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ふしぎなキリスト教(2) [読書メモ]

橋爪大三郎、大澤真幸、『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書2100)、講談社、2011年、350頁、840円+税。を読んでみた。

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「第2部 イエス・キリストとは何か」より

 人間は自分の努力で救われたりしない。救うのは神だから、人間は自分で自分を救えない。救うのは神で、救われるのは人間である。救いは、人間の業(行為)の問題ではなく、神の恩恵の問題である。
 神が誰を救うかは、神自身が理解していればよく、それを人間に説明する責任もないし義務もないし。これをまるごと受け入れないと、一神教にならない。
(pp.184-185)

 「つまりね、人間には神に愛される人と愛されない人がいる。いていいの。それは受け入れなければならない。
 だって、そんなことを言えば、健康の人と病気の人とか、天才とそうじゃない人とか、人間はみんな違いがあるでしょ。このすべての違いを、神は、つくって、許可しているわけだから。そうすると、恵まれている人間と恵まれていない人間がいることになって、それは一神教では、神に愛されている人と愛されていない人というふうにしか解釈できないんです。
 そして、人間は必ず、自分より愛されている人を誰か発見するし、自分より愛されていない人を誰か発見する。これをいちいち、嫉妬の感情とか、神に対する怒りとして表明していたら、、一神教は成立しないんですよ。」
(pp.228-229の橋爪の発言をそのまま引用)


「第3部 いかに「西洋」をつくったか」より

 資本主義の精神にしろ、自然科学や合理主義にしろ、主権とか人権とか近代的な民主主義とか、あるいは、カントの哲学やマルクス主義など、宗教から独立した、あるいは宗教色を脱した概念だと一般的に見なされているものも、実は、キリスト教という宗教の産物である。キリスト教から脱したと見えるその地点こそが、まさにキリスト教の影響によって拓かれている。そういう逆説が、キリスト教のふしぎの一つだ。
(pp.295-328あたり、特にp.316、322)

 グローバリゼーションとは、「ふしぎなキリスト教」に由来する西洋文明が、それとは異なった宗教的な伝統を受け継ぐ文明や文化と、深く交流したり、混じり合ったりするということ。これによって、「西洋」に由来する「近代」にも限界や問題があることが明らかにされ、自覚されるようになってきている。キリスト教に下支えされてきた文明がどのように変容していくか。あるいはどのように自分を乗り越えていかなければならないのか。それが次の主題である。
(p.341)

 「キリスト教のインパクトが、よい意味か悪い意味かの判断は措くとしても、いかに大きいかということ、そのインパクトが伝わったり、残ったりするときの論理がいかに屈折したものであったかということ、こうしたことがわかってもらえればいいかなと思います。」
(pp.341-342の大澤真幸による最後の文章)

タグ:一般の新書
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