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キリスト者の政治や社会の問題との関わり方 [教会と社会]

1.使徒信条が歴史を通じ地域を越えて公であることにみられるように、信仰の中心は普遍的である。それに対して政治や社会の諸問題は、特定の時代や場所に依存した問題である。中心的信仰は絶対的であり、政治や社会の問題は相対的であると表現できよう。

2.それのみならず、政治や社会の問題が相対的であるのは、個々人によって受け止め方が異なるという意味でもある。現実の諸問題(憲法改正、教育基本法改正、ヤスクニ、日の丸・君が代、部落差別、性差別、在日外国人差別、児童虐待、不登校、ニート、引きこもり、ホームレス、DV、アルコール依存・薬物依存、自殺、中絶、買売春、児童ポルノ、少子化、孤独死・無縁死、脳死と臓器移植、裁判員制度、在日米軍基地問題、核兵器廃絶、環境問題、人口問題、食糧問題・・・等々きりがない)を具体的に思い浮かべると、関心の程度や関わりの深さにさまざまあると思わされる。
大まかに三つに分けられるだろうか。
 A:キリスト者であれば大概同じ判断になるだろうと考えられる問題
 B:各自の職業上の立場や生活上の利害関係と深く絡み合って関心や判断が分かれる問題
 C:特に信仰とは関わりなく、各個人がまったく自由に判断してかまわないと考えられる問題
実際に現実の諸問題をどれに分類するかは、これまた、各個人によって異なるだろう。

3.我々は、こういった相対的な問題について、自己の判断や立場を他者に押しつけてはならないことに、注意しなければならない。また、自己の内においても、そもそも相対的である種類の問題を絶対化してはならない。相対的である政治や社会の問題への態度や取り組みが絶対化されるとき、これは偶像礼拝だからなどと、信仰的な根拠が強調されることがある。しかし、相対的な問題が絶対化されるとき、それは信仰ではなくイデオロギーとなる。

4.神ならぬ者を絶対化しないように、神のみを絶対として他を相対化し、他者に対しても謙虚さと寛容さとを持たなければならない。


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