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石井錦一『教会生活を始める』1 [読書メモ]

石井錦一、『教会生活を始める』、日本基督教団出版局、1988年。

自分なりの読書メモ。

なお、石井錦一の全著作を紹介したブログ(2016.8.4)あり。

直接そのままの引用ではなく、若干(ときにはかなり)、自分の表現に改めた。
聖書は主に口語訳聖書が用いられているが、ここでは新共同訳に改めた。


信仰の甘えを克服して成長する

1.主の鍛錬
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。」(ヘブライ12:5)
神は、父なる神であるゆえに、わたしたちを真実な信仰者とするために、訓練される。これまでの人生で一度もこのような痛みを経験したことがないならば、その人は本当に神の子であるかどうか疑わしい。(p.14-15)

2.凝り固まった自分が変えられる修養会
教会生活を続けていると、いつの間にか、自分の理性や生活の中でキリスト教や教会生活をとらえてしまい、一つの固定観念によって自分の信仰をよしとしてしまう。それが変えられるのが、修養会だ。
数日の修養会は、自分の信仰と生活が徹底的に変えられることを求める時だ。修養会に参加していながら、礼拝は月一度しか出られないとか、わたしはこの程度の信者なのだなどと、居直ったおしゃべりををしていては、何の信仰の前進も生まれない。(p.60)

3.自分の信仰に満足しない
もし、わたしたちがほんとうに生けるまことの神を信じるなら、自分をごまかして、まあこのくらいでいい、これでも一応信じているのだという自己満足に我慢ができなくなるはずだ。(p.139)

4.「隠れキリシタン」のような生活では信仰は滅びる
教会の中でどんなに熱心に活動し伝道していても、教会の外で「隠れキリシタン」のように生活していたら、なし崩し的に信仰は滅んでいく。自分の信仰をはっきり言い表して、信仰について恐れず語ることができる信徒でありたい。このように決心して信仰に生きるとき、必ずあなたのすべての問題に希望と喜びと感謝が与えられる。(p.159)

5.甘ったれた信仰
今のわたしたちの教会生活は、甘えの教会生活である。牧師には自分の都合と要求を満たしてくれることを期待し、信徒同士では、自分の信仰はだめだが、相手に対しては完全なキリスト者像を要求する。少しでも期待に反すれば、あれでも牧師か、これでもキリスト者かと言っている。 甘ったれた信仰、甘ったれた教会生活がある。信仰の訓練を受けるということが、今日のキリスト者に最も大切な事柄である。訓練はつらいし、きびしい。逃げ出したくなるが、その訓練に汗を流し、涙をぬぐってやっていくときに、本当の自立したキリスト者が成長してくる。(p.161)

6.自分自身を問われているか
説教を通して、御言葉に厳しくせめられ、自分自身を問われる時、それを一番強く共感し、自らの痛みとして受け取る人たちは、もっとも誠実に信仰に生きている人たちである。ほんとうに聞いて従わなければならない人たちは、しばしば、それは自分のことではないと考えている。(p.201)

7.厳しさを通しての成長
人が成長していくには、様々な蹉跌に会うし、挫折に出会う。蹉跌や挫折に会うごとに、今まで知らなかった自分に出会っていく。(p.217)

8.実際の生活の上で信じているか
理屈としては、主イエスはどんなことでも可能であるお方だと信じている(ヨハネ11:22)。しかし、実際の生活においては、その信仰とはまったくかけ離れた生活をしていないだろうか(ヨハネ11:39)。今ここにいる主イエスが復活であり、命である(ヨハネ11:25)。わたしたちは、マルタと共に、死人のよみがえりを現在のこととして示すイエスの前に立って生きる。(p.229)



祈りについて

1.己の無力さを知る
「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(ヨハネ15:5)。このことが分からないと、祈り求めても、自分で少しはできるという気持ちになってしまう。しかし、どんなにすばらしい知恵も力も、神の前には無力である。わたしには何もないという無力を自覚したとき、「神は何でもできる」(マタイ19:26)という偉大な全知全能の神のすばらしさを知る。(p.34-35)

2.できる限り大きな夢を持て
どうしたらすばらしい信仰生活ができるか、どうしたら自分の家庭をしあわせにできるか、どうしたら仕事や勉強をよりよくしていくことができるか、という夢を毎日、新しく持つ。すると、これを実現するための具体的な祈りをすることができるようになる。そのように、神のために、主イエスのために、教会のために、たくさんの大きな夢を持て。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。・・・」(1ヨハネ5:14-15)。この御言葉に信頼して、できる限りの大きな夢を持つことが大切である。(p.36-37)

3.祈りのはじめに神を賛美する
神を礼拝し賛美するときに、中心は自分から神へと変えられていく。自分中心のままで神を賛美することはできない。神への賛美が祈りのはじめに出てくるとき、わたしたちはまことの祈りの場所に立っている。(p.38)

4.神にすべてを打ち明ける
神にすべてを打ち明けることは、祈りの中で一番つらく苦しいことである。しかし、まず自分の弱さと罪を率直に神に打ち明けるなら、「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちをきよめてくださる」(1ヨハ1:9)。それだから、神にすべてを打ち明けるために、「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。・・・どうか、わたしをとこしえの道に導いてください」と祈るのである(詩編139:23-24)。(p.39-41)

5.聴かれない祈り
(内村鑑三「聞かれざる祈祷」(娘ルツ子の死の直後に語られたもの)から)
わたしたちは、ただひたすらに、神の御心に従順になり、イエス・キリストによってのみ、祈りのすべてが聴かれることを確信しなければならない。聞かれない祈りは、神が御自身へとわたしを引きつけようとして設けられた、恵みの手段である。祈りが聞かれるかどうかを神に対してためすのではなく、むしろ、恵みに与るため、恵みのもとにあることが明らかになるために、聞かれない祈りがある。霊自らが、わたしたちのために取りなしてくださる(ローマ8:26)。これを知っている者は、祈りが聴かれないことがあったとしても、ひたすら祈り求め続けることを忘れない。(p.126-127)



伝道について

1.証しの訓練
教会は、主を証しする訓練を教会員にしなければならない。そして、一人ひとりの信徒が証し人となって、他の人々をキリストのもとに導くのである。このことを忘れた教会は成長せず、この主の招きに答えない信徒は、自分ひとりの信仰にとどまってしまう。(p.49)

2.伝道的のための捧げ物
伝道のためには、時間も生活も、わたしたちが考えるよりはるかに多くのものを捧げなければならない。そうしなければ、一人の信仰者を得ることができない。(p.51)

3.伝道の困難
伝道には困難がある。仕事でも勉強でも、苦労しなくてできるものはない。まして、一人の人を導いて神を信じるに至らせるには、もっとも大きな苦労と困難がある。(p.162)

4.伝道的に生きる
伝道は、計算したり、損得を考えたりしたら何もできない。伝道するのだとかまえないで、日常的に伝道的に生きる生活をするほかない。自分の生きている姿勢を変えることだ。それは、いつも聖書をぶら下げ、人に会えばキリストの話をするということではない。いま、このときに、このわたしにだけできること、このわたしがしなければならない生き方を真実にし続けることによって、証しされるような伝道をすることはできないだろうか。(p.165)



続きは、「石井錦一『教会生活を始める』2」で。



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