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「十人のおとめ」のたとえ――「花婿」はイエス・キリストを意味しているか [聖書と釈義]

マタイによる福音書25:1~13 「十人のおとめ」のたとえ

1.本文批評
 マタイ25章1節で、十人のおとめが「花婿を」出迎えに行くところ(א、B、L、W、f13、33など)を、「花婿と花嫁を」出迎えに行くとする異読がある(D、Θ、itなど)(UBS第4版による)。
 「花婿を」とする本文は、アレクサンドリア型の主要な写本(א、B、L)がこの読みを取り、カイサリア型(f13)の中にもこの読みを支持する写本があることから、まあ、これを採用することができるだろう(UBS第3版はCランク、第4版はBランクでこちらを採用)。
 つまり、「と花嫁」は後から付加された語である。

2.アレゴリカルな解釈による挿入か?
 では、なぜ「と花嫁」が挿入されたのか。その理由としてアレゴリカルな解釈を挙げる説明がある。「花婿」とはキリストのことであるのだから、その「花嫁」としての教会がこのテキストに持ち込まれたのだと(ルツ、EKK、邦訳第三巻、p.950)。
 しかし逆に、キリストは教会を花嫁として迎えるためにやって来るのだから、「花婿」だけが記されているほうがこのアレゴリーと合致しているという考え方もあることをメッツガーが紹介している(Bruce M. Metzger, "A Textual Commentary on the Greek New Testament," Second Edition, United Bible Societies, 1994, p.52f)。
 一方は「と花嫁」がある方がアレゴリカルな解釈に沿うから後から付加されたと言い、もう一方は「と花嫁」がない方がアレゴリカルな解釈に相応しく、これがあるとアレゴリーが乱されるからこれは後からの付加だと言っている。いったい、どっちなんだ?
 しかし、前者ではもともとアレゴリカルには解釈されていなかったということであり、後者でもそもそもアレゴリカルには理解されていなかったと言うことで、結局いずれにしても、元の「花婿を」のみの読みに対してアレゴリカルな解釈はされていなかったと考えることができる。

3.ちなみにメッツガー
 ちなみに、Bruce M. Metzger, "A Textual Commentary on the Greek New Testament," Second Edition, United Bible Societies, 1994.のp.52fにあるマタイ25:1の"καὶ τῆς νύμφης"の挿入に関する説明のだいたいの意味:
"and the bide"の挿入は、比較的有力な写本群によって支持されているが、花婿としてのキリストが花嫁としての教会を連れに来るという広く知られている考え方と整合しないため、これらの語は挿入されない方が蓋然性があるのだという議論がある。しかし、写本家がここにアレゴリーの論理をどれほど見出していたかについては疑問の余地があるし、さらに、これらの語を含めない写本家は結婚式が花嫁の家で行われると考えているのに対し、これらの語を含める写本家は、花婿が結婚式の行われる彼の家(あるいは彼の実家)に花嫁を連れて行くと考えている。古代においては後者の習慣がより一般的であったので、写本家は、これらの語があると〔後の時代になされる〕譬え話のアレゴリカルな解釈が混乱してしまうとはつゆ知らずに、これらの語を挿入してしまったのであろう。実際、この後に出てくるのは花婿だけである。

4.これに関してエレミアス
 エレミアスによって明らかにされたことは、イエスが語る「花婿」という言葉に当時の聴衆がメシアを当てはめて聞いたとはまずありえないということである。エレミアスは、メシアを花婿として寓喩化することは、旧約聖書にも後期ユダヤ教にも全くなかったことを指摘している(『イエスの喩え』新教出版社、51頁)(多くの注解者がこのエレミアスに言及している)。
 もう少しエレミアスを読んでみなきゃ。

5.聖書の文脈から
 さて、そうだとしても、そういった「生活の座」から時が隔たるにつれて、聖書の他の箇所でキリストを花婿に喩える表現(マルコ2:19~20並行マタイ9:15、2コリ11:2、エフェソ5:23)がこの「十人のおとめ」のたとえの理解にも影響したことは想定できることである。
(このあたり、東京神学大学新約聖書神学事典編集委員会編『新約聖書神学事典』教文館の「アレゴリー」の項を参考)。
 そして、その影響のもとにこの福音書が編集されたことも重視してしかるべきであろう。
 このたとえは「天の国」のたとえであり、また、「人の子」の来臨の時がいつであるか分からないことが述べられている文脈にある(24:30~31、33、33~44、45~51、25:1のτότε、25:13)。
 これらの点から、到来が遅れた花婿(25:5)にイエス・キリストを重ね合わせることは可能であり、許されることであろう。もっとも、必ずしもそう解釈すべきというわけではない。

6.結 論
 結局、テキスト本来の意味を重視して、花婿をイエス・キリストに当てはめることを避けるか、あるいは、直截的な寓喩的解釈は避けるとしても、文脈から妥当な読み方として、花婿がイエス・キリストを指しているとするか、両方のアプローチがある。さあ、どっちでいくか? 
 釈義としては花婿をイエス・キリストに当てはめることはできないという結果になっても、説教としては花婿がイエス・キリストを指すとすることも可能であろう。あるいは、13節を“不適当に挿入された編集句”などと愚かな判断をせず(いくつかの注解書に反対)、正典として我々が受け取っているところの1節のτότεや13節を含む文脈を重視して読み解くところまで含めて釈義とすべきであろう。

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