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奥田知志『助けてと言おう』その1 [読書メモ]

「助けて」と言おう.jpg奥田知志、『「助けて」と言おう』(TOMOセレクト 3.11後を生きる)、日本基督教団出版局、2012、78頁、840円。

日本基督教団西東京教区の全体研修会での講演「「助けて」と言おう――ホームレス支援から見た無縁日本」と「出会いが創る、心の絆」の二本。

以下、気になる言葉について、そのままの抜き書きだったり、わたしなりの言い換えだったり。

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「震災のような極限状況への対応は、その日が来てからでは遅い・・・。日常において「試みに遭わせず」という呻きに傾聴し、その祈りを共にしていた教会や活動団体は、その日当然のように動き出した。」(p.8)


つまずきから始まる
わたしたちはいつしか勝手な期待を持って神という像を自らの想像の延長線上に描き、描いた神を見いだせなくなったその日、「神に裏切られた」「神は隠れた」と言った。

 しかし、こんなはずではないというつまずきから、キリスト教信仰は始まったのではなかったか。イエスが十字架にかけられたとき、皆、こんなはずではないと思って逃げてしまった。つまずいて泣きながら立ち去ったそのペトロが、キリスト教信仰の礎となっていった。

 だから今、わたしたちは、きちんとつまずかなければならない。きちんと傷つかなければならない。「こんなはずではない」という現実の中で聖書を読まなければならない。躓いたから、本当の希望が始まる。(p.12~13あたり)


「絆」には「傷」が含まれる
 出会いというものは、こちらの想定通りにはいかない。出会ったがゆえにリスクも背負う。自分の安心安全だけでなく、相手の安心安全を確保するためにあなたは何かを失わなければならない。人と出会うとき、そういう危険を覚悟しなければならない。それが出会うということだ。その覚悟なしで出会うというのは、少々都合が良すぎる。人と人と出会いには、出会った責任が必ず発生する。出会いの責任は相互的だ。

 絆という言葉には、「きず」(傷)が含まれている。傷つくことを回避して絆を結ぶことはできない。(p.21、26、28~29あたり)
 イエス・キリストは、わたしたちと絆を結ぶために、十字架において傷を引き受けられたその打たれた傷によってわたしたちは癒された。(p.48~49あたり)


「自己責任論」は社会を崩壊させる
人は一人では生きていけない。「私事」(わたくしごと)に関わってくれる赤の他人を必要としている。私事に関わってくれる他人の存在、それを仕組みとしたものが社会だ。社会というものは、わたしが生きていくうえで、わたしのために動いてくれる他人がいることによって成り立っている。

 これに対し、自己責任論は、困窮状態に陥った原因も、そこから脱するのも、本人の責任ですよと考える。これでは社会が崩壊する。そして、「自己責任論」こそ、自分が傷つかないための最大の武器だ。(p.29~30、32~33あたり)

 十字架に架かったイエスを祭司長や律法学者たちは嘲弄した。「他人を救ったが、自分自身を救うことができない」と。他人のために傷つくのはアホやと笑うのが、自己責任論だ。この世界は、二千年前から自己責任論社会だった。(p.49~50あたり)


自己責任を取れる社会を
 自己責任自体は大事である。「あなたの人生じゃないですか。あなたが選ぶしかないんですよ。そして、選んだあとはあなた自身が責任を持ってくださいね」。ただ、住所のない人がハローワークに行っても職を探すことはできない。今の日本の社会では、住居や住民票が社会システムの基盤となっている。その基盤がないと、社会への入り口そのものがなくなってしまう。

 その時に、社会、行政も含めた周りの人が、住むところ、着るものを提供し、お風呂に入ってひげも剃ってくださいと支援の手を差し伸べる。そのような環境が整ってはじめて、自己責任を問える状態となる。これでハローワークに行かないんだったら、それはあなたの責任ですよと。

 自己責任を追及している社会が、自己責任を取れなくしてしまっている。自己責任を取れる社会を作らなければならない。(p.35~36、63あたり)


 その2に続く。


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