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新約でのギリシア文学の引用(2) [聖書と釈義]

「新約でのギリシア文学の引用(1)」の続き。

ネストレの巻末のLoci Citati vel Allegatiに記されている古代ギリシア文学からの引用箇所は、
  ネストレ26版では6箇所(使徒26:14の2回を一つに数える)
  ネストレ27版では5箇所
  ネストレ28版では4箇所
になった。

そこで、ネストレ26版にあった全6箇所:
  使徒17:28
  使徒20:35
  使徒26:14
  一コリント15:33
  テトス1:12
  二ペトロ2:22
について、ただし、使徒17:28は前半と後半があってややこしいので2つに分けて、以下にコメントする。


● 使徒17:28前半
我らは神の中に生き、動き、存在する。

前半については、大きく二つの見方がある。

A:明白に何かの引用として記す方法(新共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳)
B:地の文の中で、よく知られている言い回しを使ったとする方法(ネストレ)

もう一つ問題があり、原文ではこの節の真ん中にある「あなたがたのうちの詩人たちの中のある者たちも言っているごとく」(直訳私訳試訳)を
A:「我らは神の中に・・・」と後半の「我らもその子孫・・・」の両方に掛ける(新共同訳)
B:後ろの「我らもその子孫・・・」だけに掛ける(岩波訳、フランシスコ会訳)

この引用元については、ネストレ26~28版いずれも、何も記していない。注解書等には、テトス1:12とともにエピメニデスという説がよくあるが、現在では怪しいということか(テトス1:12の「クレタ人はいつも嘘つき」についての2016年9月29日の記事参照)。

荒井献によれば、「われわれは神のうちに・・・存在する」(荒井は「うちに」に傍点を付している)と謳われている汎在神論的思想は、当時の通俗哲学的な詩句であり、したがって何かの引用ではなく、「それを反映したルカの地の文章とみなすべきであろう。ギリシア語底本〔春原注:ネストレ28版〕も引用文としてプリントしていない。」
(荒井献、『使徒行伝 中巻』(現代新約注解全書)、新教出版社、2014年、p.438-439)



● 使徒17:28後半
我らもその子孫である。

後半は、アラトス(希:Ἄρᾱτος、羅:Aratus)の「パイノメナ」(希:Φαινόμενα、羅:Phaenomena)、5。

作品名の日本語表記にはいろいろあるが、ラテン語風だと「フェノメナ」だけど、ギリシア語の文学なのでギリシア語の読み方に従った方がよい。すると「ファイノメナ」でもよいかもしれないが、古典ギリシア語なので「パイノメナ」の方がいい。

「パイノメナ」は、そのまま「現象」とか、内容を汲んで「星辰譜」などといろいろに和訳されている。

「パイノメナ」はアラトスの現存する唯一の作品で、「天文詩」ともいうべきもので、「ストア主義的なゼウス讃歌から始まって、神話・伝説、ことに星座への変身物語をきわめて効果的に配置しながら1154行にわたって叙述」したもの(松本他『ギリシア文学を学ぶ人のために』世界思想社、1991年、p.248)。

邦訳は、伊藤照夫訳『ギリシア教訓叙事詩集』(西洋古典叢書)、京都大学学術出版会、2007年に収録されている。


● 使徒20:35
「與ふるは受くるよりも幸福(さいはひ)なり」(大正改訳)

「受けるよりは与える方が幸いである」(新共同訳)


ネストレ26版のLoci Citati vel Allegatiにはあったが、27版でなくなった。

ネストレ26版では、Thucydides Ⅱ97,4とある。
ネストレ27版では、本文の外側欄外にThucydⅡと記されている。
ネストレ28版では、本文の外側欄外にも記されていない。

トゥキディデスは紀元前400年頃の古代アテネの歴史家なので、主イエス御自身が言った言葉として記録しているはずはない。似たような言い回しがあるということか。


邦訳は、トゥキュディデス(小西晴雄訳)、『歴史』(上、下)(ちくま学芸文庫ト-15-1,2)、2013年。これは、『世界古典文学全集11』(筑摩書房、1971年)の文庫化。

2.97.4の箇所は、上巻208ページ。これを読むと、たまたま似たような表現があるという程度で、意味は逆だし(「与えるより受けるを得とし」)、格言となるような言い方でもない。


岩波文庫では、トゥーキュディデース(久保正彰訳)、『戦史』(上、中、下)(岩波文庫 青406-1~3)、1966~1967年。
「贈答品の授受については、一般のトラーキア人の間におけると同様オドリューサイ人の間でも、ペルシアの慣習とは逆に、与うるよりも受けるを徳とする風習があったが(そして求められて与えざるは、求めて得ざるよりも大なる恥とされていた)・・・」
上巻、p.290。


邦訳は他に、京都大学学術出版会からのものもあり。


似たような言い方は、ディダケー(十二使徒の教訓)1.5
「誡命に従って与える人はさいわいだ。・・・貰う人はわざわいだ」
佐竹明訳
(荒井献編『使徒教父文書』(講談社文芸文庫)1998年、p.28。)


あるいは、クレメンスの手紙――コリントのキリスト者へ(Ⅰ)2.1。
「受取ることよりもむしろ与えることの方に喜びを抱いている。」
小河陽訳
(荒井献編『使徒教父文書』(講談社文芸文庫)1998年、p.83。)



「与える人は幸いだ」は、ギリシアの格言としてよく知られていたようだ。その一方で、この言葉が含まれた主イエスの語録があったと考えられるかもしれない。

ただし、主イエス自身がこれを言ったと言えるかどうかは難しそうだ。
(荒井献、「「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使20:35)はイエスの言葉か」 in 『福音と世界』2016年9月号、新教出版社、pp.34-41参照。)



● 使徒26:14
とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う。

エウリピデス(希:Εὐριπίδης、羅:Euripides)の「バッカイ」(希:Βάκχαι、羅:Bacchae), 795(ネストレ27版は794sと記す).

