SSブログ

それは、あなたが言っていることです。 [聖書と釈義]

――主としてマルコから――

1.最初に二つのことを確認しておく。

(1)主イエスに問い返される
 主イエスが問われた問いを逆に相手に投げ返している記事が、いくつかある。たとえば、離縁は律法に適っているかと問われて、主イエスは逆に「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されている(マルコ10:2~3)。また、祭司長、律法学者、長老たちが主イエスの言動の「権威」を問題にしたとき、主イエスは逆に、洗礼者ヨハネの洗礼がどこからのものであったかを問い返している(マルコ11:27~33)。皇帝に税金を納めるべきかどうかを尋ねられたときには、逆にデナリオン銀貨を持ってこさせ、「これは誰の肖像と銘か」と問い返している(マルコ12:13~17)。

(2)主イエスを誰というか
 主イエスを何者とするのかということは、信仰において重要な主題である。主イエスが突風を叱りつけ、荒れた湖に「黙れ、静まれ。」と言うと風が止んだとき、弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろう」と言い合った(マルコ4:35~41)。弟子たちが主イエスから「あなたがたは私を何ものだと言うのか」と問われて、ペトロが「あなたはメシアです」と答えた(マルコ8:29)。主イエスが十字架上で息を引き取ったとき、百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言った。

2.「それは、あなたが言っていることです」(マルコ15:2)の意味

 こうしてみると、イエスがユダヤ人の王であるかどうかとは、主イエスが自ら名乗って答えるものではなく、主イエスと出会った者がこの方を何者とするのかという問題である。それゆえ、問いを投げ返すように、あなたがそう言うならばそうだと言葉が返されている。
 したがって、「それは、あなたが言っていることです」とは、あなたが勝手にそう言っているという意味では全くない。あるいは、答えることを拒否したりはぐらかしたりしているのでもない。

3.ピラトとイエスの次元の違い

 ポンテオ・ピラトは祭司長たちの訴えにしたがって「お前はユダヤ人の王か」と言ったのであって、自分自身がどう思うかなど全く考えもしないことであったろう。しかし、主イエスにとっては、自分のことを何者というかという問いは、常に、問う者の主体的な信仰告白の問題なのである。それゆえ、わたしたちにとっても、このお方をどなたとするかが信仰の重要な中心である。

4.王なる主イエス

 ピラトは祭司長たちの訴えにしたがって、イエスに対し「お前はユダヤ人の王か」と尋問した。ローマ帝国の支配下にあって王を自称することは帝国への反逆であるかもしれないが、特に帝国に対して反旗を翻す政治活動を展開したわけでもないのだから、ピラトにとっては、勝手に王を自称している不思議な人にすぎないのであって、本腰を入れて裁判するような問題ではない、一笑に付す程度のことでしかなかったかもしれない。
 いずれにしてもピラトにとっては、王とはこの世の意味での支配者であった。
 しかしイエスがユダヤ人の王であるとは、主イエスは神の民イスラエルの王であると信仰を持って告白することである。主イエスは、神の国の支配を世に現すお方である。主イエスは、わたしたちの王として来られた(エレミヤ23:5、ミカ5:1、ゼカリヤ9:9など)。わたしたちは、主イエスによって神の国が到来していることを認め、わたしたちがその御国に入れられていることを喜ぶ。そして、イエスを王として(黙示録17:14)あがめるのである。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。