平和の挨拶 [礼拝]
礼拝の中の「平和の挨拶」は、どの位置で、どのように行ったらよいか。
1.歴 史
(1)起 源
- ①ユダヤ教の「シャローム」の挨拶
- ②復活の主イエスによる「あなたがたに平和があるように」 ルカ24:36、ヨハネ20:19
- ③初代教会での「平和の接吻」ローマ16:16、1コリント16:20、1テサ5:26、1ペト5:14
(2)その後の経緯
- 『キリスト教礼拝辞典』(岸本羊一・北村宗次編、日本基督教団出版局、1977年)の「平安の挨拶、平安の接吻」の項:ユスティヌス、ヒッポリュトス、アウグスティヌスなど。
- 特に、ユスティヌスに見られる聖餐の前に位置づけられた「平和の挨拶」の意味について、越川弘英『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』(キリスト新聞社、2004年)、pp.137-139。
- 5世紀以降の歴史について、宮越俊光「礼拝とシンボル 第5回 平和のあいさつ、聖書朗読台」、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、pp.58-59。
「1474年の『ローマ・ミサ典礼書』以降は、接吻をもって平和のあいさつを交わす習慣はなくなり、司祭が唱える「主の平和がいつも皆さんとともにありますように」に、会衆が「またあなたの霊とともに」と答えるだけになりました。」
宮越俊光、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、p.59。
2.現代のカトリック
日本のカトリックでの、現代の「平和の挨拶」について。
- 日本では、手を合わせて「主の平和」と言いながら互いに一礼する方法が一般的
- パンを裂く直前、「主の祈り」に続く祈りで全世界の平和を願い、教会の平和と一致を願った後、その場に集まった共同体の一員として、平和の挨拶を交わす。
- ローマ教皇庁から、司祭が祭壇を離れて会衆席に出向いたり信徒が会衆席の中を回ったりして平和のあいさつを交わすことは控えるように指示があった。
以上、宮越俊光、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、p.59。
3.現代のプロテスタント
近年のプロテスタント教会における、「平和の挨拶」の回復について。
「アメリカのプロテスタント教会でも、これが広く実践されるようになってきたのは、今からせいぜい三〇年ほど前からではないかと思います。ですから、ずいぶん長い間、忘れられていた礼拝行為だったことになりますが、今ではプロテスタントもローマ・カトリックも、いろいろな形式でこの挨拶を復活させ、礼拝の中で行われるようになってきました。」
越川弘英『今、礼拝を考える』(キリスト新聞社、2004年)、p.137。
4.礼拝の中での位置
プロテスタント教会における「平和の挨拶」の礼拝の中での位置については、様々な考え方や実践がある。
(1)
「平和の接吻(平安の接吻)は執り成しの祈りの結びにおける愛と一致のしるしであり、その後に奉献が続く。」
ホワイト『キリスト教の礼拝』p.334。
(2)
「多くの場合は聖餐式の中で・・・。・・・礼拝の最初の部分で持たれることにも意味があると思います。」
小栗献、『よくわかるキリスト教の礼拝』(キリスト新聞社、2004年)p.108。
(3)
執り成しの祈り―平和の挨拶―聖餐という順序を基本として、「聖餐が行われる場合は、平和の挨拶は『主の祈り』の後、または陪餐後になされてもよい。」
『日本基督教団式文(試用版)』p.33。
(4)
「サクラメントが執行されない場合は、<罪の告白>の後か、あるいは<告知における神のことば>の礼拝の最後に」
アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、キリスト新聞社、2003年、p.34。
5.挨拶の方法
会衆が互いに挨拶しあう方法にもいろいろある。
「平和(のあいさつ)は、ことば・笑顔・握手・接吻・抱擁、あるいは会衆の社会的状況にふさわしい動作で分かち合われるのがよい。」
『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、p.34。
(1)挨拶の所作
①接吻 ②抱擁 ③握手 ④会釈
(2)挨拶の言葉
「主の平和」、「キリストの平和」、「主の平和がありますように」、「キリストの平和がありますように」
6.「平和の挨拶」の意味
平和の挨拶は、キリストの体に結ばれた者たちの、聖霊による和解と一致(エフェソ4:3、コロサイ3:15)を表す。
「相互の交わりと和解を確認する。」「平和と和解のしるし」
『日本基督教団式文(試用版)』p.33、34。
「相互における和解による一致のしるしとして、会衆は、<平和のあいさつ>を交わす。」
『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、p.32。
「平和のあいさつは希望と喜びに満ちた礼拝的伝統です。・・・キリスト者を人と人との関係に向かわせます。」
小栗献、『よくわかるキリスト教の礼拝』(キリスト新聞社、2004年)p.108。
「平和の挨拶」とは、「平和」でないところにあっても、「平和」を信じて、平和を作り出すために行う行為」
越川弘英『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』、p.142。
「立ち上がり、今日共に礼拝する仲間の前に足を運び・・・、手を差し伸べ握手をし、キリストの言葉に倣って挨拶を交わす、というこの所作の中になんと多くの気づきが隠されているでしょうか。」
山本有紀「礼拝の中の身体(からだ)の「居場所」」、『礼拝と音楽』169号(2016年春)p.25。
(強調は春原による)
7.まとめ
平和の挨拶の位置について、聖餐とのつながりを考慮するか、特にそうしないかという大きく二通りの筋道があるが、プロテスタント教会では、毎回の礼拝で聖餐を祝うわけではないので、礼拝の中での位置は柔軟に考えて良い。
聖餐がある場合、プロテスタント教会では聖餐を「御言葉」として理解するので、説教と聖餐はできるだけ近くし、間にあまり多くの要素が入らない方がよい。
(逆に言えば、プロテスタント教会で陪餐前などに平和の挨拶を入れるのは、古代~中世の礼拝への懐古趣味か、カトリックに対する無批判な同化か、聖餐の御言葉性・出来事性の理解の欠如かのいずれかである。)
したがって、「平和の挨拶」の礼拝の中での位置は、
- a)礼拝の前半で、集められた会衆が一致を表すために行うか、
- b)礼拝の最後の部で献金の前に、
- 執り成しの祈り
- 平和の挨拶
- 献金
どちらかが基本となるだろう。
文献リスト
- 岸本羊一・北村宗次編、『キリスト教礼拝辞典』、日本基督教団出版局、1977年。「平安の挨拶、平安の接吻」の項。
- 小栗献、『よくわかるキリスト教の礼拝』、キリスト新聞社、2004年、p.108。
- 越川弘英、『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』、キリスト新聞社、2004年、pp.134-143。
- J.F.ホワイト(越川弘英訳)、『キリスト教の礼拝』、日本基督教団出版局、2000年、p.334。
- アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、キリスト新聞社、2003年、pp.32-34。
- 日本基督教団信仰職制委員会編、『日本基督教団式文(試用版) 主日礼拝式・結婚式・葬儀諸式』、日本基督教団出版局、2006年、pp.33-34。
- 宮越俊光「礼拝とシンボル 第5回 平和のあいさつ、聖書朗読台」、『礼拝と音楽』166号(2015年夏)、pp.58-61。
- 山本有紀「礼拝の中の身体(からだ)の「居場所」」、『礼拝と音楽』169号(2016年春)、pp.22-26。
記述がありそうでなかったもの
- 『キリスト教礼拝・礼拝学事典』日本基督教団出版局、2006年。
- 『神の民の礼拝 カンバーランド長老キリスト教会礼拝書』、2007年。