アイルトン・セナの墓碑銘 [その他]
アイルトン・セナ(Ayrton Senna da Silva, 1960.3.21-1994.5.1)
F1レーサー、ブラジル、ローマ・カトリック教徒
朝日新聞2013年2月19日(火)夕刊 「ニッポン人脈記」スピード!(7)「君がここにいてほしい」
記事の最後に、セナの墓碑銘が紹介されていた。
「何ものも神の愛を私から引き離すことはできない――。」
これは、新約聖書 ローマの信徒への手紙8章39節に基づき、若干言葉を変えた言い方。聖書では「わたしたち」と複数で言っているところを「私」と単数に言い換えている。
新共同訳 ローマ8:39「・・・他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
新改訳 ローマ8:39「・・・そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
口語訳 ローマ8:39「・・・その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」
文語訳(大正改訳) ローマ8:39「・・・此の他の造られたるものも、我らの主キリスト・イエスにある神の愛より、我らを離れしむるを得ざることを。」
セナの墓碑に刻まれた言葉は、ネット上にある多くの写真から判読すると、
"NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS"
これはポルトガル語で、「私を神の愛から引き離すことのできるものは何もない」とか「何も神の愛から私を引き離すことはできない」という意味である。
AMOR(愛)の前のDOは「~から」の意味の前置詞deと男性単数の定冠詞oがくっついて短くなった形。
というわけで、朝日新聞の記事中の「神の愛を私から」は、細かいことを言うならば正確には「神の愛から私を」である。
セナの死からしばらく経った頃、テレビの「ボキャブラ天国」で、「アイルトン・セナ」を、“いつか「会えるといいな」”と言い換えた作品があったのを、印象深く記憶している。
神の国が到来する終わりの時が来たら、プロテスタントだカトリックだという区別なく相集って、共に神を誉め讃えるのである。
[追記]
ちなみに、小坂忠の「勝利者」という歌の中にもローマ8:39が使われている。
→YouTubeの小坂忠&ユーオーディア アンサンブルの演奏
F1レーサー、ブラジル、ローマ・カトリック教徒
朝日新聞2013年2月19日(火)夕刊 「ニッポン人脈記」スピード!(7)「君がここにいてほしい」
記事の最後に、セナの墓碑銘が紹介されていた。
「何ものも神の愛を私から引き離すことはできない――。」
◆
これは、新約聖書 ローマの信徒への手紙8章39節に基づき、若干言葉を変えた言い方。聖書では「わたしたち」と複数で言っているところを「私」と単数に言い換えている。
新共同訳 ローマ8:39「・・・他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
新改訳 ローマ8:39「・・・そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
口語訳 ローマ8:39「・・・その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」
文語訳(大正改訳) ローマ8:39「・・・此の他の造られたるものも、我らの主キリスト・イエスにある神の愛より、我らを離れしむるを得ざることを。」
◆
セナの墓碑に刻まれた言葉は、ネット上にある多くの写真から判読すると、
"NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS"
これはポルトガル語で、「私を神の愛から引き離すことのできるものは何もない」とか「何も神の愛から私を引き離すことはできない」という意味である。
AMOR(愛)の前のDOは「~から」の意味の前置詞deと男性単数の定冠詞oがくっついて短くなった形。
というわけで、朝日新聞の記事中の「神の愛を私から」は、細かいことを言うならば正確には「神の愛から私を」である。
◆
セナの死からしばらく経った頃、テレビの「ボキャブラ天国」で、「アイルトン・セナ」を、“いつか「会えるといいな」”と言い換えた作品があったのを、印象深く記憶している。
神の国が到来する終わりの時が来たら、プロテスタントだカトリックだという区別なく相集って、共に神を誉め讃えるのである。
[追記]
ちなみに、小坂忠の「勝利者」という歌の中にもローマ8:39が使われている。
→YouTubeの小坂忠&ユーオーディア アンサンブルの演奏
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