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宗教の絶対性と排他性――絶対性による相対化と排他的ゆえの普遍性 [宗教の神学]

1.信仰の対象の絶対性によって、信仰者は相対化される
信仰は、信じる者にとって自分自身の存在と生に関わる(もちろん死にも関わる)。他との比較との問題ではない。それゆえ、信仰は自ずから絶対的である。しかしその絶対性は、その人の信心の絶対性ではなく、信心の対象がもつ絶対性である。それが、信仰が絶対的であることの意味である。信じる者とその信心は、信じる対象の絶対性の前で相対化されて、信心や生き方がまったく改められ正され、理解が転換され、他者(異なる信仰を持った者も含めて)との関係についても、先入観や固定観念が打ち崩されていく。

2.信仰の対象の絶対性によって、宗教も相対化される
同様に宗教も、他の宗教と比較して自身を絶対化するのではなく、対象が絶対的であって、宗教は絶対的な対象に帰依する。対象が絶対的でなければ、他の宗教でも良いことになり、それでは、その宗教を信じる意味がなく、その宗教が存在する意義がない。
そして、宗教はその信仰の対象である絶対性を持ったもの(神)の前で相対化されて、信仰の対象である絶対的なもの(神)から批判を受ける。もし、このように自らを批判に晒すことがなければ、自分自身が絶対化された独善的で恐ろしい宗教団体となるだろうし、逆に、この相対化と批判を謙虚に受けるところにこそ、絶対者の臨在や出会いがある。

3.宗教とは排他的なもの
宗教は、一神であれ多神であれ、その信仰の対象に絶対性を見いだしている。そうであるならば、宗教は自ずと排他的である。この排他的ということも、他の宗教との関わりにおける排他性のことではなく、絶対的な対象との関わりによって規定されている性格である。そしてまた、上に述べたことと同様に、排他的でなければ他の宗教でも良いことになり、それでは、その宗教を信じる意味がなく、その宗教が存在する意義がない。宗教とは排他的なものなのである。
したがって、排他性を取り上げてこの宗教はだめだと言うことはできない。かえって、そのとき、そのような判断をくだす者が自らを諸宗教の上に立つ絶対的な存在としていないだろうか。

4.排他的ゆえの普遍性
絶対的で排他的であるからこそ、その宗教は、誰でも信じる者に救済を与える。絶対的で排他的な宗教の救済は普遍性を持つ(ここでの普遍性は、信じなくても救われるというような普遍性ではなく、信じるならば誰でもという普遍性である)。逆に言えば、普遍的な救済は、宗教の排他性の中にこそある。

以上、特に小田垣雅也のいくつかの論文に刺激されつつ。たとえば、
小田垣雅也「キリスト教と諸宗教の神学」in 古屋安雄編『なぜキリスト教か――中川秀恭八五歳記念論文集』、創文社、1993年。
小田垣雅也『憧憬の神学――キリスト教と現代思想』、創文社、2003年、pp.155-166、180-181あたり。
など。

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