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『憲法の想像力』と聖書 [読書メモ]

奥平康弘『憲法の想像力』.jpg奥平康弘『憲法の想像力』、日本評論社、2003年。

さまざまな雑誌や新聞などに発表・掲載された、『憲法の眼』(悠々社、1998年)以来の論考・随想集。1995年~2002年7月までの『法学セミナー』、『書斎の窓』、『法律時報』や朝日新聞の記事などから選択された19編を、書き下ろしの「法と想像力――なぜ「想像力」か」をプロローグにして収録。


奥平康弘は、1929.5.19 - 2015.1.26。


だいたい引用しつつも、私なりに文章を整理して再構成、また、漢字表記などを改めた。


憲法の「想像力」について
たとえば「死刑は廃止すべきだ」という現状変革的な考えには、「想像力」を働かせなければならない。既存の制度の存在理由に、「反省的」(reflective)な契機をともないながら「想像力」を働かせること自体、並々ならぬエネルギーがいる。

「想像力」をかもし出し、誘い、それへの同調の輪を広げてゆくのには、理論作業だけではとても無理である。「想像力」は、認識した諸事実を積み重ねて有無を言わさぬ形で論証する種類の精神作用であるよりも、より多く感性に訴え、そのレベルから納得へと迫ってゆく心の働きだからである。
(p.4-5)

テクストの実践としての憲法
どんな成文憲法も、現実の社会関係に適用するためにあるのであり、そして適用するためには現実のコンテクストと憲法上のテクストと睨み合わせながら解釈しなければならない。つまり、テクストとしての憲法とは別にプラクティスに基づく憲法(あるいはプラクティスとしての憲法)があるのであって、この意味で憲法とは、解釈と実践を通して現実のコンテクストに適合的なものとして鋳直されたものである。
(p.75-76)

憲法は世代を越えた"未完のプロジェクト"
したがって、「成文憲法としての日本国憲法は、それを起草制定した者たちが属する世代と、その憲法を解釈し自分たちのために活かそうとする現代の人びとの世代とのあいだに取りかわされる高い感度を要する共同作業がもとめられる、世代を越えたプロジェクトなのである。」
(p.40、85)

憲法は実践を通して選びとったもの
そうすると、文書に過ぎない成文憲法を人間の営為・実践の中でどう生かすかが重要である。憲法というものは、実定的なるものとして日々解釈され適用される。その意味で常に「選び直されてきている」。憲法はいかなる意味でも「押しつけられ」たものではなく、市民が日々の実践を通じて「選びとったもの」である。
(p.27、66)

表現の自由について、シフリン(Steven H. Shiffrin)という憲法学者の説の紹介として、
「表現の自由なるものは、19世紀中葉以降の詩人R.W.エマソンやウォルト・ホイットマンなど個人主義的・反抗的・反権威主義的な人たちに象徴されるような性格のロマンティックな傾向を持つ者たちにこそ保障されるべき・・・。こういった人たちの言説は、反体制的・革新的・創造的であって、少数派であるがゆえに、政府や社会によって抑圧されるのが常である。けれども、こうした思潮こそが、社会に活力を与え、、人々を生き生きとさせ、民主主義を推し進めるものなのであって、そうだから、こういった傾向の意見表明を自由闊達におこなわせるためにこそ、表現の自由の憲法保障はあるのだ」(p.22-23)

ハンセン病患者の処遇に関してあげている文献:
藤野豊『「いのち」の近代史』、かもがわ出版、2001年。
小畑清剛『法の道徳性(下)』、勁草書房、2002年。
(p.12)

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感 想

憲法が常に解釈され、選び直されていくという点は、聖書が決して固定化したテキストではなく、生きた御言葉として解き明かされていくものであり、66の文書を正典として受け取るのも所与のこととして機械的に過去から受け取るのではなく、その歴史の中で現代のわたしたちも確かにこれらこそ神の言葉だとして常に受け取り直されていくことと似ているなあ。



タグ:憲法・人権

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