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諸宗教の中の啓示の可能性 [宗教の神学]

カール・バルト『教会教義学』の「和解論」の中

被造物と歴史の世界全体は、その右にイエス・キリストが座しておられる神の支配領域であるのだから、神は教会の外の領域で御自身を証しする自由を持ち給う。しかし、もしそのような領域で神の言葉が語られるとしたら、それは神御自身がイエス・キリストにおいて語り給う言葉以外にありえない。そのような聖書的・教会的でない領域の言葉は、イエス・キリストから委託されその権限を与えられたならば存在しうる。

そうであるならば、そのようなところで語られた言葉に対して、それがどんなに我々にとって縁遠い言葉であろうと、耳を閉ざす理由があろうか。それに耳を閉ざすような態度は聖書に対して従順だと言えるだろうか。

しかし、そのような言葉に耳を傾けることは、全教会がしなければならない事柄ではなく、一部の人に拘束力を持つにすぎない。聖書と関わるように、それらの言葉に関わることはできない。また、これらの考察は、教義学として、神のただ一つの言葉であるイエス・キリストの限界づけられることのない力を論じるためになされたのであって、その種の言葉が理論的・実際的に考慮できるかという問題の原理的な考察であった。

井上良雄訳、『和解論Ⅲ/1』、新教出版社、pp.160-226。

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