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神の存在の証明は不可能、しかし、神の存在を否定することも不可能 [信仰]

1.神は、人間の認識の対象を超えた超越者である。その意味で、神と人間は質的に断絶している。神は人間が定義することのできない「絶対他者」である。それゆえ、神が存在するとかしないとか議論する人間の思考の中で、神を捉えきることはできない。人間は、神の存在を証明することはできないし、神はいないとか神は死んだなどと否定することもできない。
 
2.では、どうして人間は神を知ることができているのだろうか。それは、神の方から私たちの認識の内に来てくださっていることによる。神は、御自身の方から私たち人間に、私たちと共にいます(「インマヌエル」)お方として現れてくださる。神はわたしたちと「我と汝」の関係として出会ってくださる人格的なお方である。
 神が私たちのところに来てくださるとき、ただ単に神を認識できるということに留まらず、神と出会い、神を絶対者、超越者であるどころか、救済の主として、喜んで認めることとなり、恐れおののきつつその御前にひれ伏し、感謝に溢れ、喜びに満たされる。
 そこでは、神が存在するとかしないとかはもはや問題とならない。神は私たちと共におられるという事実があるのみである。

3.そもそも神を超越者だとか絶対他者だとか人格的なお方だとかすることができるのも、人間が己の思考の内に神をそう定義したのではなく、このような神との出会いによって、与えられた認識である。神は、その存在を証明できるお方でもなければ、人間の思考や理性で捉えきれるお方でもない。しかし、神がどのようなお方であるか、神が人間に対して何をなされるのかを、神と出会った者は、神のすべてではなく、「鏡におぼろに映ったもの」のようにではあるが、理性でも捉え、思考することができる。
 神の人格と業とを理性でも捉えていくことを通して、わたしたちは、神をより知ることとなり、ますます、感謝と喜びが深まる。それが、信仰の学びや神学の営みである。

4.しかし、神の方から私たちと出会ってくださるなどということが、本当にあるのだろうか。実に、そのような神との出会いの場が、教会である。教会は、神が人間と出会ってくださるべく、神が建て給うところである。神の教会が世に存在しているならば、神はおられるのであり、私たちとと共におられる。
 それだから、教会は不断に、人間の理性や思考を神との出会いの先に立ててしまって自分たちが神を捉えたなどという高慢に陥らないように気をつけつつ、神との出会いの後(うしろ)から、理性的な思考を通して、理解を深め信仰を深め神への崇敬を深めていく。
タグ:神認識
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閲覧者

ここでは聖書ということが一言も言われていないのは何故でしょう?
もちろん教会ということが最後の方で言われているわけで、そこでは聖書が正典だから言わずもがなってことでしょうか?
しかし、エキュメニズムを重視するプロテスタント教会であるなら、無教会的立場ひいてはクエーカー的立場を排除できないはずです。
神と個人との出会いは、教会という場の前に聖書なのではないでしょうか?
個人は聖書を通して、知的な面では不十分ながら神と出会い、その得体を知ることができ、それを霊的に確認できる場が信仰共同体としての教会ではないのでしょうか?
神との出会いは知的な面だけではなく、礼拝などの実践を通しての心・霊・体による、情・意も含めた全面的な事柄としてです。
しかし、教会に行かなければ神認識を得られないというのは、「教会の外には救いなし」といった考えにも似て偏狭であり、一般恩恵という意味ではありませんが、救いに選ばれた人々には教会に行く前から「創造者・全能者・超越者・絶対者」といった神認識は備わっていると考えて然りでしょう。
クリスチャンは、聖霊に導かれての個々の聖書読みから神との意識的関係が始まるのではないでしょうか?それともやはり、教会という場に行くまではいっさい、神との出会いはあり得ないのでしょうか?
by 閲覧者 (2022-04-11 16:30) 

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