SSブログ

日本基督教団宣教研究所編『信仰の手引き』 [書籍紹介・リスト]

教団信仰告白のためのカテキズムができた。
日本基督教団宣教研究所編『信仰の手引き――日本基督教団信仰告白・十戒・主の祈りを学ぶ』、日本基督教団出版局、2010年、199頁、1575円。

これをどう使って学びをしようか。

1.重要な第一問目

 信仰問答書の第一問は、学習者をどのように信仰の対話に引き寄せるかという点で、重要である。ジュネーヴ教会信仰問答も、ハイデルベルク信仰問答も、学ぶ者の実存に寄り添いつつも、そこに問題意識を生起させつつ、一気に、信仰の世界に引き込んでいる。
 『信仰の手引き』も「わたしたち人間の生きた現実や、実存的な問題意識と触れあう」ように、最初の問答が工夫されたとのことである(「解説」、p.164)。
 第一問は、次のようになっている。
 問1「あなたにとって、無くてならないただ一つのものとは、何ですか。」
 答え「神の言葉です。」

2.「とは」とは?

 しかしながら、いきなり「無くてならないただ一つのもの」を問うのは、はたしてどれだけ、現代の日本人が入り易い入り口を提供しているだろうか。
 自分にとって唯一の不可欠なものがあるとか、それは何だろうかと問うことは、すんなり入り込める導入になる感じがしない。
 無くてならないただ一つのものを問うためには、その前に、人生あるいは命のために、唯一の不可欠なものがあるのだということをまず学習者に認識させなければならない。

 特に、「とは、何ですか」の「とは」が気になる。あらかじめ「無くてならないただ一つのもの」があるという認識を持った上で、その唯一不可欠なものとは何かと問うのならば、わかる。
 そうでなければ、第一問目は、「無くてはならないただ一つのもの、何ですか」と問うほうがよいのではないだろうか。 
 確かに、ルカ10:42との関わりから「神の言葉」を明らかにするとは、みごとな導入であるが、しかし、erabolateな感じがするのは否めない。
 ぜひとも、この『信仰の手引き』を学習者向けに解説した書物がほしい。

3.「命の源」の強調が特徴

 問1の後、問2で、神の言葉とはイエス・キリストであると答え、問3で神の言葉は、「この世と来るべき世における命の源」であることを答えている。「神の言葉」を明らかにする導入としては、問1だけ取り出して考えるのではなく、問3までが導入部とされている(「解説」、p.164)ので、これらをひとくくりにして学ぶとよいだろう。
 そうすると、簡単には、一つの例として、次のような筋道で解説しながら学ぶことができる。
 ①わたしたちの命の源は神の言葉です。
 ②神の言葉は、この世の命の源であるだけでなく、来るべき世における命の源でもあります。
 ③それで、神の言葉は、わたしたちにとって、無くてはならないただ一つのものです。
 ④その神の言葉とは、イエス・キリストです。
 こうしてみると、問1は、現代のわたしたちに、命の源として無くてならないものは何であるかを問いかけているのである。

4.人生の目的

 以上のことから、私たちに大切なことは、自らの命の源を知り、無くてはならないただ一つのものを知ることである。わたしたちは人生において何をなすべきかと問うたら、自らの命の源を知り、無くてはならないただ一つのものを知ることだということになる。
 しかし、この『信仰の手引き』は、人生の目的は何かという問いかけをしない。ジュネーブ教会信仰問答やウェストミンスターの大・小の信仰問答のように、人生の目的をまず第一問目で問うて明らかに示すほうが分かりやすく、教えやすいようにも思う。
 この『信仰の手引き』は、直接「わたしたちの人生の目的は何か」と問うことはしていないが、しかし、間接的にこの問いに答えているというよりも、無くてはならないものと神の言葉とは何かを問うことで、最も直接に、人生において知るべきことを教えているのである。
 人生の目的は、イエス・キリストを知ることである。もちろん「知る」とは、知識で知るのではなく、そのお方と出会うことである。それで『信仰の手引き』も問4で「どこでイエス・キリストと出会うことができるか」を問う。もちろんその答えは聖書である。そしてさらに問5~7で、聖書が説き明かされる教会の必要と、中でも説教と聖礼典の重要さが語られる。欲を言えば、「礼拝」という言葉を入れて欲しかったところである。説教が語られ聖礼典が執り行われるのは礼拝であり、礼拝においてわたしたちはキリストと出会うのだから。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。