SSブログ

神はなぜ「父」なのか [信仰]

1.父なる神がイエスを「子」と呼ばれた(イエスの洗礼の時:マタイ3:17,マルコ1:11,ルカ3:22、及び、山上での変貌の時:マタイ17:5,マルコ9:7,ルカ9:35)。
 イエス・キリストも、御自身を世に遣わされた方を「父」と呼んだ(ルカ2:49、ヨハネ5:18、6:44,57、マタイ11:25-26(イエスの歓呼)、ヨハネ17章のイエスの祈り、マルコ14:36(ゲツセマネの祈り)、ルカ23:34,46(十字架上で)、などなど)。

2.わたしたちは、洗礼によってイエス・キリストに結び付けられて、イエス・キリストの体の一部とされ、その命に生きる者とされる。そのようにしてわたしたちは「神の子」とされて(ヨハネ1:12、ガラテヤ3:26)、イエス・キリストを遣わされた方を「父」と呼ぶ(マタイ6:9、ルカ11:2:「主の祈り」)。

3.したがって、神を「父」と呼ぶことは、イエス・キリストが神を父と呼んだことをそのまま受け入れる信仰であり、また、このイエス・キリストに結ばれてわたしたちにも神を父と呼ぶことが許されていることを受け入れる信仰である。

4.そもそも永遠なる神には性別はないのだから、神は男性でも女性でもない。それゆえ、なぜ「母」ではないのかという問いには意味がないし、神は男性なのかという問いも的外れである。また、この世の「父」という言葉の概念をここに当てはめてはならない。言わば、この世の父は「肉の父」であるのに対し、神は「霊の父」である(ヘブライ12:9)。この世の言葉の意味やイメージを超えたところで、イエス・キリストは神を父と呼んだのである。

5.つまり、「父」と「子」の関係をこの世の親子関係から捉えてはならない。「父」と「子」は、三位一体の神御自身の内の特別な関係である。神が父であるとは、(内在的三一論的には)唯一の神が御自身の内で独り子の父でいらっしゃるという事実を言い表しており、また、(経綸的三一論的には)神がイエス・キリストにおいて御自身を父として世に現された事実を述べている。

6.神を「父」と呼ぶことをわたしたちに可能にしてくださっているのは、聖霊である(ローマ8:15、ガラテヤ4:6)。したがって、神を「父」と呼ぶことは、救いの恵みに生かされている者にとって不可欠な信仰表現であり、これを割り引いて考えてはならない。

7.イエス・キリストがご自身を遣わされた方を「父」と呼び、わたしたちもそのお方を「父」と呼ぶ。神を「父」と呼ぶ者たちはイエス・キリストの兄弟姉妹であり(ヘブライ2:11)、また、イエス・キリストと共にわたしたちは「神の家族」である(エフェソ2:19)。

8.神は、信じる者にとってはもちろん「父」であるが、信じていない者も含めて全ての人の父である。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。