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石井錦一『教会生活を始める』2 [読書メモ]

石井錦一、『教会生活を始める』、日本基督教団出版局、1988年。

自分なりの読書メモ。
前回のブログの続き。

なお、石井錦一の全著作を紹介したブログ(2016.8.4)あり。

直接そのままの引用ではなく、若干(ときにはかなり)、自分の表現に改めた。
聖書は主に口語訳聖書が用いられているが、ここでは新共同訳に改めた。



奉仕について

1.不満や愚痴のあるところ、奉仕なし
奉仕というものは、自発性が基本であり、神のためにせずにはおられないという気持ちから出発する。その思いなしに奉仕をするときに、必ず不満や愚痴が出てくる。不満や愚痴のあるところに、まことの奉仕はない。(p.55)

2.まことに救われた者こそ
まことの救いを体験した者は、どうしても、主の十字架の道を共に歩まずにはおれなくなる。まことの奉仕の生き方は、何よりもまず、わたし自身のまことの救いから始まる。(p.145)

3.忙しい人こそ
様々な奉仕や伝道活動に参加をして、忠実な教会生活をしている人は、家でも仕事でもヒマのある人がしているかというと、逆である。職場や家庭で責任をもって活動している人が、教会の中でも重要な働きの担い手となる。忙しい生活であればあるほど、教会生活から充実した信仰が与えられる。(p.199)



信仰の継承

1.子どもも一緒に礼拝
日本の教会は説教中心の礼拝になっているため、説教を理解できる大人だけが礼拝に出て、説教が分からない子どもは説教を邪魔する存在と見なされてしまっている。しかし、讃美歌が歌われ、祈りがなされ、御言葉語られている、その中に、分かっても分からなくても置かれるということ、子どもと共に礼拝の場にいるということが大事である。このことは、教会教育の大事さとは別のことである。(p.66-67)

2.信仰の継承と子育て
子どもにも信仰の自由があるという美名のもとに、結局何もしないことは、無責任である。(p.185)

子どもを育てるということは、親が親として、共に育っていくことだ。(p.195)

3.教育とは忍耐である
教育とは忍耐である。この忍耐には二つのことがある。一つは他人に対する忍耐、もう一つは、自分自身に対する忍耐である。この、自分自身に対する忍耐が、一番難しい。一人の人間が成長していく道筋は、長い時間を待つ心と忍耐、そして、自分自身に失望しない忍耐が大事である。神は、数千年の間、絶えず忍耐をして、旧約の民を教え、導き、ついに、イエス・キリストを遣わして、人間の救いを成就された。この忍耐と希望の神を、わたしたちは信じている。(p.209)

4.家族の救いを求める信仰
自分だけ信じていればという考え方は、間違っている。日本の教会がいつまでも、家庭から孤立して逃げ出してきた信仰者の集団であるかぎり、一代限りのキリスト者で終わり、教会の成長発展は望めない。(p.170)

5.家族の救いのために
たとえ見える現実は不可能であろうとも、神、もし許し給わば、必ず家族のすべての者が救われると確信しなければならない。信仰を趣味のように考えて、自分の都合で出たり出なかったりの教会生活をしていて、どうして家族を信仰に導けるか。(p.170-171)



その他

●まことの聖霊信仰
わたしたちがキリストを信じ、キリストに従い、教会の中に生きることは、聖霊の導きなしには起こりえない。そして聖霊は、御言葉の説教と聖礼典を通してわたしたちに力強く働いていてくださる。この聖霊を信じて生きることが、まことの聖霊信仰である。(p.31)

●霊の結ぶ実
霊の結ぶ実(ガラテヤ5:22-23)は、わたしたちがキリスト者として成長、成熟することであり、キリストにしっかりとつながっているなら、キリストの命がわたしたちの中に流れて、わたしたちは霊的に成長して実を結ぶようになる(ヨハネ15:4)。キリスト者が結ぶ実は、わたしたちの隣人に福音を伝え、伝道することである。(p.232-233)

