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"Nobody is perfect" [信仰]

1.2010年6月2日、アメリカ大リーグのデトロイト・タイガース対クリーブランド・インディアンス戦で、タイガースのガララーガ投手が完全試合まであと一死のところ、審判の誤審で、完全試合を逃してしまった。 誤審をした審判は激しい非難を浴びたが、しかし、ガララーガ投手は"Nobody is perfect"「完全な人間はいない」と言った。これは、もちろん誤審した審判に対する言葉であるが、さらに、perfect gameのperfectと掛けられているとみれば、このような仕方で偉業を逃すことになってしまった自分自身をユーモアをもって言い表した言葉とも見ることができるのではないだろうか(そのとき本人がそこまで意図していたかいないかは別として)。というのも、"Nobody is perfect"はビリー・ワイルダー『お熱いのがお好き』(1959)の最後に出てくる有名なうまい台詞なのだから。

2.さて、朝日新聞2010.6.8「天声人語」は、この出来事を取り上げて、「『審判も間違える』ことを前提にゲームが成り立っているのを、よく分かっているのだろう。」と記している。「審判も間違える」とは、単に審判も人間だということ以上に、“誤りうる人間に権威を与えて、判断を委ねている”ということであろう。ここからいろいろ考えさせられる。

3.このことは、教会における教師にも通じる。神は、罪深い人間を御言葉に仕える職務に就かせて、御言葉を語らせる。教会は、その者の年齢とか経歴とかあるいは性格や何かの能力といった個人的特徴にはよらず、ただ神から御言葉に仕えるべく立てられていることでもって、その者を教師として受け入れる(一テサ5:13、ヘブ13:17)。
あるいは、信仰者一人ひとりにも言える。神は、罪深い人間に信仰を与えて、我々を御国の約束に生きる者、世に御国を照らし出す者としている。一人ひとりの信仰の歩みは様々であるが、洗礼を受けた者はみな、御国の世継ぎとされているのである。その点で、教会に属している者は皆、互いに、神に用いられ愛されている者として尊重し合う(ローマ12:10)。

4.このようにして主は、我々人間をご自身のご計画のために用い給う。詩編144:3。

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