変革期ヨーロッパの「徳」
  統一の日に――統一も自由も
  党派を超えて――ブラントを悼む
  暴力を排す
  無関心の名の、心に着せた外套を脱ぎ給え
  言葉の力
  水に流してはならない――ドイツと日本の戦後五十年

 これは、永井清彦編訳(とはいえ、関口宏道、片岡哲史、他の訳も含まれている)『ヴァイツゼッカー大統領演説集』(岩波書店、1995)をもとに、三篇を入れ替え、全面的に編者によって改訳されたもの。各講演題や各講演の前に置かれた訳者による短い解説も書き直されている。入れ替えは、「首都はベルリンに」、「障害者を校正に」、「ドイツへの信頼を」の替わりに、「暴力を排す」、「無関心の名の、心に着せた外套を脱ぎ給え」、「水に流してはならない――ドイツと日本の戦後五十年」が加えられた。最後の「水に流してはならない」は1995年8月7日の東京での演説で、『歴史に目を閉ざすな――ヴァイツゼッカー日本講演録』(岩波書店、1996)に収録されていた。新旧両著とも、演説がなされた時系列順に並べられている。旧著のほうの『ヴァイツゼッカー大統領演説集』の巻末の「訳者解説」は、「言葉の人」ヴァイツゼッカーを的確に知ることができる40頁の解説であって、文庫版にないのが残念。

(2)加藤常昭訳、『想起と和解――共に生きるために』、教文館、1988。この中に「一九四五年五月八日――四〇年を経て」と題してある。後に加藤常昭『ヴァイツゼッカー』(清水書院、1992)に若干改訂されて収録されている。
 加藤常昭によるヴァイツゼッカー関連の書籍は、
  加藤常昭著、『ヴァイツゼッカー』(センチュリーブックス人と思想111)、清水書院、1992。
  加藤常昭訳、『想起と和解――共に生きるために』、教文館、1988。(4つの演説集)
  加藤常昭訳、『良心は立ち上がる――ヴァイツゼッカー講演集』、日本基督教団出版局、1995。(演説集)
  加藤常昭訳、『ヴァイツゼッカーのことば』、日本基督教団出版局、1996。(アンソロジー)


佐藤優『神学部とは何か』 [書籍紹介・リスト]

佐藤優、『神学部とは何か――非キリスト教徒にとっての神学入門』(シリーズ神学の船出00)、新教出版社、2009年、187頁、1785円。

「神学入門」とあるが、神学という学問の初心者向けの概論ではなく、「神学部とは何か」と言っても、神学部の授業内容だとか雰囲気だとかの紹介が中心でもなく(そういったことも書かれているが)、一般の人に神学という学びが誰にとっても「役に立つ」ことを少しでも知ってもらおうという一つの試み。
著者の特異な経験が随所に記されていて、とても読みやすい。「1.神学とは何か」、「2.私の神学生時代」、「3.神学部とは何か」の三部構成。
 専門用語や人名などについて各頁下段に脚注がある。コラムとして五つの日本の神学部(同志社、東神大、関西学院、西南学院、上智、立教)が、それぞれ見開き2頁で紹介されている。

 「1.神学とは何か」では、神学は「見えない事柄を対象とする知的営為」であるゆえに、見える事柄を対象とする現実的な営みの限界、すなわち、人間の限界、社会の限界、制度の限界を知ることができるとする。そして、そのような神学の性質として、「論理的整合性の低い側が勝利する」と「神学論争は積み重ねられない」という2点を指摘する独特の視点は、面白い。

 「2.私の神学生時代」は、入学式での学生運動家たちの乱入のエピソードから、バルト、ボンヘッファー、フロマートカの神学との出会い、そして、外務省入省の経緯とモスクワ留学までの話。

 「3.神学部とは何か」は、ヨーロッパ、アメリカ、日本の神学部事情と提言で、ドイツの牧師は高給取りの官僚のような身分だから学校秀才が多いとか、バルトやフロマートカは学校秀才ではなかったが神学的天才であったとか、教会に行っても「救われた」と実感できなくなってしまっているキリスト教徒が増えているとか、キリスト教徒自身が教会を私的領域としてしまっていて人間関係を煩わしくしているなどの指摘がされている。また、1920~40年代半ばまでの神学をしっかり勉強しろと言い、日野眞澄、有賀鐵太郎、魚木忠一、熊野義孝、滝沢克己を挙げている。特に魚木忠一『日本基督教の精神的伝統』(1940年)を評価している。

以下、特に目が留まったところ:
「神学は自らの教派的出自に捕らわれるものなのだ。そういう考え方に踏みとどまる人たちがまっとうな神学者なのである。・・・だから、現に在る教派の伝統から離れて、抽象的な価値中立的な形でのエキュメニズムの神学が成立するという考え方は完全に誤っている。」(pp.44-45)
「バルトには学生時代からずっと違和感があったし、今もある。特に、「神学とは最も美しい学問だ」というバルトの言葉に落とし穴があると感じる。私は神学が美しい学問であると思わない。その美しさにとらわれてしまったことが、バルトの限界だったように思う。」(p.108)
「日本の神学の質は、1930年代から1940年代初頭のものが一番高い。というのは、この時代の日本の神学者は、「常に死を意識していた」からである。・・・神学は元来こういった極限状況において力を発揮する営みである。そういった意味で、この時期の神学者は本物の神学者である。・・・かといって、戦争などの極限状況を現に体験した神学者だけが信憑性の高い神学を構築できるということを意味するわけではない。神学はその特性上、過去の出来事を追体験することができる。・・・神学のポイントというのは、人間の限界を知ることである。・・・神学によって限界状況を追体験する神学者もいれば、自分自身がその限界状況におかれる神学者もいる。しかしこの両者に本質的な違いはないと私は考えている。・・・神学において個人的体験を誇大化することは、ありがちなことであるが、あまりよくない。(pp.162-164)

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