●信仰生活と教会の法
わたしたちは洗礼を受けたとき、「日本基督教団の教憲・教規に従い、・・・」という誓約をしてキリスト者となった。教会の法のもとに教会生活をすることを決意したのである。しかし実際には、教会の雰囲気とか、あの信徒・この牧師が気に入らないからしばらく礼拝を休むなどと、非常に感覚的、情緒的な教会生活を送っていないだろうか。
(p.115)

●出発点としての洗礼
洗礼を受けるとは、神に信頼すること、すべてをまかせることである。「神さま、あなたを信頼して洗礼を受けます。これから幾度つまずき倒れるかもしれませんが、何度でもあなたから洗礼を受けた出発点を忘れずに生きていきます。よろしくお願いします。」ということである。(p.119)

洗礼を受けてキリスト者となるということは、冠婚葬祭をすべてキリスト教ですると決意することだ。様々な抵抗や問題があるかもしれない。結果として、やむを得ずキリスト教でできないようなことがあっても、できるかぎり、このような生活のあり方をしていきたいという努力をすることが必要である。(p.130)

●すべての信仰者に求められている献身
献身は、神が求めておられる人間の生き方である。神を信じて生きることは、献身して生きることである。献身とは、あらためて何かをすることではなく、信仰に忠実に生きることである。(p.154-155)

●緊張味のある役員会を
役員会は、教会員の転出入や財政に関することの事務的なことを協議しているだけでは、緊張味を欠いている。こんなことでは、教会をして堅実ならしめていくことはむずかしい。(p.160)

●己の死を正しく見つめる
キリストの福音は、十字架の死より復活の生を、喜びをもって信じることである。キリスト者こそ、己の死を正しく見つめて、その死に至るまで本当に生きることを知っているものだ。(p.179)

●救いとは
救いは、苦痛や刑罰からわたしを解放することではない。神は、苦しみに耐えうる聖霊を与えることによって、わたしを救いたもうたのだ。(p.191)

●自分を愛するように
自分の心を見せられたら卒倒しかねないわたし自身だが、その自分自身を本当の意味で大切にできる人が、また、人を愛し、人を大切にしていくことができる。(p.193)

●この世のもの以上に
教会生活の中で、いつしか、はじめのころの喜びと感謝が消えていく。イエスはペトロに、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロと同じように信仰以前の自分の生活に帰っていくより他ないと思っているわたしたちに、復活の主は問いかけておられる。「あなたは、キリスト者の少ない社会の中で、未信者の家庭の中で、誘惑の多い学校の中で、そして、自分の趣味や、もっと自分がしなければならないと思っている勉強や仕事の中で、・・・それらのもの以上に、わたしを愛するか」と。(p.203)

●悔い改めとは
悔い改めとは、どれだけ悪いことをしたか、どんなでたらめな生活をしてきたかということではなく、生き方そのものの方向転換である。自分を絶対化していた者が、神を絶対とする生活をすることである。真の悔い改めのために、第一に罪の自覚をすること、第二に罪を捨てることである。自分の罪を告白し、赦しを求めるだけでなく、自分が今までよしとしてきた生き方を全部捨てるのである。間違った罪の生き方から、すべて離れて生きる決心である。イザヤ書55:7。(p.220-221)

神は、人が悔い改めて帰ってくるのを待っておられる。具体的には、日曜日ごとに神の家なる教会に帰ることである。真に悔い改め続ける者は、いつも教会に帰るべきところを見いだしている人である。(p.221)

●慎むべきときと、逃げ出してはならないとき
教会の中で問題を感じ批判をもったときに、安易に自分の正しさを主張することは慎まねばならない。しかし、福音の本質、聖書の基本的な原理がないがしろにされていく現実に対しては、わたしたちは逃げ出してはならない。(p.235)




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