リュティ『あなたの日曜日』 [読書メモ]
ヴァルター・リュティ(宍戸達訳)、『あなたの日曜日』、新教出版社、2002、123頁、1995円。
原著は"Dein Sonntag"で、発行年が記されていないが、「訳者あとがき」によると、調査の結果1949年と判明したとのこと。
現代においてなお日曜日を礼拝の日とすることに関する19の短編集。
気になる言葉のメモ(そのままの引用だったり、わたしなりの言い換えだったり)。
ノコギリは、使った後にはゆるめておく。ヴァイオリンもケースに納める前に。ゆるめておく。機械を動かしていたベルトは、土曜日の午後、歯車からていねいに取りはずして休ませる。人間だけが休息をなくしている。休息は、ぜいたくではなくて、労働と結び付いた必要な事柄だ。
ところが、現代人は、日曜日になっても週日の労働感覚に突っつかれて、歩いたり、乗ったり、泳いだり、飛んだり、転がったり、滑ったり、その他、このようなことしかできなくなっている憐れな人間になっている(チャップリンが「モダン・タイムス」で描いたように)。
(pp.10-11、30あたり)
神の休息は、造られたものが極めて良かったために、造り主として喜びをもってそれを顧みられることである。同時に、神の休息は、この造られたものが完成すること、すなわち、自由と喜びをもって顧みられて完成に至ることである。
しかし、それでも十分に言い尽くせていない。結局わたしたちは、「神の休息とは、まさに神の休息なのだ」としか言いようがない。
そして、神は、御自身のこの休息の中に、わたしたちをも参加させようとなさっている。神は、その休息をわたしたちと共に過ごそうとなさる。わたしたちは、神と共に過ごすことを許されている。
日曜日は、単なる休息の日ではなくて、神を礼拝する日であり、交わりの日である。
(p.24あたりとpp.98-99あたり)
「祝福」を意味する聖書の言葉「ユーロギア」は「好ましい知らせ」、「好ましい言葉」という意味を持ち、神は日曜日を特別に祝福された。しかし、「好ましい知らせ」は、日曜日だけでなく、どの日にも注がれている。
日ごとに御言葉の祝福に出会うには、朝のわずか15分でよい。日ごとにわたしたちが神に立ち戻ることこそが大事であって、人間は神に立ち戻って初めて、隣人に対しても立ち戻れるようになる。
(p.43とp.71あたり)
わたしたちの礼拝は、ひどくみすぼらしいと思わずにはいられない。日曜日ごとに行われていることがいかに首をかしげざるを得ないものかと思うと、とても不安で落ち着いていられない。
しかし、地上で礼拝するわたしたちがどんなに首をかしげざるを得ないものであるとしても、日曜日は地上で始められて天上に至るのではなく、逆に、天上でまず起こり、ここ地上のわたしたち人間のもとに降ろされてくるのだ。
天使や聖徒たちが神の御前で献げる礼拝こそが本来の礼拝である。地上での礼拝は、うまくいってしるしのようなものか、神の永遠の安息日がちょっぴり顔をのぞかせたようなものである。
(pp.103-104あたり)
(ということは、礼拝を執り行い、整え続けることはわたしたちに与えられた重要な務めではあるが、しかし、地上での礼拝はそのようなものであるゆえ、礼拝のことで不要に神経をすり減らす必要はなく、また、あるべき論を振りかざすべきでもない。うまくいかなくても失望したり落胆しなくてよい。)
日曜日が神の日曜日であることは、週日にも及んでいる。恵みによってのみ生きる人、そういう人に日曜日があり、そういう人にだけ、もはや、日曜日を特別に区別しなければならないような「仕事日」などはない。
(pp.117-118あたり)
原著は"Dein Sonntag"で、発行年が記されていないが、「訳者あとがき」によると、調査の結果1949年と判明したとのこと。
現代においてなお日曜日を礼拝の日とすることに関する19の短編集。
気になる言葉のメモ(そのままの引用だったり、わたしなりの言い換えだったり)。
ノコギリは、使った後にはゆるめておく。ヴァイオリンもケースに納める前に。ゆるめておく。機械を動かしていたベルトは、土曜日の午後、歯車からていねいに取りはずして休ませる。人間だけが休息をなくしている。休息は、ぜいたくではなくて、労働と結び付いた必要な事柄だ。
ところが、現代人は、日曜日になっても週日の労働感覚に突っつかれて、歩いたり、乗ったり、泳いだり、飛んだり、転がったり、滑ったり、その他、このようなことしかできなくなっている憐れな人間になっている(チャップリンが「モダン・タイムス」で描いたように)。
(pp.10-11、30あたり)
◆
神の休息は、造られたものが極めて良かったために、造り主として喜びをもってそれを顧みられることである。同時に、神の休息は、この造られたものが完成すること、すなわち、自由と喜びをもって顧みられて完成に至ることである。
しかし、それでも十分に言い尽くせていない。結局わたしたちは、「神の休息とは、まさに神の休息なのだ」としか言いようがない。
そして、神は、御自身のこの休息の中に、わたしたちをも参加させようとなさっている。神は、その休息をわたしたちと共に過ごそうとなさる。わたしたちは、神と共に過ごすことを許されている。
日曜日は、単なる休息の日ではなくて、神を礼拝する日であり、交わりの日である。
(p.24あたりとpp.98-99あたり)
◆
「祝福」を意味する聖書の言葉「ユーロギア」は「好ましい知らせ」、「好ましい言葉」という意味を持ち、神は日曜日を特別に祝福された。しかし、「好ましい知らせ」は、日曜日だけでなく、どの日にも注がれている。
日ごとに御言葉の祝福に出会うには、朝のわずか15分でよい。日ごとにわたしたちが神に立ち戻ることこそが大事であって、人間は神に立ち戻って初めて、隣人に対しても立ち戻れるようになる。
(p.43とp.71あたり)
◆
わたしたちの礼拝は、ひどくみすぼらしいと思わずにはいられない。日曜日ごとに行われていることがいかに首をかしげざるを得ないものかと思うと、とても不安で落ち着いていられない。
しかし、地上で礼拝するわたしたちがどんなに首をかしげざるを得ないものであるとしても、日曜日は地上で始められて天上に至るのではなく、逆に、天上でまず起こり、ここ地上のわたしたち人間のもとに降ろされてくるのだ。
天使や聖徒たちが神の御前で献げる礼拝こそが本来の礼拝である。地上での礼拝は、うまくいってしるしのようなものか、神の永遠の安息日がちょっぴり顔をのぞかせたようなものである。
(pp.103-104あたり)
(ということは、礼拝を執り行い、整え続けることはわたしたちに与えられた重要な務めではあるが、しかし、地上での礼拝はそのようなものであるゆえ、礼拝のことで不要に神経をすり減らす必要はなく、また、あるべき論を振りかざすべきでもない。うまくいかなくても失望したり落胆しなくてよい。)
◆
日曜日が神の日曜日であることは、週日にも及んでいる。恵みによってのみ生きる人、そういう人に日曜日があり、そういう人にだけ、もはや、日曜日を特別に区別しなければならないような「仕事日」などはない。
(pp.117-118あたり)