ルターのりんごの木 [読書メモ]
M.シュレーマン(棟居洋訳)、『ルターのりんごの木――格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ』、教文館、2015年(原著1994年)、321+9頁、2700円+税。
「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日なおわたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」
この言葉がルターのものであることは否定されるものの、どこに起源があるのかという問題と、この言葉が戦後のドイツでどのように理解されて広まったかを、史料やアンケート調査をもとに丹念にたどった研究結果。
408箇所に付けられた注が、巻末の76頁を占めているが、参照されているのは、ほとんどドイツ語の文献。
文章は読みにくい。「著者の文章には、議論の筋道が錯綜している上、挿入文が多く、省略もかなりあって翻訳にあって苦労も多かった・・・」(「訳者あとがき」p.320)。
おおざっぱなまとめ。
A 言葉の起源と広がり
1.1940年代に出現
最も古い典拠は、領邦教会全国評議員会議長カール・ロッツの1944年10月5日付の内輪の回状(タイプライター打ち)。
「たとえ明日世界が滅びようとも、われわれは今日りんごの苗木を植えようではないか。」
※他との大きな違い:「われわれは」、「~ようではないか」。
この文書が現れる前に、教会の何かのグループの中で少なくとも口伝えで広がったと想定できる。
2.最初の印刷物は1946年
「女子聖書サークル」(MBK)がカール・ハイザー社から発行したカード。
「たとえわたしが明日世界が破滅することを知ったとしても、今日わたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」
※他との大きな違い:「滅びる」ではなく「破滅する」。
3.「ひとりの著名な人」の言葉として
レナーテ・(フォン・デア・)ハーゲン、『火の柱』、ギュータースロー社、1947年。
「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、わたしは今日それでもなおわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」
※他との大きな違い:「それでもなお」。
4.まったく別の分野で
フリッツ・カスパリ、『実り豊かな庭』、1948年。
この本はガーデニングの本らしい。しかも、この言葉の作者をフリードリヒ・ラウクハルトとしている。
「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、それでもわたしは今日なお木を植えるであろう。」
※他との大きな違い:「りんごの苗木」ではなく「木」。
5.1950年5月のラジオ放送
1950年5月20-21日、ヘルマンスブルクで行われた「ジャーナリスト会議」でニーダーザクセン領邦教会監督ハンス・リリエが語った。この会議の報告が、5月25日の22時~22時10分、北西ドイツ放送のラジオ番組で、ジャーナリストのティロ・コッホによってなされた。
「ある日マルティン・ルターが、もし明日世界が滅びることを確かなこととして知ったとしたら、あなたは何をしますか、と問われた時、わたしはそれでもなおりんごの木を植えるでしょう、と答えました。」
6.1950年5月末
マールブルクにおける少年警備団・福音主義教会(中等教育)生徒聖書研究サークル(BK)の全国会議で、(後の報告書によると、)ハンス・リリエと福音主義教会総会議長のグスタフ・ハイネマンが共にルターの言葉をもって発言の結びとした。
「たとえ明日世界が滅びるとしても、わたしはなお今日わたしのりんごの苗木を植えようと思う。」
二人が全く同じ文言で語ったかは不明。
7.1958年、ブリュッセル万博
「農業」部門のパビリオンの中に設けられたエントランス・ホールに、この言葉が様々な言語で掲げられ、マルティン・ルターの名が添えられた。
「たとえわたしが明日世界が滅びることを知ったとしても、今日わたしはわたしのりんごの苗木を植えるであろう。」
結 論
この言葉を確認できる最も古い史料の年は、1944年である。
1950年5月のラジオ放送とマールブルクの全国会議を通して、この言葉は、ドイツのプロテスタント及びその他の各方面に知れ渡り、また、一般社会にも広がった。その極めつけが1958年のブリュッセル万博だった。
B 誰の作か?
この言葉がルターのもとでは見つからない、ルターに由来を求めることは無駄であることは、1954年、1959年に確認された。
では、誰の作か?
1.シュヴァーベンの敬虔主義 説
シュヴァーベンの敬虔主義者が最初に言ったという説があるが、確認できない。
2.キケロ 説
キケロの「それでも彼は、将来初めて役に立つ木を植える」という言葉が我々が問題としている言葉と結びついていることを裏づけることはできない。
3.ヨハナン・ベン・ザッカイ 説
紀元一世紀のヨハナンの言葉が20世紀まで伝えられてきたという手がかりはまったくない。
4.フリードリヒ・クリスティアン・ラウクハルト 説
彼に由来するという説は極めて疑わしい。
ただし、聞き間違いがあった可能性はある。「ルター」と「ラウクハルト」は発音上、まったく違っているとは言えない。
また、フリッツ・カスパリの『実り豊かな庭』(1948年)という、宗教とまったく関係のないガーデニングの本で、ラウクハルトの作として言及されていることは、どう判断すればいいのか。
結 論
誰の作かは分からない。これまで出て来た様々な説は現在のところすべて否定される。
C ルターと関係があるのか?
ルターの詩編46:3の聖書翻訳に「すぐに世界が滅びようとも」とあり、また、「たとえ・・・であっても」という言い回しは、ルターの讃美歌「神はわがやぐら」の第3節に見られる。
しかし、「りんごの苗木」という表現はルターに見当たらず、ルター以外にも見受けられないなじみのない表現であり、決定的に独創性がある。
この言葉は世界の滅亡ということをまったく世俗的に理解しており、ルターの終末論や倫理を表現したものとは言えない。明らかに、20世紀半ば以前の時代の信仰、あるいは人生観の関心事を表現している。
結 論
今後、この言葉を「これはルターが言ったらしい」などと曖昧にすることは、もはや許されない。