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なぜセレブレーションオブラブに乗らないか? [伝道]

日本基督教団の多くの教会は、なぜ、セレブレーションオブラブのような集会に乗らないのか?

ビリー・グラハム、フランクリン・グラハム以外でも、クリストファー・サンとか、あるいはいろんなムーブメント(ずいぶん前にプロミス・キーパーズというのが流行った)、国内ではジェリコジャパンとか甲子園リバイバルミッションとかいろいろあった。最近ではラブ・ソナタとか。

もちろん、ペンテコステ・カリスマ系の集会には、そういう傾向を持った教会でないと関心を持たないし、ワーシップソングをガンガン歌っている教会でないとまったくついて行けないという集会もあろう。

説教者の神学が合わないとか、スキャンダルが報じられたり、アメリカでの政治的立ち位置が問題視されることもある。

もちろん、関わるかどうかは各個教会の判断による。
だから、日本基督教団の中にも、そういったムーブメントや集会に教会として関わったり、教会員に積極的に参加を呼び掛けたりする教会もあるだろう。

でも、別に統計を取ったわけではないが、たぶん、日本基督教団の多くの教会は、関心を持たないと思う。たとえ、その集会に特定の教派的傾向がなく、説教者にスキャンダルもなく、政治的な立ち位置も問題ないとしても。


なぜだろうか。


1.そもそも、ムーブメントに興味を持たない体質である。

やがてそのうちはやりが過ぎ去る時が来るような新しいものには振り回されないで、地道に伝道するんだという体質がある。

そういう体質なのだから、関心を持てと言われても無理である。

別にアレルギーがあるわけではないけれど、納豆はおいしいし体にいいからぜひ食べろと言われても、小さい頃から食べてきた経験がないので、無理な人には無理であるのと同じである。


2.大衆伝道に対する親和性がない。

伝道は各個教会が、あるいは信徒一人ひとりが、コツコツ行うものだという意識が強い。

また、有名な伝道者・説教者にキャーキャー言うミーハーな信仰を持っていない

まあ、賀川豊彦のころまではそういうところがあったかも知れないが。

良くいえば、人気があるからといって安易に権威付けたりしないというか、悪く言えば、頭でっかちの信仰なので、人々から褒めそやされている人がいるとハスに構えて批判したがるクセがあるというか。

そういうわけなのだから、無理に東京ドームとか連れて行かれても、何だか気疲れして帰ってくるだけ。普段礼拝をささげている教会で、静かに説教を聞くのが体に合っているのである。


3.教職制度が堅固である。

礼拝の説教者は、原則として、教団の教師か教団と宣教協約を結んでいる教会の教師に限られる。別に規則に明記されていなくても、そういうものだという意識がある。(たまには神学生が説教したり、牧師が休暇の時には信徒が説教することもあるだろうが、あくまでも例外的なこととして捉える)

そのため、他の教派の牧師を主日礼拝の説教者として呼ぶことは、教団のほとんどの教会では考えられないことだろう。(別に他の教派の牧師職を否定するわけではないし、伝道集会とかで呼ぶことなどはあり得るだろうが)

他教派の牧師に毛色の違う信仰を教えられては困るというような思いを持っている人もいるかもしれないが、そういうことでなくても、説教は教団の教師がするのが当然という教職観というか説教者観が、大衆伝道とか、超教派の伝道集会などの際にも働くことがあると思う。


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