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佐古純一郎 [読書メモ]

佐古純一郎
1919.3.7-2014.5.6

評論家だったり大学教授だったり牧師だったりで、いったいどういう経歴になっているのかと思い、わたしなりの関心からその生涯を区分してみると、次のようになる。

第1期(~1951年) キリスト教との出会い
1948年5月23日(ペンテコステ)受洗
1949年日本聖書神学校入学

第2期(1951~1961年)評論家としての出発
神学校へ通うも、牧師の道ではなく評論家としての道に進んだ。
1951年 最初の評論集『純粋の探求』出版。
1957年まで、創元社や角川書店に勤務。
1960~1961年 『佐古純一郎著作集』全8巻(春秋社)刊行。

第3期(1959~1967年)二松学舎大教員
第2期と若干重なるが、
1959年 二松学舎大文学部専任講師
1961年 助教授
1962年 教授

第4期(1967~1984年) 中渋谷教会牧師
1967年7月1日 日本基督教団中渋谷教会伝道師
1971年12月14日 受按、牧師になる。
1984年まで中渋谷教会牧師

第5期(1986~1989年)二松学舎大学長

第6期(1989年以降)執筆活動の晩年




 文芸批評や文学論ではなく、キリスト教的な著作として今の私(これまでの私)にとって関心のあるのは次の二つのみ。

『文学にあらわれた現代人の不安と苦悩』(教養新書)、日本YMCA同盟出版部、1957年。

夏目漱石『こころ』に始まり、石原慎太郎『太陽の季節』、三島由紀夫、大岡昇平、丹羽文雄などなどを取り上げて、孤独や人間不信による男女関係の歪みや自殺の問題をあらわにする。

最後に、おそらくキリスト教を押しつけられたくない今の人にとってはドン引きしてしまうほどに、イエス・キリストの愛を語る。

「私は自分が愛されている存在であることを、生の奥底から実感することができるのである。かつて生きることに絶望し、いくたびか人生を清算しようと決意した自分が、いまは自殺ということにナンセンスを感ずることができるのは、愛されている自分を知っているからである。私は誰に愛されているのか。ためらうことなしに告白しよう。キリスト・イエスにと告白しよう。・・・愛するということは、愛されるということの同義語でしかない。」(p.112-113)


「かつて青春の日に、人生無意味の虚無感に襲われ、もはや生きていることには耐えられない状況に追い込まれた私が、いまははっきりと人生は無意味でないと叫ぶのである。・・・人生は無意味ではない。人生には使命があるからである。・・・「神は・・・和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神は・・・わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。・・・」私はパウロの言葉によって示されたこのことのほかに、自分に与えられている人生の使命はないと確信している。」(p.116-119)


他に、「文学の倫理と信仰」、「性の反宗教的性格」、「現代における死」、「戦後文学における女性」を収録。


この本を読んで牧師になっ人が少なくとも三人はいるとのこと(『共助』第64巻第8号、2014年12月、基督教共助会出版部、p.19-24の佐古純一郎葬儀説教)。




もう一つは、

『キリスト教入門』、朝文社、1989年初版、1992年新装版、295頁。

「第一部 キリスト教入門」は『信徒の友』に連載されたもので、求道中の人向けに自由に記された全12章。

「第二部 信仰によって救われる」は、ガラテヤ人への手紙を読み進めることを中心に様々な聖書箇所を紹介しながら信仰のエッセンスを語った、中渋谷教会での説教、全10章。

「第三部 祈りについて」も中渋谷教会での実際の学びから生まれた全7章。

「第四部 愛について」は、13頁ほどの「愛の力」と、『愛を問う』(女子パウロ会、1973年)に収録されていた「愛は応答(レスポンス)である」(46頁)の2編。


じっくり読み返したいのは「祈りについて」と「愛は応答である」。



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