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鶏は何度鳴いたか [聖書と釈義]

マルコ14:30、68、72

1.
マタイもルカも1度。マルコには1度の写本と2度の写本あり。もともと1度だったのを写字生が2度に誤った(あるいは理由あってわざと書き換えた)というよりも、逆に、もともとは2度だったのをマタイやルカに調和させて1度に書き直したというほうが蓋然性が高い。
マルコは他の福音書と違って、鶏が鳴いたのが2度であることが独特なのである。

2.
シナイ写本は重要な写本であるが、30節、68節、72節ともことごとく1回に揃えられているので、この点に関しては信用できないと冷静に判断すべきである。
シナイ写本と同じアレクサンドリア系でこれも重要な写本であるBは、主イエスの言葉に「2度」と記す(30、72)。ただし、68節での一度目は記さない。しかし72aの「再び」(エク・デューテルー)は記す。
その他の写本については省略。

3.
全体としてマルコでは鶏は二度鳴いたということでよいだろうが、68節の一度目の記述は微妙である。ネストレも、前版ではこれを本文に入れていなかったが、27版で角カッコ付きで入れた(27版のアパラタスにあるダガーは、前版とは異なるという意味)。
二度鳴いたということでいえば、一度目がある方がしっくり来る。これがないと、一度目はいつだったかしらと疑問に思う。だとすると、68節の一度目は元々記されていなかった方が蓋然性が高い。後から書き直された方がしっくり来るように書かれることになるはずだからである。
つまり、マルコにおいて、鶏が鳴いたのは二度であるが、一度目は記されていないのである。

4.
これをどのように考えたらよいだろうか。もし、一度目がはっきり鳴いたのであれば、そしてそれをペトロがちゃんと聴いていれば、ペトロはその一度目の時に主の言葉を思い出したであろう。そして、このあと二回の主の否認を思いとどまったかもしれないし、やはりそれでも主を否まねばならなかったとしてももう少し違った形になっていただろう。
しかしペトロは、一度目では主の言葉を思い出さない。ペトロには聞こえなかったのか? いや、聞こえていなければ、二度目の時にそれが二度目だと分からなかっただろう。一度目が聞こえていたから、二度目に鶏が鳴いたとき、主の「鶏が二度鳴く前に」の言葉どおりになってしまったことに泣き崩れるのである。
では、一度目は何だったのか。ペトロは確かに耳にはした。しかし、もっと別のことに思いが囚われていて、鶏鳴に注意がまったく向かなかった。それほどまでペトロは動揺していた。女中から問われて。何食わぬ顔で大祭司の屋敷の中庭に入り込み、自分の素性は隠しておきたいのに、ずばりと指摘されて。そして、何とかその場を取り繕う自己保身にあわてふためいていたために。それで一度目の鳴き声は、聞こえたけれども、頭の中の混乱と動揺にすぐにかき消されてしまったのである。

5.
それで、マルコは一度目の鶏鳴を記さない。動揺し、必死になって主との関わりを否定するペトロの姿――そしてこれが我々人間の姿ではないか――がここに強調されている。一番弟子であっても、主の十字架への歩みにおいては、主を十字架へと追いやる方に荷担してしまう罪深さを逃れられない。いや、こういうときであるからこそ、人の罪深さが如実に明るみに出されるのである。

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