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ツィポラ、割礼、血の花婿(2) [聖書と釈義]

出エジプト記4章24~26節

注解書が紹介する諸説に惑わされず、聖書そのものをちゃんと読む。

12.主はなぜモーセを殺そうとしたのか
 主なる神は、ある者を選び出してその者に重大な使命を負わせるとき、その人を命の危機にさらす。例えば、アブラハムには、行き先も知らせず旅立たせた(創世記12章、ヘブライ11:8)。イザヤは、召命を受けたとき、滅ぼされる思いをさせられた(イザヤ6:5)。パウロは、回心する際、地に倒れた(使徒9:4)。

 それは、その者を遣わすのは主であることを知るためであり、その者は自分の意志や力によってではなく、主によって生き、歩むためである(創世記12:4「主の言葉に従って」、イザヤ6:9「行け」、使徒9:6)。

13.わたしたちも、「命の危機」をくぐり抜けて、新しい命に生きる
 わたしたちは、洗礼においてキリストと共に葬られる(ローマ6:3~4)。まさに、「命の危機」を経験する。しかし、そこから、新しい命に生き(ローマ6:4)、キリストと共に生きる(ローマ6:8)。

14.わたしたちの使命は伝道
 神から託された使命を遂行するにあたって、これまでの古い自分に死に、神のために生きる新しい命に生きるようにされる(ローマ6:6、ガラテヤ2:19、エフェソ4:22~24、コロサイ3:9~10)。古い命に死に、新しい命に生かされたならば、モーセがイスラエルの民をエジプトの重労働から解放する使命を神から与えられたように、わたしたちも、人々を罪の囚われから解放する使命を、神から託されているのである。つまり、洗礼を受けた者には皆、伝道の使命が与えられている。

(続く)

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