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ふしぎなキリスト教(1) [読書メモ]

橋爪大三郎、大澤真幸、『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書2100)、講談社、2011年、350頁、840円+税。を読んでみた。

 英語タイトルは”Wonders In Christianity”

 信仰を脇に置いた聖書学的常識すら踏まえていなかったり、そもそも宗教社会学的な視点でキリスト教を捉えようとしているので、信仰理解としてそうではないというところも多々あり、一般向けの自由でざっくばらんな対談なので厳密な議論をしているわけではなく、売れることを狙った新書であるので・・・などなどいろいろあるところには目をつぶって、批評とか反論とか感想ではなく、興味深い発言(必ずしも全面的に賛成するわけではないが)を私なりに抜き出したり、言葉を整理して言い換えたり。


「第1部 一神教を理解する――起源としてのユダヤ教」より

 一神教は、たった一人しかいない神(God)を規準(ものさし)にして、その神の視点からこの世界を見る。たった一人しかいない神を、人間の視点で見上げるだけではダメ。神から見たらどう見えるかを考えて、それを自分の視点にする。
 多神教は、神から見るなんてことはどうでもいい。あくまでも人間中心。人間中心か、神中心か。これが、一神教かどうかの決定的な分かれ目になる。
(p.55)

 この世界は不完全である。そこで人間は、「神さま、この世界はなぜ不完全なんですか」と神に語りかけ、対話をしながら日々を送ることになる。この世界が自分にとって厳しく不合理に見えるときほど、対話は重要になる。
 これが試練ということで、試練とは、現在を将来の理想的な状態への過渡的なプロセスだと受け止め、それを引き受けて生きるということ。
 信仰とは、不合理なことを神との関係によって解釈していくという決意である。自分に都合がいいから神を信じるのではない。自分に都合の悪い出来事もいろいろ起こるけれども、それを合理的に解釈していくと決意するのである。
(pp.78-79)

 偶像崇拝がいけないのは、偶像だからではなく、偶像をつくったのが人間だから。人間が自分自身をあがめているというところが、偶像崇拝の最もいけない点だ。
(p.88)

 ヤハウェは、天に大きな拡声器をつけて「私はヤハウェです。みなさん、私の言うことを聞きなさい」とやってもいいが、そうしないで、預言者を選んで、彼だけに語りかける。残りの人々は、預言者の言葉を聞いて、神の言葉だと信じる。つまり、神の言葉は、それを神の言葉だと信じる人々の態度とともにしか存在できない。ヤハウェは、このように神と人間との関係を設計した。こうして、神の言葉を信じる宗教共同体が存在し始める。
(p.113)

 世界を造られた神は、必要があれば自然法則を一時停止させることができる。これが奇蹟である。自然法則の普遍的な支配(科学的な合理性)とその例外的な停止(奇蹟)との間には、表裏一体の関係があるのであって、呪術対科学という対立の中で、奇蹟は、むしろ科学の側に属している。よく、この科学の時代に奇蹟を信じるなんて、と言う人がいるが、一神教に対する無理解もはなはだしい。「科学を信じるから奇蹟を信じる」というのが一神教的に正しい。
(pp.117-118)

→続きの「ふしぎなキリスト教(2)」へ

タグ:一般の新書
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