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ダビデとゴリアト(3) [聖書と釈義]

1.この物語は、「柔よく剛を制す」とか「武蔵と小次郎」、「弁慶と牛若丸」といった感じであって、そのような意味でよく引用される。そのこと自体は悪いことではない。しかし、単なる昔話ではないだろう。いったい、聖書の中でどのような意味を持っているだろうか。

2.戦いを知らない「姿の美しい少年」であるダビデがペリシテ人を打ち倒したことに、イスラエルの民の歩みが象徴されている。すなわち、イスラエルの民は貧弱な民(申命記7:7)であったが、このダビデを王として、諸国からの侵略を退けて国家を建設してゆくのである。
 この出来事を通してイスラエルの民は、自分たちの「剣や槍」ではなく神の意志によって、敵の脅威から救われる民とされてゆく。主なる神によって特別に選び出されたイスラエルの民を存続させるのは、主御自身である。

3.以上のことが、サムエル記上17:47の「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない」という言葉に表されている。この言葉は、次のように続く。この「ことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。」
 主御自身がイスラエルを救いつつ導いてくださることを、イスラエルの民も知らなければならないし、そのように主によって救われつつ導かれる民が地上にあることを、周囲の他の者たちも知らなければならない。ゴリアトの挑戦は、このことに反しているゆえ、ダビデはゴリアトを「生ける神の戦列に挑戦する」者と言う(26、36節)。
 したがって、「この戦いは主のものだ」という言葉も、ダビデが自己正当化していわゆる聖戦であるかのように言っているのではなく、イスラエルの民への主の御計画と御業がダビデを通して示されていると見るべきである。

4.そういうわけでダビデとゴリアトの出来事は、“神への堅い信仰があれば、この世の策略などなくても、力が弱くても、困難な現実に打ち勝つことができる”という安易な教えを語っているのではない。ダビデのように立派な信仰を持って、この世の困難を乗り越えていきましょうということではない。
 イスラエルの民という限定を超えて、キリスト教会は神の意志によって救いをいただいている集いである。教会は世に救いの御国を顕していくが、それは、この世の知恵によらずただ神の力による。そして、教会に集められた者たちは、何ら自分を誇ることなく、かえって自らを小さく取るに足らない者と認める。

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