ネストレ26版には、Euripides, Bacchae 794 とJulianus, Or. 8,246b(ユリアヌス『演説集』)の両方が記されているが、27版でJulianusはなくなった。ユリアヌスは、361-363年にローマの皇帝を務めたいわゆる背教者ユリアヌスのことなので、より古い紀元前480頃(あるいは485頃?)-406頃のエウリピデスだけが残されたということか。

「バッカイ」について、ディオニュソス(元はギリシア語なので、ラテン語風に「ソース」などと伸ばさない)のことをローマ神話では「バックス」と言い、これがさらにギリシア語に戻されて「バッコス」となり、彼に信従する女性たちのことを、これを女性複数形にして「バッカイ」と言った(ということだろうと思う)。それで、「バッコスの信女たち」という表記もある。

「バッカイ」の邦訳は、逸身喜一郎訳で岩波書店の『ギリシア悲劇全集 9』に収録されている(文庫化されている。『バッカイ――バッコスに憑かれた女たち』岩波文庫赤106-3、2013年)。
これによると、795行目(794行目から文はつながっている)は、ディオニューソスの言葉で、
「棒を蹴とばして怪我をするより、私なら供物を捧げるのに。」
逸見喜一郎訳
(『ギリシア悲劇全集9』、岩波書店、1992年、p.50)
(文庫だとp.82。)



岩波訳の注によると、これは古代ギリシアの格言で、エウリピデスの他に、アイスキュロスの『アガメムノン』1624にも出てくるらしい。

アイスキュロスは前525年生まれなので、エウリピデスより年長である。ネストレがエウリピデスを記すのは、アイスキュロスの方はまだ格言的な言い回しになっていないためか。

「アガメムノン」の邦訳は『ギリシア悲劇全集1』(久保正彰訳、岩波書店、1990年)に収録されている。この1624行目は、
「突き棒を蹴るな、ということだろう。蹴って痛がるのは、あなたのほうだ。」
久保正彰訳
(『ギリシア悲劇全集1』、岩波書店、1990年、p.106)



格言とかは、少しずつ表現が変化しながら自然と語り継がれ広まるという面もあるだろうから、そもそもぴったりの出典というものがない場合もあるだろう。パウロは、自分の回心の話をする際、ギリシア文学を意識的に引用したというより、すでによく知られていた格言を、出典など気にせずに挟んだという感じではなかろうか。


● 一コリント15:33
悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする。

喜劇作家メナンドロス(希:Μένανδρος、英:Menander)の「タイス」(希:Thaïïs)の断片から(番号は、ネストレ27版ではKockの218、ネストレ28版ではKassel-Austinの165)。


ネストレ27版、28版では、括弧して、エウリピデスの断片1024とイコールとある。

岩波書店『ギリシア悲劇全集12 エウリーピデース断片』(1993年)に邦訳あり。この1024は、
「(三行破損)」と記した後、つまり4行目として、
「邪悪な交わりがすぐれた風習を損なってしまうのである。」
(p.477)


年代的には、メナンドロスは前342/1年~293/2年、エウリピデスは前485/4頃~406年である。
(松本他編『ギリシア文学を学ぶ人のために』世界思想社、1991年による。)


しかし、これも、すでによく知られた格言であったのだろう。
(cf. Anthony C. Thiselton, "The First Epistle to the Corinthians: A Commentary on the Greek Text" (NIGTC), Wm. B. Eerdmans Pub. Co., 2000, p.1254.)


● テトス1:12
クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。

「クレタ人はいつもうそつき」あるいは「クレタ人はいつも嘘をつく」について、エピメニデスEpimenidesの「託宣について」という意味のDe oraculis。ギリシア語ではπερὶ χρησμῶν

ネストレ26版、27版のLoci Citati vel Allegatiにはあったが、ネストレ28版では記載がなくなった。

「エピメニデスの作としてカリマコスが引用している」(『旧約新約聖書大事典』、教文館、1989、p.425「クレタ」の項)ということだが、エピメニデスの存在自体が伝説的である。ネストレ28版のLoci Citati vel Allegatiでなくなったのはそのためか、あるいは、それ以前からある格言らしいからか。


● 二ペトロ2:22
前半の「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」は箴言26:11。

後半の
豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る。
について、ヘラクレイトス(羅:Heraclitus)断片B13?。

『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2002年)の「豚に真珠」の項(大貫隆)では、2ペトロ2:22後半について、「ヘラクレイトスの断片13(ディールス/クランツ版)「豚はきれいな水よりも、泥を喜ぶ」(アレクサンドリアのクレメンス『絨毯』Ⅰ,2,2他に引用)が有力である。」
とある。「絨毯」とは「ストロマテイス」のことか?

アレクサンドリアのクレメンスの『ストロマテイス』は、平凡社の『中世思想原典集成1』にあるのか?
また、教文館の『キリスト教教父著作集』収録への準備として、秋山学による翻訳が、筑波大学大学院人文社会系文芸・言語専攻紀要『文藝言語研究 言語篇』に順次発表されている。「ストロマテイス」の第1巻は、vol.63(2013年3月)にある(pdf)

注解書には、『アヒカルの書』(アヒカル物語とも、Achikar)とされているものが多い(『新共同訳聖書注解』、『現代聖書注解』など)ので、以前はこの説が主流だったか?

いずれにしても、パウロもペトロも、出典となるギリシア文学を知っていて引用したというよりも、格言のような形で当時、人々にあるいは知識人の中で良く知られていた言葉を使ったということだろう。


「新約でのギリシア文学の引用」
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