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自然災害の意味(5) [信仰]

(5)主体的に受け止める

 すでに述べたように、自然災害に神の意図はありません。そのような意味で、自然災害に意味はありません。しかし、わたしたちは、自然災害のような苦難を通して、被造物の不完全さを思い、神の国を待ち望み、キリストの勝利に目を向け、神の執り成しを願い求めます。

 でも、そうすると、困難を通して信仰が強められるのでしょうか。すると、自然災害はやはり、信仰が強められるための試練なのでしょうか。

 信仰が強められるとか戒められるといったことは、自然災害に対して何らかの意味を見出すというよりも、受け止め方の問題でしょう。無理に客観的な意味を見出そうとすることよりも、ある意味で主観的なことと言えますが、どう受け止めるかが重要です。積極的に受け止めていこうという態度としては、主体的な受け止め方になります。

 したがって、それは、第三者が言うのではなく、苦難を体験した当事者が、信仰によってそのように受け止めるものです。第三者が、この自然災害はこういう意味だとか、ましてや天罰だなどと言うべきではありません。苦難を体験した人が、この自然災害はおごり高ぶり豊かな生活をしている現代人に対する天罰だと、主体的に受け止めるならば、誰もそれを否定できません。かえって、重い言葉として耳を傾けるべきでしょう。しかし、第三者が外から客観的な仕方で言うことはできません。これは主観的で主体的な受け止め方の問題であるからです。

 そして、たとえ直接に災害を被っていなくても、わたしたちは、起きた事態を自らのこととして主体的に受け止めていくことはできます。直接に被害を受けた方々の思いや置かれた状況と、そうでない者との隔たりは極めて大きいでしょうが、多少なりとも被災者に寄り添うことはできると思うのは、許されるでしょう。そのところで、わたしたちは、困難の中にいる方々と共に歩むことができますでしょうし、大きな隔たりを抱えながらも何とか共に歩もうとすることしかできないのでありましょう。

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