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オットー『聖なるもの』(3) [読書メモ]


4.いろいろ

(1)カルヴァン『綱要』への言及?
第2章の原注に、カルヴァン『綱要』の中で"divinitatis sensus, quaedam divini numinis intelligentia"について語られていることが指摘されているが、『綱要』のどこだろうか。

どうやらこのとおりのラテン語原文があるわけではなくて、こういうことについて語っているということだろう。

『キリスト教綱要』1,3,1の冒頭に次のような言葉がある。
「われわれは、人間の精神のうちに、自然的衝動といってよいような、神的なものへの感覚がそなわっていることを、議論の余地のないこととして立てるのである。」
(渡辺信夫の旧訳、新教出版社、1962年、p.55)


(2)ギリシア語の表記
内容に直接関係ないが、本文中に時々出てくるギリシア語は、山谷訳でも華園訳でも久松訳でも、みなラテン文字で表記されている。

ところが、第7章の最初の部分に出てくるソフォクレスからの歌の引用だけは山谷訳と華園訳でなぜかちゃんとギリシア文字になっている。これは、原著がそうなっているのか?

また、第4章の4節中に出てくるマルコ10:32の引用はみなラテン文字で表記されているのに、第21章で出てくるマルコの同じ箇所の引用はギリシア文字。
しかし久松訳では第7章のその部分もラテン文字で表記している。せっかく同じ岩波文庫なのだからギリシア文字使えるんじゃない?

ところで、anthro^pouの活用語尾の二重母音はラテン文字にしたときoyなんてしないでouでよい。
この本に限らず、なぜかギリシア文字のuを何でもかんでも機械的にラテン文字yで置き換えられていることがよくあるように思われるが、いかがなものか?

(3)ウンゲホイアー
7章のタイトルは山谷訳では「巨怪なるもの」だったが、華園訳は「不気味なもの」。久松訳は、オットー自身が翻訳困難で最も近いドイツ語として使っている「ウンゲホイアー」をそのままカタカナで用いている。

(4)儀式的な言葉が持つ力
「ハレルヤだとかキュリエライスだとかセラとかいった聖書や賛美歌集の中にある古めかしくて意味がとれなくなってしまった表現や・・・儀式用語といったものが、礼拝的気分を減じるどころか、かえって高揚させてくれるという事実、まさにそういったものこそ特別「荘厳に」感じられ、愛好されているという事実をどう説明したらよいだろうか。・・・〔それは、〕それらによって神秘の感覚、「まったく他なるもの」であるという感じが呼び覚まされるからである。そのような感覚がそれらと結びついているからである。」
(久松訳、p.145f)





オットー『聖なるもの』

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