SSブログ

ペテロは初代法王か?(1) [聖書と釈義]

 使徒ペトロを初代教皇とする根拠として挙げられる聖書箇所はマタイ16:13~20。このうち特に16~19節が重要であるが、ほんとうにペトロが初代教皇なのだろうか。

予備知識1:
 ローマ・カトリック教会のいわゆるトップは、法王というのは俗称とも言える名称で、キリスト教内では教皇という。

 これについては、カトリック中央協議会のサイトの中の「「ローマ法王」と「ローマ教皇」、どちらが正しい?」のページで。

予備知識2:
 ちなみに、歴代教皇のリストはこちら。

予備知識3:
 朝日新聞2013.3.2付の社説欄「コンクラーベ 人々に寄り添う法王を」の記述の中で、ペトロの名について「動じない人になれ、と岩を意味する名をイエスがつけた」とあるが、これは、執筆者の勝手な思い込みか、分かってない人の著作で仕入れた知識だろう。
 聖書を読めば分かるように、イエスは「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたと記されているので、岩とは土台を意味してる。(もちろん比喩的な意味で「土台」と言っているということぐらいは、信徒でなくても察しがつくだろう。)

予備知識4:
 その関連で、ペトロπέτροςは「石」を意味し、πέτραは「岩」を意味する。(バウアーのギリシャ語辞典、バルツ&シュナイダーの『ギリシャ語新約聖書釈義事典』、ルツのEKKなど)


1.マタイの記事の独自性
 この記事は、マルコとルカにもあるが、大きな相違が何点かある。
a)「私を何者と言うか?」とのイエスの問いに対するペトロの答えが異なる。マルコ8:29は「あなたはメシアです」、ルカ9:20は「神からのメシアです」。これらに対し、マタイは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と一番凝った返事をしている。
b)マタイは「このことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。」とのイエスの言葉を記す。これは他の福音書にない。
c)さらに、マタイ16:18も他の福音書にない。
d)19節の鍵の権能の授与も他の福音書にない。

 なお、福音書の中でペトロは、決して立派な存在ではない。「信仰の薄い者よ」(マタイ14:31)と言われ、三度イエスを否認する。また、ヨハネ福音書では、裸同然であったのを恥じて思わず湖に飛び込んでいる(ヨハネ21:7)。

2.マタイにおけるペトロ
・マタイ15:15は、マルコ7:11の「弟子たち」を「ペトロ」に置き換えている。
・マタイ16:16でペトロは弟子たちを代表して答えている(並行箇所のマルコ8:29、ルカ9:20も同様)。
・マタイ26:40でも、ペトロは弟子たちを代表して答えている(マルコ14:37も同様)。
・マタイ21:20では、マルコ11:21の「ペトロ」を「弟子たち」に書き換えている。
・マタイ24:3では、マルコ13:3でペトロを含む三人の弟子たちの名が挙げられているのを、単に「弟子たち」とする。
・マタイ28:7は、マルコ16:7の「弟子たちとペトロ」を単に「弟子たち」とする。
・マルコ1:36のペトロのリーダー的な役割の記事を、マタイは採用していない。

 など。以上のことから、とりわけマタイでは、ペトロは、弟子の筆頭者ではある(マタイ10:2で「ペトロ」の名の前にπρῶτος「まず」とある)が、弟子たちのトップとかリーダーではなく、弟子たちの総代というか、代弁者というか、そういう意味での代表者であり、典型である。

 なお、この点について、『ギリシア語新約聖書釈義事典』(教文館)のπέτραの項とπέτροςの項は、どちらもカトリックのルドルフ・ペシュ(Rudolf Pesch)の執筆で、「ペトロは・・・決定的な啓示伝達者として指名される」(第三巻、p.111右欄)とか、「ペトロは極めて強固な指導的地位を有していたようであり」(同、p.113左欄)とか、あまりにも無批判にカトリック的である。

3.結 論
 マタイによる福音書において、信仰告白の言葉も鍵の権能も、ペトロは弟子たちを代表し典型として受け取っている。つまり、信仰告白と鍵の権能は、すべてのキリスト者ないし教会に与えられたのであって、ペトロという個人に与えられたのではない。


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。